http://furusatonosora.akiji.yokohama/2018/06/11/%e6%b2%b3%e5%90%88%e6%9b%be%e8%89%af%e3%81%ae%e3%80%8c%e7%94%9f%e6%a5%ad%e3%80%8d%e3%81%af%e4%bd%95%e3%81%a0%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%8b%ef%bc%88%ef%bc%93%ef%bc%89%e2%80%95%e4%bf%ae%e9%a8%93%e8%80%85/ 【河合曾良の「生業」は何だったか(3)―修験者(山伏)としての可能性は】 より
信仰的行脚の生活を送っていたと思われる河合曾良。晩年、六十六部(乞食の巡礼僧)であったことは確かであるが、修験者(山伏)の可能性はないだろうか。江戸時代の修験者(山伏)の在り様と民族宗教として修験道が果たした役割を振り返り、その可能性を検討してみたい。
◆芭蕉の示した「乞食の自覚」とは
元禄7年(1694)10月12日、師芭蕉が亡くなった後、曾良は俳諧の表舞台から消えた。「翁物故の後はしばらく俳諧にも遊ばず神の道仏の道につきて遠き近き野や山をたずねまたある時は事にふれてかりそめにも句もいひ出られしことなれど只それまでの事とかや」とは、文化14年(1817)の曾良百回忌追善句集「続雪まるけ」に記された聞書である。
芭蕉翁墓所(大津市義仲寺)
曾良は、近江義仲寺での芭蕉の葬儀に出席しなかったけれども、杉風や野坡など江戸の門人たちで催した芭蕉供養句会で「むせぶとも芦の枯葉の燃やしさり」の句を残した。それから約8年経って亡き師の墓参を果たしたのは、元禄15年(1702)のことだった。「おがみ伏して紅(くれない)しぼる汗拭い」はその墓前における句である。師に詫びる曾良の姿を彷彿とさせる。以降、宝永6年(1709)曾良が還暦になるまで消息不明、その動静は記録されていない。
曾良は、俳諧を捨てたわけではない。そうではなく、俳壇(蕉門)の世界から離れたという方が正確なのかもしれない。俳壇(蕉門)と接点がなくなれば、たとえ句をつくっていたとしても後世に残ることはないだろう。しかし、句をつくりながら旅から旅へと遍歴を続けたとすれば、私には、師が示した生き方を最もよく実践したのかもしれないと思える。「乞食(こつじき)の自覚」。
「芭蕉は旅にあっても、草庵の生活においても、常に自らを乞食と呼んでいた。」「乞食とは、現世的ないっさいの欲望を捨て去った、人間としての最も純粋なありかたとしてとらえられていたのである。」「最も純粋な言葉である詩は、そうした最も純粋な生きかたの中からこそうまれる。詩人として徹しようとするならば、乞食の境涯に徹しなければならない。」と考えていた(尾形仂編「芭蕉ハンドブック」三省堂)。
芭蕉の教えに最も忠実であった弟子こそ、曾良だったかもしれない。でなければ、江戸前期に数万人いたといわれる「浪人」(曾良もそのひとりである)の避けることのできない境涯であったのか。あるいは、神の道仏の道、曾良の宗教心がなせる生き方であったのか。いずれにしても、一人の「乞食巡礼」(「六十六部」という行脚僧)として生きたのだ。
◆江戸時代の「富士講」など山岳信仰のブーム
前回のブログで、こうした曾良の生き方を考えるにあたり、江戸時代前期の時代状況を知る必要性を書いた。というのは、「巡礼」は、宗教者(僧侶・山伏・神職等)だけの生き方ではなく、一般民衆も決して少なくなかったからだ。全国の寺社を巡り歩く「巡礼ブーム」のような流行があり、時代の宗教意識といえるものがあったのではないか。
江戸時代のブームを思い浮かべるとき、忘れてはならないものは「冨士講」や「羽黒山信仰」といった「山岳信仰ブーム」である。「大山参り」や「御岳(みたけ)信仰」などもあった。対象となる霊山に、一般民衆が講をつくり登拝する。鈴木正嵩著「山岳信仰ー日本文化の根底を探る」(中公新書)によると、時代はやや下がるが、江戸の八百八町に八百八講と呼ばれる多数の「富士講」が組織されていたという。長谷川角行(1541~1646)は「冨士講」のあり方を変え民衆化を進め、修験道の行法や思想に基づいて一切衆生の救済を目指した。
一般民衆は山岳信仰や修験道に何を求めたか。巡礼にとって巡礼地としての山岳霊場は、どのような場所であったのか。疑問は尽きないが、まず山岳信仰と修験道の歴史を繙くことで、こうした「山岳信仰ブーム」の背景と時代の民衆の宗教意識を探ってみたいと思う。
役行者尊像(国会図書館デジタル資料)
