鮎落ちて那須野ヶ原の夕火種 (黒羽行)

黒田杏子・句集『木の椅子』(増補新装版)コールサック社

十二支の闇に逃げこむ走馬燈  黒田杏子

金柑を星のごと煮る霜夜かな  同

かもめ食堂空色の扉の冬籠  同

月の稲架古墳にありてなほ解かず  同

休診の父と来てをり崩れ簗  同

青桃に夕陽はとどく天主堂(カテドラル)  同 (五島列島 六句)

はまゆふは戸毎にひらく濤の上  同 (五島列島 六句)

日に透けて流人の墓のかたつむり  同

星合の運河の窓は灯りけり  同

青柚子や風の濡れたる濡佛  同 (宇都宮 多気山)

鮎落ちて那須野ヶ原の夕火種  同 (黒羽行)


http://intweb.co.jp/miura/myhaiku/basyou/3nikkou_sirakawa.htm 【日光・黒羽・白河の関へ】 より

日光

 芭蕉は自分のことを「桑門の乞食順礼ごとき人」といっている。桑門とは仏門のこと。だが、芭蕉はなぜ僧の格好をしているのか。芭蕉は深川時代に仏頂和尚について禅にふれていたようだ。それが僧形へのあこがれのようなものを芭蕉の内にうんだのだろうが、当時の俳諧師は身分不詳の僧形をするのがはやりだったようだ。

 「おくのほそ道」の旅に出る5年前、芭蕉は「野ざらし紀行」のなかで自分のことを次のように描いている。

「腰間に寸鉄をおびず。襟(えり)に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠(たま)を携(さずさ)ふ。僧に似て塵有(ちりあり)。俗にして髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと 僧侶のこと)の属にたぐへて、神前に入る事をゆるされず。 」

 芭蕉と曾良は二人とも、仏門の旅装束をしている。だか、芭蕉は「桑門の乞食」の実を発揮して托鉢などをしたという記録はない。曾良は、湯元で「十九日 快晴 。予、鉢に出る。」(「曾良旅日記」)とあり托鉢をしていた。僧形に見合う修行のつもりだったのだろうか、とかくうわさのある曾良のことだから、市中の暮らしぶりや噂などを探っていたのかもしれない。曾良は芭蕉の弟子だが、不思議な人で幕府の隠密だったのではないかという疑いが強い。京都奈良の寺社をしらみつぶしに調査したり、幕府巡検使の用人として九州や隠岐を調査したりしている。そのためか、芭蕉までも隠密の仕事をしていたのではないかと疑われている。(村松友次「謎の旅人 曾良」)

 まっ、そういう話しも一興として次に進もう。

 「僧に似て塵有(ちりあり)。俗にして髪なし。」芭蕉は自覚的に僧形をしていたようだが、自分でもなんだかおかしいな、といった感触をもっていたようだ。

 僧ではないが僧の格好をしている。僧に似ているが世俗の垢にまみれている。俗に生きてはいるがなぜか髪はない。僧にして僧にあらず、士農工商の身分から離れて、俳諧の宗匠という仕事をしている。そういう芭蕉の自負があらわれている。

芭蕉の時代からこの陽明門はあったのだろうか。芭蕉のような旅人が陽明門の近くまで来ることはできたのだろうか。

日光東照宮は、 寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替が始められ、今日見られる荘厳な社殿への大規模改築が行われた。芭蕉の旅は元禄二年(1689年)だから、改築から50年余りたっている。当時は神仏習合でお寺と神社が合体していた。

 芭蕉は、こじき坊主の自分を泊めた仏五左衛門を、

「唯(ただ)無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ」

といいながらも、

「気禀(きひん)の清質尤(もっとも)尊ぶべし」

として最大級の賛辞を送っている。どうも日光のような神々しいところは芭蕉も苦手なようだ。まぶしいものは、芭蕉の「わびさび」の趣味に合わない。無知無分別、正直偏固、剛毅木訥の仏五左衛門に親しみを感じている。だが、「無知無分別」と「正直偏固」が一人の中に同居するものだろうか。

 「胸中一物(いちもつ)なきを尊しとし、無能無智を至(いたれり)とす。無住無庵、又其次也。」 (「移芭蕉詞(ばしょうをうつすことば)」より) 

