金精峠に道鏡の巨根伝説を追う・奈良編

https://kachovisual.com/tabi_yukeba/2008/2008_0405_nara_A/2008_0405_01.html 【金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:奈良編 (その1)】 より

今回は下野国に伝わる壮大な巨根伝説と道祖神信仰に関して歴史ろまん?を追ってみましたヽ(´ー`)ノ

さて妙なタイトルでお騒がせ(?^^;)しているかも知れない今回のテーマだが、世間によくありがちな 「発見!珍スポット紹介♪」 というノリではなく、素人調査なりに割と真面目に進行しようと考えている。きっかけは某掲示板で男根型道祖神のルーツについて多少の議論をしたことである。金精神(こんせいしん)とも呼ばれるこの種の道祖神は全国にみられるが、分布域としては関東甲信~東北地方に多く、もちろん栃木県もその分布域に入っている。そのルーツを巡ってみようという趣向である。

旅の出発地点としては、今回は那須塩原市北端にちかい温泉 "幸乃湯" を選んだ。ここに典型的な道祖神(金精神)の例が見られるからである。

ここが幸乃湯温泉。百村から三斗小屋に向かう深山ルートの途上にある。百村、板室、三斗小屋への街道が交差する分岐点にあたり、昭和になってから温泉が湧出した。

これが道祖神である。もう説明のしようもないくらい具体的な形状をしている。道祖神は峠や分かれ道など交通の境界になる場所に建てられることが多い。いわゆる遮りの神でもあり、外部から疫病や災厄が進入しないよう、一種の守り神として祀られている。その形状はただの自然石や男根型、人型、また男女2神が寄り添う形状などさまざまだが、全部ひっくるめてしまうと手に負えないので、ここでは男根型の 金精神 にターゲットを絞りたい。温泉地には特にこの男根形のものが多く祀られる傾向にある。

この不思議な神様は、道を守る神=道祖神としての機能の他、子孫繁栄、五穀豊穣、家庭円満、招福etc…などさまざまな要素の集合体であって、理数系的な因数分解で理解しようとしていくと訳がわからなくなる。その起源についても諸説あって判然としない。

しかし、下野国においては金精神が祀られる起源となったらしい伝説が、割とはっきりした形で伝わっている。それは奥日光の金精峠にまつわる伝説である。峠には下野国を代表する "金精神社" が存在し、これが近隣諸地域に勧請されて金精社として祀られているのである。Wikipediaからその由来を引用してみよう。 ※記述は2008.04.01現在のもの

【由来】

金精神社の由来は、「生きた金精様」 といわれていた道鏡の巨根にある。

奈良時代、女帝の孝謙天皇は巨陰であったため並の男根では満足できなかった。 そのため、孝謙天皇は巨根の藤原仲麻呂(恵美押勝)を重用していたが、 道鏡の修法により病気が治ると更に巨根である道鏡 を寵愛するようになった。しかし、孝謙天皇の崩御後、 道鏡は皇位を窺った罪で下野薬師寺別当に左遷されてしまう。 大きく重い男根を持つ道鏡にとって、 下野薬師寺までの旅は過酷なものであり、特に上野国(群馬県)より下野国(栃木県)への峠越えはとても厳しいものであった。 道鏡はあまりにも自分の男根が大きく重かったため 峠で自分の男根を切り落としてしまったとも、孝謙天皇に捧げるつもりで峠で自分の男根を切り落としてしまったともいわれている。 その切り落とした道鏡の男根を「金精様」として峠に祀ったのが、 金精神社の始まりとされる。

おいおいなんだそりゃ?ヽ(@▽@)ノ …と思われる方がいるかも知れないが、話の骨子そのものは平安~鎌倉時代以降さまざまな古典で書き継がれてきた、 それなりに古い説話なのである (Wikipediaの解説は記述に多少…どころではない悪ノリを感じるがw)。

さてここに登場する 道鏡 とは、奈良時代の仏教僧である。 河内国若江郡の弓削氏の出身で、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。 歴史的には "日本史三大悪人" に数えられている人物である。

道鏡が歴史上の大悪人とされているのは、皇位簒奪を企んだとされているためで、当時(奈良時代後期)の天皇が女帝であったことから、件(くだん)のような評判が語り継がれるようになったらしい。歴史的には有名な宇佐八幡宮神託事件が相当するが、歴史に興味のない人にとっては 「そんなもん知らんわ!」 という声もあると思うのでのちほど改めて触れることにしよう。

道鏡の大和朝廷での最高地位は "法王" であり、天皇に匹敵する権力をもっていたらしい。そんな政権中枢の大物がなぜ下ネタ満載の巨根伝説を残し、今に至るまで金精様のルーツになっているのか? …非常に不可思議というか、まあとりあえずこの人物を調べてみれば金精様の起源のひとつが明らかになるような気がして、今回の一連の旅を企画したのであった。

ちなみに金精峠は奥日光にある標高2024mの峠で、現在はR120が通って日光市と群馬県片品村を結んでいる。積雪のため冬季は全面閉鎖となり開通するのはゴールデンウィークの頃である。といってもこの開通時期は多分にGWの行楽客を意識したフライング気味のものであって、いったん開通しても雪崩によりたびたび閉鎖になるなど、現代にあっても難所のひとつといえる。現在のR120は金精山を貫く金精トンネル(1965年開通)で群馬県側に抜けているが、旧道はもちろん山の上を通っており、金精神社もそこに鎮座している。

今回の企画の最終目的地はこの峠に登ることなのだが、残念ながら取材の企画段階(3月末)ではまだ冬季の通行止めが解除されていない。R120を外れて峠に上るには残雪が消えるまで待つ必要もある。そこで、遠回りになることは承知のうえで、まずは道鏡の活躍?した舞台である奈良に出かけてみることにした。我ながら時間と費用をかけて何をやっているんだか…という気がするけれど(笑)、まあ所詮は道楽なので気にしない ヽ(´ー`)ノ

なお、調査といっても何か学術的な発掘をしようという意図はない。ここは旅と写真のサイトなので、現地の状況を出来る限り自分の目で見て、その時代の残照のようなものを絵として残しておきたいという、その程度のものだ。物見遊山といえばそのとおりだが、とにかく四の五の言わずに出かけてみよう。

■奈良への道

さて奈良にむかって旅立ったのは4/5のことである。本来ならいきなり奈良に行く前に地元の道祖神分布状況を調べるフェーズが必要で、実際その予定もあったのだが、公私ともども多忙になってしまって順序が逆転してしまった(^^;)。

那須から奈良までは、新幹線を乗り継げば5~6時間ほどで行けてしまう。那須塩原から東京経由で京都まで行き、さらにJR奈良線に乗り換えて南下する。天気はそこそこ晴れており、途中の静岡では富士山がイイカンジに見えた。

さてここで、予備知識として奈良の都=平城京、そして奈良時代について概観してみよう。

平城京は近畿地方のMAPに重ねてみると↑このようなエリアになる。こうしてみると結構な広さがある。ここに都があった西暦710~784年の74年間が、奈良時代である。統治機構的には律令制の全盛期にあたり、教科書的には701年の大宝律令が有名である。

奈良時代は元明~桓武天皇までの8代の天皇の治世に相当するが、その中核となるのは聖武、孝謙、称徳の2人の天皇である。3人じゃないの?とのツッコミが入りそうだが、孝謙天皇と称徳天皇は同一人物なので2人で正しい。特に奈良時代の仏教政策についてはこの父娘が決定的に重要な役割を果たしている。

怪僧?道鏡が歴史の表舞台に登場するのは孝謙天皇が2度目の皇位につき称徳天皇となった760年代のおよそ10年間ほどの期間である。ただし彼の人生の時はそれ以前にも流れており、年表に重ねてみるとほぼ奈良時代の8割ほどと重なっている。このように連続する時間軸で捉えると、道鏡が奈良の都で起こった主要な事件(政治史)をほぼすべてリアルタイムで見聞しており、そのうえで活躍期に政権を握るに至った流れが理解しやすい。そしてそれは道鏡とコンビを組むことになった孝謙(称徳)天皇にも言えるのである。

