http://osanpo246.blog.jp/archives/5741107.html 【古典講読「芭蕉の紀行文をよむ」第16回】 より
NHKラジオ古典講読「芭蕉の紀行文をよむ」の第16回(7月18日)放送を聴いた。
前回は『野ざらし紀行』の旅を終えて、深川の芭蕉庵にしばらく腰を落ち着けている時期の貞享3年(1686)頃に作られた発句や俳文ともいえる作品を紹介した。
やはりこの年の作かと思われる別の俳文を紹介する。
曾良何某は、このあたりに近く、仮に居をしめて、朝な夕なに訪ひつ訪はる。我がくひ物いとなむ時は、柴折りくぶる助けとなり、茶を煮る夜は、来たりて軒をたたく。性隠閑を好む人にて、交り金を断つ。ある夜、雪を訪はれて、
きみ火をたけよき物見せん雪丸げ
曾良は深川に住む門人で、信濃国諏訪の出身で本名は岩波正字、通称は庄右衛門で河合氏を名乗る。曽良は俳号で、「曾良何某」としたのは俳号だけを上げ、その他は略したのだ。延宝年間には江戸に出て神道を学んでいた。俳諧もたしなんでいたようで貞享2年(1685)には深川に住むようになり、芭蕉の弟子となる。
曽良は近所に住んでいて、朝な夕なに訪ねたり、訪ねられたりという関係である。私が食事の用意をする時には柴を折っては火にくべるなど手助けをしてくれる。茶を煮る際にはやって来るとある。とても親しく交際しているということがわかる。
「性隠閑を好む人にて、交り金を断つ」は、静かに隠れ住むような生活を好む性質の人で、私たちの付き合いはまさに断金の交わりとも言うべきものだ、の意味。その曽良はある夜、雪の中を訪ねてくれた。そこで「きみ火をたけよき物見せん雪丸げ」と詠む。
季語は雪丸げで、雪による大玉のこと。一句の意は、さあ君は火を炊きたまえ。その間、私はよいものを作って見せてあげよう。雪の大玉だよ、というもの。雪に心が弾み、友の来訪にますます楽しくなってきたという様子がよく伝わってくる。子供心にも似たはしゃぎぶりが読む者を楽しくさせる。こうした部分が芭蕉には確かにあり、それが彼の俳諧を根底から支えるものだったのではないかと思えてくる。
さて、この貞享4年の秋8月、芭蕉は常陸国鹿島に出かける。現在の茨城県鹿島市だ。常陸国の一の宮である鹿島神宮で知られるところだ。その近くには根本寺という臨済宗寺院があり、その住職をしていたのが芭蕉に禅を教えた仏頂和尚だった。鹿島神宮との間で領地の争いが起こり、その訴訟のため一時深川に庵を結んでいた。その間に芭蕉との出会いがあったわけだ。
この仏頂との出会い、禅との出会いは芭蕉に多くのことをもたらしたものと考えられる。訴訟が片付き、仏頂は住職を退いて根本寺の隠寮に住まっていた。いわゆる老師の住まうところをいう。老師は徳の高い高僧を指す敬称だ。仏頂師は元々自由な身となって各地を行脚し、修行に励みたいという志を持っていたのだろう。
その仏頂を訪ね、月見をしようとするのがこの旅の狙いだ。現在、この根本寺は神宮から1キロほど離れた地にひっそりと建っている。芭蕉は仏頂が鹿島に戻ってからも連絡を取っていたのだろう。仏頂からの誘いもあったのだと想像される。
8月14日、門人の曽良と、近隣の僧である宗波を伴って、深川から出船。行徳に出た後、釜ヶ谷から布佐まで歩き、夜船に乗って鹿島に入る。15日にの夜は根本寺に宿っている。翌日は鹿島神宮にも参り、延宝時代に親交のあった似春が自順と改号し、行徳で神社の神官となっていたのを訪ね、旧交を温めてから江戸に帰る。似春は延宝期の芭蕉にとって素堂と並ぶ盟友のひとりだった。
この旅を題材とする紀行は、深川に戻り早々に書き始められたようだ。
らくの貞室、須磨のうらの月見にゆきて「松陰や月は三五や中納言」といひけむ、狂夫のむかしもなつかしきまゝに、このあきかしまの山の月見んとおもひたつ事あり。
らくの貞室が、須磨のうらの月見に出かけてという形でこの紀行文は書き始められる。これから自分の旅について書いていくに当たり先人を引き合いに出したものだ。「らく」は京都のこと。貞室は近世俳諧の祖ともいうべき松永貞徳の門人だ。