 芭蕉が好む人物像、好ましい生き方が表明されているが、同時に作句に向かう姿勢ともなっているようだ。

かさね

 日光を後にした芭蕉たちは「黒羽」に向かう。歩きだした芭蕉たちの眼前には那須野の薄の原の原野が広がっていた。

 那須の黒羽といふ所に知る人あれば、これより野越にかゝりて直道(すぐみち)を行かんとす。遥(はるか)に一村を見かけて行くに、雨降り日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明くれば又野中(のなか)をゆく。そこに野飼の馬あり。草刈るをのこに歎(なげ)きよれば、野夫といへども、さすがに情(なさけ)しらぬにはあらず。

「いかゞすべきや。されども此の野は縱横にわかれて、うひ/\しき旅人の道ふみたがへん、あやしう侍れば、此の馬のとゞまる処にて馬を返し給へ」と貸し侍りぬ。ちひさき者ふたり、馬の跡したひて走る。独りは小姫にて、名を「かさね」と云ふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、

  かさねとは八重撫子(やえなでしこ)の名なるべし  曾良

やがて人里に至れば、あたひを鞍壺(くらつぼ)に結ひつけて馬を返しぬ。

 写真の銅像は、黒羽の芭蕉記念館の前の銅像。訪れたときは記念館は工事中だった。芭蕉が馬に乗り曾良が後についている。この他に「ちいさき者ふたり」がいて、その1人の子の名が「かさね」というのだろう。 曾良は、八重撫子を思わせる「かさね」という名前に感動して句にした。

 蕪村の「奥の細道画巻」がある。蕪村は芭蕉を尊敬しており、「奥の細道」を書写しながらその中に自筆の俳画を挿入して面白い絵巻にしている。現存する「奥の細道画巻」は4種類くらいあり、それぞれ書体にも微妙な変化があり、俳画も異なっている。

 左の画は、蕪村の後の作品の絵で、構成が面白い。上の写真の馬上の芭蕉と曾良の構図とよく似ていて面白い。

馬上の芭蕉

黒羽の芭蕉記念館の前の銅像。記念館に入りたかったのだが、残念ながら改築、休館中。

蕪村の「奥の細道画巻」に描かれた那須野をいく芭蕉たち

蕪村の「奥の細道画巻」に描かれた那須野をいく芭蕉たち。絵の小さな女の子が「かさね」ちゃんか。

雲巌寺への参道。濃い緑と赤い橋が印象的。

雲巌寺への参道。鬱蒼とした山懐にあり、濃い緑と赤い橋が印象的。

 西那須野塩原ICを降り、大田原市を経て黒羽にはいる。道がよくわからないまま山の中の雲巌寺に着く。

 ここで芭蕉は、仏頂和尚の山居跡を訪ねた。  仏頂和尚は深川での芭蕉の参禅の師であり、「鹿島紀行」で和尚を尋ねたり交流が深かった。

竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば

 人が生きていくのに、本当は草の庵さえ必要ない。もし雨が降らなかったのならば。ものごとへの執着や物欲をすべて捨て去った仏頂和尚らしい歌。

 芭蕉はこの歌に感動して、和尚の山居跡をたずねた。雲巌寺の本堂の裏手にはすぐ山がせまっている。仏頂和尚の庵の跡は右上の山の中にあったようだ。

雲巌寺のお堂

雲巌寺のお堂。ふたつが重なっている。屋根の姿が美しい。

 「かの跡はいずくのほどにやと、後ろの山によじのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。」

 芭蕉はここでどんな山居跡を見たのだろう。「妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし」としている。みちのくの山間の岩にたてむすばれた庵の跡は、庵というにはあまりにも狭く、はかなく、感動、戦慄、涙なしには見られなかった。

仏頂和尚の生き様は、後の幻住庵での芭蕉の生き方や旅の「桑門乞食」姿のモデルになったのだろう。

木啄(きつつき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立 

 啄木鳥も修行する和尚に遠慮して庵をつっつかなかったのだろう。夏木立のさわやかなイメージと重なって、とてもいい感じ。

竪横の五尺にたらぬ草の庵

雲巌寺境内の石碑

「竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば」

芭蕉は、今は亡き仏頂和尚の生き方に感動し、その生きざまを慕って雲巌寺を訪ねた。

 芭蕉の、隠棲者に対するいたわりと親愛の情が表現されている。

 風流の隠棲者に対する芭蕉の思い入れは、義に殉ずる武士の生き方とともに、絶大なものがある。芭蕉自身、伊賀上野の殿様の息子に仕えていて、その息子が亡くなったため役目を外されるという不遇を経験したからだろうか。芭蕉の句はやはり百姓や町人のものではなく、武士を解かれた風流人のものか。