◆修験道はどのような宗教か
「修験道は日本古来の山岳信仰が、仏教、道教、シャーマニズムや神道の影響のもとに平安時代末ごろになって一定の宗教形態を形作ったものである。この宗教は、修験者、山伏と呼ばれる宗教者の山岳修行とその験力による呪術宗教的な活動を中核としている。」(弘文堂「日本宗教事典」。以下、引用も含め参考にしています。)
修験道は日本における「習合宗教」の稀有な事例とされる。ポイントは2点ある。①日本古来の山岳信仰を基盤として、仏教や神道など他宗教の教義を取り入れて成立している、②山岳修行によって得られた験力による呪術宗教的な活動であることである。
古来、山岳は稲作や生活に必要な水をもたらす神がいるとされ、人間が生を受け死ぬと帰っていく場所と信じられた。農民たちは、山を霊地として崇め、山に入ることを禁忌し、山麓に祠を作って豊作や生活の安全を祈った。山岳での修行は禁忌だった。しかし、山林修行を重視する仏教や道教が伝来すると、山岳に積極的に入って修行する宗教者が現われた。山岳行者は、仏教の思考に基づく行を行い「聖」などと呼ばれた。
これらの宗教者は数多の山岳道場を開き、吉野・熊野などには多くの山林修行者が集まり、呪術宗教的な活動を営んだ。修験道の開祖とされ「優婆塞(うばそく)」(私的に出家した行者)であった役小角(えんのおづぬ)もその一人であり、最澄や空海もこうした山林修行者の流れをくむ者である。その後、平安時代の仏教は密教が主流となり、密教の験者たちのうちから山林修行によって験を修めて加持祈祷にすぐれた者が現われ、「修験者」と呼ばれるようになった。
「それゆえ密教の験者に限らず、神職・陰陽師でもこうした修行をする者が修験とか山伏と見なされることもあったのである。また一般の宗教者が、修験、念仏、禅などを併修することも奇異には感じられなかったのである。」(弘文堂「日本宗教事典」)
鎌倉時代に入って、修験者の集団が形成されるとともに、熊野、羽黒などの修験の霊山が成立し、室町時代以降には、密教や天台本覚論を借用した教義が作られ、最盛期を迎えることになる。「江戸時代になると、幕府の政策もあって、山伏は村や町に定着して人々の現世利益的要求に応えて、加持祈祷、調伏、憑きものおとしなどの活動に従事した。」(弘文堂「日本宗教事典」)「里修験・里山伏」と呼ばれる人々である。
◆神仏習合の完成「本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想」
修験道は、もともと山岳信仰に源を発しているので、崇拝対象はいうまでもなく山である。山は神聖であり、不思議な霊力を持った場所として崇められてきた。山の霊力は人を生まれ帰らせるのだ。やがて仏教が広まるにつれ、山岳信仰にも仏教の教義(特に密教思想)を取り入れ、のちに天台思想(天台本覚論)に基づき、山も川も草や木も森羅万象に「いのち」があり仏性を持っているとする神仏習合の自然観が形成された。
こうして平安時代中期に神と仏を同体とする「本地垂迹思想」が生まれた。本地垂迹とは、仏菩薩が日本に神として仮に姿を現して民衆を救済するという思想で、本地を仏菩薩、垂迹を神とする。神は日本では「権(かり)に現れた」ので「権現」という尊称が付けられた。神々はこれによってすべて仏菩薩と個別的に結びつけられ、神仏習合の論理は徹底化される。
修験は本地垂迹思想に基づいて山岳修行を体系化する。日本古来の神々に加え、胎蔵界・金剛界曼荼羅にみられる諸仏・諸菩薩・諸天などが崇拝対象となった。中でも、蔵王権現は修験道においてのみ見られる崇拝対象である。吉野山の金峯山寺の金剛蔵王大権現は忿怒身を持ち、修験道の開祖・役小角により感得された修験者の守護神とされる。
金峯山修験本宗の総本山・金峯山寺(吉野・大峯)
結局、本地垂迹思想は仏教が神祇信仰を完全に取り込み神仏習合を完成させたことを意味する。そして、神道思想において真言密教の教えを取り入れた「両部神道」が生まれることにもなった。日本の神々は大日如来の垂迹であり、例えば伊勢内宮の天照大神さえも、胎蔵界の大日如来とされたのだ。
ここで重要な点は、仏教が国家の最も支配的な宗教としての地位を確立したことであるが、されど他の宗教を否定し去ったわけでなく習合・共存したことである。つまり、仏教支配の下に様々な宗教はうまく棲み分けて共存し、人々の日常生活と切り離せない各々の役割を果たしたのだ。
◆現世利益の祈願に応えた民族宗教思想「修験道」
宮家準著「神道と修験道 民族宗教思想の展開」(春秋社)は、次のように述べる。
