小山評定と小山御殿

https://www.city.oyama.tochigi.jp/soshiki/5/206219.html 【小山評定と小山御殿】より

小山評定(おやまひょうじょう)

小山評定は、徳川家三百年の安泰の道筋をつけた重要な軍議で、慶長5年(1600)に、ここ小山の地で開かれました。

徳川家康は7月24日、上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かっていた途上、下野国小山に本陣を置きました。その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転西上して石田を討つべきか」を質したのです。これが世にいう「小山評定」です。

小山評定跡 市指定史跡小山評定跡

「小山評定」により東軍が結束

家康に従う諸将のほとんどは豊臣家譜代の武将で、大坂に妻子を残してきており、その去就が家康にとっては興亡の境目だったのです。

このとき、尾張国清洲(愛知県)城主の福島正則が家康のために命を投げ出すことを誓い、続いて遠江国掛川(静岡県)城主の山内一豊が、「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言しました。一豊の建議が諸将の気持ちを動かし、家康支持で固まったのです。家康は、特にこの時の一豊の建議を、「古来より最大の功名なり」と激賞しました。

こうして、家康率いる東軍は、石田三成討伐するため西上することに決したのです。

東軍の勝利を決定付けた「小山評定」

9月15日、美濃国関ヶ原(岐阜県)に東西両軍20万の大軍が相まみえて天下分け目の一大決戦が行われ、東軍が勝利したのでした。関ヶ原の戦いの直接の勝因は西軍小早川秀秋らの土壇場の寝返りといわれていますが、西軍が当初から足並みが乱れていたのに対し、東軍は固く結束していました。

東軍にこの結束をもたらしたのがこの「小山評定」であり、歴史上最も重要な軍議の一つと評されています。             

小山御殿

徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所として建てられました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直前に行われた「小山評定」の吉例にならったともいわれています。

徳川家康は元和2年(1616)4月17日に没し、翌年日光東照社(後の日光東照宮)にその遺骸が改葬され、一周忌が営まれます。

それ以来、日光は徳川将軍家の聖地となります。将軍家の日光社参は19回に及び、なかでも三代将軍の家光は10回も社参を行っています。

小山御殿は、かなり厳重な配置になっており、周囲に堀を廻らし、土塁を二重に築き、敷地内には16ヶ所もの御番所が設けられていました。

将軍家の日光社参は寛文3年(1663)に4代将軍家綱が行って以降、八代将軍吉宗が享保13年(1728)に再開するまで財政難を理由として途絶えてしまいます。

この間、台風によって建物の一部が壊れてしまったこともあり、小山御殿は天和2年(1682)、古河藩によって解体されてしまいました。

小山御殿広場

「小山御殿広場」は、小山市役所の北側にあり、祇園城の御殿曲輪にあたる範囲で、一般公募により命名されました。

小山御殿広場は、歴史を学ぶ場であり、文化活動やさまざまな学習・体験の場として活用することができます。

中世小山氏の重要な遺構を保存することはもちろん、中心市街地に残された貴重な自然空間として、歴史案内とまちづくりの拠点となるように、今後の活用も十分考慮して整備が行われました。

調査により確定された「小山御殿」の建物配置や、周囲に造られた堀や土塁を平面表示するため、色分けをしたインターロッキングや着色コンクリート舗装を行いました。これは、雨水を素早く地下に浸透させる機能も併せ持つ自然に優しいものであり、高麗芝とあいまって、自然な空間を作り出しています。


https://blog.goo.ne.jp/mugiide/e/435171b02a2b45b13a2424478b492a70 【小山御殿(栃木県)】 より

【小山御殿】おやまごてん 【築城者】本多正純 【築城年代】1619年(元和5年)

【指定史跡】【場所】小山市中央町1丁目1−1 地図

小山御殿は、徳川将軍家の日光社参の祭の休憩・宿泊所として設けられました。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの直前に行われた「小山評定」の吉例にならったものといわれています。

小山御殿は厳重な配置になっており、周囲に堀が廻り土塁が二重に築かれ敷地内には16ヶ所の番所が設けられていました。

小山評定跡

小山市役所に入ると正面玄関に向かう駐車場内に山評定跡の碑があります。

小山評定跡由来碑

慶長5年(1600)7月24日徳川家康は、会津上杉景勝を討つべく小山に到着しました。このとき、石田三成が家康打倒の兵を挙げたことを知り、翌25日この地において軍議が開かれました。これが「小山評定」といわれるものです。

軍議は、3間4方の仮御殿を急造し、家康と秀忠を中心に、本多忠勝、本多正信、井伊直政や福島政則、山内一豊、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至鎮らの諸将が参集しました。

