曾良と吉川惟足

https://shunkouhaiku.com/rensai/soraotazunete-124-2019-12-485/ 【─曾良と吉川惟足─】より

曾良が吉川惟足と出会った10代のころ、相次いで養父母を失ったばかりの曾良にとって、惟足をどんなに頼もしく親しく感じたことであろう。当時惟足は40代、親子ほどの年の差があった。

芭蕉臨終の頃は吉川惟足も重い病の床にあったと推測され、曾良はその看病に当たっていた可能性がある。それゆえ闘病中の師を置いて、芭蕉の元に馳けつけることは、憚られたのであろう。

さらに疑問をあげてみると、何故か、惟足の死後も長いこと芭蕉の墓参をした様子がない。越後の村上では、松平良兼公の3回忌に合わせて、立ち寄っており、人一倍情に篤い曾良である。惟足の死後すぐにでも馳けつけたい気持ちは強かった筈である。しかし、それが出来なかった何か大きな理由があるのではないか、と考えた私は、曾良の精神の真髄を流れる吉川神道の教えにその根本があるのではないかと推測した。

この吉川神道の教義については、金森淳子氏の「曾良旅日記を読む」に詳しいので、その一部を要約して記したい。(古来から日本の神々は自然崇拝が基となっている為、他の宗教を否定することがなかった。その為長い間に仏教はじめ道教、陰陽道、その他の要素が加わり、神、本来の姿が見えにくくなっていった。従ってこれ等のものを神道から排除しなければならない。)というのである。

この日本特有の文化や精神を尊ぶ姿は、幕府からも多くの共鳴者が出た。

関ヶ原の戦いから数十年たち、すでに武力統治の時代は終わっており、幕府は階級を固定するための新たな手段を模索していた。そんな時、この吉川神道は従来より仏教に従属していた神道に、陰陽五行説や宋学の要素を取り入れて独自の説を主張するものであった。従って幕府にとっては、上下の関係を明確にする儒教の論理と一致したのである。

惟足はこの説を紀伊藩主徳川頼宣にとき、会津藩主保科正之の推挙によって、徳川家綱に謁し、天和元年(1681)に綱吉によりついに幕府神道方を務めるまでに出世した。

この惟足より27歳の時に神道伝書を受けていた曾良は、立派に神職としての務めを果たしていた筈である。

しかし、長く曾良を追究しておられる内海良太氏(「万象」主宰)の研究によれば、惟足の門人は明らかにされていないという。所が、惟足の子である55代從長の門人に長屋正以という人物がおり、この者が曾良と非常に深い関係を持っていることを発見された、と述べている。(岡田耕治著「曾良、長島日記」)

この件に関してはいずれ内海氏より詳しい説明を受けたいと思っている。

『奥の細道』の伊勢神宮の遷宮式において、僧形の者は神前に近づくことが出来なかったことを思い出して頂きたい。仏教を排除することが当時の神道であれば、曾良が芭蕉の葬儀に出席出来なかった理由も頷けるのである。


https://1000ya.isis.ne.jp/1581.html 【神道とは何か】 より

神と仏の日本史 中公新書 2012編集:高橋真理子・太田和徳 装幀:白井晟一

日本人が最も親しくなじんでいそうでありながら、最もわかっていないのが神道である。

神祇である、神社である、祭神である、惟神(かむながら)の道である、産土(うぶすな)である。本地垂迹である、法華神道である、吉田神道である、本居宣長である、復古神道である。

まあ、それもそのはずだ。ひとつには、日本人は日本をベンキョーしない。

いまさらながら、これはかなりの難病だ。が、もうひとつ、理由がある。

神道はかなり紆余曲折してできていた。それに言挙げしないものとされてきた。

しかし、実はよくよく見るとそうでもない。多弁だった。今夜の一冊はそれを手際よく紐解いている。あえて番号を付けて、いささか俯瞰しやすくしてみた。

徳川末期までの神道史ではあるが、信頼すべき最良質のガイドになっていると思う。

【00】神さま。日本人の多くは日本の神を「神さま」というふうに言ってきた。ぼくは青年神職の全国大会を2年続けて構成演出したことがあるが、神戸大会のときは高砂や西宮の青年神官の諸君に、大真榊(おおまさかき)を背にして「神さん、好きやねん」と宣言してもらった。

 八百万(やおよろず)の神ともいう。神々は山にも川にも屋根にも井戸にも橋の袂(たもと)にもいっらっしゃる。多神であり汎神であり、そして客神的なのである。しかしそのような日本の神々を、さてどのように信仰しているのか、それを「神道」という宗教用語でどう説明するのかというと、これが案外、難しい。

【01】神道をめぐる本は数々あるし、紛いものも少なくない。千夜千冊でも鎌田東二(65夜)の同名の『神道とは何か』のほか、千田稔『王権の海』(881夜)、関裕二『物部氏の正体』(1209夜)、沢史生『鬼の日本史』(834夜)、大江時雄『ゑびすの旅』(694夜)、逵日出典『神仏習合』(910夜)、佐藤弘夫『アマテラスの変貌』(668夜)、高取正男『神道の成立』(409夜)、山本ひろ子『異神』(1087夜)、黒田俊雄『王法と仏法』(777夜)、山折哲雄『神と翁の民俗学』(1271夜)、宮田登『ヒメの民俗学』(537夜)、吉川幸次郎『仁斎・徂徠・宣長』(1008夜)、山本健吉『いのちとかたち』(483夜)、村上重良『国家神道』(1190夜)、佐伯恵達『廃仏毀釈百年』(1185夜)、津城寛文『鎮魂行法論』(1147夜)、石川公彌子『弱さと抵抗の近代国家』(1510夜)などをとりあげてきたが、これが専門的な研究書となると厖大になる。

 本書は新書ではあるものの、いまのところ最も出来よく神祇神道および神道史の複相的なパースペクティブを圧縮して提示したと思われる。新しい知見も採り入れている。著者は中世神話の研究者だが、たいへん視野が広い。以下、高速にかいつまんで一気に案内したい。番号を付けたのは時代推移をわかりやすくし、流派・系譜ごとの特色が少しでも際立つように並べたかったからだ。ときどきぼくの知見も加えてある。

【02】神道と呼ばれてきた日本特有の信仰については、津田左右吉の『日本の神道』が大前提になるような分類をした。

①古くから伝えられてきた日本および日本人の民族的風習としての宗教(呪術も含む)。

②神の威力、力、はたらき、しわざ、神としての地位、神であること、もしくは神そのもの。

③民族的風習としての宗教に何らかの思想的解釈を加えたもの(両部神道、唯一神道、垂加神道など)

④特定の神社で宣伝されているもの(伊勢神道、山王一実神道など)

⑤日本に特殊な政治もしくは道徳の規範としての意義に用いられるもの。

⑥宗派神道(天理教、金光教など)

わかりやすい分類であるが、最近の形式的な定説では、皇室神道、神社神道、民俗神道、教派神道(神道十三派)、原始神道、古神道(復古神道)、国家神道などと分けている。

神道の流れ(『神道の本 八百万の神々がつどう秘教的祭祀の世界』より)

【03】「神道」という用語は早くも養老4年(720)の『日本書紀』にすでにあらわれている。①「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用命紀)、②「仏法を尊び、神道を軽んず」(孝徳紀)、③「惟神(かんながら)は神道に随ふを謂ふ。また自づから神道有るを謂ふ」(大化3年4月詔)等々。『古事記』や『風土記』には「神道」の用例はない。

 こうした神道の前駆性を柳田国男(1144夜)は「固有信仰」とみなし、和田萃は「基層信仰」と名付けた。基層という言い方は当っている気がする。ちなみに中国では『易経』が神道をとりあげて、自然の理法と捉えた。「神道は微妙にして方なし。理に知るべからず、目に見るべからず、然る所以を知らずして然(し)る、これを神道と謂ふ」とある。

【04】上代古代のカミ観念は定かではない。おそらくカミとともにタマ、モノ、オニなども、あるいはチ、ヒ、ミなども同様ものと考えられていたとおぼしい。spirit, soul, heart, anima, mind の中ではカミは spirit が近く、モノ・オニは anima が近い。

 折口信夫(143夜)は原初的にはタマが先行していて、その善的なるものがカミとなり、悪的なるものがモノになり、善悪両用を兼ねてオニがあったと仮説した。松村武雄はチ、タマ、カミが先行してモノ、オニが派生したのではないかと仮説した。本書ではこれらの説に、カミは人には直接に接触しないもの、その怒りがタタリ(祟り)をもたらすものという性質を加えた。

【05】漢字の「神」は祭祀を意味する「示」にカミナリや言霊の降下をあらわす「申」を付した文字である。『説文解字』は「天神なり」とし、白川静(897夜)は「かみ・たましい・こころ」と訓読みした。「神祇」(じんぎ)というばあいは、天なる「神」と地なる「祇」がくっついている。

神と申

白川静によると「申」は稲妻の形である。稲光は天にある神の威光のあらわれと考えられたので、金文では「申」をカミの意味に用いていた。神の元の字は「申」であり、それに神を祀るときに使う祭卓の形「示」を合わせて「神」の字となった。

【06】近世の国学者や神道家は、カミの語源をさまざまに解釈した。「がむがみ」「かがみ」「かかみ」「あかみ」「かくりみ」などの転化とする説、新井白石(162夜)や貝原益軒の「上(かみ)」説、本居宣長(992夜)の「迦微(かみ)」説など、いろいろだ。宣長はカミの意味を広く「かしこきもの」と捉えた。

 が、庶民はどうか。西行(753夜)の「何ごとのおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という歌に、日本人一般の「神さま」についての心情が詠まれていよう。

【07】カミは招かれた。どこからか来臨される。そこで客神ともマレビトとも名付けられた。そのマネキ(招き)のために供物などを捧げるのがマツリ(祭り)である。マツリの場所(祭場)は神霊が依り付くヨリシロ(依代)とみなされ、ヨリシロが岩の場合はイワクラ・イワサカ(磐坐・磐境)と、樹木のばあいはヒモロギ(神籬)とよばれ、これらを総じてヤシロ(屋代・社)としていった。こうしたカミに仕えることが「斎」(いつき)である。古代においてはその「斎くこと」そのものがマツリゴトとしての政治(祭事=政事)であった。

 かつてそのようなマツリゴトとカミマツリは鬼道とも呼ばれ、その中心にいたのは巫女(みこ)だった。卑弥呼、ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)、オキナガタラシヒメ(息長足姫尊=神功皇后)などがいた。ひょっとするとアマテラス(天照大神)の母型を求めると、巫女(シャーマン)に行き着くかもしれない。→天照大神【32】

【08】カミが意志を伝えるときは、巫女に憑依したり(託宣)、夢にあらわれたりした(夢告)。祭祀を怠ったり禁忌に触れたりしたばあいはカミは怒りをあらわすと考えられた。これが人間にはタタリ(祟り)としてあらわれるのだが、のちには生霊・怨霊・死霊にまつわるモノノケ(物の怪・物の気)もタタリをもたらすとみなされた。→モノノケ【51】

