壱岐の人 曽良翁を語る ①

http://mtv17.ninpou.jp/iki2/soro2/harada.htm  【 壱岐の人 曽良翁を語る】

は ら だ も と え も ん 原田元右衛門翁

 明治三十五年一月十日、壱岐郡勝本浦黒瀬の二男として生まれ、殿川保衛といい、後に勝本浦正村原田家(つたや)に入り、第四代原田元右衛門を世襲する。

 勝本北斗句会員(大耕)であり、また郷土史家として、曽良翁の他に、鯨組土肥家・朝鮮通信使の研究をすすめてこられた。

 ここに紹介する研究論文は平成元年、曽良翁280回忌記念事業の一環として、記念誌『海鳴』が発行され、その時掲載し発表されたものです。

昭和八年より昭和十年まで香椎村議会議員(勝本町の前身)昭和十年より昭和二十一年まで

勝本町議会議員昭和四十八年より昭和六十三年まで勝本町文化財調査委員会委

壱岐郡文化財調査委員会委昭和六十三年十二月七日 逝去 享年八十六歳

俳聖芭蕉翁の伴侶   曽良翁終焉の地 壱岐・勝本  原田 元右衛門

(一) 曽良のおいたち  

 河合曽良は、慶安二年(1649)信州上諏訪(長野県諏訪市上諏訪)に生まれた。父は高野七兵衛、母は河西氏(上諏訪銭屋、現戸主河西五郎氏方より嫁ぐ)、曽良はその長男である。姉と弟の各一人があり、姉は利鏡と言い、上諏訪の小平仁佐衛門(酒造家奈良屋、現戸主小平邦之輔)に嫁ぎ(元禄十五年没) 一女(下諏訪河合甚右衛門に嫁ぐ)をもうけ、弟は五左衛門と言い高野家を継いだ。(五左衛門没後、高野家は断絶)

曽良の生家は、JR上諏訪駅前の国道を南へ下る郵便局手前の魚市場がその跡といわれる。

 曽良は幼名を与左衛門と言い、幼い時両親と死別し、母の生家河西家に引き取られたが、その後伯父の生家である岩波家の養子となり、

岩波庄右衛門正字(まさたか)と名乗った。(岩波家は諏訪市中洲福島に在る)養父岩波久右衛門昌秀は、曽良十二歳の万治三年一月八日に卒し、下桑原村の嘉右衛門の娘であった養母も、同年六月六日に没したので、故郷に頼る人なく、伯父にあたる伊勢長嶋(三重県桑名郡)の領主の祈願所、大智院住職秀精法師に養育された。

 寛文八年(1668)二十歳の時、河合惣五郎と改名して、伊勢長嶋藩(二万石)に伯父の世話で仕官、藩主松平土佐守亮直に仕えた。母の生家は河合と称していたが、武田信玄の家臣河合和泉守連久の時、謙信(信長か?)の武田の残党狩りを脱れるため河西姓にしたと言う。

(二) 曽良の俳号と地誌学  

 曽良が長嶋藩在住の時代は、談林俳諧の全盛時代であり、曽良二八歳の歳且吟に

  袂から春は出たり松葉銭

   丙辰吉且           とある。

 丙辰の年は延宝四年(1676)に当たり曽良が俳諧の道に入ったのは、延宝元年(1673)の頃と思われる。

 曽良の俳号は、長嶋の地が木曾川と長良川にはさまれていたので、両河川の曽と良をとり、曽良を俳号としたと伝えられている。

 長嶋藩が松平忠充の時、領地没収(元禄十五年、1702年)になる前の延宝七年(1679)曽良三十一歳時、長嶋藩を致仕して江戸に上り、当時幕命を受け本所に国学の塾を開いていた吉川流神道の創始者吉川惟足(これたり)に入門して、神道と和歌を修め、神道の允許を受けた後、地理と歴史に関する地誌学を修得している。吉川惟足は天和二年(1682)十二月、幕府神道方となっている。

三) 芭蕉と曽良  

天和三年(一六八三)曽良三十五歳の夏、甲斐国の高山麋塒の家で初めて芭蕉に会っているが、この頃に芭蕉に入門したといわれる。当時の句に  鴬のちらほら啼くや夏木立   がある。