さてJR奈良駅に到着したのは正午過ぎであった。

おお、たぶん修学旅行以来ではないかという奈良の都♪ ヽ(´ー`)ノ

駅前には古都らしく灯篭型のモニュメントがあり、平城宮への案内塔が立っていた。奈良は2010年には遷都1300年を迎えるため、それを記念して旧跡の復元/整備を急ピッチで進めているらしかった。駅前には観光客らしい人波が多く行き交い、外国人の姿も目立つ。さすがはメジャーな観光地だなぁ。

ところで現在の奈良の市街地(県庁周辺)は東西6km、南北5kmに広がる平城京条坊の中心から大きく東側に寄っている。ここは外京(げきょう)と呼ばれる寺社地区で、東大寺と興福寺の存在が大きい。地図を眺めると他にもいろいろ興味深い点はあるのだけれど、奈良時代は歴史ミステリーには事欠かないので深入りすると出てこれなくなる。そんな次第で、ここでは単純に平城京で市街地として長く存続したのがこの地区であることだけを覚えておこう。

その他の区画は幹線道路沿いを除けば水田に住宅が散在する田舎の風景である。農地を侵食するように住宅地が広がったのは近鉄線開通後のことだそうで、江戸~明治の頃は水田の他、綿花やスイカなどの産地として知られる農村だったという。つまりかつての首都としての面影は、長い間に大部分が失われてしまったということだ。

さて移動する予定の範囲は5km四方程度なのだけれど、歩いて回るには少々不便かと思いレンタカーを借りてみた。

・・・が、結論からいえばこれは大失敗といえる( ̄▽ ̄)。奈良ではこの週末ちょうど桜が満開となっており、市内は観光客のクルマで大渋滞、もちろん駐車場も満車状態で身動きがとれなくなてしまったのである。うおお、なんてこったー。

渋滞をかわそうと路地から抜け道を探すが抜けた先もまた渋滞。うーん、奈良編は東大寺周辺からはじめようと思ったのに、これでは渋滞レポートで終わってしまいそうだ(爆)

…そんなわけで、2時間ほども渋滞を堪能した後、予定を変更して平城宮方面に向かうことにした。…金精神の謎に迫るのはずいぶん先になりそうだなぁ (´д`)


https://kachovisual.com/tabi_yukeba/2008/2008_0405_nara_A/2008_0405_02.html 【金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:奈良編 (その2)】 より

■平城宮跡(へいじょうきゅうあと)

さてそんなわけで、激混雑中の東大寺≒奈良公園方面は諦め、平城宮跡に向かう。

ここは天皇の住まい、および朝廷の政務の場の跡である。長岡京への遷都令ののち荒廃し、千年後の幕末~明治時代には一面の水田であったという。しかし平城宮の中心≒大極殿の周囲だけは千年経っても農地にはならず、遺跡として残されていたというから面白い。鎌倉時代以降、尊皇攘夷の唱えられた幕末に至るまで皇室の威光というのは長らく地に落ちていたが、その間でも高貴なる宮殿の跡地に鍬を入れるのは躊躇(ためら)われたということだろうか。

現在の平城宮跡地は北辺は住宅街に侵食されてしまっているが、全体として見ればほぼ往時の領域を留めており、現在は公園として整備されている。遺跡を思いっきり横切る形で近鉄線が通っていて近畿日本鉄道株式会社に一言ツッコミを入れたくなるが、ここはスルーして話を進めよう。ちなみにここは現在、世界遺産に登録されている。

もとが水田だっただけに宮殿の建物は残っていないが、現在では発掘された遺構の上に朱雀門が復元されている。これがなかなか巨大なのである。門本体の高さは20m、左右に広がる築地の高さは6mあるという。王朝時代にはこれが宮殿の周囲をぐるりと取り囲んでいたわけだ。

門前には、朱雀大路も復元されていた。なんと道幅は75mもある。復元された領域は長さ250mほどだが、往時は都の南端にあたる羅生門まで、およそ4kmほど続いていた。ピンとこない方のために多少の補足をすると、道端でサッカーW杯の公式試合が開催でき、ジャンボジェット機の滑走路(※)にも使えてしまうくらいの規模である。中世のいわゆる戦国的な城下町とは背景となる思想が根本的に違っており、これを見ると大陸的な都市計画というものがどういうものだったのかがよく分かる。

※参考:成田空港の一番大きなA滑走路は幅60m×長さ4000mであり、長さはほぼ同一だが幅が広いぶん朱雀大路のほうが規模が大きい

隣接する博物館に通じる公園には、桜が咲いていた。まさにあの有名な歌の如し。

あをによし

奈良(寧楽)の都は 咲く花(華)の

匂(薫)ふがごとく 今盛りなり

万葉集 巻之三、第三二八番の歌(小野老朝臣)である。枕詞にもなった "あをによし" とは万葉仮名では青丹吉と書き、青瓦と丹塗りの建築の壮麗さを花に喩えたものだ。要するに中国風、仏教風の寺院建築や楼門、宮殿が壮麗に立ち並んでいます、ということである。実も蓋もない写実歌といえばそれまでだが、万葉集の歌はおしなべてこんな感じの素朴な表現が多い。

しかし奈良時代の政治状況は、実際にはこんな歌のような平穏、華麗なものではなかった。…その実態は血塗られた粛清劇の繰り返しである。

さてここで簡単に道鏡登場までの歴史に触れておこう。彼の登場までに、奈良時代には大きな政変劇が5回起こっている。ここでいう政変とは、天皇の交代…というよりもその周辺で権勢を誇る朝廷内有力官僚の交代劇である。

これら実務者のなかで著名な者として、藤原不比等、長屋王、藤原四兄弟(武智麻呂/房前/宇合/麻呂)、橘諸兄、藤原仲麻呂 を↑年表に加えてみた。説明を始めると長くなるので詳細は割愛するが、大雑把にいって藤原氏一族と皇族方がおよそ10年周期で交互に実権を奪い合っていると思えばいい。これに加えて疫病(天然痘)の流行や凶作による飢饉、地方反乱が相次いだことで、奈良時代の政情は不安定なものであった。

特に状況がひどかったのが聖武天皇の時代で、長屋王の変から藤原四兄弟の連続死(天然痘と言われている)、さらには相次ぐ地方反乱、飢饉などで政権中枢は揺さぶられ続けた。天然痘の流行では有力官僚も次々と病死し、朝廷の事務方が事実上全滅してしまうという状態にまで陥っている。それゆえに聖武天皇は仏教の力によって国家鎮護を図ろうとの思いに至り、東大寺大仏の建立が開始されるのである。そして道鏡は、その東大寺のなかで頭角を現していく。ただしまだ孝謙天皇とは出会っていない。

前振りとして、聖武天皇の話をもう少し続けよう。奈良時代初期は律令制の最盛期であり、藤原氏は始祖たる鎌足の息子、2代目不比等の時代である。この不比等が娘を文武天皇に嫁がせ、その皇子が聖武天皇となったところから "天皇の外戚" としての藤原氏の栄華が始まる。藤原氏にとって聖武天皇の存在は、まさに政治権力の寄り代、もしくは利権の打ち出の小槌といったところだっただろう。

おかげでこの藤原氏的サラブレッド=聖武天皇は大切にされるのだが、為政者としてはその資質に問題点も多かった。精神的に不安定で決断力に欠け、政治課題を自らの手腕で行政的に解決するのではなく、仏の加護や密教的神通力でしてなんとかしようという他力本願的な傾向が強かったのである。そして聖武天皇は次第に現実世界から逃避し、仏教に傾倒していく。

※天皇に仏門への帰依を進めたのは遣唐使僧:玄昉といわれるが、彼についてはのちに別項で触れる予定。

さて奈良時代最長の在位期間(25年)を誇る聖武天皇だが、その治世の後半はもう無茶苦茶である。部下が地方反乱(大宰府:藤原広嗣の乱)の鎮圧に奔走している最中に都を留守にして放浪の旅に出てしまったり、大仏建立を指示する一方で次々に都の移転を図るなど支離滅裂な行動が目立ち、移転のために大極殿(平城宮の主要政務の行われた建物)を解体中に結局は平城京に都を戻す勅を出したりしている。今に伝わる平城宮跡に大極殿が新旧2箇所あるなど変則的な形になっているのはこの後遺症である。