【09】記紀によると、アマテラス大神はアマノオシホミミ(天忍穂耳尊)に宝鏡を授けて「与(とも)に床を同じくし殿を共にして、斎鏡(いわいのかがみ)と為すべし」と命じた。いわゆる同床共殿の謂れである。

 ところが崇神(すじん)天皇のとき国内に疫病が広まり、神威のタタリを恐れて御殿内のアマテラス大神とヤマトオオクニタマ(倭大国魂神)の二神を分けて外に遷すことにした。さっそく皇女トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫)は大神の御霊代(みたましろ)を大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀り、初代の御杖代(みつえしろ)として大神の意志をとりつぐ巫女役(斎宮)となると、そのまま38年にわたって務めた。

 しかし大神はなお落ち着かない。そこで新たに垂仁25年、ヤマトヒメ(倭姫命)の先導によって大神の落ち着き先をさがし、最後に伊勢の五十鈴川上に遷座した。これが伊勢神宮である。伊勢に至る大神の移動地は「元伊勢」(もといせ)と呼ばれる。以降、多くの神社が神人分離を意図して、山川の清き流れのほとりを求めるようになった。そうした聖域はしばしば「神奈備」(かんなび)の地といわれる。

【10】欽明天皇期に百済の聖明王の使者が釈迦仏の金銅像などを贈り、ここに仏教の力が侵入した。物部尾輿(おこし)と中臣鎌子はこれを「漢神」(からかみ)あるいは「蕃神」(あだしくにのかみ)と呼んで、難波の堀に仏像を流したり、天皇の衣服を振るってケガレを祓う八十嶋祭を難波の海浜で行った。

 一方、蘇我馬子は飛鳥に仏殿をつくって弥勒菩薩像を安置し、稲目は仏法の取り込みを促した。このとき司馬達等の娘の嶋(しま)、渡来人の夜菩(やぼ)の娘の豊(とよ)、錦織壷(にしこりのつぼ)の娘の石女(いしめ)の3人が出家した(善信尼・禅蔵尼・恵善尼)。こうして物部一派と蘇我一派とのあいだに崇仏論争がおこり、倭国は鳴動した。

【11】仏教だけが入ってきたのではなかった。多くのイデオロギーが技術のしくみ、漢字、書物、技能者、文様、儀礼とともに到来した。舒明期の医博士・易博士・暦博士、推古期の暦法・天文地理・遁甲方術をもたらした僧観勒(かんろく)らをはじめ、大陸系の神秘術や呪術の到来はひきもきらず、そこには経典・緯書・符書・讖書(しんじょ)が入り交じった。しかし最大の呪術力をもっていたのは仏教だった。

【12】7世紀後半、日本は律令国家の形成に向かって動き出す。太政官制度、班田収授法(徴税システム)、都城の建設、正史の編纂が次々に進み、大王(おおきみ)は「天皇」となり、倭国は「日本」(やまと)となった。これらにつれてさまざまなカミマツリが神祇官による律令祭祀として整えられ、そのことを神祇令にまとめた。大化改新では蘇我石川麻呂が「先づ持って神祇を祭鎮(いわいしず)め、然して後に政事を議(はか)るべし」と奏上した。

【13】神祇令はもともとは唐の「祠令」(しれい)に準拠したもので、斎(いつき)にまつわる禁忌事項や期間を設け(散斎・致斎)、祭祀の管理方法を整備して、もっぱら天神地祇(てんしんちぎ)を祀ることをカミマツリと定めた。これによって、正月の祈年祭から6月・12月の大祓(おおはらえ)を挟んだ、月次祭・道饗祭・神嘗祭・相嘗祭などの十種の四時祭(しいじさい)が組み立って、その細目を延喜式(1288夜)などの「格」や「式」に示した。

 伊勢神宮がこれらのカミマツリの頂点となったのもこの時期である。神祇官は全国の主要諸社に対し、定期的に幣帛(へいはく)を領布した。ヌサ(幣)、ミテグラ(やはり幣)ともいう。これが今日の玉串につながっていく。

道饗祭(みちあへのまつり)の様子

古くは毎年6月、12月の二度、日を選んで京城の四隅に於いて行われた祭儀。八衢比古(やちまたひこ)・八衢比売(やちまたひめ)・久那土(くなど)の三神を祭り、鬼魅・妖物の外より来るものを防いだ。

新嘗祭(にいなめさい)の様子

上は明治神宮、下は伊勢神宮での様子。天皇が新穀を天神・地祇に薦め、その洪恩に感謝するとともに、親しくこれを聞食する神事。

【14】延喜式には神社や神職がなすべきことが各種定められている。自然と神と人間が共生するための聖域だったからである。とくに神人のあいだの約束を確認する「顕斎」(うつしいわい)は欠かせぬもので、そのため多くの祝詞(のりと)の文言が編集されてきた。『古事記』では詔戸詞、『日本書紀』では諄辞というふうに綴っている。正式には、宣下されるのが祝詞、反奏するのが寿詞(よごと)、精霊を鎮めるのが祝言(いわいごと)である。いずれも和文で書かれる。

祝詞(のりと)の例

神前に奏上する詞。折口信夫は神聖な神言を宣る場所が詔戸(のりと)であり、その場所で宣る言葉が祝詞であると説く。祝詞は二つに大別される。祭場に集った人々に対して宣り聞かせる、文末が「宣る」で終わる「宣命体」と、神々に対して申し上げる「奏上体」である。西牟田祟生『平成新編 祝詞事典 縮刷版』より。

【15】『宇多天皇御記』に、「我が朝は神国なり、毎朝より四方大中小天神地祇を敬拝す。敬拝の事始め、今より後一日として怠ることなし」とある。宇多天皇の代に四方の天神地祇への日々の敬拝が始まったのだった。

 日本神話に登場する神々は大別して天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)に分かれる。天津神はアマテラスを祖とする高天原(たかまがはら)系の神先神を、国津神は葦原中国(あしはらなかつくに)の各地の土着神である。これをまとめて天神地祇あるいは神祇といった。

 天津神は造化三神(アメノミナカヌシ・タカミムスビ・カミムスビ)、神世七代(クニトコタチ・イザナギ・イザナミなど)、三貴神(アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)など、国津神は出雲神話に登場するオオクニヌシ(大国主命)、コトシロヌシ(事代主命)、スクナヒコナ(少彦名命)などなど。

【17】神仏習合は早くも8世紀後半から始まっていた。その象徴が気比神社・若狭比古神社・伊勢神宮・鹿島神宮などの「神宮寺」となった。仏教では救済対象は衆生(しゅじょう)であり、それらが住む世界は六道(天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)である。初期の神仏習合では、日本の神々はその衆生の最上位の天(天道)にかかわると考えられた。→天道【72】

【18】日本の神々の特色のひとつに、神は自身の救済のためには人の力を必要としたということがある。神は自身では仏道修行はできず、布施(ふせ)も叶わない。これらは人が代行する。ここに神域内に神宮寺をつくる理由が生まれた。このような神のための造寺造仏を「法楽」という。法楽には神前読経や書写奉納や神仏像の彫塑などが含まれる。

【19】神宮寺建立や神前読経を積極的に行ったのは、主に山岳山林に入った修行者たちだった。奈良後期に流行した雑密(ぞうみつ)の影響が強い。役小角(えんのおづぬ)、泰澄、満願らは葛城山、白山、箱根山に依拠した。これを政務に活用する者もあらわれ、道鏡は葛城山で如意輪法を修行した。

 朝廷はこうした山林修行者を私度僧(しどそう)として正当化しなかったのであるが、最澄と空海(750夜)はその狭隘を突破して朝廷からの信任を受けた。雄略天皇の病気のときは豊国奇巫(とよくにのきふ)が、用明天皇のときは豊国法師が宮中に招かれた。→修験道【26】

【20】神仏習合の流行は新たに八幡神などを生む。欽明期の宇佐の地の大神比義(おおがのひぎ)の前に3歳の童子として出現し、敏達期に辛島乙目(からしまのおとめ)に託宣が下って八幡神としての姿をあらわし、「我は誉田天皇広幡八幡麻呂(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり」と告げたという。そのため応神天皇(ホンダワケ)の化身とみなされるようになったというが、起源ははっきりしない。

 しかし新羅の度重なる無礼と乱暴狼藉の諌め、北九州の藤原広嗣の反乱制定、東大寺大仏造営事業での宇佐八幡神勧進などを通して、貞観期の石清水八幡宮の建立にいたると、八幡神の霊力は全国にとどろき、延暦期には八幡大菩薩の称号さえいただくことになった。石清水八幡宮は「宮寺」とも称ばれた。鶴岡八幡宮は河内源氏の源頼義が石清水八幡を鎌倉に勧請して、氏神と習合させ、源義家(八幡太郎義家)が確立させた。

託宣を下している八幡神

八幡神は宇佐氏の氏神に始まるとされる。銅山の神、海の神、鍛冶の神などとして崇められ、のちに仏教の守護神・戦の神として信仰されるに及ぶ。八幡神には応神天皇が垂迹し、示現したとの伝承がある。

【21】神宮寺や八幡神の登場は、10世紀には本地垂迹(ほんじすいじゃく)説を芽生えさせた。これは、仏たちが衆生済度のために神の姿をとってこの世にあらわれたとみなす見方のことで、仏が本地、神は迹(あと)を垂れるものとされた。おそらく天台宗の知恵者が『法華経』(1300夜)の如来寿量品に、釈迦を久遠の本仏(本門)と現世で成仏した応迹(迹門)とに分けたとあることをヒントに、本地を仏に、垂迹を神に分けて神仏の微妙な上下前後関係を説明しようとした発想にもとづくと思われる。「垂迹」の語は9世紀半ばの『叡山大師伝』『大乗法相研神章』などに初出する。

【22】神仏があらわれることを「示現」(じげん)とか「影向」(ようごう)と言う。示現はエリアーデ(1002夜)のいうエピファニー(顕現)に近い。影向はすばらしい用語だが、「カミの気配が化身する」というような感覚がある。これらの顕現のなかでも仏が神の姿をとった場合は「権現」(ごんげん)と言われた。権現は「応現・化現・示現」を総称した用語である。春日明神の縁起と霊験を主題とした傑作『春日権現験記絵巻』にヴィジュアル化されている。

【23】本地垂迹説が広まると、神と仏の関係を誰もがわかるようにするための工夫がいろいろなされた。そのひとつが「御正体」(みしょうたい)である。御神体としての鏡に仏菩薩を線刻する鏡像と、円形・扇形の板に本地仏を貼り付けた懸仏(かけぼとけ)が出まわるようになった。

 これに応じて、神の側にも“見える化”をはかる動きが出てきて、ここに神像の造作や彫塑が始まった。そのスタートは僧形八幡菩薩像や宮曼荼羅にある。

【24】神祇制度は律令制がゆるくなっていくにしたがって、維持が困難になってきた。10世紀の初頭では合計2861社、祭神3132座が式内社になっていた。そこで神社を官弊社と国弊社に分けて国司に奉弊をおこなわせたり、有力神社を「名神」(みょうじん)と呼称させたりしたのだが、これらも有名無実化した。かくて登場してきたのが「二十二社制」というもので、天皇家や藤原家に関係が深い神社を優先させた。