芭蕉は、貞享三年(1686)の春、四十三歳の時、  古池や蛙飛び込む水の音

の句で名声を挙げた。曽良は芭蕉より五歳下で又芭蕉庵に近い五間堀りに住んでいた関係もあり、師への勤めぶりは一方でなく、芭蕉も亦、こまめに自分の身辺を世話してくれる曽良の人柄が好ましかったようである。

貞享四年(一六八七)八月下旬、芭蕉の「鹿島詣」には曽良は宗波と共に随行して深川を出船、行徳に上り布佐より夜舟で下り鹿島に至り、根本寺に一泊して鹿島神宮に詣でている。鹿島紀行文に芭蕉は「ともなふ人ふたり、浪客の士ひとり、ひとりは水雲の僧。僧はからすのごとく墨のころもに三衣の袋をえりにうちかけ…(中略…)いまひとりは僧にもあらず俗にもあらず」と曽良を、浪客の士ひとりと述べている。曽良三十九歳の秋である。

その時の旬に

  くりかえし麦のうねぬふ小蝶哉  雨に寝て竹起きかへる月見かな

  膝折るやかしこまり鳴く鹿の声  ももひきや一花摺(ひとはなずり)の萩ごろも

  はなの秋草に喰あく野馬哉            がある。

(四)奥の細道と曽良 

元禄二年(1689)三月二十七日芭蕉は曽良を伴い、深川を出船して「奥の細道紀行」に出立した。芭蕉四十六歳、曽良四十一歳であった。曽良は出発にあたり、神道の学識を生かして「延喜式」により「延喜式神名帳抄録」を、「類字名所和歌集」「楢山拾葉」により行く先々の「名勝備忘録」を作製して準備を整えていた。

 芭蕉は随行者曽良について次のように書いている。

「曽良は河合氏にして惣五郎といへり、芭蕉の下葉(芭蕉庵の近く)に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま、象潟(さきがた)の眺共にせん事を悦び、且は羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立暁、髪を剃り墨染にさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす。仍て(よって)墨髪山の句有。衣更の二字、力ありてきこゆ」と 

剃捨て墨髪山に衣更   又、紀行に次の句を残している。 

(那須野) かさねとは八重撫子(やえなでしこ)の名成るべし

(白河の関)  卯の花をかざしに関の晴着かな

(松しま)  松しまや鶴に身をかれほととぎす

(平泉)   卯の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな

(尾花澤)  蠶飼(こがい)する人は古代のすがた哉

(月 山)  湯殿山銭ふむ道の泪かな

(象 潟)  象潟や料理何くふ神祭   波こえぬ契ありてやみさごの巣

この紀行は不案内の地理を探り、行雲流水に草に枕の定めなく「土座に莚を敷きて、あやしき貧家の隅に宿を借り、灯もなければ囲炉裏の火かげに寝所をもうけて臥し、よしなき山中に逗留して蚤、虱、馬の尿する枕もと」に、眠れぬままの一夜を明かすあらゆる難渋とのたたかいであった。また五月十日松島から平泉に赴く際、途中で道に迷い矢本新田で咽喉が乾いて、家毎に湯を乞うたが与えられず、通行人の今野源太左衛門がこれを憐んで、知人の家に伴い湯を貰ってくれた上、新田町の四兵衛方の宿まで紹介してくれた等、曽良は克明に旅日記を書きつづけた。これが「曽良随行日記」であり、曽良が道中の古社を「延喜式神名帳抄録」で芭蕉に説明した事も知れる。この随行日記は現在奈良市にある天理大学図書館に国の重要文化財として所蔵されている。この「曽良随行日記」は昭和十八年(1943)に世に見出され、「奥の細道」の研究が一段と深まった。

曽良は、百数十日に及ぶ長旅に疲れ、北陸路では腹痛に苦しめられるなどしたので、師の手足まといになる事を恐れ、八月五日「加洲やまなかの涌湯(わきゆ)」(石川県山中温泉)泉屋又兵衛(桃夭・とうよう)方で別れを惜しみ乍ら、伊勢長嶋の伯父秀精法師を訪ね養生する事にした。