 義経をかくまって滅んだ藤原氏三代の棺を納める光堂でも、同じような気持ちを表した「五月雨の降り残してや光堂」という有名な句を詠んでいる。志ならず歴史の闇に沈んでいったものに対する愛借の念は変わらない。

 雲巌寺の庭内にある写真の石碑は、「竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば」 。

 この後、芭蕉たちは「黒羽」に向かう。ここで13日間もこの旅一番の長逗留することになる。

 「黒羽の館代浄坊寺何がしの方」というのは、黒羽藩の城代家老、浄法寺図書高勝(ずしょたかかつ)とその弟、岡豊明は芭蕉を手厚くもてなした。兄は桃雪、弟は翠桃という俳号。芭蕉の門人だったのだろう。ここで、「日を経るまゝに、ひと日郊外(こうがい)に逍遥して、犬追物(いぬおうもの)の跡を一見し、那須の篠原を分けて、玉藻(たまも)の前の古墳をとふ。 」さらに那須野与一ゆかりの「八幡宮」、「修験光明寺」の「行者堂」を訪ねた。

殺風景な火山性の風景。恐山の賽の河原を小さくしたようなイメージ。芭蕉の時代には今よりもガスの噴出量が多かったのかも知れない。芭蕉同様、別にどうっということもない観光地。

 是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、

野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす

 芭蕉には、殺生石より「口付のおのこ」(馬の口を取る男)が句をねだったことの方が印象に残ったようだ。優しいことを言うものだと思って即興の句を作った。動的で絵のように印象的な句。

 殺生石について芭蕉は、「石の毒気いまだほろびす。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどにかさなり死す」と書いているが、死んだ蜂蝶はまったく見かけなかった。

 「硫化水素ガスが発生していますので、非常に危険です。柵の中には絶対に入らないでください。」の看板が立っているが、現在は毒気は弱いようだ。

遊行柳 青田のなかの遊行柳

「清水ながるゝの柳は、蘆野(あしの)の里に有りて、田の畔(くろ)に残る。此の所の郡守戸部某(なにがし)の、「 此の柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此の柳の蔭にこそ立ちより侍りつれ。

  田一枚植て立去る柳かな 」

 次に芭蕉は、西行が「道の辺に清水流るる柳かげ しばしとてこそたちどまりつれ」とよんだ歌枕をたずねる。

 奥州街道の芦野から田のあぜ道を約200m入ったところにある。 みちのくの歌枕の情景として最もぴったりする景色のひとつである。稲穂の波の中に大きな柳の木が2本たっている風景は、すがすがしく美しくしい。今も昔も変わらぬ東北のいや日本の原風景のひとつにちがいない。近くの中学校の生徒たちがあぜ道で私のような旅人に、「こんにちは」と大きな声をかけてくれたのがうれしい。地元ではこの「遊行柳」を大切に維持しているのだろう。

 「遊行柳」の風景は、芭蕉の「おくのほそ道」の句のイメージが最も残っていているように感じる。私の好きな風景のひとつで、2年続けて尋ねてしまった。

 緑の旅人 西行ならば 歌を詠む

田一枚植えて立去る柳かな

「田一枚植えて立去る柳かな」の石碑

 遊行柳の根元の田のすぐ横に石碑が立っている。芭蕉の句である。

田一枚植えて立去る柳かな

 西行の「道の辺に 清水流るる柳かげ しばしとてこそたちどまりつれ」の歌と謡曲「遊行柳」があってはじめて、この句の味がわかるというもの。田を1枚植える時間が「しばし」かどうかはさておくとして、芭蕉はそのくらいの時間、この柳の陰で、歌枕の場にたっていることの感慨にしたっていた、ということだろう。

 謡曲「遊行柳」は、遊行上人(時宗の開祖、一遍上人のことか)が諸国巡歴している時、白河の関のあたりで老婆に呼び止められ、「道の辺に清水流るる柳かげ」と西行が詠んだ銘木の柳の前に案内され、そのあまりに古ぼけた様子に上人が10回念仏を授けると老婆は消えた。 夜更けに、上人が回向すると再び老婆が現れ、極楽往生できたことを喜び、そのお礼に幽女の舞を舞う、というもの。

 大きな柳の木が2本ある。何代目かの遊行柳なのだろう。

 一遍もまた、全国を遊行し念仏を唱えながら踊らざるをえなかった人である。芭蕉は仏門に興味はあったがその道には入らなかった。一遍にも当然関心はあっただろうし近しいものを感じていたのではないか。一遍が踊る念仏なら、芭蕉は野ざらし風狂の俳人を自認しているのではないか。一遍は踊りながら、芭蕉は野ざらしを心に、何かを求め続けた。一遍は踊念仏による救済のあり方を、芭蕉は俳諧における風流の誠の心を求めて。だが、風流の誠とは何か。