さてここで注目すべきなのは平城宮の細かい建物の配置よりも、これだけ費用と労力のかかる大事業をポンポンと連発できるその財力と動員力、つまり中央集権国家における権力の強大さだろう。実際のところ、聖武天皇は恐るべき分量の土建屋事業をやってのけている(…やったと言うより発注しまくった、というべきか ^^;)。

まずは東大寺大仏の建立の勅。次に全国に国分寺と国分尼寺の建立の勅。なんと全国68箇所、尼寺とセットで合計136箇所である(※)。さらに都を短期間に4回も移転(平城京 → 恭仁京 → 難波京 → 紫香楽宮 → 平城京)している。これが740~745年のわずか5年ほどの間に集中的に行われている。いずれも国家財政を破綻させかねない規模の大事業であり、しかしながらその根拠は個人的な思い込みレベルというシロモノである。内容を聞いた財務担当官僚は真っ青になっただろうし、労働力として狩り出される民衆もたまったものではなかっただろう。

この野放図な突っ走り方は、教科書的に記述すれば国家鎮護のために篤(あつ)く仏法に帰依し・・・ということになるのだろうけれど、いくらなんでもやりすぎの感がある。…というより、止める奴はいなかったのか(^^;)。

※国分寺、国分尼寺の造営は勅ののち数十年にわたって継続した。68ヶ国とは以下の通り。

陸奥、出羽、下野、上野、常陸、上総、下総、安房、武蔵、相模、佐渡、越後、越中、越前、加賀、能登、信濃、甲斐、飛騨、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、美濃、伊勢、志摩、近江、伊賀、若狭、丹後、丹波、山城、摂津、河内、和泉、但馬、播磨、淡路、紀伊、備前、備中、備後、因幡、伯耆、美作、隠岐、出雲、石見、安芸、周防、長門、阿波、伊予、讃岐、土佐、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩、壱岐、対馬

現在復元中の第一次大極殿工事現場から朱雀門を眺めてみる。あれだけ巨大な門がこんなに小さく霞んで見えるほどに、平城宮は巨大である。

面積は130ha、サッカー場(FIFA公式仕様)なら180面分、東京ドームなら28個が並ぶ計算だ。平城京全体の面積になると2500haもあり、重機のない時代にこれを人海戦術で原野から開墾、整地して都市にまでするのは並大抵のことではなかっただろう。

正直なところ、ここに来るまでは平城宮、平城京がこれほど大きいとは実感していなかった。

当時の日本の人口は、およそ400~500万人。現代日本の約1/30の規模である。これを作るために、そのうちのいったい何万人が動員されたのだろう。

律令の税制、租/庸/調/雑徭のうちの雑徭は年間60日の労役であり、庸は労役を物納で代用するものだが、そもそも "労役" という項目がなぜ必要だったのか、この巨大土木の跡地をみるとなんとなく見えてくる。動員された人々が本当に期限を守って郷里に帰してもらえたのか、その実態を伝える資料を筆者は知らないが、逃亡、逃散が相次いだと言われる背景には相当過酷な現実があったように思われる。民衆の負担としてはこれ以外に兵役の義務などがあり、これらの重い負担がのちに律令政治を崩壊に導いていく一因になる。

※ちなみに、多くの人が誤解しているのだが、奈良時代にあっても 「あをによし」 の都市景観はきわめて例外的なものであって、一般民衆はいまだ竪穴式住居に住んでいる。実際には広大な縄文、弥生の風景の中に一点豪華主義のように壮麗な寺社建築があるというのがこの時代の風景といえるだろう。

さてその聖武天皇は、散々なまでに仏教に入れ込んで浪費を繰り返した果てに、なぜか大仏開眼を待たずして退位してしまう。一説によると周囲の止めるのも聞かずにいきなり出家して皇位を放り出した…とも言われるが、真相はよくわからない (歴史家というよりは精神科医に分析してもらったほうがよかったりして ^^;)。

跡を継いだのが、娘の阿倍内親王=孝謙天皇である。749年のことであった。

この頃、道鏡は東大寺写経所の請経使である。初代別当良弁に付いて梵語(サンスクリット語)などを学んでいる。このときの師、良弁の推挙によって、のちに道鏡は孝謙天皇と運命的な出会いをするのである。今の感覚で言えば東京大学学長の推薦を受けるようなもので、成績は優秀だったようだ。

一方、女性としてはじめて "立太子" して皇位についた孝謙天皇は、決して皆に愛される存在ではなかった。当時の政権中枢である左大臣=橘諸兄などは女性の皇位継承に批判的だったとされるし、皇位を狙っていた他の皇子たちの不満も一方ならぬものがあったようだ。

それを抑えるためだろうか、孝謙天皇の母=聖武上皇の妻である光明皇后は皇后宮職(皇后の身の回りの世話をする役所)を大幅に拡張し、事実上の行政機能をここに集中してしまった。孝謙天皇には事実上何もさせず、皇后(皇太后)が実権を握る仕組みを作ったのである。そしてこの皇后宮職の長官に任命されたのが、稀代の才人藤原仲麻呂であった(※伝説の巨根の人その1)。

藤原仲麻呂は光明皇后の威光を背景に、すべての役職を中国風の名前に変えるなど極端な中国化を進め、皇后宮職は紫微中台(しびちゅうだい)と改められた。紫微とは直接的には北極星のことであるが、中国思想では北極星は天帝ともされているので、紫微中台とは "天帝の座する役所" と解するのが適当だろう。それにしても凄まじく尊大な名前をつけたものである。

藤原仲麻呂は前時代に権力を握っていた藤原四兄弟のひとり武智麻呂の息子である。四兄弟が天然痘で全滅して以降 政治権力は皇族側の橘諸兄が握っていたが、女帝即位をめぐって賛成派/反対派が入り乱れた結果、仲麻呂の台頭によってふたたび藤原氏側の発言力が増した格好になった。

藤原仲麻呂が光明皇后に見出されたのは、その才覚によってであった。続日本記によれば 「近江朝内大臣藤原朝臣鎌足曾孫。平城朝贈太政大臣武智麻呂之第二子也。率性聡敏。略渉書記。」 とある。頭脳明晰であり、特に数学に強かったという。このあたりの経緯を調べた限りでは、伝説のように巨根だから重用されたというわけではないようだw

ただしこの藤原仲麻呂は、頭のキレる才人ではあったが、キレすぎて怖いところがある。もともと橘諸兄の元で才覚をあらわしその推挙で官位を引き上げてもらったにも関わらず、上司を無視して自分の名前で公文書を発行するなど専横が目立ち、光明皇后直下に付くやいなや、かつての恩人=橘諸兄に天皇呪詛の罪をかぶせて追い落としてしまうのである。

これに対し、橘諸兄の息子=奈良麻呂がこれに不満をもって反撃を計画した。橘諸兄/奈良麻呂親子はもともと女帝擁立反対派である。計画の内容は、藤原仲麻呂を殺害し、さらに女帝である孝謙天皇を退位させて反仲麻呂派の皇子たち…安宿王/黄王/塩焼王/道祖王の候補者の中から天皇を選ぶというものであった。橘奈良麻呂の乱と呼ばれる事件である。

しかしこれも藤原仲麻呂は先手を打って押さえ込んでしまう。計画段階で密告情報をもとに容疑者の身柄を拘束し、拷問によって計画の全貌を "自白" させた上で、これを機会に反対派440名余を大量粛清、さらには自らの親類である大炊王(のちの淳仁天皇:このときは藤原仲麻呂の屋敷に居候している)を皇太子に据えるなど、まるでオセロのようなどんでん返しと血の粛清で政敵を一掃し、皇太子の外戚としての地位も得てしまった。(名目上は孝謙天皇の敵を片付けた、ということになるのだが…ついでに処分されちゃった人も、いるだろうなぁ ^^;)

一方の孝謙天皇は、勝利した側にありながら乱後は難しい立場に立たされていた。藤原仲麻呂によって反対派が一掃されたとはいえ、これだけ大勢の者が自分を支持せず敵に回ったという現実は、女帝として君臨する彼女の孤独をいっそう深めたことだろう。