「乾坤無住、同行二人」と書かれていた笠の宇の「同行二人」を消さねばならぬ芭蕉は、その淋しい心境を 今日よりや書付消さん笠の露 芭蕉 と詠み、又先立ち行く曽良は  行ゝ(ゆきゆき)てたふれ伏すとも萩の原 曽良 と詠んでいる。芭蕉は又「奥の細道」に「行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて雲にまようがごとし」と記している。

曽良は芭蕉と別れて、大聖寺城外の全昌寺に宿り、一人寝のわびしさに  よもすがら秋風きくやうらの山 の旬を詠んでいる。

山中温泉泉屋で芭蕉と別れた曽良は、八月十五日伊勢艮嶋の大智院に到着した。秋色濃い九月二目敦賀から馬の背に揺られ乍ら、芭蕉が美濃大垣の庄に到ると聞くや、曽良は大垣まで出迎え、六百余里(2044キロ余)二百二十二日余の旅の芭蕉の労をねぎらい、二人は大垣から伊勢長嶋に赴き大智院で旅の疲れをいやしながら、数日の間積もる話に夜を明かしたという。                 。

その後、九月六日曽良は芭蕉と同道して、伊勢神宮の遷座式を拝し、九月十五日師と別れて長嶋に帰り、九月下旬には熱田、名古屋に遊び、十月八日伊賀上野に再び芭蕉を訪ねて、二十二日は名古屋に赴き、十一月十三日に深川の芭蕉庵に帰庵している。

元禄四年(1691)三月四日、四十三歳の曽良は病弱の芭蕉の身を案じて深川の芭蕉庵を出立し、四月二十五日京都で芭蕉を見舞い、更に宇治、奈良、吉野などを巡って、四月二十九日再び京都に入り、五月二日落柿舎にあった去来、芭蕉と会って交友を暖めていたが、遊志やみ難く、師の巡りし跡を辿(たど)らんものと近畿巡遊の旅に出た。京都近傍を探った後、大阪から奈良・吉野を経て伊賀上野に至り、七月十五日には伊勢に出て、吉川惟足高弟としての神道の允許により、伊勢神宮で災危罪障を祈り払う「中臣の祓」の儀の主座を勤めるなどして、百四十日余の旅を終えて深川の芭蕉庵に帰庵している。

この近畿巡遊時の句に次のものがある。

 伊賀の境  なつかしやならの隣のひと時雨(しぐれ)

 和歌の浦にて   浦風や巴を崩すむら千鳥

 吉野の里にて   むつかしき拍手も見せず里神楽  大峰やよし野の奥の花の果

          春の夜は誰か初瀬の堂篭

 落柿舎にて   破垣やわざと鹿の子の通ひ路

元禄五年(1692)七月七日曽良は芭蕉と共に素堂の母の喜寿の祝いに赴いた時

 うごきなき岩撫子(なでしこ)や星の床  の句が許六自筆の「旅館日記」に見え、元禄六年(1693)十月九日芭蕉と素堂亭の菊見に行き  何魚のかざしに置ん菊の杖

と詠んだ句が、「続猿蓑集」(元禄七年刊)に見える。

(四) 芭蕉亡き後の曽良  

芭蕉は元禄七年(1694)四月、五十一歳の時「奥の細道」の完成をみたので、深川の草庵を曽良に頼んで五月八日江戸を出立した。上野、箱根、三嶋、大津を経て、京都の落柿舎等に約二か月を費やした芭蕉は、七月からは伊賀上野で兄半左衛門が建ててくれた無名庵に滞在、門弟の支考を相手に「続猿蓑集」の撰を終え、九月八日支考や。惟然等を伴って無名庵を出立するが、その時に次の句がある。  麦の穂を力につかむ別れかな    芭蕉

何かは知らず後髪を引かるる思いの芭蕉は、笠置山の麓から柴舟をやとい、加茂まで木津河を下り、九日には大阪に着き酒堂の家に入った。その日の夕方から発熱、二十日頃は句会に列するまでにはなったが、二十九日には急変して、十月五日大阪南久太郎町の花屋仁左衛門方の貸屋敷に移り、十月八日辞世の句を門弟呑舟に口授し、去来に遺言を残して不帰の客になった。  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 「笈日記」