 二十二社制は、天慶期に伊勢・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神(おおみわ)・石上(いそのかみ)・大和(おおやまと)・住吉・広瀬・龍田(たつた)・丹生川上(にゅうかわかみ)・貴船の16社が指定され、ついで正暦期に吉田・広田・北野が加わり、さらに一条天皇の時代までに梅宮(うめのみや)・祇園・日吉(ひえ)が加わって22社になった。この制度は15世紀半ばの宝徳年間まで続いた。

【25】中央が二十二社制を施行したのに対して、地方では一宮二宮制および総社制が採用された。新任の国司が最初に参るのが一宮(いちのみや)や二宮(にのみや)で、領国内の諸神を集めて国府の付近に勧請したのが総社(惣社)である。荘園領主やその後の封建領主たちも自分たちの氏神を奉じて、神人(じにん)や供御人(くごにん)をかかえた。

 ちなみに各地の町や村で鎮守の森(社)として親しまれている「鎮守」(ちんじゅ)は、もともとはその他の地主神を抑えた勢力の強い鎮府神のことで、その後に当地の産土(うぶすな)や氏神を吸収して「村の鎮守さま」として親しまれたものが多い。

【26】平安期には陰陽道(おんみょうどう)と修験道(しゅげんどう)が広がった。陰陽道は、中務(なかつかさ)省に陰陽寮が設けられ、天文や暦法の管理とともに「式占」(しきうら)を担当したのが始まりである。亀卜だけは神祇官がおこなうのだが、陰陽師として世襲化された安倍氏と賀茂氏は、易筮(えきぜい)などのほかの呪法も担当した。老荘タオイズムや陰陽五行説や道教が前提になったものではない。

 けれども平安中期、ここに密教の宿曜道(=暦法・天文)などが混入して、日本独自のものになると、道饗祭(みちのあえまつり)なども、陰陽道の色彩を入れた鬼気祭や四角四境祭に変質していったため、大祓(おおはらえ)とはべつの禊祓(みそぎはらい)も流行した。これらはマンガで活躍する安倍晴明らが独占したのではなく、民間の仏僧たちの手によるものが多かった。そこには六字河臨法などの混成呪法もある。

陰陽五行図

陰陽五行説は陰陽説と五行説の2つが結びついて生まれた。木火土金水の五行に陰陽二つずつを配することで十干とし、これに十二支を組み合わせて天文や暦を読み、方角や日の吉凶を占う。五行説では木火土金水の順に生まれ(五行相生説)、土木火水金に代わりゆく(五行相剋説)見方がある。

【27】修験道は古代以来の山岳信仰にもとづくが、早くに密教修法と習合して各地に拠点を得た。畿内に吉野の金峰蔵王権現、熊野の三所権現(本宮・新宮・那智)がおこり、北からいうと恐山、鳥海山、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)、蔵王山、日光山、迦葉山、三峰山、高尾山、大山、戸隠山、御獄山、白山、立山、石動山、富士山、秋葉山、伊吹山、園城寺、醍醐寺、聖護院、根本山神峯山寺、大鳴山、瀧安寺、金剛山、大峯山山上ヶ岳、布引の滝、伽耶院、雪彦山、後山、五流尊瀧院、伯耆大山、石鎚山、剣山、英彦山、求菩提山、阿蘇山などなどが、踵を接して列島中で聖地化されていった。→山岳修行【19】

【28】修験道は霊山信仰と峯入り修行する山伏集団を生んだ。グルーピングも進んだ。熊野山伏は園成寺の増誉(ぞうよ)が三山検校となって以来、園城寺末寺の聖護院(しょうごいん)を本所とする集団が構成されて本山派となり、金峰山の吉野山伏のほうでは聖宝(しょうほう)を開山と仰ぐ醐寺三宝院を本所とする当山派をつくった。のちに本山派が天台系に、当山派が真言系に組織化されていく。

 山伏は篠懸(すずかけ)という法衣に袈裟をまとい、頭巾(ときん)を付けて錫杖(しゃくじょう)を手にするという出立ちで、大半の合図は法螺貝をもってした。時代が進むにしたがって修験者はいささかあやしげな加持祈祷を得意とするような者たちも出たが、多くは各地の「講」の先導者ともなって、中世以降の僻地巡礼型のコミュニティ・モデルをつくったのである。これらは近世に向かって周辺寺社をとりこんで観音霊場とみなされ、西国三十三所をはじめとする札所(ふだしょ)ともなっていった。

 ちなみに修験道には統一した教理はない。ごちゃまぜだった。中世末期に彦山の阿吸房即伝が教理仕立てを試みたが、これは三輪流や御流神道(ごりゅうしんとう)の印信・切紙をもとにしていた。→三輪流・御流【41】

山伏図

1.頭巾(ときん)[兜巾(ときん)]

2.結袈裟(ゆいげさ)

3.結袈裟の梵天(ぼんてん)[房]

4.篠懸(すずかけ)

5.百衣(びゃくえ)

6.護摩刀(ごまがたな)

7.法螺貝(ほらがい)

8.手甲(てこう)

9.螺緒(らお)

10.走索(そうさく)

11.錫杖(しゃくじょう)

12.括袴(くぐりばかま)

13.引敷(ひっしき)[いんじき]

14.脚絆(きゃはん)

15.乱(みだ)れ緒(お)[草鞋(わらじ)]

西国三十三ヶ所巡礼案内絵図

【29】一般に日本の信仰は神仏習合的なのであるが、そこには天皇が仏者による神事参与を「護法善神」の理屈をもって正当化していたという、意外なトップディシジョンもあった。とくに際立ったのは称徳天皇が道鏡を太政大臣禅師につけ、天皇と太政大臣が二人ながら僧体になった経緯である。

 ただ、この正当化が弊害にもなってくると(そのため道鏡は追放された)、振り子が逆に振れて神仏隔離に走る場合もあった。たとえば大祀(大嘗祭)で祭祀の前後に散斎(中央所庁と国府で仏事を忌む)をしたり、僧尼の内裏参内を禁じたりした。それでも中期的にみると、神と仏に振り子が左右するところにこそ、日本の神仏習合事情の大要があった。

【30】神仏隔離は天皇の祖神を祀る伊勢神宮に及んだ。奈良時代中期までは伊勢の大神宮寺に丈六の仏像をおいて神宮寺を度会郡に併設していたのだったが、宝亀3年にタタリ(祟り)を理由に飯高郡度瀬(わたらせ)に移建され、7年後にはさらに遠くへ移すことが命じられた。

 こうした事情を反映して、平安時代には伊勢神宮の神域で仏教にかかわることが忌避された。そのことを端的に示すのが『皇大神宮儀式帳』である。そこには、寺と言わずに「瓦葺」(かわらぶき)と、塔と言わずに「阿良々支」(あららぎ)と、経典と言わずに「志目加弥」(しめかみ)と言いなさいといった忌詞(いみことば)の規定が述べられた。

【31】しかしながら神仏隔離の手立てはあまりうまくはいかなかった。神(とくに伊勢神宮)は個々人の祈願や救済を受け持っていない。そこはむしろ仏教や寺院の出番なのである。神職としても自分の周辺事は神ではなく仏の力を借りたい。伊勢の内宮の荒木田氏も外宮の度会(わたらい)氏も、現世と来世の安穏のためには『法華経』などの如法経(一定作法で書写された経典)を読誦して近くに埋納した。

【32】こうして、ふたたび神仏が近づいてきた。本地垂迹も大胆になる。天照大神は11世紀には観音菩薩に準えられて、観音が日天子(太陽の化身)とみなされ、12世紀にはさらに大日如来の化身だとみなされた。それにともなって密教界が神国思想を表明するようになった。

 なお、天照大神の由来と変遷については、さまざまな諸説があって確定的な神格が説明しにくい。尊称も『記』ではアマテラスオオミカミ(天照大神)だが、『紀』では別称のオオヒルメノムチ(大日孁貴神)も挙げている。ヒルメは日女神で、太陽神の形象であろうが、その神格には男神性と女神性が歴史的に入りまじっていて、そのため本地垂迹もしやすかったのであろう。そのほか、海人系の信仰対象であったろうという説、シャーマンのリーダーであったという説、父権的タカムスビと母権的アマテラスが対照されたのだろうという説などもある。伊勢神宮では神札には「天照大御神」と綴り、神前では「天照坐皇大御神」(あまてらしますすめおおかみ)と唱える。

【33】粟辺土観(ぞくへんどかん)とは、日本はブッダが仏教を説いたインドからあまりにも離れている粟のような島であるので、このような辺境では仏法流伝の力が弱まり、救済からも遠いとみなす見方をいう。末法思想がこれに結びついていた。粟散辺土(ぞくさんへんど)とも言った。

 そのくせ、即位灌頂の創始者で後三条天皇の護持僧でもあった真言宗小野流の成尊(せいぞん)は『真言付法纂要抄』で粟辺土観をくつがえし、日本こそが密教流布をもって仏法をおこすにふさわしいのだと主張した。この理由のひとつとして「天照大神と大日如来との同定」が積極的に企てられたのである。この密教化された神国思想は伊勢信仰とも東大寺のビルシャナ信仰とも習合していった。→百王思想【56】

【34】密教と神道の接近は「両部神道」(りょうぶしんとう)をつくった。真言僧が推進したので「真言神道」ともいう。胎蔵界・金剛界の両部は伊勢の内宮・外宮にぴったり配当できるはずだという目論見によるもので、ここに神仏の究極的一致が試みられた。

 たとえば仏教ではブッダのありかたを法身・報身・応身の3段階に見立てるのだが、両部神道はこれをクニトコタチ(国常立神)以下の三身にあてはめ、その合一が大日如来=アマテラスだとした。こうした理屈を正当化するため、『三角柏(みづのかしわ)伝記』『中臣祓(なかとみのはらえ)訓解』『天地霊覚(れいがく)秘書』『両宮形文(きょうもん)深釈』などが書かれ、そのうちついに後醍醐天皇が神泉苑の龍女から受けた秘伝だというふれこみの『天地麗気記』(てんちれいきぎ)が登場した。『麗気記』は南北朝以降にはしばしば『日本書紀』にならぶ聖典とさえみなされた。

天地麗気記

『麗気記』十八巻の第一巻『天地麗気記』の名が全18巻の総称として用いられている。最も初期の両部神道の経典で、伊勢神宮の内宮・外宮を金剛界・胎蔵界の理にあてて解釈しており、内宮・外宮の本体を大日如来としている。

【35】12~13世紀は南都の僧侶たちが伊勢参宮に熱心になっていった時期である。そこへ突然の元寇(蒙古襲来)がおこる。叡尊らはただちに蒙古降伏(ごうぶく)の祈祷に入り、内宮の祭祠官の荒木田氏との関係を深め、内宮のそばに弘正寺を建立した。これがのちに「西大寺流」といわれた法流で、宣瑜→覚乗→智円などとつながっていった。覚乗には『天照大神口決』(てんしょうだいじんくけつ)がある。このあたりのこと、本書の著者伊藤聡の『中世天照大神信仰の研究』(法蔵館)に詳しい。