さらには女帝の宿命(→皇統は男系が継ぐ原則)として、結婚も子を産むこともできない=つまり自らの血縁を後世に残すことができないことが、皇位継承(皇太子擁立)をめぐって政争の繰り返される朝廷内への醒めた感覚を涵養したかもしれない。いずれにしても孝謙天皇に味方をする者は少なく、明るい未来は見出し得なかっただろう。

そして孝謙天皇は、事ここに至りついに退位するのである。後を継いだのは藤原仲麻呂の目論見どおり、大炊王=淳仁天皇であった。

さて、男根型の金精神を追いかけている筈なのにすっかり奈良時代史の概説になってしまっているが、まあ中央政界の粛清史に触れないことには孝謙天皇と道鏡の関係を説明できないので多少の我慢をお願いしたい。そろそろ主役の登場である。


https://kachovisual.com/tabi_yukeba/2008/2008_0405_nara_A/2008_0405_03.html

【金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:奈良編 (その3)】より

■2日目

2日目の朝がやってきた。昨日は渋滞でえらい目に遭った奈良公園方面だが、観光地の基本セオリー=早朝に現地入りを忠実に守って、朝のうちに駐車場に滑り込んだ。それにしても奈良公園はとにかく鹿だらけだな・・・

途中、氷室神社で枝振りのよい枝垂れ桜の古木を撮る。物見遊山的にはいろいろ見どころ盛り沢山の奈良公園周辺だが、今回は道鏡がテーマなのでそのへんはばっさりカットしよう。

さて奈良公園方面の見所といえば、東大寺、興福寺、春日大社である。奈良市街地はこれらの寺社に隣接している。…というより、都が平安京に移ったのち、条坊内の大部分の施設も新都に移転してしまい、有力寺社周辺のみが市街地として存続したのである。このうち、興福寺と春日大社が藤原氏の氏寺、氏神であり、東大寺が聖武天皇の遺産だ。

それにしても、平城宮の広さと比較してもこれら寺社の敷地面積は相当なものである。かつての権勢はいかばかりのものだっただろう。

■東大寺

いよいよ東大寺にやってきた。無名時代の道鏡が所属した寺で、当時最高クラスの学府でもある。参道を進むとまず巨大な南大門が現れる。扁額には "大華厳寺" とあるが、東大寺は華厳宗の総本山ということになっているので別称としてこの名がある(別称のほうを玄関先に掲げるのもどうかと思うが ^^;)

華厳宗は東大寺初代別当良弁の招きによって唐から訪れた僧:審祥(しんしょう)によって伝えられた。736年のことといわれ、このときはまだ東大寺は前身の金鐘寺と称している。この審祥が行った華厳経の講義が元となってのちに華厳宗の本尊=毘盧舎那仏が "大仏" として建立されることとなる。

聖武天皇の大仏建立の勅は放浪中の743年であり、華厳宗の伝来からわずか7年後のことであった。当時としては唐から輸入した "最新の科学" に基づいて国家鎮護を図ろうとしたのだろう。

ちなみに玄奘三蔵が天竺から1300巻以上の経典を長安に持ち帰ったのが大化の改新の年(645年)である。玄奘はその後19年にわたって梵字の原典を漢字に翻訳する事業(プロジェクトチームを作ってシステマチックに分業したらしい)を行ったが、存命中に翻訳できたのは全体の1/3ほどであった。それが日本に伝わるまでのタイムラグがおよそ50~70年…これはこの時代の文化の伝播速度としては割と凄いことではないだろうか。

ちなみに聖武天皇~孝謙天皇の頃、唐は玄宗皇帝+楊貴妃の治世である。まさに唐の国力のピーク時に相当し、諸国がこぞって唐になびいた時代であった。天平文化とはそんな空気の中で花開いた大陸からの輸入文化であり、東大寺はその忠実なる申し子といえるだろう。

回廊の中は満開の花。そして東大寺のシンボル、大仏殿がその威容を誇っていた。現在の建物は宝永6年(1709)に立て替えられたもので幅が創建時の2/3に縮小されているが、それでも大建築であることに変わりはない。なお創建時には東西に高さ100m(!!)に及ぶ七重の塔を擁していた。とんでもない大伽藍だな…ヽ(@▽@)ノ

ここで大仏開眼供養が行われたのは752年4月9日、孝謙天皇即位後3年目のことであった。近隣諸国から賓客を招き総勢1万人とも言われる参加者のもと行われ、開眼導師はインド僧菩提僊那(ぼだいせんな)が務めた。奈良時代のもっとも華やかなイベントである。

開眼供養は孝謙天皇のほとんど唯一の仕事といっていい。光明皇后と藤原仲麻呂が実権を握っていたため、政治史における孝謙天皇自身の影は非常に薄いのである。やがて父である聖武太上天皇(上皇)が亡くなり、橘奈良麻呂の乱を経て藤原仲麻呂の力が全盛期になると、孝謙天皇は影が薄いまま退位してしまう。758年のことであった。

※聖武太上天皇の死後、その遺品の宝物が東大寺に寄進される。それが収められたのが正倉院である。

それにしても大仏殿は巨大だ。高さは46mあり、ほぼ10~12階建てのビルに相当する。重機のない時代、人力と手工具のみでこれだけのものを作ったのだからその建築技術には恐れ入るしかない。七重の塔に至ってはこの倍以上の高さがあった。・・・どうやって組み上げたんだろう?

ちなみに大阪城の天守閣が40m(豊臣期)、姫路城天守閣が31m、名古屋城が36mである(※)。なんと1300年前の寺院建築のほうが近世:安土桃山の戦国の城より巨大なのだ。これは実物を見てみないと実感できない。ちょっとした驚きである。

※ここで挙げたのは石垣を除いた木造部の高さ。戦国末期の大型天守閣は土台として石垣を10~20m積んだ上に建築されるので、石垣まで勘定にいれると大仏殿より若干高くなる。ただし七重の塔には及ばない。

大仏殿に入ってみた。…おお、やはりでかいぞ大仏様♪ヽ(´ー`)ノ

ところでこの盧舎那仏像、大仏殿の柱が視界を邪魔するので実は誰が撮っても同じような構図でしか絵にならない。ゆえに本稿も絵葉書カット風で申し訳ない(^^;)

源平期、戦国期に兵火で焼け落ち何度か修復されているため、現存するオリジナルの部分は台座と腹部、指の一部くらいである。江戸期の初期の頃は大仏殿が台風で倒壊し、首がもげた状態だった時期もある(顔だけ取って付けたように質感が異なるのはこのときの修復によるもの)。…が、説明しだすと長いので話を戻すことにしよう。

さて孝謙天皇+光明皇后側に付いて政敵を倒しまくった藤原仲麻呂だが、頭が切れるのは権謀術数だけではない。政策上もかなり有能な人物である。孝謙天皇が退位して孝謙 "上皇" となったのち、淳仁天皇のもとで聖武天皇時代の遷都令連発や東大寺造営などで疲弊した民衆の負担軽減を図る政策を進めている。

具体的には兵役/労役の対象年齢を繰り上げて老齢者の負担を減らし、雑徭として狩り出される日数も半減、さらに問民苦使(行政監察官のようなものか)を五畿七道に設置し、平準署(物価監視官のようなもの)を設置して穀物相場の安定などに努めている。また悲田院、施薬院といった福祉施設も設置し、こちらは光明皇后の慈善事業として有名である。これらは儒教思想に影響をうけた一種の徳治政策といって良い。

官職名を唐風に改めるなどやや極端な中国化を推し進めたきらいはあるが、行政能力が優れていたためパトロンである光明皇后の信任は相変わらず篤く、皇族以外で初めて太政大臣の地位に就き、恵美押勝の名を賜っている(→面倒なので本稿では藤原仲麻呂で通すことにするが ^^;)。

しかし、頭が切れすぎる才人は次第に暴走気味になってくる。折りしも唐では楊貴妃に溺れた玄宗皇帝の治世が乱れ、安史の乱(756~763)が勃発、東アジアのパワーバランスが崩れ始めた。この機を突いて仲麻呂は新羅遠征(兵力4万人規模)を計画し、反対する孝謙上皇と対立する。結局この派兵は取りやめとなるのだが、これが藤原仲麻呂と孝謙上皇の不和のきっかけとなった。(※唐の反乱軍が日本に攻め寄せてきたときのため大宰府に警戒令は出しているが、結局は杞憂に終わる)