時に元禄七年(1694)十月十二日タ方四時頃で、芭蕉は五十一歳で、遺言により大津市膳所に在る義仲寺の境内に葬られている。曽良その時四十六歳であった。

曽良は深川の芭蕉庵を守り乍ら、生前の面影を偲んでは深い悲しみの日を送っていた。

曽良は葬儀にも、初七日供養にも出席しなかったが、葬儀の追悼吟に

  むせぶとも芦の枯葉の燃しさり   曽良

また、七回忌(元禄十三年)の追悼吟に 俤(おもかげ)や冬の朝日のこのあたり 曽良 がある。

芭蕉の亡くなった元禄七年は、神道の師吉川惟足も十一月に七十八歳で没し、曽良にとっては淋しい年にもなった。

元禄十五年(1702)の秋、五十四歳の曽良は芭蕉の墓参のため、更科行脚の旅に出立した。義仲寺の師の墓前にぬかずいた曽良は おがみ伏て紅いしぼる汗拭い の句を奉っている。更科行脚の帰り故郷に立ち寄り、育ての親、伯父秀精法師(元禄十年十二月卒)の供養をしたが、これが最後の帰郷となる。その時の句に ゑりわりて古き住家の月見哉 がある

(6)九州の旅(筑紫の旅)  

 芭蕉亡き後も、曽良は俳諧を続けてはいたが、一方、吉川惟足の高弟として一門を助けて活躍し、漂泊流転の生活を続けていたものと思われる。宝永六年(1709)五月十日徳川家宣が六代将軍となり、恒例による国内検察のための全国八区へ巡見使派遣を発令したのが十月二十三日、割当てが十月二十七日になされ、九州地区は、二筑・二肥・日向・大隅・薩摩・壱岐・対馬・五島(豊前・豊後は四国に入る)となった。曽良は吉川一門から神道学者として推挙されたが、三名の巡見使のどの配下として筑紫に下ったか不明であり、武士または神官の資格で近習としての秘書格で随行したものと思われる。曽良は随員に加わった時から、岩波庄右衛門正字にかえっている。

宝永六年 歳暮   あはれただ過し日数はあまたにて  さてしもはやく年そくれ行  正字   手当を頂いて 歳暮  千貫目ねさせて忙し年の暮    曽良

曽良は宝永七年(1710)三月十五日頃江戸を出立するに当たり、上諏訪の郷里に次の和歌と俳句を送っている。

 歳児試筆 立初る霞の空にまづぞおもふ  ことしは花にいそぐ旅路を    正字

  ことしわれ乞食やめても筑紫かな    曽良

また、幕命によって編集した「五畿内誌」のうち、曽良の進言によって「河内誌」を書き上げた地理学者関視衡は、かねての親交もあり、曽良の筑紫への旅立ちに極めて長い送別文を送ったことが、曽良の死後郷里で遺品の中から発見されている。

宝永七年三月(1710)朔日、巡見使三使は将軍よりいとまを賜り、三月十五日頃江戸を出立した。

一、大名目附役御使番 二千石 小田切靭負直広  給人近習六人、中小姓徒士七人

        足軽中間十五人等  計四十名?

一、小姓組番    千八百石 土屋数馬喬直   給人近習六人、中小姓徒士七人

        足軽中間十五人等  計十名?

一、書院番 八百石 永井監物自弘   給人近習六人、中小姓徒士七人

        足軽中間十五人等  計二十七名?

江戸を出立した巡見使一行は、東海道を下り大阪から瀬戸内海を航海して、筑前国若松(北九州)に上陸して、小倉藩、名島藩を検察、黒田藩、唐津藩を通り、五月六日呼子から壱岐郷ノ浦に上陸、一泊の後五月七日郷ノ浦から陸路、要人は駕篭で、その他は馬で、昼頃勝本浦到着、それぞれの宿舎に入った。

巡見使の宿舎は、三光寺・神皇寺・押役所の客殿と思われる。一行は順風に恵まれれば府中(対馬)に渡り、全島を巡見後五月十九日頃勝本に帰り、五月二十日頃五島へ向けて出発する予定であった。