【36】両部神道の勃興に刺激をうけ、ほぼ相前後しながら「伊勢神道」(度会神道・外宮神道)がおこった。外宮の度会(わたらい)氏によるもので、本地垂迹とは逆の“神本仏迹”を打ち立てようとした。いよいよ神祇神道側からの反撃が始まったわけであるが、その方法は本地垂迹とは裏腹のもの、やはり仮託書の『造伊勢二所大神宮宝基本記』『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』を刊行し、文永・弘安期には『御鎮座伝記』『御鎮座次第記』『御鎮座本記』を陳述した。これらをまとめて「神道五部書」という。

『御鎮座伝記』

『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』の略称。伊勢神道の経典であり、内宮・外宮の二宮一光説(内宮を胎蔵界大日、外宮を金剛界大日としてどちらも大日如来に帰することから、両宮はひとつの光から出たものであるとする思想)を記す。

【37】伊勢神道がめざしたのは、豊受大神宮(外宮)が皇大神宮(内宮)と同格もしくはこれを優越するものだということを示すことにあった。伊勢国造の系譜を引く度会氏にとって、長らく内宮の供膳神(ぐぜんしん)に甘んじた外宮の地位を向上させるのは悲願だったのである。

 そのため、あえて豊受大神(とようけのおおみかみ)を天御中主神(アメノミナカヌシ)と同体だとし、豊受が天照大神よりも早くに君臨した根元神であることを説いた。また両部神道の金胎不二説を内宮外宮の両宮に配当することで、その対等性を主張するとともに、さらに五行説を導入して外宮を水徳に、内外を火徳に配当した(陰陽五行の相克説では「水克火」なのである)。

【38】“神本仏迹”の伊勢神道の確立と普及を担ったのは度会行忠(1236~1305)だった。時の関白鷹司兼平に奉った『伊勢二所太神宮神名秘書』『心御柱記』(しんのみはしらき)などの著作がある。その行忠を度会家行、常良が継いだ。

 家行には『類聚神祇本源』15巻があり、その15巻目の「神道玄義篇」には、いわゆる「機前」が説かれる。「機前」とは天地開闢以前の混沌をさし、そこに本来のカミの出来(しゅったい)があるというのである。常良は『大神宮両宮之御事』を著して、とくに密教関係との連携をはかった。

【39】度会氏は南北朝期になると後醍醐派の南朝方について活動した(1223夜・1224夜)。それゆえ南朝の衰亡とともに力を失っていったのだが、家行に学んだ北畠親房(815夜)は『元元集』(げんげんしゅう)と『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)を著し、伊勢神道の統合力を世に知らしめた。これは寺院にも及び、神道書やそれに関連する切紙・印信を発行するようになった。

【40】神道五部書は、これを相承しようとする神道諸流派を生んだ。最初のうちは密教諸派の秘事や口決として継承されていくのだが、なかで独自の秘説形式の動きを見せたのが「三宝院流」だった。三宝院流は勝賢から仁和寺御室の守覚法親王に伝授された秘説を重視した。

 近年、真幅寺からその秘伝『野決』(やけつ)の目録が発見され、そこに『両宮形文深釈』『二所天照皇太神遷宮時代抄』『神性東通記』といった両部神道書が含まれていことが判明した。おそらく三宝院流のどこかで麗気灌頂(れいきかんじょう)の伝授がおこなわれていたと想定される。

 その後、三宝院流の道順は後宇多天皇の意向をうけて、即位灌頂の秘事を伊勢神宮の物忌みの作法と結びつけた。このことは智円の『鼻帰書』と覚乗の『天照大神口決』をへて先述した西大寺流をかたちづくった。

【41】三輪山には慶円(きょうえん)を嚆矢とする「三輪流」がおこった。慶円は神や魔物との交流をよくしたと伝えられていて、宝生山の宝生龍神や八幡神ともかかわったという伝説がある。真言密教ふうの即身成仏印明を授与していたらしい。

 この三輪山に先述の西大寺流も関与し、宝生山周辺の神道説には仁海や円海や秀範が出て、これらを金沢称名寺に伝えた。のちにこの流れに「嵯峨天皇が弘法大師空海に『麗気記』の秘密伝授があった」という仮託が加わって、この流派をのちに嵯峨天皇にちなんで「御流」(ごりゅう)というようになった。→三輪流・御流【28】

【42】かくして中世の神道流派は十二流を数えるにいたったという。これらは一括すれば「神道灌頂」を相承したという共通点をもっていた。密教の灌頂を神道におきなおしてしまったのである。そのため日本紀灌頂、伊勢灌頂、父母代(おやしろ)灌頂、和歌灌頂、天岩戸灌頂、三種神器灌頂などがおこなわれ、その霊験あらたかなることが俗世間に洩れていった。

【43】一方、比叡山周辺の天台宗山門派においても日吉山王をめぐる神道化がさかんになっていった。「山王神道」(天台神道)である。最初は比叡山中の大宮(大比叡)のオオナムチ(大己貴命)、二宮(小比叡)のオオヤマクイ(大山咋命)を祭神として11世紀中頃には山王七社ができたのだが、やがて祭神をふやして山王二十一社まで広がった。

 その教説は最澄『三宝住持集』、円仁『三宝輔行記(ぶぎょうき)』、円珍『顕密内証義』、安然『四明安全義』などからの引用となっている。ところが、これらの半ばが偽書なのである。そこにさらに顕真に仮託して義源が編述したという『山家要略記』や、それを継承した光宗の『渓嵐拾葉集』、慈遍の『豊葦原神風和記』などが加わっていった。このようにヴァーチャルテキストを積み上げていくところに、独特の山王神道の特色があった。のちに徳川幕府下の天海によってさらに「山王一実神道」となり、幕府の神学にまで奉り上げられた。→山王一実神道【82】

【44】法然(1239夜)や親鸞(397夜)はその称名信仰の強さによって神祇信仰にシンパシーを示さなかったのだが、その後の仏教各派は中世神道をそれなりにとりこんだ。親鸞の曾孫の覚如は『親鸞伝絵』に親鸞が箱根権現の帰依を受けたとしたし、その子の存覚は『諸神本懐集』に本地垂迹説を導入し、「権社ノ霊神」と「実社ノ邪神」を分け、前者は仏菩薩の垂迹なる神で、後者は本地をもたない生霊・死霊・畜類で祟りを恐れるがゆえに神として祀られているとした。神をこのように分けるのは当時の仏教者の認識傾向をあらわしている。→本地垂迹【21】

 存覚の分類は影響力をもった。「本覚神(大元尊神)=伊勢神宮」、「不覚神(実迷神)=出雲荒振神、始覚神(実語神)=石清水広田社」という見方も広まった。このことは伊勢神道においては、豊受大神=天御中主神=大元神という見方になり、これが根元神と呼ばれるようになったとともに、のちの吉田神道では大元神を教理の根底に据えるようにもなった。

【45】浄土宗はおおむねは本地神を肯定した。その思いは隆寛の弟子の信瑞によって『広疑瑞決集』(こうぎずいけつしゅう)に述べられるとともに、浄土教・密教・天台・唯識・禅に通じた了誉聖冏(りょうよしょうげい)は神道説に好意を示して、『日本書紀私抄』『麗気記私抄』『鹿島問答』『麗気記神図画私抄』などを書いた。あきらかに両部神道が入りこんでいた。

 一遍によって唱導された時宗は、熊野権現(本地は阿弥陀仏)の神勅を受けるほどで、当初より神祇信仰をとりこんでいた。時衆制誡十八項の第一にも「専ら神明の域を仰ぎて、本地の徳を軽んずることなかれ」とあった。その後も石清水八幡宮・厳島神社・大三島社には時衆の足跡が賑やかである。

 禅宗は禅密兼修であって当初は神祇に疎かった。それでも円爾弁円(えんにべんえん)の聖一派の門流の聖守・円照・無住一円らはしばしば伊勢に参宮して神宮祠官と親交を結び、大慧が安養寺流をひらくと伊勢神宮付近に布教するかたわら、その孫弟子の能信は真幅寺をおこして、多くの神道書を伝えた。総じて曹洞宗は在地の神々の勧請をよくし、臨済宗は地元の氏神信仰をとりいれ、室町後期になって吉田神道を学ぶ者が出てきた。

【46】日蓮は「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」というふうに、他宗派への過激な批判を展開する一方で、著書に『神祇門』『神国王御書』があるように、神祇信仰にはかなり積極的だった。神々は正法(しょうぼう)を擁護するとみなし、その中心に天照大神・八幡大菩薩を据えもした。さらに日吉神以下の諸神を法華経守護の善神と位置づけ、正法がおこなわれないときは善神が日本国を去り、おこなわれば善神は帰ってきてわが国土を守るとした。

 日蓮没後の法華宗には三十番神が導入され、三十神が1カ月ずつ交替で法華経護持にあたるという「護法善神思想」に発展した。とくに京都の法華信仰を興隆した日像(1269~1342)によってこの思想は広まった。その後、吉田兼倶(かねとも)が三十番神の由来と根拠を問い、いったんは論争になったのだが、それが逆に日蓮宗が吉田神道に近づくことにもなって、ここに「法華神道」が生まれた。『番神問答記』『神道同一鹹味抄(かんみしょう)』『法華抄録秘訣』の法華神道三大書がある。

【47】日本の寺社において動物供犠(殺生祭神)をどのように考えるかということは、長らく論争の種だった。おおむねは、殺生を嫌う神々は仏菩薩の垂迹神で、供犠を求めるのは本地をもたない実類神(実社神)だという解釈をしてきたのだが、他方では諏訪神のように殺生を求める神々も少なくなく、御狩神事や御頭祭(おんとうさい)が続いてきた。信瑞の『広疑瑞決集』は、これは神仏のタブーに抵触しているのではなく清浄祭祀(しょうじょうさいし)というものだと解釈した。殺生を動物たちの抜苦救済だとみなしたのである。

【48】中世全般で、仏菩薩が神として垂迹することを「和光同塵」(光を和らげ塵に同じうす)とも言った。この言葉、なかなかいい。無住は『沙石集』に、仏は粟散辺地の我が国で衆生を救済するべく、神という本朝相応(この日本国にふさわしいもの)の姿をとって現れたのであって、それこそは「機感相応の和光の方便」だと書いた。『保元物語』にも「我が国は辺地粟散の境といへども、神国たるによって、惣じては七千余座の神、殊には三十番神、朝家を守り給ふ」とある。

【49】神はヴァーチャル・キャラクターとはかぎらない。菅原道真の天満宮のように、実在の人神(ひとがみ)を祀った神社は全国にかなりある。その大半は大別すると、ひとつは御霊(怨霊)を祀ったもの、ひとつは一族家門の祖を祀ったものだった。なぜ御霊は人神になりえたのか。

 歴史上、初めて御霊化(怨霊化)が意識されたのは長屋王であり、ついでは藤原広嗣だったろう。玄昉(げんぼう)や吉備真備の排斥を求めて失脚敗死した広嗣はのちに松浦明神(まつらみょうじん)となった。ついで藤原仲麻呂、井上内親王、早良親王、伊与親王、文室宮田麻呂、橘逸勢らが怨霊化したと噂された。