福島政則が協力を誓い、これをきっかけに軍議は家康の期待どおりに決まりました。

同年9月15日、関ヶ原の戦いがおこなわれ、東軍(徳川方)の勝利に結びついた歴史上重要な所です。※小山評定跡由来碑より (略)


http://www.pasonisan.com/rvw_trip/15-10-gionjou.html 【祇園城(小山城)】 より

栃木県小山市の祇園城へ登城してきた(2015年10月)。小山駅から西方500mほどにある城郭の一部が城山公園として史跡保護されている。「祇園城跡、中久喜城跡、鷲城跡」をまとめて小山氏城跡とし、国指定史跡である。縄張りでは幅10m以上もの空堀と土塁で仕切られており、城郭の全容は不明であるが部分的でも見応えがある。

小山氏の城、祇園城思川からの祗園城遠景。小山城という呼び名もあるが、地元ではもっぱら祇園城と呼ばれるようだ。

祗園城は「14世紀後半ごろにはあった」と記録で確認できるが、築城年代は不明。(伝承では平安時代に、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷が築いたと言う)。城の守り神として祇園社(現在の須賀神社)を祀ったことから、祗園城と呼ばれたという。築城されたことは、現在の城山公園ほどの規模だったが、時の支配者によって拡張されてきたという。

小山氏の本拠となったのは15世紀になってからと推測される。小山氏は越後上杉氏や小田原北条氏との攻略を受けてきたが、1575年に北条氏照によって陥落し、小山秀綱は追放された。その後、北条氏照によって大規模な改修が行われたとされる。1582年、織田信長の惣無事令により、北条氏照から祇園城を返還され小山秀綱は復帰。しかし北条氏への帰属が条件だった。

豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡。その共倒れで小山氏も滅亡。そして江戸幕府が開府すると、本多正純が3万石で入封し最終的な改修が行われた。東西約400m、南北約700mの城郭となる。1619年に本多正純が宇都宮へ転封となると、祇園城は廃城となった。

城山公園31号線からが城山公園のメインゲートとなっている。入り口の祗園城案内板にて縄張りをチェックする。

祇園城の縄張り

縄張り天然の要害を利用した台地上の城で、西側には思川(おもいがわ)があり、川の浸食によって城郭西側が切り立った崖になっている。一方、東側は宅地化によって城郭の多くが壊されている。 天翁院(てんのういん)が城の北限であるが、南限は定かではない。この城郭マップでは公園入口からの曲輪が「本丸」と記しているが、南限は定かではないので不確かだろう。

江戸時代になると日光社参のために小山御殿(小山市役所付近)が建てられるが、もしかするとそこに城主の御殿があったのかもしれない。そこで小山評定が行われた可能性も考えられる。

本丸(仮)

思川一応、本丸(仮)とされているところから見た思川。西側の守りは鉄壁だといえるだろう。増水時には空堀が水堀にもなりうる地勢だ。

小山城本丸(仮)本丸(仮)。現在は平坦であるが、もともとは土塁などでもっと城郭っぽかっただろう。この辺では、無警戒な野良猫どもがゴロゴロしている。このまま北限とされる天翁院に向かって北上していく。

馬出しに差し掛かる祇園橋。

土橋らしき遺構はないので、昔は曳橋が架けられていたことだろう。その下の空堀は旧結城道。

祗園橋を渡り、次の曲輪へ。馬出しの大きな空堀。馬出しとは出撃用の郭であり、もっとも戦闘力の高い場所であることから、この辺りが2の丸と推定してもいいかも。

遊具が配置されている曲輪。横の舗装道は土を削りとった後世のものだろう。

遊具エリアの斜め横に、市指定、樹高15mの公孫樹(イチョウの漢名)がある。「祇園城の大銀杏」と呼ばれる古木だ。

祇園城落城時、姫が井戸に身を投げたが、目印に挿した銀杏が成長したんだとかいう伝説がある。また、姫の霊が宿って実を結ぶことがないとの伝承があり、「実なしいちょう」とも呼ばれる。旧跡にはよくある話で、「夜泣き石(国府台城)、御主殿の滝(八王子城)、桔梗塚(本佐倉城ちかく)、ねじり畑(石橋山古戦場)」のように怨念系伝承だ。「悲惨な出来事を忘れちゃなんねぇ~」という昔の人の知恵が作り上げたものだと自身は思う。確かに伝承していくには石碑よりかインパクトがある。