 このあたりに、蕪村の句碑があるということだが、みつけられない。「柳散清水枯石処々」 (やなぎちり しみずかれ いしところどころ)。芭蕉没後22年後に蕪村が生まれた。蕪村が遊行柳を訪ねたころには、柳散り、清水枯れ、石ごろごろといった状態だったことがわかる。 ところで、芭蕉が訪ねたころの遊行柳はどうだったのだろうか。

この芦野のあたりは柳の木が目に付く。街道ぞいに柳の木が植えられていて「柳街道」とあった。もともと柳の多い土地がらだという。

道の辺に 清水流るる柳かげ

「道の辺に 清水流るる柳かげ しばしとてこそたちどまりつれ」の西行の歌碑

 西行の歌碑。平成の時代にあってはこの石碑はしぶい。

 道の辺に 清水流るる柳かげ しばしとてこそたちどまりつれ

 芭蕉は西行の俤を求めて奥州行をしていようでもある。僧の格好をした西行と芭蕉が柳の陰でしばし休んでいるような情景が、時代を越えて伝わってくる。二人は何を語らっているのだろうか。

 「柳かげにしばし」やすんで、早乙女たちが田植をしているのをながめ、「早乙女たちの田植え姿はいいものだネ。風流に見とれるばかりじゃなく、わたしたちも田植などやってみましょうか」、「いやもう年ですから止めておきましょう」などといいながら、やがて田植が終わり、早乙女たちが他の田に移っていくと、「それでは私たちもまいりましょうか」といって立去っていくのだった。

 風流の人は早乙女たちの田植を鑑賞する。風狂の俳人は自ら田植をする。芭蕉はここで早乙女たちと並んで田植をしたかったのではないか。

 1枚の田を田植えして立ち去ったのは誰か。早乙女か柳の精か。柳の精に身をかりた芭蕉か。風流人のかなしさのようなものがにじんでいる。

 遊行柳へのアプローチのあぜ道。

 蕪村が訪ねた江戸中期には、柳散り、清水枯れ、石ころころの状態だったようだが、遊行柳は左の写真のように見事に再生されているが、清水はない。その代わりきれいな農業用水が勢いよく流れていた。大きな柳が左右に2本、幽女の舞のように見えなくもない。石の鳥居は遊行柳の先の山あいにある小さな神社のもののようだ。

 私の場合、芭蕉のおっかけはもっぱら下の愛用バイク。クリックすると大きくなる。芭蕉の旅も馬をよく使っていたようだから、現代の馬 バイクでも許されるだろう。歩いている人、ごめんなさい。

白河の関跡

 心許(こころもと)なき日かず重なるまゝに、白河の関にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便り求めしもことわりなり。中にも此の関は三関の一にして、風騒(ふうさう)の人心をとどむ。秋風を耳にのこし、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢猶あはれなり。卯の花の白妙(しろたへ)に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣裳を改めし事など、清輔の筆にとゞめ置かれしとぞ。

  卯の花をかざしに関の晴着哉  曾良

「古関跡」

白河藩主松平定信が建てた「古関跡」の碑

 白河の関は大化の改新以降7・8世紀~12世紀頃まで設けられていたらしい。奥州との行き来が盛んになるにつれ、街道は西の方に移っていき、古い街道はいつしかその使命を終えたようだ。

 白河藩主松平定信が1800年に、この場所を白河の関とし、「古関跡」の碑を建てた。芭蕉のおくのほそ道の旅は1689年だから、この碑はまだ立っていなかった。関跡としてもほとんど整備されていなかったはずだから、芭蕉たちはどうやって関跡を見つけたのだろう。曾良の苦労があったのだろう。

 「みちの国へ修行してまかりけるに、白河の関に留まりて、所柄にや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が「秋風ぞ吹く」と申しけん折、何時なりけんと思ひ出でられて、名残り多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける

白河の 関屋を月の もる影は 人の心を 留むるなりけり (1126) 」 (西行「山家集」)

平兼盛・能因法師・梶原景季 3人の歌碑

 西行もまた、能因をものすごく意識している。いや、能因の歌枕を追いかけての旅というのがあたっているようだ。

能因法師の歌

都おば霞とともにたちしかど

     秋風ぞ吹く白河の関

 そして芭蕉が「おくのほそ道」で西行の後を追う。さらに現代の野次馬たちが。

 