一方、仲麻呂はその間も着々と地歩を固めていった。参議、右兵衛、越前守、美濃守に息子達を配し、のちに自らは四畿内、三関、丹波、近江、播磨国の兵事使となって都周辺の軍事を掌握、さらには貨幣の鋳造権(!!)まで握ってしまった。現代風にいえば総理大臣+防衛大臣+経済産業大臣+国土交通大臣+日銀総裁+最高裁判所長官といったところだろうか。

※このへんは詳細に語ると前後状況がややこしいので 「とにかく対立したんだな」 くらいに理解して頂きたい(^^;)

道鏡登場前夜の孝謙上皇の境遇は少女漫画的なまでに不幸である。父である聖武天皇に皇太子たる男子がいなかった(正確には基王がいるが幼くして死亡)ために女性として初めて立太子し、実際に天皇となったものの、朝廷内には女帝反対派が多く味方はいない。橘奈良麻呂の乱などの大規模な女帝排除計画もあった。それでもなんとかやってこれたのは、母=光明皇太后が紫微中台に政治実権を集中し後ろ盾になってくれたからであり、藤原仲麻呂という天才的政治家が実働部隊として働いてくれたためでもあった。

しかし760年、その唯一頼れる母=光明皇太后が亡くなってしまう。気がつけば朝廷内の要職は藤原仲麻呂の血縁で固められ、実権はすべて仲麻呂が握っている。しかもその仲麻呂も、今では淳仁天皇というロボット君主を手に入れて孝謙上皇と意見が対立する場面が増えていた。もう頼れるべき者はなく、信頼できる側近もいない。

そんなときに登場したのが、道鏡である。おお、ようやく登場したなぁ…! ( ̄▽ ̄)

761年(天平宝字5年) 10月13日、孝謙上皇は保良宮 (→現在の大津市付近。平城京の副都として計画されたが、のちに未完成のまま放棄)に行幸中、病に倒れる。

どのような症状かはよくわからないが、前後の状況をみると今で言う鬱病のような精神疾患系のものではないかと筆者は想像している。もしかすると単に仲麻呂のいる平城京に戻りたくない理由として病を装っただけかもしれない(^^;)

※保良宮の正確な位置はわかっていないが、大津市国分に残る "へそ石" と呼ばれる礎石がその跡だといわれている。地図に示したのはその位置である。

ここに、看病禅師の肩書きで東大寺から派遣されたのが道鏡であった。看病禅師とは祈祷によって病気を治癒する僧職で、聖武天皇の時代には126人いたと言われる。この時点では道鏡はそのワンオブゼムに過ぎない。

道鏡は宿曜(すくよう)秘法を用いて孝謙上皇の看病をしたと伝えられている。どんな秘法だよ、とツッコミが入りそうだが、宿曜とは古代インド発祥の一種の占星術(月の運行軌道に沿って十二宮を配するのが西洋占星術とは異なる)のことであって、一部の人の期待するようなそっち系の秘術とは異なる。

要するに人の運命や性格、相性などを宿曜術によって読み解くものであって、実態としては人生相談とか悩み事のカウンセリングのようなものだったと筆者は考えている。これは想像に過ぎないが、おそらくは仏教説話の講義や故事などの豊かな知識を動員して、孝謙女帝の "存在の薄い人生" について 「そう嘆きなさいますな。 お釈迦様はその昔こうおっしゃいました、曰く…」 などと、ゆっくりと時間をかけてカウンセリングを重ねたのではないだろうか。権謀術数と殺し合いの日々で疲れ切った熟女(当時40台)には、きっとそんな癒しの時間が新鮮に感じられたことだろう。

男女の仲のようなナニのソレがあったかどうかについては、のちほど唐招提寺の項で考察することとして、ここではいったん置いておく。(巨根説が横行するのはこの付近の詳細が記録に残っていないためでもあるのだが ^^;)

ともかく、この道鏡の "看病" によって孝謙上皇は病(…というか離宮での引き籠もり状態w)から復活するのである。そしてこの出会いののち、孝謙上皇はすっかり道鏡のファンになってしまい、一介の僧侶である彼を側近として傍らに置くようになった。ようやく信頼できる相談相手をみつけられたためか、陰謀と粛清の続く朝廷の現状に嫌気が差したのか、はたまた妖しい恋路のなせる業(わざ)か、それは不明である。しかしこの保良宮の日々が、彼女の人生の一大転機となった。

なんと、孝謙上皇はこの道鏡との出会い以降、まるで別人のように積極的に行動するようになっていくのである。その変身具合は驚くほどであった。

これに危機感をもったのが藤原仲麻呂である。仲麻呂としては上皇が相談相手として道鏡を重く用いはじめたことを、新たな政敵の出現と捉えたようだ。

そしてついに、かつて何人もの政敵を葬ったのと同じように、藤原仲麻呂は今度は道鏡もろとも孝謙上皇をも排除しようと動き出す。(このあたりの展開は、下手なドラマより劇的でダイナミックだなぁ…^^;)

きっかけは、藤原仲麻呂が淳仁天皇を通じて孝謙上皇に 「道鏡への寵愛をやめよ」 と進言したことであった。これに対し孝謙上皇は激怒し、淳仁天皇から行政権限をとりあげてしまったのである。

当時、公文書に用いる玉璽(ぎょくじ:天皇の印鑑)は淳仁天皇が持っており、引退した身の孝謙上皇には何もない。しかしそれでも孝謙上皇は有力貴族達を私邸に衆参させ、なんと出家した尼僧の姿で現れ 「今後は重要案件と賞罰は天皇ではなく自分(上皇)が行う。天皇は小事のみ行え」 と言い放ったのだから仲麻呂は仰天した。影の薄かったはずの女帝の大変身である。これ以降、淳仁天皇は大きく影響力を失う。

これに対し仲麻呂は764年9月、孝謙上皇排除のために軍事訓練を装って諸国から兵を集め、挙兵の準備を始めた。これが藤原仲麻呂の乱の始まりである。

しかし大変身した女は強い。仲麻呂の動きを知った孝謙上皇側の動きは素早かった。まず淳仁天皇邸を急襲、玉璽(ぎょくじ)を回収して仲麻呂の官位剥奪を宣言、仲麻呂が平城京を脱出して宇治~東国方面に逃れると、吉備真備を司令官に任命して追討軍を派遣した。仲麻呂一族の専横は同じ藤原氏の中でも不評を買っていたため、藤原氏の中にも官軍側に付く者が続出した。

吉備真備の用兵は素早く、まず東山道に抜ける要衝、勢多で橋を落として仲麻呂軍の東国方面(※)への進軍を止めた。次いで仲麻呂軍が転進し琵琶湖西岸を北上していくところを真備は東岸側を素早く進撃し、仲麻呂の息子=辛加知が国司を務める越前国国衙(仲麻呂は反撃の拠点として最終的にここを目指していたらしい)を急襲、辛加知を殺害して越前ルートを押さえた。仲麻呂軍は愛初関で官軍に破られたのち三尾で篭城したが、ついに撃破され敗北するのである。仲麻呂は一族44名とともに斬首され、一ヶ月におよんだ乱は終結した。淳仁天皇は共犯として "廃帝" とされ淡路に流された。

そして孝謙上皇は仲麻呂の勢力を一掃後、後継に誰かを "指名" するのではなく、なんと自らふたたび天皇位に就く(→称徳天皇)のである。この時点で女帝の再登板に反対する者はなく、孝謙上皇改め称徳天皇は道鏡とともに絶対的な権力を手に入れたのであった。まるで映画のような展開だが、奈良時代の政変劇は本当に山あり谷ありのドラマの繰り返しである。(NHKも篤姫なんて歴史上の活躍の少ないネタじゃなくて、称徳天皇で大河ドラマを作れば物凄い盛り上がるドラマが出来るのではないだろうか ^^;)