虎口風の通路を通って、次の曲輪へ。ここにも曳橋がかけられており、土橋がほとんど見られない城郭だ。やはり思川増水時には水堀になったのではないかと益々実感する。

天翁院へ向かって堀を歩く

ここからは橋の下の空堀を通り天翁院へ向かう。かなり大規模な空堀だが、現在は地元人の抜け道として使われているようだ。

まだ空堀であろうが随分開けた場所にでた。天翁院の駐車場がみられる。ここから東側は住宅地化されており、土採りなどで遺構は破壊されているようだ。塚みたいなところもかつては曲輪だったのかもしれない。

天翁院

天翁院 小山氏の菩提寺小山氏の菩提寺である天翁院。平安末期の小山政光による開基といわれるが、1472年に小山高朝が現在地に移建した。ちなみに小山高朝の法名が「天翁考運」。

祇園城ゆかりの須賀神社

須賀神社小山氏や町衆から崇敬を集めてきた須賀神社。(栃木県小山市宮本町)。祇園社とも牛頭天王社とも呼ばれる。

社伝にはこうある。藤原秀郷が天慶の乱(将門の乱)に際して戦勝祈願して成就したため、940年に京都の八坂神社(祇園社)から勧請した。当初は字北山(中久喜)にあったが、祇園城の鎮守とされたため、築城に際し現在の地に遷座された(1160年頃)。 徳川家康は関が原の戦い(1600年)の戦勝祈願をしており、境内にて小山評定を開いたいう

小山氏の興亡

小山氏は藤原秀郷の子孫、太田氏を出自とする豪族。平安末期、太田政光が下野国小山に移住して小山氏を名乗った。このころは神鳥谷字曲輪(JR小山駅の南1.3km付近)に館を構えていたとされる。

1回目の滅亡!小山氏の乱

小山政光を小山氏初代として鎌倉幕府で威勢を張ってきたが、11代の小山義政のときに鎌倉公方の足利氏満に謀反を起こし、小山氏は一度滅亡した。なお、小山義政のとき、鷲城が本城であったため、この時の祇園城は支城であったとされる。

17年にわたる小山氏の乱

小山義政の乱(1380年~1382年) + 義政の遺児、小山若犬丸の乱(1386年~1397年)

小山義政と宇都宮基綱が、下野守護職と所領をめぐって対立したことから始まる。裳原の戦いで宇都宮基綱を討ち取ったが、鎌倉公方 足利氏満が介入したことで、謀反となり大きな乱へと発展した。一説では、勢力を拡大した小山義政を危惧した「足利氏満」の策謀とされる。氏満の司令を受けた関東武士によって小山が攻められた。3度に渡り籠城するが敗れ、小山義政は粕尾にて自害する。

第一次 小山氏の本城~鷲城

鷲城中久喜城、祇園城とともに「小山氏城跡」として、国史跡指定になっている鷲城。小山政光を初代とする第1次小山氏の本城である。現在は本丸には鷲神社が鎮座する。

1372年、小山義政は武蔵国太田荘の鷲宮を修築しており、その際ここに鷲神社を勧請した。このときに鷲城と名づけたとされるので、築城年代はこのころかと推測される。

鷲城の縄張りマップ。外城は宅地化されており、保存状況は良好とはいえない。

鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西400m、南北600mの規模。中城と外城の2郭からなる。中城の空堀と土塁が明確に残存し、南北朝時代の城郭が遺存しており貴重な史跡だ。

新城とされる、長福城

長福城祇園城と鷲城の中間(700m間隔)に位置する長福城。八幡町1丁目の小さな公園に標柱が建っている。

第2次小山義政の乱において陥落した「新城」というのが、長福城と推定される。長福城の築城時期は明らかではないが、乱において急造された城かもしれない。位置からして、祇園城と鷲城の連携を取るための砦であろう。グラウンドや宅地化によって大半の遺構は失われている。

長福寺でもあったのだろうか標柱の位置に、むかしは長福寺でもあったのだろうか?遺構としては民家の裏手にある藪にありそうだ。舗装道路のところはかつての空堀跡だろう。

土塁らしき遺構小山義政の乱公園の横に埋もれて浅くなった空堀や、藪の丘に土塁らしき遺構を確認できる。「小山義政の乱」の名残か・・・。

再興した第2次 小山氏と、その滅亡

室町幕府の配慮により、同族の結城氏から泰朝を迎え、第2次として小山氏を再興させた。祇園城が小山氏の本城となるのはこの頃である。三代目の持政のときに城郭を拡張整備。9代目の政種は小田原征伐(1590年)では北条氏に加担したため、豊臣秀吉によって改易された。これで2次の小山氏も滅亡した。