 左の石碑は3人の歌人の歌が達筆にかかれている。こういう達筆にはまいってしまう。

「便りあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと 平兼盛

都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白河の関 能因法師

秋風に草木の露をはらわせて君が超ゆれば関守もなし 梶原景季」

卯の花をかざしに関の睛着かな

「心許なき日かず重なるままに、白河の関にいたれば・・」の記念碑

 左写真は、 「心許なき日かず重なるままに、白河の関にいたれば・・」の記念碑。 森の中にある。芭蕉もいちおう、白河の関にたった感慨を名文調で表現したが、句はよんでいない。

 曾良の「卯の花をかざしに関の睛着かな」をあげているだけ。 江戸時代には、この関はなかったし、ここ以北を異境とする感覚はなくなっていただろう。ここでの芭蕉の句はない。

「『白河の関いかにこえつるや』と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばわれ、懐旧に腸を断ちて、はかばかいう思ひめぐらさず。」としながらも、

「風流の初めやおくの田植うた」

と詠った。曾良がうまい句を作ったが、芭蕉はなぜか「風流や・・・」と白河の関のあたりの田植歌を聞いて風流の旅のはじまり、と感じたままを詠んだ。芭蕉の風流心がみちのくと都とのありきたりの表現に納得せず、この句しか許さなかったのだろう。この旅への芭蕉の心意気があらわれている。

芭蕉・曾良像

白河の関跡近くの公園にある芭蕉・曾良像

 草に埋もれた白河の関跡に立って、芭蕉は何かをつかんだのではないか。

「古人の跡を追わず、古人の求めたるものを求めよ」。

 いよいよおくのほそ道、風流の旅の一歩と覚悟を決め、その風流を歌枕の白河の関ではなく、聞こえてきた田植歌に感じた。この芭蕉の感性と覚悟がすばらしい。

 「風狂の狂客、狂風を起こす」(一休) この軽さは芭蕉が「野ざらし」の自分をとりもどした心の軽さの顕れではないか。みちのくの旅の「旅心定まりぬ」である。

 白河の関跡近くの公園にある芭蕉・曾良像。2人とも小さいく子供のような可愛らしい感じ。子供でもわんぱく小僧といった感じ。「風狂の狂客」にふさわしいようでもあり、やや離れているようでもあり。

 公園の中に、昔の白河の関を再現した建物がある。

白川の関跡の遠景

白河の関跡の遠景  白河の関跡。現在は森の中にある。田んぼの緑の中の小高い丘で、右側の山すそに続いている。

 この風景は芭蕉が尋ねたときとほとんどかわっていないのではないか。いや、当時はもっと草深く荒れ果てた風景だったはずだ。みちのくの歌枕をたずねる旅の現実である。だが、それだからこそ先人の労苦がしのばれ旅情も深まるというもの。

 「卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。」

と芭蕉はうたっている。


https://newikis.com/ja/%E6%9B%BE%E8%89%AF%E6%97%85%E6%97%A5%E8%A8%98

【曾良旅日記】 より

『曾良旅日記』(そらたびにっき)は、河合曾良による1689年(元禄2年)及び1691年(元禄4年)の日記を中心とする自筆の覚書。その存在は古くから一部には知られていたが、芭蕉研究においては、山本安三郎が再発見して1943年(昭和18年)に出版し全貌が明らかになるまで、疑いの目で見られていた。出版以来『おくのほそ道』研究に一時期を画し、『おくのほそ道』本文における虚構、発句の初案、推敲の過程など、芭蕉の制作意識を考察する上で不可欠な資料となった。奥州行脚の史実を正確に伝え、芭蕉の俳文を解明する根本資料として重要であるとして、1978年6月15日に重要文化財に指定された。

概要

本書は縦11cm、横16.6cm、厚さ2cm、藍色の元表紙で紙敷・表紙裏の2枚を入れてちょうど100枚あり、中に白紙が4枚のほか貼り足された鰭紙が11枚ある。内容の上からは延喜式神名帳抄録、歌枕覚書、元禄二年日記、元禄四年日記、俳諧書留、その他雑録の6部に分けられるが、本書には外題も内題もなくすべて仮称である。『曾良日記』、『随行日記』などともいう。芭蕉の『おくのほそ道』とは異なり情緒的表現は一切見られず、地名や区間距離など事実を正確に書きとめている。ドナルド・キーンは『おくのほそ道』と本書の関係性を、シャトーブリアン子爵の旅行記『パリからエルサレムへの旅程』とその従者ジュリアンによる、妥協無く正確に日付を記した日記に比較している。また本書における時刻表記は、江戸時代の中期においては最も詳しく記述しているものとして有名である。十二支で表し、時間分を3等分して上刻・中刻・下刻とする定時法による表現が多く見られ、不定時法はあまり使われていない。神社を訪れた際には「参詣」「拝ム」と記述するのに対して、寺は「見学」「見ル」等と記しているのは神道家でもあった曾良らしいといえる。