里人たちは、生産儀礼や地域の守護は氏神に、葬儀や供養の法要は檀那寺に、現世利益的希求は山伏や祈祷寺院にというように、諸宗教を分けへだてなく受容する慣習を維持してきた。そして、吉田神道下の神職が祈祷をしたり、山伏が氏神の別当を務めたりすることも多く、相互の出入りが絶えなかった。修験者は地域社会に定住して活動し、各地の霊山の登拝、社寺参詣、巡礼や遍路の先達を行った。近世になると山伏は地域に定住して里人の救済に携わった(里修験・里山伏)。
鈴木正嵩著「山岳信仰ー日本文化の根底を探る」(中公新書)も、死者供養の檀家寺と祈祷中心の修験とは共存関係にあったという。そして、山岳信仰の各地への伝播には、修験者の働きが大きかったが、僧侶、神職、行者、巫女なども活躍した。修験者は半僧半俗の妻帯者が主体で、民衆には身近な存在であった。
今日の修験者(山伏)のイメージと全然違う。まるで地域に住む相談事カウンセラーのようである。修験道を担っていた多くの人々は、修行だけに生きている宗教者ではなかった。古代からあった山岳信仰という民衆共通の宗教意識がベースになっていたからだろうか。加持祈祷、病気治療、卜占託宣など、修験道は民衆にとって生活宗教であり、宮家準氏はこれを「民族宗教」と呼ぶ。
また、神仏共存の習合宗教であったことは、明治新政府の神仏分離政策によって明治5年(1872)に修験道が廃止されたときの状況をみればよくわかる。修験者は、神職か僧侶あるいは還俗の三者いずれかに転身することを余儀なくされたのだ。霊山の寺社も、神社になるか仏教寺院になるかの選択を迫られた。もちろん修験者たちの抵抗が続き、その後に修験集団として復権したところも多い。
◆河合曾良は修験者(山伏)だったのか
さて、本題の河合曾良は修験者(山伏)だったかである。諏訪の郷土史家で曾良研究者であった矢崎源蔵氏は、「曽良の生家を尋ねて(9)」(「信州文壇」昭和11年6月号)で、曾良は両部神道の修行による修験者(山伏)に近かったのではないかとする。
その根拠は、①曾良自筆の写本に「そもそも歌道は仏法修行の煤」云々とある、②奥の細道は苦難の旅であり不思議にも修験の修行すべき霊場が幾か所もある、③修験道は仏教の一派であって本山派は有髪、当山派は頭を剃って無髪である(曾良は剃髪している)、④奥の細道に「修験光明寺といふあり、そこに招かれて行者堂を拝す」とある、⑤奥の細道の後、伊勢路によって紀伊の熊野を参詣し、それから大和の大峯山に出ている、⑥嵯峨日記によれば吉野、熊野に2回詣でているのは信仰の為であるとみなされる、というように推測も含め挙げている。
確かにこれらの事実は、曾良が修験者(山伏)であったことをうかがわせるものである。しかし、これまで述べてきたように、修験道は神仏共存の習合宗教であり僧侶だけでなく神職や巫女なども担っていたから、これらの事実を持って修験者(山伏)であると決めつけることは難しいだろう。修験道実践のハードルは低く、村にも町にも多くの修験者が存在したのではないか。加えて、霊山・霊場の巡礼は江戸時代に一大ブームがあり、多くの民衆(百姓・町人など)が詣でていたからだ。
西海賢二「江戸の漂泊聖たち」(吉川弘文館)58頁
曾良は、仏教(密教)系の修験者(山伏)であったわけではなく、逆に、修験道を修めた吉田神道(吉川神道)系の神職であったのでないかというのが、私の見解である。加持祈祷や病気治療などがどこまで行えたのかわからないが、乞食の実践者に現世利益救済はふさわしくない。ただ、人に頼まれて出掛けるほどではあった。曽良が知人よりその娘が土浦で病気になっているので看護してほしいと依頼され、江戸より同地に赴いた時の紀行文「道の記」(諏訪史料叢書巻九)が残されているからである。
乞食の巡礼僧ではなかったのか?…。次は、いよいよ神職としての曾良の「生業」に迫ってみたいと思う。
http://furusatonosora.akiji.yokohama/2018/07/23/%e6%b2%b3%e5%90%88%e6%9b%be%e8%89%af%e3%81%ae%e3%80%8c%e7%94%9f%e6%a5%ad%e3%80%8d%e3%81%af%e4%bd%95%e3%81%a0%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%8b%ef%bc%88%ef%bc%94%ef%bc%89%e3%83%bc%e6%b1%9f%e6%88%b8%e3%81%ab/ 【河合曾良の「生業」は何だったか(4)】ー江戸に出て著名な神道家吉川惟足に入門 より
kijichann 2018年7月23日 河合曾良の「生業」は何だったか(4)ー江戸に出て著名な神道家吉川惟足に入門 へのコメントはまだありません
