黒田杏子・句集『木の椅子』(増補新装版)コールサック社
十二支の闇に逃げこむ走馬燈 黒田杏子
金柑を星のごと煮る霜夜かな 同
かもめ食堂空色の扉の冬籠 同
月の稲架古墳にありてなほ解かず 同
休診の父と来てをり崩れ簗 同
青桃に夕陽はとどく天主堂(カテドラル) 同 (五島列島 六句)
はまゆふは戸毎にひらく濤の上 同 (五島列島 六句)
日に透けて流人の墓のかたつむり 同
星合の運河の窓は灯りけり 同
青柚子や風の濡れたる濡佛 同 (宇都宮 多気山)
鮎落ちて那須野ヶ原の夕火種 同 (黒羽行)
イメージするのは冬至 12月は師走と言われ 一年の出来事が走馬灯のように思い出されるということなのでしょうか?
http://www.st.rim.or.jp/~success/itiyou_ye.html 【「一陽来復」について】 より
「一陽来復(いちようらいふく)」という言葉がある。三省堂「明解四字熟語辞典」によれば、「冬がお笑い春が来ること。信念が来ること。また悪い事が続いた後で幸運に向かうこと。」いうことになるようだ。本来は、易占いの本の「易経(えききょう)」の「地雷復」の項から一人歩きを始めた言葉である。
「復」には元々「戻る」という意味があり、六本の卦(け)が上から「陰」が五つ並び、一番下に「陽」の卦が立った状態を言うのである。この一つの「陽」が立ったことが、「復」の卦そのものなのである。丁度太陽が、夜の闇の中に姿を隠し、この世を暗黒が支配していた。しかし明かぬ夜はないように、また再び、陽は確実に昇ってくる。その時の雷の一条の光りが、地上に光明を放つ。これがこの卦のイメージである。
また旧暦の十一月を、子(ね=ねずみ)の月と呼び、十二支の始まりとなる。旧暦十一月の冬至のことを「復」と呼ぶそうだ。何故、十二支の始まりが、旧暦の十一月なのかは不明であるが、きっとここにも古代の中国人の天体の運行と運勢の微妙な関係についての深い知恵が介在しているのであろう。
「易経」には、「復は亨る。出入疾(やまい)なく、朋(とも)来たりぬに咎(とが)なし。反復その道、七日にして来復。往くところ有るに利(よろ)し。」とある。
簡単に意訳をすれば、「復は大丈夫。行ったり来たりと出入りは激しく、友は来なくても、問題はない。我慢せよ。七日の我慢で必ずまた陽は射してくる。行け思うとおりに、行けば道は開ける」
と言ったようなことになるであろう。
「易経」を読む時のコツは、例の文句のように、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と心を静に解放して、理性的にでなく、感覚的に捉えることが肝心だ。要は「易経」の中に並ぶ文字を読んだ時に頭に浮かぶイメージを大切して、丁度夢見るように気持で出た卦と接すべきなのである。
単純に「運が良い」、とか「悪いとか」の直接的な意味を追い求めると、易経本来の運気が示す深い意味をくみ取る機会を失ってしまうのである。出た卦に一喜一憂してはならない。「卦」は「気」であって、その卦の中に、深い知恵と暗示が隠されているのである。だから眠りの中で、「夢」として流れる映像を捉えるように、むしろ漠然と頭に入ってくる言葉をイメージに置き換えて捉えるべきである。そうすることで、自分の中にある無意識が、易経と共鳴して、大いなる人生のヒントを与えてくれるのである。
ともかくこの「一陽来復」という言葉をよくかみ締めつつ、己の運気、周囲の運気の流れに敏感でありたいと思う。最後に「一陽来復」という言葉が、今の日本の閉塞情況を打開する知恵となることを祈念したいものだ。佐藤
https://i-k-i.jp/8685 【「走馬灯(そうまとう)」の意味と由来|使い方の事例を紹介】より
「記憶が走馬灯のように蘇ってきた」という表現を知っていますか?