 この迷いを払うべく登場したのが御霊会(ごりょうえ)である。貞観5年(863)5月の神泉苑で、崇道天皇(早良親王)・伊与親王・藤原吉子・観察使(藤原広嗣・藤原仲成)・橘逸勢・文室宮田麻呂の6柱が慰撫された。

 やがて御霊会は疫神信仰と習合して牛頭天王(ごずてんのう)の信仰を含み、そこに蘇民将来伝説と祇園の御霊会とが結びついて今日におよぶ八坂神社主導の祇園祭となった。→人神【52】

【50】菅原道真の怨霊が祀られたのは、天慶5年(942)、右京に住む多治比文子(たじひのあやこ)という女性に道真の信託が下り、文子が小さい祠をたてるうち信者がふえ、その帰依者たちによって北野の地に社殿が造られてからである。鎌倉期の『北野天神縁起』では、道真は讒言されて祭文を奉り、死後に天満自在神になったとされた。

【51】平安期を通して、すでに怨霊・死霊・生霊にまつわるモノノケ(物の怪・物の気)が想定され、その恐るべき光景の一端が『源氏物語』(1569~1571夜)の六条御所息所のプロットなどになったことはよく知られている。このモノノケが関与する怨霊信仰と「仏法障碍の魔」とが結びつくと、これが変じて「天狗」信仰となった。この「魔」とは釈尊(ブッダ)が菩提樹のもとで成道にはいろうとしたときこれを妨げようとしたものをいう。とくに欲界の第六天魔王が人口に膾炙した。

 中世、最大の大天狗とされたのは崇徳上皇だった。保元の乱の張本人として讃岐に流されて、白峰に葬られた上皇は、やがて鹿ケ谷事件後の源平拮抗の政界に次々にタタリをもたらすとされ、長くその怨霊の鎮魂が試みられた。『太平記』雲景未来記には、雲景が愛宕山の男から崇徳をプロトタイプとするさまざまな怨霊と天狗の姿を次々に見せられるという場面が出てくる。

【52】人神(ひとがみ)を祀った系譜というものがある。聖徳太子の太子堂、藤原鎌足の談山神社、空海の大師堂、清和源氏の始祖である源満仲の多田院(多田神社)、柿本人麻呂(1500夜)の人麻呂神社など、古くから英傑が氏神のように祀られてその多様性を誇ってきた。とくに道真の天神化以降に一般化した。その後、秀吉の豊国大明神、家康の東照大権現をへて、吉田松陰の松陰神社、乃木希典の乃木神社、東郷平八郎の東郷神社などに及んでいる。→人神【49】

 今日、敗戦後の昭和天皇の「人間宣言」以来、天皇と日本、天皇と神祇信仰、天皇と祭事、天皇と政治をどう見ていくかということが、さまざまな面で問われている。そもそも日本は天皇が「神孫」かつ「人王」として位してきた国なのである。あらためて人神の系譜に注目する日が近づいているのかもしれない。

【53】中世日本において、インド伝来の神々(天部の神々)が仏教伝来とともに日本の風土や信仰と習合し、独自の性格をもっていたことも注目される。いずれも渡来神の日本化だった。梵天、帝釈天、四天王、毘沙門天(実は多聞天)、弁才天(宇賀神)、吉祥天、大黒天、訶梨帝母(鬼子母神)、十二神将、十二天、夜摩天、執金剛神、金剛力士(仁王)、龍王、荼吉尼天(だきにてん)、歓喜天(聖天)、摩利支天などが知られる。

 こうしたヒンドゥ信仰に由来するものが多い天部のフィギュアたちは、次々に仏像群と混じりあい、民衆の人気を獲得していった。福神信仰にもとづいた七福神(恵比寿・大黒・毘沙門・弁天・福禄寿・寿老人・布袋)はその典型である。

【54】天部は奈良仏教とともに広まっていったが、中世になって新たに渡来してきた神々もいた。円珍が招来して園城寺(三井寺)の護法神となった新羅明神(しんらみょうじん)、円仁が招来して泰山府君(たいざんふくん)と同一視された赤山明神(せきざんみょうじん)、玄旨帰命壇の本尊で常行三昧堂の後戸の神(うしろどのかみ)となった摩多羅神(またらしん)、真言宗の護法神のひとつで醍醐寺の鎮守神となった清龍権現(せいりゅうごんげん)などなどだ。

 護法神とは修行者に仕えて命令に服し、その身を仏敵から守る神のことで、しばしば童子の姿をとるため護法童子ともいわれる。もともとのキャラクターイメージは不動明王の脇侍である矜羯羅(こんがら)童子・制多迦(せいたか)童子に起因する。書写山の性空(しょうくう)と皇慶に仕えた乙護法、信貴山の命蓮に仕えた剣の護法などが知られる。

 ちなみに護法童子の法力は、役行者(えんのぎょうじゃ)に仕える前鬼・後鬼や、陰陽師(おんみょうじ)が使役する式神(しきがみ)にも共通した。

【55】渡来神や外来神に見えて、実は神仏習合そのものが生み出したニュータイプの神格もあった。本書では「習合神」と呼ばれている。吉野金峯山の修験道から生まれた蔵王権現、祇園社から生まれた牛頭天王(ごずてんのう・蘇民将来説話由来の武塔天神)、伝統的な神々の荒魂(あらみたま)が独立した荒神(こうじん)などだ。荒神は竈神(かまどがみ)とも合体した。

 またインド系ではなく中国系としてやってきて定着した神に、山東省由来の泰山府君、福建省由来の嫣祖(まそ)などがある。泰山府君は中国五岳の泰山に君臨する神で、道教では東嶽大帝であり、十二天としては焔魔天(えんまてん)に同定される。嫣祖は航海・漁業の守護神であるが、日本ではオトタチバナヒメ(弟橘姫)と混淆し、さらに航海の安全を祈る船玉(ふなだま・舟霊)信仰にも習合した。舟玉は男女一対の人形やサイコロなどの形状を借りて、船の柱の下部のモリやツツに安置された。

【56】仏教界で末法思想が騒がれていたのに比肩して、朝廷で騒がれていたものに「百王思想」があった。これは天皇の代世は百代をもって終了するという説で、中国では『荀子』に見える。日本でも『古事記』に王統の継続を象徴する言葉として「百王相続きて」などと、『続日本紀』には「百王不易の道」などと綴られた。天皇の代が百に近くなるにつれ、この問題が【33】で述べた粟散辺土観と重なって影を落としはじめたのである。

【57】長元4年(1031)、伊勢の斎王(さいおう)の嫥子(せんし)に伊勢神宮荒祭宮が憑依して託宣を下し、斎宮寮頭の藤原相通夫妻の追放を命じた事件がおこる。その託宣の一部に「百王すでに過半に至る」とあって、この文言が朝廷を驚かせた。時の天皇は後一条で68代になっていて、関白は宇治平等院を造営して浄土を求めた藤原頼通だった。

 こうした王朝滅亡カウントダウンを示す百王思想を、一方で神々の力によって無限にのばすという永劫統治観もあらわれた。慈円(624夜)も『愚管抄』に百王鎮護に言及した。そのルーツは『日本書紀』の一節に示された天照大神の詔勅、「宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわま)り無けむ」に求められた。これを「天壌無窮の詔勅」という。

 百王思想と似て日本の衰退や衰亡を示したものに、宝誌がつくった謎詩として有名な『野馬台詩』や偽書めく『聖徳太子未来記』などもあったが、このような亡国思想に対して、さまざまな神国思想が思想武装するかのように登場してきたのが、中世の日本でもあったのである。

【58】神国意識の醸成は二所宗廟観とともに高まってくる。天照大神と八幡大菩薩の二所が国家の加護をするという見方である。粟散辺土観と末法思想と百王思想に苛まれていた国土観は、この二所宗廟観とともに和光同塵を進め、神が仏の垂迹であるのなら、神国であることはそのまま仏国土になりうるという、自国意識の肯定に変じていった。すでに紹介した王法仏法相依論、密教や両部神道の大日本国説などがこれに拍車をかけた。

【59】研究者たちは(とくに伊藤正義は)、中世における『日本書紀』読解の総体を「中世日本紀」と名付け、それにもとづいて形成された神話観をまとめて「中世神話」と呼ぶことにした。

 嵯峨天皇時代から全30巻にわたってきた書紀講釈は「日本紀講筵」(にほんぎこうえん)として、ほぼ30年間隔で継承されてきた。講師は博士、助手は尚復といい、大臣・大納言以下の廷臣が参加した。ところが康保2年(965)を最後に講筵が途絶えた。そこで歌学の勃興を背景に書紀研究が再開し、信西の『日本書紀抄』などとして結実した。以来、和歌の表現の根拠をあきらかにするための書紀解釈はしだいに日本神話の中世的編集へ、中世的ブリコラージュへとしだいに向かっていった。

【60】鎌倉時代は卜部(うらべ)氏の書紀研究がさかんであった。卜部平麻呂を祖とするこの一族はもともと神祇官人の家柄で、亀卜をもって朝廷に奉仕し、やがて神祇大副(じんぎだいふ)を世襲するようになった。この卜部神道系に平野流(平野神社預)と吉田流(吉田神社預)があった。

 なかで平野流の卜部兼文は文永年間に一条実経に書記を講じ、子の兼方はその一部始終を『釈日本紀』にまとめた。開題・注音・乱脱・帝皇系図・述義・秘訓・和歌の7部門から構成されている。これはまさに書記研究の中世的集大成だった。卜部氏と同様の神祇官の家柄の白川氏も書紀を守っていた。

 卜部氏の書紀研究と呼応していたのが、すでに述べておいた中世神道書のテキスト群である。寺社縁起・記紀神話を土台とし、そこに密教的教説や天台法華の解釈を乗せていった。

【61】鎌倉期から室町中期までの書紀研究はもっぱら僧侶によっていたが、室町後期になると新たな人士たちが担うようになった。五摂家のひとつ一条家出身の一条兼良(いちじょうかねよし)はその代表で、一方で源氏注釈書『花鳥余情』『口伝抄』などを書いたとともに、他方では『樵談治要』(しょうだんちよう)や『日本書紀纂疏(さんそ)』を書いた。兼良は卜部兼文から書紀の伝授をうけ、五百年来の学者と称賛された。一方、卜部家のほうはその後のイニシアチブを吉田流がとり、兼煕・兼敦をへて吉田兼倶(かねとも)が出て、「吉田神道」(唯一神道)を創唱した。→吉田神道【67】〜【71】

吉田兼倶

兼倶は提唱した「元本宗源神道」を天児屋命の神宣として吉田家に伝わってきた宇宙の根本原理と位置づけた。林羅山の理当心地神道、吉川惟足の吉川神道、山崎闇斎の垂加神道などに濃厚に影響を与えている。