河合曾良は、天和元年(1681)33歳の頃、伊勢長島藩を致仕し、江戸に出たといわれる。武士をやめて、はたして何をして生計を立てていくつもりだったのだろうか。従来いわれてきたことは、「神職」や「神道家」の道である。というのは、江戸に行き、著名な神道家吉川惟足(よしかわこれたり、1616~1695)に入門し、神道を学んだからである。生まれも信濃国諏訪大社のおひざ元であった。吉川惟足は、吉田神道の道統継承者にして、天和2年(1682)に「幕府神道方」という要職に就いた人物であった。
◆「東都に往て吉川惟足の門に入り…」(「曾良追福五十回忌集」曾良小伝)
曾良追福五十回忌集「乞食袋」にある曽良小伝(小平志水筆)には、「東都に往て吉川惟足の門に入り敷島のあとを尋て浅香山の浅からぬより山の井の深きに遊ひ…」とある。吉川惟足に入門するとともに、全国の名所旧跡を訪ね歩いていたことがわかる。吉川神道を学ぶ一方で、全国各地の神社仏閣を巡礼していたのであろう。
曾良が神道に造詣が深く、神社の神職や神道家らと懇ろな交流を持っていたことには多くの証拠がある。少し列挙してみよう。①岩波庄右衛門(曾良)あてに吉川惟足が与えた「神道伝書」がある(諏訪の宮坂恒由家に残る)、②「奥の細道」の「室の八島」の条において、曽良は芭蕉に室の八島明神の由来を説明している、③「奥の細道」の旅に向け「延喜式神名帳抄録」という各地の神社リストを準備していた、④元禄4年(1691)3月からの「近畿巡遊」の旅において、霊山・神社仏閣を巡り歩くとともに、多くの神職とも会っている、⑤近畿巡遊の帰り、伊勢に滞在している間に中臣祓(なかとみのはらえ)の講義をしている、⑥吉川源十郎(惟足)の屋敷に「日本紀(にほんぎ)十三冊」「旧事記(くじき)五冊」「古事(こじ)三冊」などを取りに行くようにという岩浪六兵衛あて庄右衛門の書簡がある(いつの書簡か諸説あり)、など挙げれば切りがない。日本紀とは、日本書紀である。
江戸時代の武家の服装(小学館「全訳古語例解辞典」より)
さて、⑥で触れた岩浪六兵衛あての庄右衛門の書簡は、庄右衛門が吉川惟足の屋敷に一室を与えられ寝泊りしていたことをうかがわせる。吉川神道古典の「日本紀十三冊」「旧事記五冊」「古事三冊」のほかに、「のしめ袷(あわせ)」(江戸時代に武家の礼服として用い、麻の裃の下に着た衣服),「ふとん」なども預けていたからである。当時の武家の正装は、自分の家紋のついた「のしめ袷」を着て、その上に御役目に応じた裃を身につける形であったという。
吉川惟足屋敷があった本所、七千六百坪という広さであった(墨田区)
◆言葉の力を信じた吉川惟足
この書簡からは、もう一つ面白いことがわかる。吉川惟足の屋敷に預けていた「日本紀十三冊」は三巻から十五巻までであって、曾良は、日本書紀の一巻・二巻を常に自分の手元に置いていたとみられるのである。いうまでもなく、一巻・二巻は「神代巻(かみよのまき)」上下であり、吉川惟足が神道理解の根拠とした古典なのである。
徳橋達典著「吉川神道思想の研究」(ペリカン社)によると、吉川惟足は言葉の響、言葉の力を信じた人である。惟足は、日本書紀の「神代巻(かみよのまき)」の記述全部を神語、すなわち直に神々が語った言葉(詠歌・教示・託宣)であるとした。「日本書紀」を最も尊重してはいたが、神道を究明するうえで、「日本書紀」「古事記」「旧事記」を相対的に併用して理解することが基本的方法であるとした。その点で、吉田神道の道統継承者であるゆえに決して否定するわけではないけれど、単に神々への祈祷や奉仕に主体を置く吉田神道を乗り越えようとし、神道としての道(教義)を究めることを目指した。
同著は、「和歌の理解を高く位置付けたのも吉川神道の特徴である」とも指摘する。詠歌は神々との交流手段である。つまり、神々に感応する人々の心と人々の心を納受する神々との交流は、和歌を介して認められるとする神道の信仰心意を示している。神々と人々は、一方向的ではなく、双務的相互依存関係にあると考えていた。別の書によれば、吉川神道では講義の後には必ず作歌をしていたという。振り返ってみると、曽良も様々な和歌を残している。
◆吉川惟足が継承者となった吉田神道とは
ここで、吉川惟足を理解するために、吉田神道について触れておかなければならない。何といっても、吉田神道の道統継承者である。吉田神道は、室町時代後期に吉田兼倶(よしだかねとも、1435~1511)によって樹立された神道で、唯一宗源神道ともいう。それまで神道は、両部神道(真言神道)、山王神道、伊勢神道のように、仏教の影響を強く受けて、仏教の教義や儀式の多くを取り入れざるを得なかった。逆の面から言えば、論理体系を仏教の教義に頼らざるを得ず、神道独自の教義を確立し得なかったということができる。
