http://urawa0328.babymilk.jp/hosomiti/oyama.html 【~城山公園~】より
東北自動車道栃木ICから県道32号栃木粕尾線で栃木へ。栃木から県道31号栃木小山線で小山へ。 思川を渡ると、城山公園がある。
城山公園
小山城は城内に祇園社が祀られていたことから、祇園城と呼ばれたそうだ。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めによって後北条氏が滅びると、時の祇園城主小山氏も城を追われ、祇園城も廃城となった。
慶長5年(1600年)7月24日、徳川家康は上杉景勝征伐のため小山に到着。西軍による伏見城攻めを知り、翌25日、軍儀を開く。ただちに陣払いして関が原に向かった。
慶長13年(1608年)、家康の側近であった本多正純が3万石で城主となったが、元和5年(1619年)本多正純が宇都宮に転封になると、再び廃城。
元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月18日)、芭蕉は間々田を出発、小山を通って「室の八島」に向かった。芭蕉が小山を通った時、祇園城は廃城となっていたわけである。『奥の細道』の記述はないが、『曽良随行日記』には、次のように書かれている。
一 廿九日 辰ノ上尅マヽダヲ出。 一 小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ、右ノ方ニ有。
城山公園の西側を思川が流れ、東には国道4号(陸羽街道)がある。
芭蕉が陸羽街道を通ったのなら、「右」は「左」の誤りということになる。
元禄9年(1696年)7月7日、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどる旅の帰途で小山に泊まり、七夕の句を詠んでいる。
小山に宿ス。七夕の空を見れば、宵より打曇、紅葉の橋も所定めず、方角を知べきとて、月を見れば影なし。力なく宿を頼、三寸(みき)求め、牽牛・織女に備へ、間なくいたゞきてまどろみぬ。
○又起て見るや七日の銀河
[無都遅登理 五]
元文3年(1738年)4月14日、田中千梅は松島行脚の途上、小山の宿に入る。
明れハ十四日小山の宿に入小山の判官代々乃旧地也古城の跡ハ町の西にあり
https://setuoh.web.fc2.com/kaidoh/mama/mama.html 【間々田から鹿沼へ 奥の細道を辿る 】 より
曽良旅日記
「廿八日、マヽダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。……
廿九日、辰ノ上尅マヽダヲ出。」
辰上尅、辰の上刻とは、今の午前七時。随分の早立ちなんだ。このままだの宿泊地はどこだったのか、これもどこだか見当がつかないそうだ。
間々田―6.8km―小山―5.2―飯塚―6.5―壬生―10.7―楡木―0.9―奈佐原―4.7―鹿沼と辿って鹿沼に泊まったそうだ。この間約35km。
間々田八幡宮 小山市
誉田ほんだ別命わけのみこと(応神天皇)を祀る。藤原秀郷、源頼朝が戦勝祈願。
芭蕉句碑 間々田八幡宮 「古池や蛙飛び込む水の音」まるでここで詠んだみたいに池の畔にある。
逢あいの榎 小山市 ここが江戸・日光間36里の真ん中。「間あいの榎」だが、願掛けで男女が結ばれる由
「逢の榎」「十八里最中」小山市逢の榎にちなみ、すぐ近くの地元で造られる銘酒とお菓子。
小山脇本陣址 奥に玄関が現存。碑は明治天皇行在所跡。
小山評定跡 小山市役所敷地 慶長5年、家康らが上杉討伐で当地に来たとき三成挙兵を聞き、ここで評定をひらいた。
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曽良旅日記
「マヽダ出。小山へ一リ半、小山ノヤシキ右ノ方ニ有。
小田(山)ヨリ飯塚ヘ一リ半。木沢ト云所ヨリ左へ切ル。
此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生ヘ一里半。飯塚ノ宿ハヅレヨリ左にキレ、小クラ川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘかヽリ、室ノ八島ヘ行。スグニ壬生ヘ出ル。」
「小山のヤシキ」とは何だったのだろう。小山城は左手に当たるから城ではない。さて?