さてそれはともかく、以後は孝謙上皇を称徳天皇として話をすすめよう。

※藤原仲麻呂は近江国の鉄鉱山を2箇所下賜され、ここに経済地盤があったらしい

乱後、実権を掌握した称徳天皇は、道鏡を小僧都 (東大寺の初代別当:良弁と同位)に任命し、コンビを組んで仏教政策を強力に推し進めていくことになる。話が長くなるので途中を省略するが、道鏡はわずか2年後に太政大臣禅師、翌年には "法王" にまで急速な出世を遂げている。現代風にいえば巨大財閥の一介の係長が社長令嬢と知り合っていきなり取締役になってしまったようなもので、もちろん法王などという地位は律令にはなく称徳天皇が臨時で作ったものであった。

※乱の鎮圧に功績のあった吉備真備も大出世して最終的に右大臣にまで上っているが、ややこしくなるのでここでは言及しないことにする。

さてそれでめでたしめでたし…で終われば御伽噺(おとぎばなし)なのだが、現実はそう甘くない。仏教に深く帰依した称徳天皇+仏教僧:道鏡という組み合わせは、一般民衆にとっては決してやさしくなかったのである。

聖武天皇の時代、乱発される大寺院建立と大土木工事の連続で庶民の生活は疲弊していた。それが藤原仲麻呂の時代に多少緩和されたのだが、道鏡と称徳天皇は再度巨大寺院建立路線を復活させてしまう。なんと東大寺に対抗して西大寺という大伽藍の建設に着手するのである。民衆の 「またかよ!」 という嘆きが聞こえてきそうな話だ。


https://kachovisual.com/tabi_yukeba/2008/2008_0406_nara_B/2008_0406_04.html 【金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:奈良編2 (その4)】 より

■称徳天皇稜

さて奈良編もそろそろ終わりである。春の霞の生駒山も夕日で茜色に染まってきた日没間際のころ、水田と住宅が散在するなかを称徳(孝謙)天皇稜に向かってみた。

称徳天皇が崩御したのは神護景雲4年(770年)8月4日、宇佐八幡宮信託事件から10ヶ月後のことであった。死因は天然痘とされているが、崩御のときにその場で看病していたのは女官の吉備由利ただ一人であり看病禅師が祈祷(当時は立派な治療行為)を行った形跡はない。

天皇陵を地図に重ねると↑このような位置関係になる。父帝:聖武天皇が東大寺に隣接して葬られたのに対し、称徳天皇は西大寺に隣接する位置に葬られた。墳墓の形式は8世紀後半にしては珍しい前方後円墳で、全長は130mあまりある。これは大規模な墳丘墓としてはおそらく最後期のものだろう。仏教隆盛の奈良時代にあっても、貴人の埋葬形式というのは古墳時代の伝統からなかなか改まらなかったようで興味深い事例だ。

この天皇陵が造られた十余年後に都は長岡京、ついで平安京に移転して行く。国家財政を破綻させかねないような仏教一辺倒の政治からの脱却をはかり、桓武天皇と和気清麻呂(※ "穢麻呂"から華麗に復活を遂げた ^^;) が仕組んだ "平城京ごと仏教寺院を置いて逃げ出してしまえ作戦" である。

強くなりすぎた奈良仏教界に対抗するため、この後朝廷は最澄、空海といった密教系の新仏教勢力を育成していくことになるのだが、話が大きくなりすぎるのでそれはまた別の機会に譲ろう。

都の移転後、平城宮は廃墟となり、のちに西大寺も衰退してしまったことから、この一角は次第に農地に埋もれていくことになった。平安期以降は藤原氏の菩提寺である興福寺が事実上の国主の地位に就いたことから、現在の奈良では外京区を中心とした寺院支配の残照ばかりが色濃く残ることとなった。それは現在我々が観光地としてイメージする古都=奈良の姿でもある。

※写真は平城宮跡資料館展示のもの(撮影許可を頂いています)。

さてこれが称徳天皇陵である。現在は宮内庁の管理下にあり、鳥居が建ってそれなりに整備されている。…が、周辺はギリギリまで削り込まれて農地になっていた。

称徳天皇がここに葬られたのは崩御から約2週間後、8月17日のことである。葬儀(大葬礼)には道教も列席している。しかしこのとき既に "法王" 排除の計画は進行していた。背後で動いたのは左大臣=藤原永手のほか、藤原百川、藤原良継らの藤原氏一族である。道教が失脚したのは大葬礼のわずか四日後のことであった。

道鏡失脚のきっかけは坂上大忌寸苅田麻呂による密告であった。坂上大忌寸苅田麻呂とは蝦夷討伐で有名な征夷大将軍、坂上田村麻呂の父である。この功績でのちに鎮守府将軍の地位を得たというのだから何ともやり方がセコイといえるが、これが巡り巡って息子の代に朝廷の東北支配強化につながっていくのだから歴史というのは不思議な巡り合わせだな… (´д`)

それはともかく、これ以降道教は悪臣、逆臣として歴史に書き残されていくことになる。

■作られる伝説

さて、ではここで壮大?なる伝言ゲーム千年史を追ってみよう。巨根説がいかに成立したのか、その変遷である。

道鏡の "悪事" についておそらく最も時系列的に早い時期に書かれた文献は、続日本記(797年成立)と思われる。実は称徳天皇崩御の直後、藤原永手らに擁立された光仁天皇が最初に編纂を命じたのだが、正史としてまとめることが出来ず(※)一度立ち消えになり、次の桓武天皇が再度編纂を命じて平安遷都後に完成したという歴史書である。ここに描かれる道鏡の記述は以下のようなものだ。

【770年08月17日】

・称徳天皇を大和國添下郡佐貴郷高野山陵に埋葬 ※原文では高野天皇と表記

・天皇は仏教を振興したが、道鏡が寺院建築に国費を浪費したと記載

【770年08月21日】

・皇太子令旨。道鏡法師これを如何に聞く。

・陵土未乾にして姦謀發覺す、と記載。 先帝に免じて重罪には問わず、即日造下野國藥師寺別当として下向させたとある。

【770年08月22日】

・道鏡の弟:弓削淨人、流罪となる ※宇佐八幡宮神託事件の人

【770年08月23日】

・道鏡の姦計を 密告した褒賞として坂上大忌寸苅田麻呂を從四位上に処す

【771年02月22日】

・道鏡が内外に権勢を振るったために淳仁天皇(当時は名無し)が廃帝となった、と記載

・天皇の寵愛をいいことに皇位簒奪を企んだ、と記載

【772年04月07日】

・下野国からの報告によれば下野薬師寺別当、道鏡が死亡した

これによると、葬儀の4日後には "姦謀発覚" で、事情聴取も取調べもなく即日下野国に追放となっている。ずいぶん手際が良過ぎる気がする。

※編纂失敗:このときの編纂では、下書きとなる天平宝字元年紀が何故か編者らによって "紛失" されている。天平宝字元年(757)とは孝謙(称徳)天皇排除計画を巡って440名あまりが大量処分された橘奈良麻呂の乱の年である。光仁天皇としては自分の皇位継承を正当化する書き換えをしたかったのだろうが、まだ当時を直接知る関係者が多数存命中だったため記録抹消までが精一杯だったようだ。

さて基本的に編年体で書かれている続日本記だが、要人の死亡記事のところには一部列伝が挿入されている。六国史に独特の国史体という形式だが、ここに道鏡の略歴の記載がある。では内容を見てみよう。

道鏡。俗姓弓削連。河内人也。略渉梵文。以禪行聞。由是入内道塲列爲禪師。寳字五年。從幸保良。時侍看病稍被寵幸。廢帝常以爲言。與天皇不相中得。天皇乃還平城別宮而居焉。寳字八年大師惠美仲麻呂謀反伏誅。以道鏡爲太政大臣禪師。居頃之。崇以法王。載以鸞輿。衣服飮食一擬供御。政之巨細莫不取决。其弟淨人。自布衣。八年中至從二位大納言。一門五位者男女十人。時大宰主神習宜阿曾麻呂詐稱八幡神教。誑耀道鏡。道鏡信之。有覬覦神器之意。語在高野天皇紀。?于宮車晏駕。猶以威福由己竊懷僥倖。御葬禮畢。奉守山陵。以先帝所寵。不忍致法。因爲造下野國藥師寺別當。遞送之。死以庶人葬之。