しかし、「吉田兼倶は、800年もの間(6世紀の仏教伝来以来)、誰もがなしえなかった仏教からの神道の独立という偉業をやってのけた」(井上智勝著「吉田神道の四百年」講談社選書メチエ)。その代表的著書「唯一神道名法要集」では、神道を①本迹縁起神道、②両部習合ノ神道、③元本宗源ノ神道に分類し、元本宗源ノ神道を誠の神道とし、吉田家のみに唯一伝わっている最高の神道であるといったのである。
具体的には、あらゆる現象の根源が国常立尊(くにところのたちのみこと)であり、国常立尊と八百万神々とは一体である。それぞれの神々の働きによってあらゆる現象が起きているが、国常立尊の働きに一切が帰する。これは大日如来を本地とする「本地垂迹説」を逆転させ、国常立尊を本地とする「神本仏迹説」を主張したものだといえよう。
吉田兼倶が目指したものは、それだけではなかった。天下人から信用を得て「吉田の神主」=神使いとして復権し、全国の神職や修験者の頂点に立つことだった。吉田家は、神使いとして斎場所で祈祷を行うことを基本にしながら、「鎮札」や「宗源宣旨」「神道裁許状」などの各種証状を付与する権限を駆使した。これは、吉田家に大きな利益をもたらしただろう。しかし、戦国時代に入って吉田家・吉田神道は零落の憂き目にあう。江戸時代になって、吉田家及び吉田神道の再興を図ったのが吉川惟足である。明暦2年(1656)、惟足は吉田神道の最高権威者の萩原兼従から奥義を伝授され、道統継承者になる。
詳細はこれ以上触れないが、井上智勝著「吉田神道の四百年」(講談社選書メチエ)に詳しいので、参照していただきたい。
◆仏教を排し儒教により神道確立を目指す
吉田神道は仏教からの独立を目指したものの、仏教自体を排したわけではないことを付言しておかなければならない。吉川惟足の吉川神道も、仏教色を排し儒教色を強調しているものの、仏教そのものを排しようとしたわけではない。江戸前期において、仏教の権威やシステムと並立する形で、神道による権威やシステムを確立しようとしていたのではないかと思う。
「排仏思想が神道思想家の間に広まるのは、江戸時代初期の17世紀半ば以降である。それ以前は、神職であったものが、晩年出家したり、阿弥陀仏に祈願したりする例が多かった。たとえば、伊勢神宮の祭主や禰宜クラスの神職が氏寺を持っていたり出家をしたり、写経をしたりする例が、平安時代から戦国時代までの間に半分近くいたのである。それほど古代から中世においては、仏教信仰が日本人の間に浸透していた。」(安蘇原正彦著「神道とは何か」ぺりかん社)。
真の意味で、儒教による神道確立を目指し仏道の排斥論を展開したのは、吉川惟足の弟子でもあったが後に離れた山崎闇斎(やまざきあんさい、1618~1682)の「垂加神道」である。闇斎は神道の主流となり、五経に加え四書を聖典として尊重し、「大学」に教えの根本を置き修身を目標とした。仏教を排する神道の思想は儒学の教説に頼るしかなかったが、この後、江戸中期の本居宣長の「古学神道」や明治期の「国体神道」の道筋に受け継がれていく。
◆武家社会に受け入れられた吉川神道
吉川惟足の神道は江戸前期の武家社会に受け入れられた。その理由は主に二つあるだろう。
一つの理由は、日本書紀や中臣祓の講義を公開することで、武家社会や儒学者に多くの信奉者を得たことである。言葉の力を信じたのであろうか。保科正之、稲葉正則といった徳川一門の大名が弟子となり、吉川神道を支援した。特に、会津中将保科正之は惟足を重用し、五代将軍綱吉にも謁見させ、天和2年(1682)に幕府により「神道方」に取り立てたのである。このことに関して、井上智勝氏は、天皇・朝廷に掌握された「聖域」であった神道を押さえ、徳川政権を真の「王権」に近づけようと挑んだ人物こそ保科正之であったと評価する。そして、宗教統制をもくろむ徳川政権にとって、神道を掌る公家の吉田家を取り込むことは、諸国神職支配において意味が大きかったと述べる。
もうひとつの理由は、社会の安定化の中で、儒教が、武家の道徳つまり家臣に対する思想教育として受容されていったことである。身分制度が固定化されるに伴って栄達・昇進は抑制され、人々の不満は高まる。その中にあって、「敬」を重視し、個人道徳(処世訓)となる儒教は、近世体制の根本精神となって行ったのである。吉川神道もこの過程に位置づけられるであろう。
吉川惟足講談「中臣祓」(国会図書館デジタル資料)