内容

延喜式神名帳抄録

吉川惟足に神道を学んだ曾良が、奥州行脚に備えて『延喜式神名帳』より旅程に従い北国の古社を抄録したもの。本書の冒頭より12丁裏の前半までに記される。

歌枕覚書

奥州行脚に備えて、通過を予定する地の歌枕をまとめた覚書。記載の形式より、そのほとんどが『類字名所和歌集』及び『楢山拾葉』を基に書き出したと見られる。12丁裏の後半より8丁にわたって記される。余白には旅行中の知見が書き加えられ、余白が無い場合は鰭紙を足して記入されている。「名勝備忘録」とも呼ばれる。

元禄二年日記

馬に乗る芭蕉と付き従う曾良

与謝蕪村『奥の細道絵巻』

逸翁美術館 所蔵

いわゆる「奥の細道随行日記」とはこの部分を指し、33丁半にわたり記される。元禄2年3月の深川出立より8月5日に芭蕉と別れて伊勢長島へ先発するまでについては、奥州行脚における実際の日付・天候・旅程・宿泊その他の芭蕉主従の動静が記されており、『おくのほそ道』との比較対照によって芭蕉の制作意識を探求する重要な資料となっている。9月3日に大垣で芭蕉を迎え、11月13日に曾良が江戸深川に帰庵するまでが記されている。

元禄四年日記

元禄4年3月4日に曾良が江戸を出立し、7月25日に長島に着き滞留するまでが記されている。「近畿巡遊日記」ともいう。「元禄二年日記」33丁目表の後半より1行空けたところから23丁にわたって記され、「俳諧書留」と白紙2枚を挟んで1丁の表3分の2ほど記される。神社仏閣参詣の記事が多くを占め、 吉野・高野山・熊野・和歌浦・須磨・明石などを巡遊して近畿一円の社寺・歌枕を記録し、5月2日に嵯峨落柿舎滞在中の芭蕉を訪ね、『猿蓑』編纂時の芭蕉や蕉門俳人の動静を伝える。

俳諧書留

奥州行脚中に芭蕉や曾良ほかの詠んだ発句、道中での俳諧興行の記録などを日記とは別に記録したもので、各作品の初案形などを知る上で必須の資料。「元禄四年日記」の後16丁半にわたり、「高泉の白鷺、丈山の楓林見月」と題する漢詩2篇に続き記されている。末尾には元禄4年の旅での作や『猿蓑』に入集した曾良の句も書き加えられている。

雑録

「元禄四年日記」の末尾1丁表の後白紙が2枚入り、その後2丁にわたって記される。弓道に関する「古代十六ヶ条」、山中温泉で書き留めた貞室の逸話、奥州行及び近畿行での人名・住所録、古歌の走り書きなどがある。

伝来

原書は「曾良本」と呼ばれる『おくのほそ道』の写本と共に古い桐箱に収められ、両書は師弟伴って伝来した。

本書は曾良が九州巡検使に随行して1710年(宝永7年)に壱岐国で客死した際、芭蕉の弟子の中でも曾良と最も親しい仲であった杉山杉風の手許に預けられていた。杉風の子、杉舎と義兄弟であった紫江坊柏舟はその著『俳諧六指』の9巻目に、杉風が1719年(享保4年)ごろ本書を持っていたという逸話を載せている。その後曾良の生家である高野家へ送られ、1740年(元文5年)に高野家が断絶したため、曾良の母の生家である上諏訪の河西家が管理するものとなった。当主河西周徳は曾良の姉の子を娶って曾良を叔父と慕っており、本書や『おくのほそ道』などから曾良の遺稿集『雪丸け』を編纂した。