■ヘタレ訳ヽ(´ー`)ノ:

道鏡は俗姓は弓削連、河内の国の生まれである。梵文(サンスクリット語)読解に優れ、禅の修行にも優れたことから世に知られた。これにより東大寺の内道場に入り、列せられて禅師となる。天平宝字5年(761年)天皇が保良宮に行幸された折、看病禅師として訪れ寵愛されるに至る。廃帝(※)は天皇と親交を深めることができなかったと言い、天皇は平城京に帰ると別宮に居した。天平宝字8年(764年)太政大臣恵美(藤原)仲麻呂は謀反して誅せられ、道鏡をして太政大臣禅師とした。やがて法王として仏を崇(あが)め、外出するときには天皇と同じ輿に乗るようになった。衣服や飲食は天皇への供物に準じた。政治においては大きな決定から些細なものまで口を出さぬことはなかった。弟の弓削浄人は、一般人からわずか8年にして従二位大納言に出世し、一門で五位(→当時の基準で"貴族"とされた位)以上になった者は男女で計十人に上った。時に太宰府神官習宜阿曾麻呂が八幡神の神託を偽って道鏡に伝えると、道鏡はこれを信じ皇位を窺うようになったと高野天皇紀に書かれている。天皇が崩御されても道鏡はなお幸運に恵まれていると思い込み、天皇陵を護っていた。先帝の寵愛に免じて法に従い罰するに忍びなく、造下野国薬師寺別当として下向させた。死んだ後は庶民として葬られた。

※廃帝:藤原仲麻呂の乱で流罪となった淳仁天皇。実は同時期に保良宮に滞在していた。淳仁というのは後世つけられた名であり、これが書かれた当時は天皇号のない"名無し"状態である。

・・・さて、実はこの時点では "皇位を狙った"、"国政に口を挟んだ" という意味の記載はあるが、巨根伝説に関わるような内容はおろか、称徳(孝謙)帝との男女の関係を匂わせる記述も見当たらない。

歴史書というのは時の政権が自らの正当性を示すために発行する宣伝文書としての側面があって、敗れ去った前政権の代表者=道鏡の悪口を書くのは、まあお約束といえる。しかしこの時点では悪口といっても 「姦謀(=悪だくらみ)」 とあっさり書いてあるくらいで、それ以上の具体性には欠けている。…ともかく、これが道鏡没後25年頃の状況である。

時代が下って平安初期になるとどうだろう。道鏡の没後50年が経過した頃、822年に成立したとされる日本最古の仏教説話集 日本国現法善悪霊異記 (略称:日本霊異記、作:景戒) の第38話に道鏡の話が登場している。ただしこれは、"世の中に吉凶の前兆が現れるときはまず歌となって人々の間で流行するものだ" という因果応報譚を羅列した中の一部として登場するもので、主役級という程の扱いではない。 ここでいう "道鏡登場の前兆" とされる歌は以下のようなものだ。

法師を裳着とな侮りそ

そが中の腰帯に薦槌さがれり

いや発つ時々かしこき響きや

ヘタレ訳:

坊主を喪服の連中などと侮ってはならぬ、その服の下の腰帯には○○○がぶらさがっていて、 にょっきりと立ったさまは実に恐れ多いのだ

わが黒御曾比、

股に宿し給へ

人となるまで

ヘタレ訳:

(半人前の貴女は)一人前になるまでは、俺様の黒光りする○○○を 股の中に入れておきなさいましっ ヽ( `ハ´)ノ

…なんというか、あまりに下品なので訳をつけるのをどうしようかと迷ったのだけれど(汗^^;)、 ホントにこんな歌が流行ったのかよ!…と、 ツッコミを入れるには十分なクォリティ(もちろん低いほうに)である。"法師" とは歌われているものの、歌中には道鏡と直接結びつくような記述はない。作中でこれが流行ったとされるのは光明皇后の時代とされていて、鑑真が来日する直前の世相(=脱税目的の私度僧が溢れ末端では風紀が乱れていた)を揶揄したとも言えなくはないが、…まあその程度の内容なのである。しかし、これが仏教説話のなかで道鏡像とむすびついたことが、後世に影響を残していくことになる。

道鏡本人の記述はというと、歌に続けて称徳天皇と "枕を同じくして交はり通じ天下の政を相摂し天下を治す" との表記がある。巨根伝説とまではいかなくても、この頃には説話の "因果応報ネタ" として女帝と道鏡の姦通話が登場していたようだ。

さらに時代が下って道鏡没後440年、鎌倉時代初期の説話集:古事談 (1212年頃、源顕兼) に弓削道鏡の記述をみてみよう。伝言ゲームのように伝えられて400年以上も経つと、内容も次第に尾ヒレがついてエスカレートしてくる。(万葉仮名から平仮名交じりになって可読性が増したのはありがたいが ^^;)

称徳天皇、道鏡の陰なほ不足に思し召されて薯蕷(じょうよ=山芋)を以て陰形を作りこれを用いしめ給ふ間、折れ籠る。由て腫れ塞がり大事に及ぶ。小手の尼見奉りて云はく「帝の病愈ゆべし。手に油を塗りて之れを取らむと欲ふ」なりと。爰に右中弁百川、「霊狐なり」と云ひて剣を抜き尼の肩を切る、と云々。よりてゆること無く帝崩ず。

ヘタレ訳:

称徳天皇は道鏡の男根でもなお不足に思われて、山芋で陰形を作り使っておられたが、ある日それが折れて取れなくなった。そのため女陰が腫れ上がって大変なことになってしまった。手の小さな尼がやってきて診察して言うには 「私が手に油を塗って中にいれ、取ってみましょう。きっと帝の病は治ります」 とのことである。しかし藤原百川が 「こやつは化け狐だ」 と叫んで剣を抜いて斬りつけた。そのため病は治らず、女帝は崩御された。

…これだと女帝の死因となったのは藤原百川のパフォーマンスのようにも読めるが(おい ^^;)、ともかく面白可笑しく誇張が派手になってくるのが鎌倉期である。この頃にはすっかり道鏡は巨根だったということにされており、ほぼ同時代の 「水鏡」 には道鏡が不届きにも経典に小便をかけていたところ蜂に刺されて巨根になった云々…とのサイドストーリーまで登場している( ̄▽ ̄)。 …鑑真が聞いたら泣くだろうなぁ。

江戸期になるともはや巨根の好色男としてのイメージは確固たるものとなり、すっかり川柳のネタとして定着したようだ。有名なものとしては以下のようなものが現代まで伝わっている。

道鏡は 座ると膝が 三つ出来

道鏡に 根まで入れろと 詔(みことのり)

道鏡に 崩御崩御と 称徳言い

ここまで来ると歴史というよりは民俗誌/芸能史のような気がする。笑いたい人だけ笑ってくれというべきだろうか(^^;)。

ただし笑いのネタになるためには世間における共通認識、あるいは一般教養としてのイメージが定着している必要がある。光仁天皇が歴史書の編纂に苦心した奈良時代末期から1000年を経て、ここに至ってそのイメージは広く固定され "社会常識" にまでなったということだろう。

さらに明治期になると皇国史観による教育が強化されたこともあって、皇位簒奪を企んだとされる道鏡は日本史三大悪人の一人として教科書(さすがに巨根の話は割愛されいたようだが)にも登場するに至るのであった。これが、現代に伝わる道鏡の人物像に大きく影響していると思われる。

これらの記述の変遷をみてくると、参照する文献が書かれた時代によって印象がずいぶん異なってくることがわかる。面白おかしく巨根説を取り上げて論じる書籍や記事(ネット上の個人サイト等も含む)が参照しているのは、表現の誇張された水鏡や古事談など鎌倉時代の書物が多い。

それはネタとしては面白いかもしれないが、歴史上の人物としての道鏡とは随分異なっているといえる。

■もう一人の道鏡

さて奈良編はここで終わるのだが、最後に "もう一人の道鏡" とでもいうべき僧、玄昉について言及しておこう。聖武天皇に重用され、巨大仏教土木路線を聖武天皇に薦め、諸国に国分寺/国分尼寺を建立する大事業を開始させた遣唐使帰りの僧である。活躍時期は橘諸兄の時代で、道鏡の活躍期の30年ほど前にあたる。