◆河合曾良にとっての神道思想
元禄3年(1690)に芭蕉が曾良にあてた書簡に、「宇賀神・弁天両神の神徳などについて菅沼氏に手紙を書いてあげてください」などと書かれていること、近畿巡遊の日記において、名所や仏閣は「見る」と記しているのに対して、神社は「拝む」「参る」と表現を使い分けているところにも神道に対する造詣の深さが見られるのである(諏訪市教育委員会発行「河合曽良」)。
曾良が相当に神道を勉強していたことは確かであろう。であるならば、儒教が武家の道徳精神として浸透し、儒教に基づく神道確立への時代の胎動も十分に感じとっていたはずである。にもかかわらず、曾良から儒教の匂いを感じとることはできない。いわゆる「神道家」の道に邁進していたようにも見えないのである。
曾良は旅から旅へ日々を費やし、自然の中で森羅万象の神々との一体感を感じることに生きがいを見出していたのではないか。吉川神道から学んだことによれば、私たちの回りは神々にあふれており、神々と人間との間には一体となりうる性質が付与されているのだ。特に山岳修行においては、神々の「人間生活の根源を支える力」を身につけることが出来るのである。
曾良がこのような実践的な神道を求めたと考えると、それはいわば「神道乞食」の道であろう。次回は、「神道乞食」を含め、江戸時代前期において神道を支えた人々はどのような人々であったのか、さらに考察を進めてみたいと思う。
http://furusatonosora.akiji.yokohama/2018/08/20/%e6%b2%b3%e5%90%88%e6%9b%be%e8%89%af%e3%81%ae%e3%80%8c%e7%94%9f%e6%a5%ad%e3%80%8d%e3%81%af%e4%bd%95%e3%81%a0%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%8b%e2%80%95%e7%a5%9e%e9%81%93%e5%ae%b6%e3%81%a8%e3%81%97%e3%81%a6/ 【河合曾良の「生業」は何だったか(5)―神道家としての曾良の行動】 より
河合曾良は、俳諧の師松尾芭蕉を敬慕し、芭蕉が追求した俳諧の道を共に歩まんとした弟子のひとりだったのではないだろうか。それは、師に対する平生の態度や行動に表れていたが、元禄3年(1690)9月26日芭蕉にあてて出した書簡で、まず「下血(病状)を心配している」と述べたのち、「もしも年内に江戸にお戻りにならないようだったら、新年早々には(上方に)お迎えに伺いたい」と書いている。芭蕉のいない江戸の状況を憂え、師が帰ってくるのを待望している様子がうかがえる。
神道の師吉川惟足(1616~1695)に対する態度も同じだったように思われる。もっとも、芭蕉は6歳年上の兄のように気のおけない存在で、惟足は33歳も年上の父のような厳格な存在である。幕府の「神道方」に就いていた惟足は恐れ多く、近寄りがたかったかもしれない。元禄2年(1689)11月に東北・近畿の長旅を終え、ひとり江戸に帰ってきた曾良がまず挨拶に行った所は惟足である。俳諧とは別のもう一つのフィールド、「吉川神道」とは曾良にとってどのような意味を持っていたのだろうか。
吉川惟足肖像(国会図書館デジタル資料)
◆旅立ちから7か月ぶりに吉川惟足へ挨拶に
元禄2年(1689)11月の曾良随行日記(芭蕉の随行は既に終了していたが11月13日まで日記が残る)は、「朔日 荒井二日袋井三日藤枝四日沖津五日沼津六日小田原七日戸塚八日、申ノ刻鈴木町ニ着ク。名古屋立テヨリ一日モ雨不降。」と記し、降雨に一日も遭遇することなく名古屋から江戸までを歩き通したことがわかる。名古屋の山口を10月29日に立ち、同日に井戸田に泊り、晦日30日は藤川に泊っているので、都合名古屋からは10日間かかっている。距離にして約350kmであるから、一日35kmという平均速度である。
「九日 源右殿ヘ行。」とある。源右殿というのは吉川惟足のことである。江戸に帰り着いた翌日に、まず最初に挨拶に行っている。7か月余りに及ぶ長旅から無事に帰ったことを、本所の屋敷にいる惟足に報告しに行ったのであろう。前回、曽良の書簡からは、惟足の屋敷内に部屋が与えられていたのではないかと述べた。とすれば、部屋の門人たちから留守中のことを色々聞きたかったであろうし、門人仲間も陸奥をはじめとした旅先の経験談を聞きたかったに違いない。
「十日 愛宕ニテ政右衛門ニ逢。 十一日 ▢山ヘ行帰ニ川田氏ヘ寄。 十三日 深川ノ庵ニ帰ル。」とあり、最終的に深川の自分の庵に戻ったのは13日であるから、9日から12日まで4日間をかけて、旅立つ際に世話になった人たちなどへ挨拶に行っていたのではないかと思われる。