その後は久保島若人の手に渡った。 仙台の竹林舎曰人の『蕉門諸生全傳』の曾良傳には、若人が「曾良日記」を伝持したとある。また芦陰舎竹斎が1810年(文化7年)に刊行した俳書『句安奇禹度』では、本書の表紙見返しにある仙台略図と九八丁表の「元禄二年七月廿日書之」の一行を「信州上諏方久保島氏にしてこれをうつす」として透写している。「諏訪史学会報」第1号(1967年5月1日発行)によれば、若人は本書を河西家より騙取したという。若人は本書の他掛軸や硯箱など8品を58両で買い受けたが、10両支払った後は言を左右して支払いをせず、また本書他は江戸へ売り払った。河西家は江戸の売り先に直談判したが応ぜられず、高島藩へ訴えた。藩では若人を取り調べ厳重に処分を与えたが、本書他の曾良の遺品は遂に戻らなかった。原書が納められている桐箱には「芭蕉翁正筆奥の細道、並曾良日記添」と記し1840年(天保11年)若人から助宣雅君へ宛てた譲状が現在も残っている。

その後には、信州から売りに出て母里藩の松平志摩守が買い上げたという史料が残るのみである。本間契史の本間文庫旧蔵本の中に、『奥細道菅菰抄』があって、これに契史自身が「先年、信濃より出たりとて、祖師眞筆の草稿に、曾良が腰帳を添て売物に出たる事あり。松平志摩守との買上られたり」との朱注を入れている。

他の俳論書にも、本書に由来する記述が散見される。夜話亭雨考の『青蔭集』には、曾良の覚書と見られる書を写すとして、本書の4月21日(白河)から5月9日(松島)までの記事の抄録を載せている。飛鳥園一叟の『芭蕉桃青翁御正伝記』では、出発から5月17日(尾花沢・鈴木清風宅)までの本書の抄録が巻一の終部に掲載されている。

再発見

明治年間には大阪の桑原深造から、古美術の収集をもって聞こえた伊東の斎藤幾太が入手し、斎藤浩介に受け継がれていた。山本安三郎はかねてより斎藤家が古名流俳家の墨蹟文書等を愛蔵していると聞き及んでおり、1938年(昭和13年)の夏に弟子の佐藤清一の紹介をうけてその虫干しに立会った。書晝や銘器とともに古俳人の筆になる数点があり、山本はその中に本書を発見した。山本は所持する『芭蕉圖録』の真蹟写真を撮影するため訪れた杉浦正一郎に本書の存在を明かし、これを翻刻して出版するに際し序文を誰に依頼すべきか相談した。杉浦は志田義秀を推薦し、さらに本書の在り処を問うたが、山本はこれを黙して語らず、所有者が伊東の人であるとのみ答えた。山本は本書の翻刻を『曽良奥の細道随行日記・附元禄四年日記』と名付け、1943年7月(昭和18年)に東京の小川書房から発刊してその全貌を明らかにした。 奇しくもこの年は芭蕉二百五十回忌、生誕三百年祭に当たる。 この翻刻本は大変に人気を呼び、同年12月には第2版、1944年9月に3版と版を重ねた。1946年にも第4版が発行されている。

戦後

山本は本書の所有者を秘したまま、1947年(昭和22年)10月24日に世を去った。杉浦は1949年(昭和24年)に岩波書店より『奥の細道』改版・新版の編纂を依頼され、その折に岩波文庫主任の玉井乾介から付録として本書を付けるように要望された。山本による翻刻は原本の順序改変や省略もあり、また難読とした文字やミスプリントなどが多くあった。杉浦は山本の翻刻をそのまま拝借することを良しとせず、本書を自ら校合しなければならないと考えたが、原本の行方が判らないと玉井に告げた。杉浦と玉井は1950年(昭和25年)9月6日に伊東を訪れ、郷土史家を探して前町長の太田賢治郎に辿り着いた。太田は齋藤浩介から本書を所持していることを聞き知っていた。2人は太田から佐藤清一を紹介され、佐藤から齋藤浩介の息子齋藤茂への紹介状を得た。杉浦は日立精機の大森工場に齋藤茂を訪ね、齋藤家もまた本書を活用できる所へ譲りたいと考えていることを知らされた。杉浦はこの言葉を受け、本書をかつて杉浦が1935年の開設以来収集の任にあたっていた天理図書館綿屋文庫に是非とも収めたいと考えた。杉浦は図書館長富永牧太郎及び司書中村幸彦に購入を要望したが、この希望は実現しなかった。そのため杉浦は斎藤家から自ら本書を譲り受けることにし、大坂に妻名義で所有していた家を売ってこれを購った。杉浦によれば、「私は『日記』が萬一好事家の手にでも入つて、再び學会に活用出來なくなるやうな事でも起れば大變だと思つてふと身の程を忘れたのである」という。1950年(昭和25年)11月6日、杉浦は宮本三郎とともに斎藤浩介の上目黒宅を訪れ、1951年(昭和26年)9月10日までに本書を精査し、『芭蕉おくのほそ道・附曽良随行日記』(岩波文庫)に『おくのほそ道』関係部分を翻刻して世に示した。杉浦の死後は1959年(昭和34年)2月に未亡人の手を離れ、綿屋文庫蔵に帰して現在に至る。