特にいまわの際(死の直前)や死を覚悟した瞬間などに、使われる表現になります。
実際に走馬灯とはなんだろうと思う人も多いはずです。走馬灯の意味を知ることで、言葉の意味をより深く理解することができます。また、誤用を避けることもできるようになります。
今回は「走馬灯」という言葉について意味や由来など、詳しく紹介していこうと思います。
走馬灯の意味
走馬灯は、主に死に際や感情が揺さぶられた際に、様々な記憶が次々と蘇ることを意味します。
過去の出来事をありありと思い出すことや、時間の流れを無視して大量の記憶が蘇るケースが多いのも特徴です。意識的に思い出そうとして思い出すものではなく、条件が重なった結果として記憶が蘇る場合に使われます。
記憶に流れがあり、生まれてから死ぬまでの一生の記憶が一瞬で蘇るケースや、家族との思い出など印象に残るエピソードが思い浮かぶ場合が多いといわれています。実際に体験することが難しいため、小説などのフィクション上の表現か、治療などで蘇生した人の体験談が主になっています。
走馬灯の由来
走馬灯はもともと江戸時代中期に生まれた遊び道具の一つでした。
筒状の行灯の中に影絵の馬を仕込み、筒の上の風車とつなげます。ろうそくに火をともすと温められた空気が風車に当たり、回転することで影絵の馬も回りだします。ろうそくの光で影絵の馬の影は部屋全体に広がり、幻想的な光景を楽しむことができるのです。
夏の夜を楽しむための遊びの一つとして誕生したのが走馬灯で、様々なバリエーションが生まれました。影絵の馬は途切れることなく走り続けるため、記憶が次々と蘇るさまに例えられるようになっていったのです。現代では電気式の走馬灯が主流になっていて、お盆やお葬式に仏前に飾られることが多くなっています。
極楽浄土をイメージさせるカラフルなものが多く、走馬灯といわれてもわからない人が多いのが特徴です。
走馬灯を使う場面
「記憶が走馬灯のように蘇ってきた」は、自分が意識せず、途切れることなく記憶が蘇ることを意味しています。走馬灯と単純に表現された場合は、死に際や命の危機を覚えたシーンに使われることが多く、病気で死期を悟った人間に訪れるといわれています。
由来から読み解くように、走馬灯は仕組みを作れば自動的に回るものであり、「走馬灯が走る」などの表現は誤用になります。また、死に瀕した人間だけでなく、最期を看取る側に起こるケースがあるともいわれています。
「彼と過ごした青春の日々が走馬灯のように蘇った」など、夫婦や恋人関係の深さを示すものとして使われるケースがあるのも特徴です。
走馬灯の類義語
走馬灯の類義語としては、「回り灯籠」「影灯篭」「フラッシュバック(英語であれば近い表現)」といった言葉が考えられます。
なぜ走馬灯を見るのか
死ぬ直前に見ると言われる「走馬灯」。実際に臨死体験をした人は、走馬灯を経験をされた人が多くいるのも事実です。
では、なぜ人は走馬灯を見るのでしょうか。
これは諸説あるのですが、生物が死の危険を察知すると、アドレナリンが多量に分泌され、痛みを感じないなど、様々な変化が身体に現れることが原因とも言われています。
そのアドレナリンの多量分泌が人間の脳に今までにない変化を及ぼし、走馬灯と言われる過去の記憶を見せているのです。
走馬灯の意味から学べること
ここまで走馬灯という言葉について詳しく紹介してきました。
「走馬灯のように」という表現は、江戸時代の遊び道具から生まれたものでした。夏の夜におぼろげに浮かび、途切れることなく回る姿から、とめどなく記憶が蘇る表現に繋がっていったのだと考えられます。実際に体験することが難しいものの言葉として定着しているのも特徴で、人の記憶の不思議さや想像力を書き立てる言葉にもなっています。
実用することは難しいですが、「走馬灯のように」という言葉の裏に込められている気持ちを読み取ることは重要です。人の人生や生き様に深く根付いた感覚であるケースが含まれているのです。誤用されることが多い言葉でもあるため、使い方に気をつけたい言葉でもあります。
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