本名は安原正章。家業は紙屋だったが、幼少のころから貞徳に親しみ、10代なかばで入門してからは、貞門の代表的な作者として活躍する。芭蕉は貞室のことを買っていたらしく、何度か好意的な「言辞?」を書き記している。芭蕉はこの人を何か自分と共通するものを感じていたようだ。
その貞室が須磨に月見に行ったというのが、いつのことなのかはわかっていない。『玉海集』という撰集に「松にすめ月も三五夜中納言」という貞室の句があり、その前書きからこれが須磨の月見に赴いて詠んだ句であるとわかる。
「須磨の月見に趣けし比、くかし行平卿の住たまひし所やいづこと尋ね侍しに、上野山福祥寺といふ。是いまの須磨寺なり。此山の東の尾につづき松と名づけたまひしなど、人のをしへけるほどに」とあるのだ。芭蕉が『玉海集』を見たかどうかはわからない。ともあれ芭蕉はこの句の上五を「松陰や」と誤って記憶していたのだろう。
「らくの貞室、須磨のうらの月見にゆきて「松陰や月は三五や中納言」といひけむ」と書いている。なお『玉海集』の前書きに出る行平卿は在原行平だ。平安時代前期の歌人で業平の兄、須磨に流され松風・村雨の姉妹と出会う話は謡曲『松風』となってあまりにも有名だ。
貞室の句にある中納言はもちろんこの行平のことで間違いない。須磨は現在の兵庫県神戸市須磨区。古典文学の世界では、都から離れた土地というイメージが強く、『源氏物語』で光が一時的都を離れざるを得なくなった際、流浪したのもこの土地なのだ。
一方、須磨は月見の名所でもあり、前書きにあるように月見の松というものがあった。貞室もこれを訪ね、「松にすめ」と詠んだわけだ。「月は三五や」というのは、3×5=15、十五夜の月を指している。白楽天の詩句に「三五夜中新月の色」とあるのを利用し、その十五夜であることを意味する三五夜中と中納言をかけて、三五や中納言とまとめたわけだ。大きく一句の意味をとれば、中納言ゆかりの地で三五夜中の月が松を照らしているといったことになる。
『鹿島紀行』の文章に戻ると、そうした句を詠んだ貞室に対して、作者芭蕉は「狂夫のむかしもなつかしきまゝに」と記している。狂夫は風狂の人ということで、風狂は風雅なことに没頭する姿勢が常軌を逸した状態になっていることだ。天和期以来芭蕉は風狂をキーワードに俳諧の革新を続けていたのだ。風雅に徹して生きようとするとき、芭蕉には貞室が倣うべき先人と見えていたことになる。
「狂夫のむかしもなつかしきまゝに」とは、風狂の人貞室が、昔わざわざ須磨まで出向いて月見をした。その風狂の姿勢が懐かしいということだろう。そこで自分も月見の旅をすることにした。「このあきかしまの山の月見んとおもひたつ事あり」だ。貞室が須磨の浦の月なら、自分は鹿島の山の月だというわけだ。この秋は鹿島の山の月見をしようと思いたったというのだ。
作者芭蕉は予の行動の動機をこのように設定したのだ。自分も狂夫として月見のために遠路を厭わず鹿島まで行くのだというわけだ。実際には仏頂和尚からの誘いがあったか、こちらからの会いに行きたいという連絡をしたか、ともかく鹿島を選んだことの実情として仏頂との関係を外して考えることは出来ないと考える。
でもそのことは書かない。あくまでも貞室を意識しつつ、風狂の月見をするのだと宣言をするばかりだ。ここにこの作品の文芸的な意味を喚起してよいのだと思う。作品中の予にとって旅はあくまでも風雅を求めてのものであり、風狂の思いを発露させるものであったのだ。
次回は深川を出立し、鹿島を目指すことになる。
ここまでが番組メモ。2作目の『鹿島紀行』に入った。
ところで、今週散髪に行ったとき週刊誌をみた。ジャニーズ嵐の櫻井翔の家族紹介があった。あれっと思ったのが母親陽子。大学の文学部教授で平家物語に関する著書がある、というくだり。
櫻井陽子といえば、2013年度古典講読の「平家物語、その魅力的な人物に迫る」を担当した櫻井陽子駒澤大学教授ではないか!古典講読がジャニーズと接点があるとは、ちょっと驚いた。
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