巡見使の旅は強行軍で、殊に離島の多い九州は船旅が多く、暫しの自由も許されない厳しさがあったといわれる。食事は一汁一菜、それも四品と決められるなどしていた。そのためか宝暦十一年(1761)には、御小姓組、神保帯刀が薩州で倒れ、天明八年(1788)には御使番の小笠原主膳と御小姓組の土谷忠次郎の二使が共に薩州で殉死している。

 当時六十二歳の曽良には、かって各地を遍歴した経験はあるにせよ、休む暇もない七十日にも及ぶ公務の旅は思いもよらぬ苦しい旅の連続で、神道の調査も思うにまかせぬ事もあり、身も心も疲れ悩み苦しんでいた。

勝本浦に着いた時は、身心共に疲労困憊の極に達し、中藤家を宿として病床に臥すことになった。

 当時勝本浦は風本(かざもと)と言い、壱岐島北部の良港で漁船の停泊地でもあり、又土肥鯨組の初期として浦中は大漁で賑わっていた。

 中藤家は、熊本藩主加藤家の末裔として、風本の中心地にあり、「重ね桝」という大きな鬼瓦が往来を見下す旧家の大きな海産物問屋であった。

 曽良は巡見使一行として、松浦藩からも叮重に取扱われ、中藤家二代目中藤五左衛門も妹等を看護につける等、手厚く看病に努めたが、高齢も手伝い、宝永七年(1710)五月二十二日、六十二歳を一期として、中藤家で静かに不帰の客となった。墓地は中藤家の菩提寺である三光寺(現在の能満寺)の一画に葬られた。

 墓碑の正面に「賢翁宗臣居士也」、その右に「宝永七庚刀天」、左側に「五月二十二日」と刻され、右側面に「江戸之住人岩波庄右衛門尉塔」としてある。曽良は臨終にのぞみ、故郷の住職より法名を頂いている旨の遺言があり、中藤家で遺言は守られたと伝えられている。墓碑は面碑五十一糎、墓碑の高さは百十五糎で三段に積まれている。

 法名の「賢翁」は芭蕉を言う約束ごとがあることから大変優れた俳人であることを意味し、「宗臣」の「宗」は分かれたものの本源を指すことから、徳川家から遣わされた役人であることを示し、「尉」は良民を安ずるの義であることから、官名として、巡見使一行としての尊敬を払ってつけられたものであろうと思われる。又「刀天」は「風軒随筆」に依れば寅の年を意味し、「宝永七年寅の年」という事になる。墓碑上部は長い年月のためか「賢」の字の上甲部が欠落している。

 側面に「岩波庄右衛門尉塔」と刻まれているところから、「塔」は「おがみ所」という意味のものであり、お墓でないとの説もあるが、古来勝本は墓石のことを石塔といっていることから、墓石であることは間違いない。

 昭和五十二年三月六日の壱岐日報の紙上と、昭和五十一年刊壱岐島俳句百二十九号に真鍋儀十氏は曽良の遺品について、

 「曽良死亡後、中藤家は松浦藩と相談して笈と頭陀袋、硯箱、印章、その他の遺品を江戸の奉行所に一旦送りつけたものを、更に幕府から信州諏訪の遺族に回送された所までは判っていたが、それから先がとんと掴めなかった。処が、筆者(真辺氏)は、先年天理図書館に調べ物があって、木村三四吾主事と話をしているうちに、この主事が筆者の長崎師範での一級上の穎原退蔵博士の愛弟子だという事が判り、ふとした事から曽良の遺品の笈も頭陀袋も、ここに蔵まっている事を突きとめた」と、遺品の写真まで添えて、発表されている。

 曽良に関する文献として最も大事なものは「奥の細道神名帳抄録」「奥の細道旅日記」「奥の細道名勝備忘録」「奥の細道俳諧書留」「近畿巡遊記」などがあるが、これらの資料は「河西本奥の細道」や曽良が旅で用いていた笈とともに八十年近くも曽良の母の生家の河西家に伝わっていた。寛政の頃(1789年~1800年)河西家の遠縁に当たる勝森素へきの手に移り、それから久保島若人、助宣、松平志摩守、桑原深造、斉藤幾太、斉藤浩介などへ、転々と移り、偶々昭和十三年(1938)の夏、伊