木沢=喜沢で日光街道から左の壬生通りに歩を進め、飯塚宿はずれから、芭蕉の訪問地の一つ「室の八嶋」へ回り道をして、また壬生通りに戻ってきた。
日光街道西一里塚 小山市 日光街道の喜沢から壬生通りへ。最初の一里塚は喜沢のゴルフ場の敷地内にあった。
飯塚一里塚 小山市 日光道中壬生通(日光西街道)喜沢の次の一里塚。日本橋より22里。
壬生一里塚 壬生町 国指定史跡。ここは壬生城の入り口で、将軍社参の時は城主が出迎えたという。
金売り吉次墓 壬生町
「ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。」(曽良随行日記)
稲葉の一里塚 壬生町 日本橋から24番目。約96kmに当たる。
壬生通り 嬉しいことに、所々にかつての並木の杉が残っている。
赤塚の一里塚 壬生町 江戸から25里目。拡幅で半分削られた。
楡木追分 鹿沼市 鹿沼通りが例幣使街道に合流する。
千葉省三記念館 楡木追分 ちょっと寄り道。当地出身の児童文学作家。
千葉省三句碑 千葉省三記念館前庭「楡堂老人書 白雲や鶯老いて志きり鳴く」
光太寺 鹿沼市
街の高台にある曹洞宗の寺院。ここに芭蕉が泊まったと伝えられる。「昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼ニ泊ル(曽良旅日記)
芭蕉笠塚 光太寺
江戸からの笠が痛んだので、ここで新しいのに取り替えて出かけたという。芭蕉の死を伝え聞いてその古い笠の供養のために建てたそうだ。
芭蕉の句 「入逢の鐘もきこえず春の暮」「鐘つかぬ里は何をか春の暮」 曽良書留。
光太寺に泊まった日の夕刻の吟と伝えられる。当時の光太寺は無住で、暮れ六つになっても入逢(入相)の鐘を撞く者もいなかったそうだ。そんなことが説明されていた。
無住のお寺に芭蕉たちが泊まった???
例幣使街道杉並木 今市市(日光市)
「四月朔日 前夜ヨリ小雨降。辰上尅、宿を出。止ミテハ折々小雨ス。終日雲。丑尅、日光ヘ着。雨止。……」(曽良旅日記)
鹿沼―8.9kn―文挟―3.6―板橋―8―今市―8―日光 と例幣使街道の杉並木から日光街道の杉並を通り抜け、29kmほどでお昼に日光着。東照宮を参拝して日光で宿泊。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/soratabinikki/00soratabinikki.htm#%E5%BB%BF%E4%B9%9D%E6%97%A5【曾良「奥の細道随行日記」「おくの細道」序】 より抜粋
巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下尅、千住ニ揚ル*。
一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。 江戸ヨリ九里余。
一 廿八日、マゝダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。間モナク降ル。午ノ下尅止。此日栗橋ノ関所通ル。 手形モ断モ不入 。
一 廿九日、辰ノ上尅マゝダヲ出。
一 小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ、右ノ方ニ有。
一 小田(山)ヨリ飯塚ヘ一リ半。木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル。
一 此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生ヘ一リ半。飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、(小クラ川)川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘカゝリ、室ノ八島ヘ行(乾ノ方五町バカリ)。スグニ壬生ヘ出ル(毛武ト云村アリ)。此間三リトイヘドモ、弐里余。
一 壬生ヨリ楡木へ二リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。
一 にれ木ヨリ鹿沼ヘ一り半。
一 昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼(ヨリ火(文)バサミヘ弐リ八丁)ニ泊ル。(火バサミヨリ板橋ヘ廿八丁、板橋ヨリ今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石へ弐リ。 )
一 四月朔日 前夜ヨリ小雨降。辰上尅、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。終日曇、午ノ尅、日光ヘ着。雨止。清水寺ノ書、養源院ヘ届。大樂院ヘ使僧ヲ 被レ添。折節大樂院客有レ之、未ノ下尅迄待テ御宮拝見。終テ其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。壱五弐四 。
一 同二日 天気快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出 。ウラ見ノ滝(一リ程西北)・ガンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈(那)須・太田原ヘ趣。常ニハ今市ヘ戻リテ大渡リト云所ヘカゝルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左ヘノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村へカゝリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。
○今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。
○大渡ヨリ船入ヘ壱リ半ト云ドモ壱里程有。絹川ヲカリ橋有。大形ハ船渡し。
○船入ヨリ玉入ヘ弐リ。未ノ上尅ヨリ雷雨甚強、漸ク玉入ヘ着。
一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル 。
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一 同三日 快晴 。辰上尅、玉入ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云ドモ二リ余也。翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。