また1951年には、本書の写本が相次いで2部発見されている。一つは那須湯本温泉和泉屋旅館主で那須温泉神社の神職である人見義勇の蔵本で「人見本」と呼ばれ、『下野新聞』1951年6月17日号に紹介された。もう一つは那須黒羽の小山田家蔵になるもので、「小山田本」と呼ばれる。

『おくのほそ道』研究への影響

本書が再発見されて刊行される前は、例えば樋口功などはその著『芭蕉研究』において『雪丸け』などから旅行中の発句の姿を見るべきとするなど、間接的な資料を用いて考証を行っていた。。刊行後は、各発句の初案形を知るには「俳諧書留」を参照すればよく、必須の資料となった。

山本は本書を世に出すに際し、端書に「如斯日記が今日まで完全に残されてあつたことは私の思ひもつかぬ驚異であつた。奥の細道行脚の日より約二百五十年間、芭蕉研究に於ける汗牛充棟も啻ならざる文書記録等にも、未だ嘗て顕はれたことの無い史料である」と述べている。また志田は同書の序文において、「これによつて学会の蒙る裨益は蓋し大なるものがあろう」と評価し、従来『青蔭集』などにおける記述へ疑いの目が向けられていたことについては、「今度随行日記が現はれて見るとこれが全く逆になり却つてこの随行日記の存在を立証するものになるのである」として、また様々な傍証を挙げて曾良の真筆に間違いの無いものとしている。

この翻刻により『おくのほそ道』との間に多くの齟齬が指摘されることとなり、紀行の虚構性、また制作意識の問題が大きく取り上げられるようになった。もとより志田は本書の再発見に先立つ1942年に「芭蕉と制作意識」と題して奥州行脚の旅先で残された書簡などから、明らかに旅程順に沿わず配置された句や季語を変更した句があって旅行の事実のままではなくて、『おくのほそ道』には作為と虚構性が見られると世に問うていた。『国文学 解釈と鑑賞』は1951年に『奥の細道と曾良日記特輯号』を出し、本書の再発見を巡り様々な学説を併記した。中でも小宮豊隆は「曽良日記の真実性」と題して「芭蕉の記録の錯誤や芭蕉の記憶の混淆はある。然し芭蕉による意識的な虚構の痕は少しも見られない」との信念を表したが、後に杉浦や井本農一、阿部喜三男らが詳細に検討した結果、紀行の作為と虚構性は明らかであると、広く学会に定着した。

以後『芭蕉おくのほそ道・付曽良旅日記』(萩原恭男校注 岩波文庫)や『新訂おくのほそ道・附曽良随行日記』(潁原退蔵・尾形仂訳注 角川日本古典文庫)など『おくのほそ道』注解書の多くで「元禄二年日記」や「俳諧書留」を翻刻するようになった。

金森敦子は正面から「曽良旅日記」の解説を試み、他の時代の文献も参照し、旅をし、種々の発見をした。おくの細道の行程は450里前後である。曽良の記した不定時法を計算しなおし、今まで注目されていなかった、番所の出入りに注目した。距離、時間、番所、地方俳人の動向をキーワードとした。また、芭蕉の最初の希望は塩釜神社の桜をみることであったが、これは無理で、随行者に選ばれた曽良の調査で、芭蕉の健康もあり、出発を遅らせ、おくの細道は歌枕の探訪となった。7月5日-7日(陽暦8月19日)の項で、芭蕉立腹すのとあり、当時の芭蕉の置かれた立場がよくわかる。おくの細道156日間で芭蕉が怒り心頭に発したのはこの日だけである。低耳が紹介状を書いていたので(天屋弥惣兵衛へ)それを持って天屋を訪ねたが、不快になって飛び出した。天屋では2度にわたって使用人を走らせて戻って泊ってくれといったが、芭蕉の怒りはおさまらなかった。天屋弥惣兵衛は俳諧の正統は貞門派であるとかたく信じ、次々と新風を打ち立てている芭蕉を異端者扱いにし、若さゆえに(35歳)ついトゲのある言葉を口にしたのかもしれない。


 

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