玄昉は看病禅師として聖武天皇の母:藤原宮子の治療に功績があったことをきっかけに重く用いられるようになり、聖武天皇の側近として仏教政策を押しすすめた。その経歴は、"称徳天皇にとっての道鏡" とそっくりである。

細かい話を書き出すとキリがないのでここでは結論だけ書くが、740年に玄昉(および吉備真備)を政権から排除することを要求して藤原広嗣が大宰府で反乱を起こし、乱自体は鎮圧されてしまったのだが、これをきっかけに玄昉は影響力を落とし最終的に大宰府に左遷されてしまう。このときの名目は筑紫観世音寺別当としての赴任であり、道鏡の下野薬師寺別当と待遇がよく似ている。

さてそれが巨根伝説と何の関係があるのかというと、失脚後の貶(おとし)められ方が道鏡のケースと非常に似通っているのである。道鏡は死して巨根伝説を残したが、玄昉は聖武天皇の皇后(光明子=光明皇后)と密通していた破戒僧であるとされたのであった。

玄昉が大宰府に下って約半年後、建設中だった筑紫観世音寺が完成し落慶法要が営まれたが、なんとその当日に玄昉は死亡する。医学上の死因は不明だが、伝承では藤原広嗣の怨霊に祟られたものとされ、やがてそれが脚色されて "一天にわかにかき曇り、藤原広嗣の怨霊が現れたるや玄昉を八つ裂きにした" との伝説を残した。

その伝説によると、八つ裂きになって飛び散った頭部がはるばる平城京まで飛んできて、興福寺付近に落ちたという。落ちたところには首塚ならぬ頭塔が建てられた (今回は取材していないが、頭塔は現存する)。

ところで本稿をお読みの諸氏なら先の展開が読めると思うが、もちろん飛んできたのは首だけではない。破戒僧の因果か、股間の○○○も引きちぎられて飛んできており、やはり平城京に落下したと言われている。落下地点にはそれを供養する塚が建てられたと言われ、こちらはマラ塚と呼ばれている。場所は称徳天皇陵の北東800mほどのところ、塩塚古墳に隣接した林間部である。

さてそんな訳で、せっかく奈良まで来たのだから一箇所くらいそっち系の遺跡を確認しよう、という酔狂で入ってみたのだが…それはもうほとんどクルマがすれ違うことなど考えていない細道の最奥なのであった。もちろん間違っても観光名所にはなっていない(^^;)。

これがそのマラ塚である。形状としては前方後円墳らしく、長辺は20~30mくらいはありそうだ。現況は草木の茂るに任せているの風であり、あまりきちんと管理されているような印象はない。案内板等もなく、GPS(というかカーナビ)が無ければ地図を照合するのも困難で、にわかにはここがマラ塚だとはわからないだろう。

ちなみにこの種の墳丘墓の造営は大化改新(645年)時の薄葬令で天皇以外は原則禁止となっており、そうなると消去法でこのマラ塚はそれ以前の造成(~7世紀前半)という推測ができそうだ。要するに飛鳥時代、もしくはそれ以前の誰かの墓である。

…それにしてもどんな豪族の親分様がお眠りかは存じないが、自分の名前がすっかり忘れ去られ、墓所はいつのまにか "マラ塚" という事にされてしまっている現況を知ったら、ご本人はさぞ驚くことだろう(^^;)

さて、こうして金精神のルーツ(のひとつ)としての道鏡の姿を追って来たのだけれど、どうにも巨根伝説というのは後付けのような感がある…というのが、ひとまずの結論のようだ。

宇佐八幡宮信託事件を巡る前後の状況は、皇位継承に絡む女帝と僧のスキャンダル、ということでインパクトのある出来事なのは間違いない。奈良時代に終止符を打ち、平安時代以降の歴史を作っていったのは、このスキャンダルで天武系血縁にトドメを刺して勝ち残った天智天皇の皇統と藤原氏の一族である。当然、自己の正当性を訴えるためには歴史書を編纂して "葬り去った前政権の悪口" を書かねばならない。ただし称徳天皇本人の悪口は書きにくいので、必然的に側近の道鏡がスケープゴートとされた。

そして事件の直接の当事者がいなくなった50年後くらいから、主に説話の中でシモネタが盛り込まれていった。説話は公式な歴史書ではないので事実関係に責任をとらなくて済むうえ、正史において悪役の側に立った人物ならば多少の嘘や誇張が入っても咎められることはない。そして時代を経るごとにいろいろな尾ヒレがついて、巨根伝説につながっていった…まとめてみると、こんなところだろう。

そのような次第で、次回以降は下野の国における金精神、そしてその後の道鏡の足跡を追ってみたい。

【ひとまず完】

■奈良編:あとがき

いやー、長かった!!( ̄▽ ̄) 昨年の沖縄も長かったけれど、にわか勉強で歴史的経緯を調べるというのは非常~にホネの折れる作業で疲れます。特に古事談の原文というのはネットではほとんどみつからず、書籍を探しても入手しやすいのは口語訳ばかり。それも明治期以降の版の再録版ではは称徳天皇の段が抜け落ちていたりして…(笑) しかしまあ、事実関係の解釈とか理解とか、いろいろ不安な要素はあるのですが、まあそんなに大ハズレはないんじゃないかな…ということで、こんなカタチでのまとめと相成りました。

奈良時代の仏教政策を総括すると、その主な事業は聖武天皇+称徳(孝謙)天皇の父娘二代の時期に集中しています。相次ぐ遷都の試みと併せて、その所要労働力の巨大さは現在の想像を遥かに超えるものだったでしょう。奈良時代は近世以前で天皇の力がもっとも強かった時代であり、この強権+事業モデルとしての中国(唐)の存在が、無茶苦茶ともいえる仏教政策の実現に寄与していました。

しかし宗教施設は産業的には何の価値も生み出さない非生産施設の極致でもあります。文化遺産という点では確かに価値を残しましたが、産業的にみればこの巨大宗教土木政策によって日本の国力が増大したわけでもなければ、生産性が向上した訳でもありません。皮肉なことに国土開発という点でいえば荘園開発のほうがよほど全体の生産性向上に寄与していたといえます。聖武天皇(+光明皇后)、称徳(孝謙)天皇の想いとはうらはらに、民衆の負担ばかりが増えたというのが、この路線の結末でした。

その最後の5年間の政策を太政大臣禅師/法王として取り仕切った道鏡ですが、称徳(孝謙)天皇の代は父帝時代に大量発注された案件の消化を必死にこなしている性格が強く、物量的に父帝を超える事業が出来たわけではありません。道鏡はのちに国費を浪費した主犯のように非難されるのですが、それは仏教土木路線の最後の瞬間に責任者の立場にいたとばっちりのような面も少なからずあったことでしょう。

ところで土木路線ということで言えば、694年遷都の藤原京~794年遷都の平安京までのちょうど100年間(奈良時代+前後10年少々)は、遷都ラッシュともいえる異常な量の土木工事が集中しています。天皇の権力が絶対的に強く、律令制が機能して朝廷財政にそれなりに収入があったため、ポンポンと勅が出せたわけです。

それが平安京で打ち止めになるのは、荘園が急速に拡大して荘園主=貴族/寺社が肥え太り、朝廷の収入が激減したためと言われます。摂関政治の頃になると天皇は飾りみたいなもので実質的な権限は何もなく、耕作地も9割以上が荘園化していたといいますから、平安京の御所や羅生門が荒れ果てるのも理解できようというものです。そういえば平安遷都以降、教科書に載っている文化財/国宝なども荘園領主(貴族、寺社)や武家の造ったものばかりになって、天皇が勅を出して大事業を行った…という事例はほとんど見かけなくなりますね。

歴史に if はない、とは言いますが、道鏡政権の墾田永年私財法停止がその後も維持されたとしたら、そして藤原氏の勢いを抑えることが出来たなら、日本の歴史はまたずいぶんと変わった方向に流れたことでしょう。奈良の都の跡地を巡りながら、そんなことを思ってみましたヽ(´ー`)ノ