曾良から会いに行った愛宕の「政右衛門」や「川田氏」などがどのような人物や場所であったのか不明である。だから、ここから曾良の一連の行動に対する疑問が生まれ「幕府の隠密としての報告に行ったのではないか」といった憶説が生まれる。しかし、神祇職(神主)や神道家で身を立てるべく吉川神道に入門し、多くの門人たちと同様に部屋を与えられて学んでいたと思われるので、まず先生に挨拶をし、神道仲間に報告に行くのは何ら不思議でないだろう。
◆近世神道における吉川神道の位置
「近世の神道思想でまず特筆すべき大きな特徴は、中世の神道思想の中で主流を占めていた両部神道や山王神道などの神仏習合的な仏家神道に代わって、儒教と神道との一致を説く儒家神道が台頭してきたことであろう。もちろん、この儒教思想による神道の解釈や教学は、中世に起った神道思想である伊勢神道や吉田神道にもみられるものであるが、それは儒教に主体を置いて神道との思想的一致を説くものではない。」(國學院大學日本文化研究所「神道事典」弘文堂)。
儒教の始祖・孔子の肖像
「国教」たる位置にあった仏教の影響(本地垂迹説など)から神道を解放することは神道家の悲願であり、仏教を排するために利用された思想が「儒教」だったのである。しかし、中世に生まれた伊勢神道や吉田神道は、仏教を積極的に排斥したり攻撃したりした(排仏思想)わけではない。現実社会における共存共栄に受容的であった。その意味では、吉田神道の道統継承者だった吉川惟足も、神儒一致の思想的基盤に立っていたけれど、神道を国家経世の学問に引き上げることを目標にしていただけで、仏教を排斥しようという攻撃的な態度ではなかった。
「願わくは世の人が、わが神を崇めて仏を排すれば、国家は上古の淳直さを回復し、人民の生活は清浄さに到るだろう。」(大野晋「日本人の神」河出文庫から)と述べて仏教を攻撃したのは、儒学者(朱子学者)林羅山(1583~1657)である。そして、それに続き儒家神道「垂加神道」を確立した山崎闇斎(1618~1682)である。しかし、成功しなかった。先の書で大野晋氏は「カミとホトケの分離を目指した儒学者たちは、ホトケの教説の代わりに儒学の教説に頼った。だから、カミを説くその教説は根源的に無理があり、全く説得力を持っていない。」と述べ、厳しい評価をしている。
吉川惟足も教学としての儒家神道、言いかえれば神道(儀式や行法に重きを置いてきた)の近世化を目指したことは確かである。しかし儒教的側面は強くなく、「吉川神道は儀式や行法などよりも天下国家を治める道、保持する道、すなわち治道としての側面に重点を置いた。そしてそのために君主・主従の関係における道義、倫理を強調しており、武士道的側面を合わせ持つものであった。」(國學院大學日本文化研究所「神道事典」弘文堂)。
◆儒教思想はまだ民衆レベルに浸透していなかった
東洋文庫ミュージアムが発行する「もっと知ろうよ!儒教」(時空を超える本の旅13)に「日本の儒教」についての解説がある。
儒教の日本伝来は、応神天皇20(289)年、百済の渡来人応仁が「論語」10巻を朝廷に献上したのが最初といわれるが、儒教思想が個人の生き方を規定する生きた教えとして機能するようになるのは、江戸時代である。初めて儒教を独立した思想として自覚して生きたのは、江戸初期の藤原惺窩(1561~1619)である。その高弟が朱子学者林羅山である。元禄期に入ってから、伊藤仁斎(1627~1705)、荻生徂徠(1666~1728)、山鹿素行(1622~1685)が登場し、「古学派」をなす。しかし、本当に日本社会に普及したのは江戸後期である。
儒教において、あらゆる現象や物質の存在に対する認識の源となっているのが、「天」である。天は、天空や気象などの自然を意味する語であるとともに、人の運命やあるべき姿とも密接に関わっていると考えられた。また、「天の動きと人の行いが互いに影響を与え合う」とする「天人相関思想」があるという。天の存在は、あらゆる価値観に影響を与え、世界観の根本を形成している。
私達も「お天道様に顔向けできない」「お天道様が見ている」などと言ったりする。これも、儒教の思想が私たちの日常の中に浸透している事例と言えるのであろうか。だが、儒教が浸透するのは江戸後期以降であって、江戸の全中期までは、やはり圧倒的に仏教が生活の中に浸透していたのだろうと思う。