東の斉藤家が虫干ししていた時これが発見され、昭和十八年(1943)山本安三郎編書「奥の細道随行日記」として、東京の小川書房から発刊された。奇しくもこの日が芭蕉二百五十回忌、生誕三百年祭に当たるという。

 越えて昭和二十五年(1950)九月この資料は、当時の九大文学部教授の杉浦正一郎氏が斉藤家から譲り受けられた。教授がなくなられた後、昭和三十四年(1959)二月未亡人の手を放れて、天理図書館の所有するところとなり、曽良没後二百三十四年にして世に出たといわれている。

 諏訪史料叢書に依れば、諏訪の小平探一(俳号雪人)が明治四十二年(1909)十一月十一日、勝本浦で曽良二百年祭執行の折、勝本に招かれた時の話として次のように伝えている。

 「勝本浦は二度の大火で中藤家の町内は殆ど一物も残さず焼けてしまったから希望の文献や曽良関係の史料は何一つ残っていないという事であった。中藤家は其の土地の鯨問屋で、なかなかの資産家であったといわれているが、当時、六十歳位の老母から、家に伝わっている口伝えというものを聞くことが出来た。

 曽良が中藤家に落ちついた時は、京都の女流画歌人がいて看護した上、曽良の没後はその人に依って追善供養が営まれ、曽良の御墓は中藤家の墓地よりは一段と高い所に祀られたが、その歌人もまもなく没したので、曽良の御墓の附近に埋葬されたという。法名智峰妙恵信女(享保元年二月十五日)と知らされた。御墓所に参って検した所、諏訪の正願寺の御墓と殆ど同じであった。」と記されている。一説には、この歌人は曽良と二ケ年も同棲していた様に言われてもいるが、それは全々根拠のない物好きな人の風評に過ぎないものである。俗に言う一犬虚にほえて万犬実を伝うの類であろうと思われる。

 翌十二日勝本浦田の中町の原田嘉一(一峰又愛清と号す)が司会者となり、能満寺に雪人を迎えて曽良の供養をした後、席を改めて曽良追悼俳句会を開いた。出席者は次の方々であった。

 長島俊光(二代)、殿川忠蔵(酒屋)、石橋笑山(酒屋)、原内ノ山(三代、元右衛門)等二十名余であった。

 現在能満寺には、永代供養のため雪人の自筆の信州諏訪湖東村阿心庵雪人の書付があり、原田大耕(四代元右衛門)宅には、雪人の次の書が蔵されている。

    時風吹来ぬ香椎潟潮干丹玉藻苅奈     雪人書

 小平雪人が、諏訪から中藤家を訪ねた時は、十一代の当主の中藤吉太郎氏は、朝鮮の慶州に居住していたので、勝本浦の留守宅は父の十代中藤芳三郎(当時六十六歳)と舎弟の中藤彦三郎(六十四歳)と同人妻の菊女(五十九歳)の三名であった。曽良の事を、雪人に話した老母とは、菊女であると思われる。

 去る日、私は、能満寺に坂口住職を尋ね、寺にある旧三光寺時代の過去帳を見せて頂いたが、徳川後期の過去帳が一冊あるだけで、私が調べたい、曽良や中藤家を記した徳川前期の過去帳は、明治初年三光寺から能満寺に移転の際、紛失したものか、能満寺には無い事がわかった。このことから能満寺の過去帳に、曽良の芳名が記載されていないのではなく、曽良時代の過去帳自体が紛失していたのである。

 尚曽良の画像に書き添えた軸物があるとも聞いていたが見当たらなかった。現有は殆ど明治以降の物ばかりである。

 そこで中藤家の系図により中藤家の墓地を引合調査した所、曽良の御墓の近くに観音像型の御墓が一基あり、この御墓が菊女から雪人が聞いたという女流画歌人智峰妙信信女の御墓ではないかと思ったが法名がないので、確認する事は出来なかった。

 又一説には、曽良は、諸国東導の役をしていたという事から、或いは壱岐対馬にも五山の僧の御供をして来た事があるのではないかと言われていたが、これを裏付ける資料もなかった。

 曽良の病中の女流画歌人の看護説も事実無根のようであり架空のロマンスに過ぎない。