吉田家系図

【62】中世神話の構成は『日本書紀』を中心にしながらも、『古語拾遺』『先代旧事本紀』『古事記』などのテキスト群、これらについての歴代の注釈(日本紀注・古今注・伊勢注など)がつくりあげた異伝、さらには中世の神道書からの引用解釈などを混淆させている。

 混淆とはいえ、その下敷きになったのは本地垂迹思想であって、そこに三国世界観を加えて神国日本が高揚するグローバリズムを説こうとした。天竺(てんじく=インド)の仏菩薩、震旦(しんたん=中国)の聖人・神仙・詩賦、本朝(ほんちょう=日本)の神祇・和歌という、印・中・日の三国の特色を対応させつつ、日本に軸足を移していくことを試みたのである。こうした編集方法は「会釈」(えしゃく)とも「会通」(えつう)とも呼ばれ、すこぶるアナロジーに富んだものとなった。

【63】なぜ中世神話が隆盛したのか。ひとつには、日本の中世社会は天皇・摂関・幕府・巨大寺院・中核神社といった複数の権門が並列して、神話を一括管理する状態にはなっていなかったからである。そのため中世社会を構成する「家」「職」「寺社」にはそれなりの神話が必要だった。

 もうひとつには、中国では天命思想にもとづく易姓革命によって王朝の交替が可能になっているのだが、日本ではアマテラスを継いだホノニニギの天孫降臨によって天皇の家系(王朝)が一貫しているとみなされるので、易姓革命にもとづかないロジックを改めて強調する目的があったからだった。

【64】中世の国土創世神話にはやたらに大日印文(だいにちいんもん)や第六天魔王をめぐる話が多い。前者については成尊の『真言付法纂要抄』が「日本は密教流布の勝地としてあらかじめ約束されていたのだ」という解釈を徹底させた。『太平記』、謡曲『第六天』、幸若舞曲『日本紀』、室町物語の『神道由来の事』などに語られている。

【65】中世神話で大日如来と諸神が結び付けられたことは、記紀のアメノミナカヌシ・クニトコタチ・アマテラスなどが本覚神・大元神・法性神とみなされたことを意味した。これらは両部神道書の『中臣祓(なかとみのはらえ)訓解』では本覚神・大元尊神などと、伊勢神道書の『豊受皇太神御鎮座本紀』では虚空神・大元神・国常立神・倶生神などと呼ばれている。

【66】中国由来の巨人伝説である盤古説(ばんこせつ)も復活援用された。日本においても原初の宇宙身が想定されたのである。民間にもダイダラボッチ伝説があり、各地で大太法師、弥五郎どんなどの巨人伝説を生んでいる。『神皇正統記』(815夜)では日本の天神七代・地神五代が中国の三皇五帝と対比され、『神祇霊応記』ではクニトコタチ以下の3代が天皇(てんこう)氏・地皇(ちこう)氏・人皇(じんこう)氏にあてはめられ、さらにはイザナギを神農氏に比定した。そのほか盤古と牛頭天王を重ねたり、神功皇后の三韓征伐が誇大視されたりした。

【67】室町後期に登場した「吉田神道」は、またの名を唯一神道・卜部神道・元本宗源神道(げんぽんそうげんしんとう)ともいう。先行する神道説のみならず儒仏道の諸説や各派の儀礼の多くをとりこんで成立したものだった。近世の世神道説の典型だといえる。

【68】吉田神道は時代の潮流や宗派の趨勢が生んだものではない。吉田兼倶(1435~1511)という、きわめて特異な宗教的人格が構築した。応仁の乱で吉田家の邸宅と吉田社を焼失した兼倶は、日本紀の家を継ぐ者として深刻な事態に立たされたのだが、かえってこの過去からの断絶が兼倶に新たな神道説を唱えるチャンスを与えた。

 文明2年(1470)、兼倶はまず『宗源神道誓紙』によって自家の神道を宗源神道と名付け、敷地内に神祇官斎場所を設けると立壇神道御勤行、天供(てんく)、弁才天御勤行、宇賀神御神事などを行い、自身を「神道長上」(しんとうちょうじょう)と名のった。神祇界の頂点に立とうという勝手な宣言だった。

 ついで文明16年に吉田山上に大元宮斎場所を日野富子の援助で建立し、八角形の大元宮を建設出現させた。周囲に内外両宮・八神殿・式内三千余社を配する異様な奉祭場だった。兼倶はここが神武天皇以来の祭祀の根源で、全国諸社はその分祀にすぎないと主張した。

【69】兼倶の主著『唯一神道名法要集』は、神道を本迹縁起神道、両部習合神道、元本宗源神道に分けて、そのうちの元本宗源神道こそが「陰陽不測之元々、一念未生之本々、一気未分之元神」であって、これだけが「和光同塵之神化」をあらわしていると主張した。クニトコタチ(国常立神=大元尊神)を主神とし、アマテラスがアメノコヤネ(天児屋根命)に授けてこのかたその子孫である卜部氏に代々相承された正当な教えであるとした。

 神道についてのペダンティックな定義も試みている。神は「天地万物の霊宗」で、道は「一切万行の起源」、それゆえ神道は体・用・相をもって展開されると説明した。体は三元(天元・地元・人元)に、用は三妙(天妙・地妙・人妙)に、相は三行(天行・地行・人行)にはたらき、三妙から神変・神通・神力があらわれるとも組み立てた。その神変は観・念・想となり、神通は読・誦・唱に、神力は拝・供・印になるとも配当した。まとめて三才九部妙壇という。

 また、三行を五大・五常・五行・五明王などと組み合わせて十八神道とし、総じて三九妙壇十八神道と名付けた。なかなか用意周到である。以上のアウトラインは兼倶が足利義政に奉った『神道大意』にあらわれている。

十八神道壇図

宗源行事壇図

火祭行事壇図

吉田兼倶の元本宗源神道は顕露教(けんろきょう)と隠幽教(おんゆうきょう)の2つに大別される。顕露教は外に現れた教えで、『古事記』『日本書紀』などにもとづいて天地開闢や神代の由来をあてがい、各種の祭祀を『延喜式』祝詞をもって行うこととした。隠幽教は顕露教にない、吉田神道の深秘とするところに関わる。隠幽教は『天元神変神妙経』『地元神通神妙経』『人元神力神妙経』の三部の神経にもとづいて、天・地・人の三才を霊応させ、三元二妙の加持といわれる秘儀を行った。

【70】兼倶は教典として『天元神変神妙経』『地元神通神妙経』『人元神力神妙経』の三経をあげた。これらはアメノコヤネの言葉を北斗七元星宿真君が漢字にしたもので、また、この三経は隠幽教(いんゆうきょう)に属するので、『古事記』『日本書紀』『旧事本紀』の顕露教(けんろきょう)にあらわれないところを示すものだとも説明した。しかしながら神変経三経が著されることはなかった。すべて架空のものだったのである。

【71】吉田神道は呆れるほどにさまざまな教説を混合していた。総じては神道側からの密教化だったと言える。儀礼もかなり密教から借りた。三壇行事はほぼ深秘密教の第四重口決分(だいしじゅうくけつぶん)に似ているし、兼倶の孫の兼右(かねみぎ)は吉田神道の儀礼が真言密教の四度加行を援用していたことを認めた。三才九部妙壇は陰陽五行説や道教を借り、大元尊神を奉じた八角形の大元宮は易の八卦にもとづいていた。

 吉田神道は我田引水が多く、かなり特異なものであったにもかかわらず、その影響はさまざまに波及した。三男の清原宣賢(のぶかた)、孫の兼右、曾孫の兼見や梵舜(ぼんしゅん)が活動を続け、とりわけ清原宣賢は『日本書紀神代巻抄』をまとめ、越前朝倉氏には『中臣祓』や『孟子趙注』を、能登畠山氏には『毛詩和注』や『蒙求』を、若狭武田氏には『孟子抄』などを講釈し、その行動範囲を広げた。

 それとともに、連歌においては飯尾宗祇が兼倶の影響のもとに「八雲神詠伝」を相承し、能楽においては観世と宝生の大夫が「翁ノ大事」を吉田家から伝授することになった。吉田神道の神・儒・仏の一体感は芸能神道や文化神道に広まったのである

【72】神道にとっての天道思想やキリスト教の関係についても、ふれておかなければならない。「天道」は中国特有の「天」の意志をあらわすもので、「天」の力をあまり強調しないわが国ではあまり重視されなかった観念なのだが、それでも武家が権力をもった鎌倉以降は「王土」「神国」とともに「天道」を取り沙汰するようになった。とくに承久の乱で御謀反に走った後鳥羽上皇の出来事をめぐっては、上皇に弓を引くことに躊躇する執権北条義時に、大江広元が「天道に任せられるべきことです」と言っていた。→天道【17】

 その後「天道」は諸宗教や諸思想を統合超越する用語として使われるようになり、さらには君臣のあいだの「心の実」が天道に適っているかどうかというようにも、また庶民の行為が「おてんとうさん」に適っているかというふうにも使われた。

【73】天道思想と関係して、五山禅林における諸教一致の風潮があった。禅僧たちはあくまで禅学を中核におくのだが、そもそも日本の禅が南方禅やタオイズムの影響を帯びていたため、その思想は儒仏道の三教一致を含んでいた。そこに「神」と「禅」の接近がおこった。そればかりか五山僧の横川景三(おうせんけいせん)や景徐周麟(けいじょしゅうりん)は吉田兼倶と交流して、日本紀にひそむ根本日本像に関心をもった。

 この流れの延長に登場したのが、すでに案内した一条兼良であり、その子の清原宣賢だった。こうした儒仏道の三教一致観は江戸に入ると、仮名草子や石田梅岩や手島堵庵の「心学」にも継承された。

【74】戦国時代の神仏家にとってキリスト教がもたらした神観念は衝撃的だった。一方、キリシタンたちはデウスを「天道」と呼んで親しんだ。時の天下人にとっては、キリスト信仰と天道思想が結びつくのははなはだ危険だった。大内義隆が陶晴賢(すえはるたか)の謀反で自殺に追いこまれたことについて、吉田兼右は義隆がザビエル一行の山口での布教を許したことのタタリであると判断した。

 そのくせ、その兼右の周辺にはキリシタンに入信する者がいた。甥の清原枝賢は清原家の家学である儒学とともに吉田神道の薫陶も受けていたのだが、ヴェイラ神父がキリストの教えを解説すると娘(伊与局)とともに入信した。娘は洗礼名をマリアといって、細川忠興の妻に接近しキリシタン信仰を奨めた。彼女こそ細川ガラシャ(1013夜)である。

 天道、キリスト教、吉田神道がいっとき連動していたことは、デウスと大元尊神との神格の近似性としても説明できる。

【75】徳川時代における神道で特筆されるのは「儒家神道」の流れである。先駆したのは林羅山だった。羅山は建仁寺の僧籍ののち還俗し、藤原惺窩の弟子となって儒学を修め初期徳川幕府に仕えた。かなりの博学多識であった。神祇神道についても『神道伝授』『本朝神社考』を著した。吉田神道についても言及していて、あれは「卜祝随役神道」(ぼくしゅくずいやくしんとう)だと批判し、その一方、自身では「理当心地神道」(りとうしんちしんとう)を唱えた。朱子学の理気説を用いて「神は理なり心霊なり」と説いたのである。