これは、あくまでも私の印象であるが、吉川神道の教学は「儒教」の倫理的側面を取り入れたものであって、神人一体(天人相関)の理想の道をわかりやすく説き、実践することを説いた「人生訓(処世訓)」のように思えてくるのである。吉川神道は、吉田神道を受け継いでいるからだろうか、儀礼や行法の価値を認めていたともいわれる。人の道を説き、幕藩体制の秩序形式をある意味で補強するような性格であったことが、幕府の重臣や有力大名に支持者を得て、武家社会の行政に受け入れられた理由かもしれないと思う。
思想としての儒教の勃興期は、まさに曾良や芭蕉と同時代だった訳である。中世の神道を仏教ではない儒教によって体系づけようとする動きが生まれたのも当然であったろう。まだ儒教思想は民衆レベルには普及していなかったが、武家社会の上層部や知識層、当然曾良や芭蕉にも影響を及ぼしたに違いない。曽良の思想的なバックボーンの一つになったのではないだろうか。
東洋文庫ミュージアム 時空をこえる本の旅13
◆「近畿巡遊の旅」における曾良の行動
さて、曾良の神道家としての力量は、「奥の細道」の旅の随所に発揮された。芭蕉も、その力量を高く評価していたと思われる。だから、元禄3年(1690)9月12日付け曾良宛ての書簡において「宇賀神・弁天、両神神書の旨、並に神徳の事ども、あらあら御書付なされ、菅沼氏まで遣わされ下さるべく候。縁起がましき事を書き申さで成り申さず故、いかに御座候。」と依頼した。曽良も「別紙に書き付け、お目に懸けます」と返事している。
菅沼氏は膳所藩士の俳人曲水で、近江において芭蕉に住居「幻住庵」を提供し支えた人である。芭蕉も「勇士曲水」と記し「ただ者にあらず」と言い、信頼を置いた一人だった。むべなるかな。享保2年(1717)7月20日、藩の悪家老曽我権太夫を槍をとって刺殺し、自らも責任をとって切腹するという最期であった。
曾良は神道家として力量を持ちながら、神祇職(神主)などの定職で生活の糧を得ていた様子が見られない。とはいうものの、各地の数多の神社を参詣し、多くの神祇職(神主)との交友関係を有し、そこを宿にして旅しているのである。元禄4年(1691)3月4日に始まり7月25日に終わる「近畿巡遊日記」は、そのような曾良の行動と人間関係を如実に示している。
村田忠一「研究ノート『曾良旅日記』と二十二社」は、この旅で曾良が中世からの主要な神社である二十二社のほとんどを参詣したことがわかると述べ、「三輪拝ス」「丹生へ社参」「北野ニ参詣」「住吉ニ趣」というように具体的な行動が記され、さらに伊勢神宮の7月15日の日記に「早朝ヨリ中臣講ス。昼過ニ終ル」とあるのは、曾良と神道との関わりを示す数少ない記録であると述べる。
「(四月十一日から十三日にかけての)三日間の日記には、右の三社(熊野三社)における社殿の配置図と思われるものが記入されており、二十二社を含め近畿の歴史的な神社についての曾良の知識と関心の深さがうかがえるとともに、その根底には宗教や歴史上の「古へ」に対する畏敬の念があるように感じられる。」
「曽良の近畿巡遊に関しては、これがとても俳人の旅とは認められず、一定期間内に多くの地をまわって社寺や地理等を調査する任務を与えられた者の旅のように見受けられるとの指摘がある。しかし、これは曾良が身軽な一人旅で近畿の名所旧跡を訪ねたうえ、日記を丹念に書き残しているための一つの印象に過ぎないかもしれない。」とまとめている。
村田氏の意見に私は全く同感である。神との一体を感じとろうとする曾良の信仰心から発する旅であったと思うのである。吉川神道の思想に基づく実践・行動だったのではないか。次回はこの「近畿巡遊の旅」を詳細に跡付け、曾良の信仰心に迫ってみたいと思う。
◆曾良が吉川惟足に入門した動機
最期に、今井黙天著「蕉門曾良の足跡」(信濃民友社)の中に「曾良入門の動機」に関する記述があるので、紹介して終わりたい。
「なお山ノ内氏の話では、曾良が吉川惟足の塾に入門したのは、長嶋藩には由来惟足と関係のある先輩があって、曾良が、奥の細道の時に、腹を病んで芭蕉に先立って長嶋に着た時八月十五日に一番先に泊り、又元禄四年の京洛を歩いた時、伊勢神宮の帰りに七月二十日、二十一日、と泊り、最後の二十五日に、江戸に立つときに、そこから立っている小寺氏は、惟足門で文筆をもって松平氏に仕えていた人であり、また城郭の西北に古い男山八幡が祀られているが、その神主の安倍氏も同じく惟足門であって、曾良はそうした先輩のすすめによって惟足に師事することになったものだと思われると言っていた。」
同書によれば、山ノ内氏は長嶋村史編纂委員山ノ内熊太郎氏である。
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