一 四日 浄法寺図書ヘ被レ招。
一 五日 雲岩寺見物。朝曇。両日共ニ天気吉。
一 六日ヨリ九日迄、雨不レ止。九日、光明寺ヘ被レ招。昼ヨリ夜五ツ過迄ニシテ帰ル。
一 十日 雨止。日久シテ照。
一 十一日 小雨降ル。余瀬翠桃ヘ帰ル。晩方強雨ス。
一 十二日 雨止。図書被二見廻一、篠原被二誘引一。
一 十三日 天気吉。津久井氏 被レ見廻而*、八幡ヘ参詣被レ誘引。
一 十四日 雨降リ、図書被二見廻一終日。重之内持参*。
一 十五日 雨止。昼過、翁と鹿助右同道ニテ図書ヘ 被レ参*。是ハ昨日約束之故也。予ハ少々持病気故不参 。
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一 十六日 天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被二立越一。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及レ昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ 被レ送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。高久ニ至ル。 雨降リ出ニ依、滞ル。此間壱里半余。宿角左衛門、図書ヨリ状被レ添。
一 十七日 角左衛門方ニ猶宿。雨降。野間は太田原ヨリ三里之鍋かけヨリ五、六丁西。
一 十八日 卯尅、地震ス。辰ノ上尅、雨止。午ノ尅、高久角左衛門宿ヲ立。 暫有テ快晴ス。馬壱疋、松子村迄送ル。此間壱リ。松子ヨリ湯元へ三リ。未ノ下尅、湯元五左衛門方ヘ着。
一 十九日 快晴 。予、鉢ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽へ戻ス。午ノ上尅、湯泉ヘ参詣。神主越中出合、宝物ヲ拝。与一扇ノ的躬(射)残ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。夫ヨリ殺生石ヲ見ル。 宿五左衛門案内。以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事不レ定、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不レ出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、温也ノ由、所ノ云也。
温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉テ、雨(両 )神一方ニ拝レセ玉フヲ、
湯をむすぶ誓も同じ石清水 翁
殺生石
石の香や夏草赤く露あつし
正一位ノ神位被レ加ノ事、貞亨四年黒羽ノ館主信濃守増栄被二寄進一之由。祭礼九月二十九日。
一 廿日 朝霧降ル。辰中尅、晴。下尅、湯本ヲ立。ウルシ塚迄三 リ余。 半途ニ小や村有。ウルシ塚ヨリ芦野ヘ二リ余。湯本ヨリ総テ山道ニテ能不レ知シテ難レ通。
一 芦野ヨリ白坂ヘ三リ八丁。芦野町ハヅレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ (十町程過テ左ノ方ニ鏡山有)、八幡ノ大門通リ之内、左ノ方ニ遊行柳有。其西ノ四五丁之内ニ愛岩(宕)有。其社ノ東ノ方、畑岸ニ玄仍ノ松トテ有。玄仍ノ庵跡ナルノ由。其辺ニ三ツ葉芦沼有。見渡ス内也。八幡ハ所之ウブスナ也 (市兵衛案内也。スグニ奥州ノ方、町ハヅレ橋ノキハヘ出ル。)
一 芦野ヨリ一里半余過テ、ヨリ居村有。是ヨリハタ村ヘ行バ、町ハヅレヨリ右ヘ切ル也。
一 関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や有。 小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古関を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。廿日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル(旗ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也。土中古土器有。寄妙ニ拝。)
一 廿一日 霧雨降ル、辰上尅止。宿ヲ出ル。町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉 嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。ソレヨリ戻リテ関山ヘ参詣。行基菩薩ノ開基。聖武天皇ノ御願寺、正観音ノ由 。成就山満願寺ト云。旗ノ宿ヨリ峯迄一里半、麓ヨリ峯迄十八丁。山門有。本堂有。奥ニ弘法大師・行基菩薩堂有。山門ト本堂ノ間、別当ノ寺有。 真言宗也。本堂参詣ノ比、少雨降ル。暫時止。コレヨリ白河ヘ壱里半余。中町左五左衛門ヲ尋。大野半治ヘ案内シテ通ル。黒羽ヘ之小袖・羽織・状、左五左衛門方ニ預置。 置。矢吹ヘ申ノ上尅ニ着、宿カル。白河ヨリ四里。 今日昼過ヨリ快晴。宿次道程ノ帳有リ。
○白河ノ古関ノ跡、旗ノ宿ノ下里程下野ノ方、追分ト云所ニ関ノ明神有由。相楽乍憚ノ伝也。是ヨリ丸ノ分同ジ。
○忘ず山ハ今ハ新地山ト云。但馬村ト云所ヨリ半道程東ノ方ヘ行。阿武隈河ノハタ。
○二方ノ山、今ハ二子塚村ト云。右ノ所ヨリアブクマ河ヲ渡リテ行。二所共ニ関山ヨリ白河ノ方、昔道也。二方ノ山、古 哥有由。
みちのくの阿武隈川のわたり江に人(妹トモ)忘れずの山は有けり
○うたゝねの森、白河ノ近所、鹿島の社ノ近所。今ハ木一、二本有。
かしま成うたゝねの森橋たえていなをふせどりも通はざりけり(八雲ニ有由)
○宗祇もどし橋、白河ノ町(石山より入口)より右、かしまへ行道、ゑた町有。其きわに成程かすか成橋也。むかし、結城殿数代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしま ニて連歌有時、難句有レ之。いづれも三日付ル事不レ成。宗祇、旅行ノ宿ニテ被レ聞之て、其所ヘ被レ趣時、四十計ノ女出向、宗祇に「いか成事にて、いづ方へ」と問。右ノ由尓々*。
女「それハ先に付侍りし」と答てうせぬ。
月日の下に独りこそすめ
付句
かきおくる文のをくには名をとめて
と申ければ、宗祇かんじられてもどられけりと云伝 。
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