 羅山はまた神道と王道は同意であるとも見ていた。羅山にとって王道とは天皇による皇統の連続性が保証されることだった。今日の保守党政治につながるものがある。

【76】吉川惟足(これたり)は吉田神道説に宋学(朱子学)を加え、保科正之らの庇護をうけて幕府の神道方に就任した。その後は幕藩体制のイデオロギーを補強する「治途」を浮上させて、周辺を説いた。これを「吉川神道」という。吉田家一子相伝の「神籬磐境之伝」(ひもろぎいわさかのでん)を継承したのも吉川惟足だった。

【77】徳川時代の「伊勢神道」は必ずしも中世のものとは連続しない。近世に入って度会(出口)延佳(わたらいのぶよし)と延経(のぶつね)の父子が独自につくりあげた。

 実は中世の伊勢神道は南北朝期にだいぶん衰退していただけでなく、応仁・文明の乱世を迎えて内宮と外宮の抗争も激化し、伝書も散逸していた。度会父子はその再興に尽力するとともに、諸家に伝来する伊勢・両部の神道書を収集し、林羅山とも交流して仏教色を排した儒家神道を確立した。『陽復記』『神宮秘伝問答』などをまとめた。→伊勢神道【38】

【78】最もユニークな儒家神道は、山崎闇斎(あんさい 1616~1694)が提唱した「垂加神道」(すいかしんとう)であろう。闇斎は最初は吉川惟足を介して吉田神道に触れ、河辺精長を介して『中臣祓』の伝授を受けたりもしていたのだが、やがて独創的な神道観をもつようになって、これを大胆な垂加神道に昇華していった。

 発想の基本は朱子学の「理」を神道の「神」(天照大神)に転位するところから始まるというものだが、闇斎はそこに天の理と人の理の合一(天人合一)は「神心合一」に対応しなければならないとして、これこそが「天人唯一之道」だとみなすと、さらに儒学的な「敬」を「つつしみ」と言い換えて、その実践にこそ神儒兼学の垂加神道の真骨頂があると説いた。この実践には秘法があって、これを「土衾伝」(どこんでん)と名付けた。主著に『中臣祓風水草』『日本書紀風葉集』『垂加文集』『倭鑑』がある。

【79】闇斎は多くの門下を輩出したが、弟子たちは儒学重視の崎門派(きもんは)と神道重視の垂加派(すいかは)に分かれ、そこから闇斎の道統を継ぐ正親町(おおぎまち)公通・出雲路信直・梨木祐之らの正親町神道、玉木正英の橘家神道(きっかしんとう)、若林強斎や浅見絅斎(けいさい)らの望楠軒(ぼうなんけん)神道などが派生していった。

 闇斎の思想は水戸学にも影響をもたらし、佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎・谷泰山らの歴史観を捉え、とりわけ絅斎の『靖献遺言』(せいけんいげん)は尊王の志士が大いに耽読するところとなった。山本七平(796夜)の『現人神の創作者たち』を参照されたい。

【80】玉木正英の「橘家神道」は古代の橘諸兄からずっと橘家に伝承されてきた神道で、兵法をとりいれた風変わりなものだった。徳川社会ではこうした独特な儒家神道家がかなり多く、陰陽道の土御門家の土御門(つちみかど)神道、白川家の伯家(はっけ)神道、忌部正道(いんべのまさみち)が『神代巻口訣』で説いた忌部神道などが林立しただけでなく、朱子学よりも陽明学を重視した儒者である中江藤樹・熊沢蕃山・山鹿素行らも自説の神道観を吐露した。

 藤樹は「道」による神道を、蕃山は水土論にもとづく神道を、素行は『中朝事実』『聖教要録』などで聖教(儒教)以前から日本に聖教(神道)があったことを、それぞれ説いた。これらは強弱はあっても日本中華説であり、たぶんに排仏的だった。

土御門(つちみかど)神道

安倍神道、安家神道、天社神道ともいう。陰陽師安倍晴明の末裔・土御門泰時が山崎闇斎から学んだ垂加神道に陰陽道を取り入れた。泰山府君祭、天曹地府祭などを行い、天下泰平、玉体安穏、万民安楽を祈ることを中心とする。

中江藤樹(上)と熊沢蕃山(下)

中江藤樹は江戸時代の儒学者で熊沢蕃山の師。はじめ朱子学を研究し、『孝経』の本旨を愛敬と見る。のちに陽明学と出会い「到良知」の哲学に到る。神道を日本固有の思想よりも普遍的存在原理と見ていた。

熊沢蕃山は中江藤樹に陽明学を学び、治水,救民などに治績をあげる。孝を重視し、孝の文字を神道を象った文字と捉えた。

山鹿素行

江戸時代初期の軍学者にして儒学者。林羅山から儒学を、真言僧光宥から両部神道を、廣田担齋から忌部流の神道を学ぶ。山崎闇斎は素行の弟子の石手常軒から忌部流三種大祓の伝を受けている。

【81】儒者のなかには神道には走らずとも、天皇の祭主制を強調する者はいた。萩生徂徠は「吾国ノ神道」は「唐虞三代ノ古道」にほかならず、天皇と祖先を祀る国家的祭祀制度は重要であると書き、太宰春台は重要な祭祀は「天子国君則祭主」という立場でなされるべきだと書いた。懐徳堂の四代学主だった中井竹山の『草茅危言』(そうぼうきげん)には、天皇の即立を本来に戻し、ときどき行幸して平民に天皇尊崇の気風をもたらし、一世一代制による年号を諡号(しごう)するといいという提言さえあった。

【82】偽書にも注目する必要がある、中世神道も偽書の坩堝であったが、近世神道にも偽書が多かった。なかでも聖徳太子が選述したという『先代旧事本起大成経』は、黄檗宗の潮音道海と伊雑宮(いぞうのみや)の神官の長野采女が共謀して偽作したといわれるのだが、その内容はきわめて大部にわたるもので、また依田貞鎮らの祖述者もいて、おそらくはなんらかの集合知が動いていたと想像される。

【83】徳川期の仏教系神道は、なんといっても天海(慈眼大師)による「山王一実神道」(さんのういちじつしんとう)の創唱が大きい。ことにいったん吉田神道式で久能山に葬られた家康の遺骸を、山王一実神道方式で日光山に改葬させたことが目立っている。

 天海は家康を東照大権現として奉る勅許をとると、徳川将軍家を「もうひとつの王権」として君臨させることを決意し、『東照大権現縁起』を述作して家康の神格化に邁進した。薬師如来が垂迹して東照大権現になったというのである。家康権現を仏菩薩の垂迹神にする。このロジックを確立するため天台比叡に伝わってきた最澄以来の山王神道を改変して山王一実神道をおこしたのだった。→山王神道【43】

 天海の系譜をうけたなかでは、戸隠山に住して修験一実霊宗神道を唱えた乗因が特異だった。異端として排斥されたものの、『金剛幢(こんごうとう)』『転輪聖王章(てんりんじょうおうしょう)』には忌部神道や旧事大成経の影響が認められる。

【84】慈雲飲光(じうんおんこう)の「雲伝神道」(うんでんしんとう)は見逃せない。葛城山麓に住んでいたので葛城神道とも言われた。本格的な真言僧としては『梵学津梁』(ぼんがくしんりょう)一千巻を著して悉曇学(しったんがく)を大成し、戒律の復興を企図して正法律を唱えたりもしたのだが、その学匠としての素養をいかして神道にもとりくんだ。『神儒偶談』『神道要語』『天の御蔭』などの著書もある。

 慈雲の雲伝神道は両部神道の影響をうけていながらも、たんなる継承ではなく近世社会の実情を睨んでいて、神密一如や赤心を重視するところがあった。近世仏教が到達した最高の諸教一致の試みだった。

【85】近世神道と排仏主義をいちがいに結びつけるのは危険である。なるほど藤原惺窩・林羅山・山崎闇斎らが排仏感の先鞭をつけたとはいえ、これは王権衰退の歴史を仏法伝来と神仏習合のせいにしたためで、実際には聖徳太子の評価や密教思想の強力なロジックをめぐって、近世神道家たちは仏教の前後を、そして儒学の左右を出入りした。

 しかし、それでは相済まなくなってきたのである。国際社会の変化がアジアにも日本にも押し寄せてきた。そこに国学や水戸イデオロギーや尊王攘夷の思想の台頭があった。この台頭には、近世社会における印刷メディアの普及がもたらしたテキスト解釈をめぐるブームが関係していた。

【86】知識や情報や学術をめぐって中世と近世を截然と分けたのは、印刷文化の発達だった。近世以前でも五山をはじめ印刷はおこなわれていたが、それが産業として定着したのは徳川社会になってからだった。

 これによって何がおこったかといえば、同一テキストが大量に出回ったため、一対多の教授方法がすこぶる容易になり、従来の師資相承・一子相伝による伝達の必然性が薄れてきたわけである。口伝・切紙による伝授という秘密化や権威化もしだいに守られなくなり、それにつれて研究のありかたにも基礎文献の照覧が共同的に相互的におこなえるようになった。それが神道研究にも大きな変化をもたらしたのである。実際にも、神国論関係、国学関係の本はたいへんよく売れた。

【87】神道関連のテキスト研究は、その第一段階としては、旧来の神道説の整理と類聚がおこった。羅山の『本朝神社考』、徳川義直の『神祇宝典』、真野時綱の『古今神学類編』などが編述され、神道的知識を一般に供することが可能になった。

 第二段階として中世の偽書や偽作が明るみに出て、それに対応するように『日本書紀』『古事記』『万葉集』『古今集』『源氏物語』などの原典の点検が大きく浮上した。偽書の批判としては吉見幸和が神道五部書を指弾した『五部書説弁』、また吉田神道を批判した『弁卜抄俗解』があり、原典の解釈に向かった例としては天野信景、谷川士清(ことすが)、伊藤仁斎(1198夜)、荻生徂徠、河村秀根などの解読研究の成果がある。士清は『日本書紀通証』を、秀根は幸和の門人で『書紀集解』(しょきしっかい)を著した。

 こうして第三段階として国学者による古典の解釈が進んだのである。先行したのは一条兼良・飯尾宗祇・三条西実隆・清原宣賢らで、古典・有職故実・法制の点検解釈にとりくみ、さらに加藤磐斎・北村季吟が出てその後の「和学」に先駆けた。

【88】国学的な古典研究を先蹤したのは契沖(1640~1701)であった。契沖(けいちゅう)は高野山で阿闍梨の位を得た密教僧であったが、大坂天王寺の曼陀羅院の住持などを務めるうちに俗務を嫌い、再度の高野山、室生寺、和泉国などに逗留して古典に耽り、従来の定家による仮名遣いに疑問をもって『和字正濫抄』を著した。その表記法はその後も契沖仮名遣いと呼ばれた。

 そこへ水戸光圀から依頼があって鋭意とりくんだのが『万葉代匠記』である。そのほか『古今余材抄』『類語臆談』『百人一首改観抄』などがある。

【89】契沖以降、荷田春満(かだのあずままろ)は領主の田安宗武の求めに応えて『国歌八論』(1742)を書き、和歌の世界は非政治的であることを謳った。また『創学校啓』(そうがくこうけい)という意見書を出して、国学の学校の設立を訴えるとともに「皇国の学」の重要性を説いた。その後、下河辺長流は木下長嘯子と西山宗因に学んで光圀から万葉集の解読を依頼され、戸田茂睡は風雅を友とし遊びつつ歌学の形骸化に警鐘を鳴らして『梨本集』『百人一首雑談』『僻言調』などをまとめた。

 しかし、本格的な国学が確立するのはやはり賀茂真淵と本居宣長(992夜)による。真淵は荷田春満に学んで田安宗武に仕え、江戸を中心に本格的な歌学、万葉研究、源氏物語研究にとりくんだ。『万葉考』『国意考』『歌意考』『祝詞考』『にひまなび』『冠字考』『神楽考』『ことばももくさ』があり、宣長に絶大な刺激と影響をもたらした。とりわけ国意の本来、祝詞(のりと)などの古語の本来についての真淵の言及は、宣長を動かした。ちなみに真淵の門人は300人以上がいたが、その3分の1が女性だった。

【90】宣長(1730~1801)は伊勢松坂で医者を営むかたわら『源氏物語』『古事記』に親しみ、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で買いこんでからは、源氏研究を通して日本人の魂に宿る「もののあはれ」の重要性に気づき、賀茂真淵の本を通してその「古道」にめざめた。

 そこから踏み込んで『古事記』の解釈研究にとりかかると、中国言語的な「漢意」(からごころ)をいっさい排して日本古来の「古意」(いにしへごころ)に徹することを自身に課して、実に三十数年をかけて『古事記伝』全44巻を著した。宣長はそれにとどまらず、厖大な著作にも向かいつづけた。主著だけでも『玉の小櫛』『紫文要領』『直毘霊(なおびのたま)』『玉くしげ』『うひ山ぶみ』『玉勝間』『排蘆小船(あしわけのおぶね)』『漢字三音考』『てにをは紐鏡』『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』『古今集遠鏡』『詞の玉の緒(ことばのたまのお)』などがある。

【91】宣長の国学はきわめて深甚なものだったが、その根本にあるのはフルコト(古言・古事)をどのようにしたらその当時の思惟にもとづいて類型的に取り出し、それらをできるかぎり正確に解釈して連動させ、日本の歴史の根底に流れてきたはずの「いにしえこごろ」を掴めるのか、そのためにはどんな尽力も集中も厭わないという姿勢だった。

 とくに『古事記』はそのころ誰もが読解さえできなかったテキストだったので、宣長がその文脈とキーワードにひそむ意味と意図をさぐり、その全貌を一挙に明示したことは、書紀型でしか探索されてこなかった深層日本の基本像に大きな変更を迫るものとなったばかりでなく、従来の神観念や神道観に絶大な影響を及ぼすことになった。たとえば「ムスビ」(産霊)といった観念はそれまでほとんど解明されていなかったのである。

【92】『古事記伝』の一之巻に「直毘霊」が所収されている。宣長の日本観や神祇観や皇国観がよくあらわれている。宣長は日本を「皇大御国」(すめらおおみくに)と名付け、地上のどんな国よりも恩恵を受けているところとみなし、この恩恵を継承することがイザナギ、アマテラスに始まる「神の道」や「古道」を「まこと」として認識することになると主張した。

【93】『直毘霊』は要約すると、次のような見方と言いまわしになっている。

 ①わが国は皇大御国(すめらのおおみくに)で、アマテラスの子孫の統治する国であり、そのような定めのままに平安に治まる大御食国(おおみおすくに)なのである。②これを「神道」(かみのみち)と名付けるのは、単に「道」と言うのでは異国(あだしくに)の定めになりかねないからである。③しかしながら皇国は平安とはかぎらなかった。これは漢国(からくに)の「てぶり」を入れすぎたためで、さまざまな行為や判断が漢様(からざま)になってしまったからである。④禍津日神(まがつのかみ)の仕業は「せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける」(どうにもならないほど悲しい)。

 ⑤しかしなお、天津日嗣(あまつひつぎ)としてアマテラスの子孫たりえている天皇家の所業が、今後とも神道に従っているかぎり、皇国は正しき高き貴き徴(しるし)をもたらすであろう。⑥神道とは、タカムスビ(高御産巣日神)の御霊(みたま)に始まる皇祚神世より受け継いだものをもって天下の民を治めることそのことであり、そのようにする神道こそが吾邦(わがくに)の自然の道なのである。⑦それゆえ、そのような神道の意味はもろもろの古書(いにしえぶみ)をよく味わえば、十分にわかるはずである。ただこのとき漢書(からぶみ)に惑わされると禍津日神の介入を許すことになって、大切な「まことの道」の心が見えなくなる。⑧後世の神道家たちの説はこの「まことの道」を見えなくさせてきた。⑨以上ようするに、人はみな産巣日神(むすびのかみ)の御霊によって、生まれつるまにまにあるものなのである。

【94】真淵と宣長によって日本および日本人の精神史が内面から貫通され、そこから霊魂のアーキタイプともいうべき神祇観や神道観が奔出していった。その影響をうけながら、あらためてこの精神史を外面から突き刺しなおしたのが平田篤胤(1776~1843)だった。

 篤胤(あつたね)は宣長の古道を遠い古代のものではなく現実のものと捉え、古道=神道こそが現世の本質や規範になっているとみなした。フルコトの中ではなく、実際の現象にもあてはまると見たのである。また、宣長が黄泉(死後)の世界には善神も悪神も隔てなくあるとみなしたのに対して、篤胤は黄泉(よみ)には幽冥界というものがあり、そこをオオクニヌシ(大国主命)が正邪善悪を差配しているとして、独自の神道世界観を提唱していった。『霊能真柱』(みたまのみはしら)では、アマテラスが君臨する顕界(うつしよ)とオオクニヌシの幽冥界(かくりよ)が対比的に描かれている。

平田篤胤『霊の真柱』

【95】篤胤は『古史成文』『古史徴』『古史伝』の三部作では、日本が万国の本(もと)であること(日本本源論・皇国尊厳論)を明らかにすべく、言及対象を中国・インド・キリスト教にまで広げる一方、仙界や天狗の実在を説いて『仙境異聞』『勝五郎再生記聞』『古今妖魅考』『稲毛物怪録』なども著していた、他方では『神字日文伝』(しんじひふみのつたえ)などを書いて、上代には神代文字が実在していたといった荒唐無稽にも手を出した。

 宣長を敬服していながら篤胤がこのように大胆な軌道転換をしていったについては、宣長の門人の服部中庸(なかつね)の『三大考』が与えた影響が大きかった。中庸はわが国では天地開闢後まもなく「天(あめ)・地(つち)・泉(よみ)」の三界が生じたと考えるべきだと説いていた。

服部中庸『三大考』

宣長の門人・服部中庸は、天に高天原、地下に黄泉国、中心に地上を据えた天・地・泉の三つを10枚に図解した。宣長はこれを喜び、『古事記伝』巻十七の付録として刊行した。

平田篤胤の神代文字

【96】篤胤の神道は「復古神道」あるいは「古神道」と呼ばれ、その門下を継いだ門人は平田派国学の者たちと呼ばれた。大国隆正・権田直助・生田萬・六人部是香(むとべよしか)・矢野玄道らがいる。その思想は尊王攘夷にも王政復古のイデオロギー形成にも採り入れられ、維新政府の神仏分離と廃仏毀釈にも、また「国家神道」の形成にも与かっている。篤胤の養嗣子の平田鐡胤も明治天皇の侍講を務めた。

【97】幕末の尊王攘夷や維新の祭政一致の行動規範やイデオロギーは、むろん平田派国学のみによって立ち上がっていったのではない。水戸光圀が指導した水戸藩の歴史観や後期水戸学の藤田幽谷の『正名論』に始まる会沢正志斎や藤田東湖の「国体」思想がその背中を強力に押していたし、すでに民衆のあいだにも伊勢信仰にもとづく「お陰参り」や「ええじゃないか」の風潮が高まっていた。

 また幕末には、いまは「新派神道」に分類される黒住宗忠による黒住教(岡山発祥)、赤沢文治による金光教(やはり岡山発祥)、中山みきによる天理教(奈良発祥)などが胎動し、「民間神道」とも分類される井上正鉄による禊教(みそぎきょう)、梅辻規清による烏天神道(うてんしんとう)、伊藤食行による身録派(みろくは)なども広まりつつあった。

【98】維新後、明治政府は「国家神道」を国教扱いにしていく。大神アマテラスの皇祖化、宮中三座(八神・天神地祇・歴代皇霊)の鎮座、惟神(かむながら)の大道を示した大教宣布、全国神社の社格の決定が立てつづけに連打され、長らく慣例になっていた「宗門改め 」「寺請制」が廃止されて、「氏子調べ」に切り替わっていったのである。本書はその経緯以前で記述をおえているが、実は今日における「神道」を直視するにはこの国家神道の大号令によってそれまでの日本人の神祇観がどうなったのか、その経緯がもたらしたもののすべてを見通しておく必要がある。またさらにそのあとの、敗戦と天皇の人間宣言後の神祇観がどうなったのかも見つめておく必要がある。

 近代以降の議論のための千夜千冊としてはとりあえず、山本七平『現人神の創作者たち』(796夜)、ヴィクター・コシュマン『水戸イデオロギー』(997夜)、丸山真男『忠誠と反逆』(564夜)、島崎藤村『夜明け前』(196夜)、佐伯恵達『廃仏毀釈百年』(1185夜)、村上重良『国家神道』(1190夜)、小熊英二『単一民族神話の起源』(774夜)、石川公彌子『弱さと抵抗の近代国学』(1510夜)、長山靖生『偽史冒険世界』(511夜)、長谷川三千子『からごころ』(387夜)などを参照されたい。

神道史の系統図(鎌田東二『神道用語の基礎知識』より)

【99】わが国では長らくカミを語ることは「おそれ」多いこととされてきた。この「おそれ」は恐れ、畏れ、怖れ、虞れ、惧れのいずれでもあって、そのため神々の事情をむやみに言挙げせずに「皇神(すめらみ)の厳(いつく)しき国、言霊(ことだま)の幸はふ国」(万葉集5894)とも語り継いできた。このことは「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げさせぬ国」(万葉集3253)なので、いたずらにカミをめぐることをあからさまにしないという風儀を定着させることになった。つまり神道は言挙げしないものとされ、多くを慎しみ、憚かることを重じたのである。

 しかしながら、今夜の粗述要約でも実感できるように、実は神道をめぐる各者各派の言説はきわめて過剰でポレミックであり、当事者のあいだの論争も絶えず、一様であることや慎重であることは、意外にも少なかったのである。そうだとすれば、今後はその「言挙げ」の内実に分け入ることこそが「日本という方法」を理解するためのかなり重要な作業になっていく。できればさらに「神めぐる日本・仏いだく日本」のあれこれを千夜千冊したいと思っている。