奥の細道入門

https://fragie.exblog.jp/20793660/ 【奥の細道入門】 より

新刊紹介をしたい。

大石登世子著『奥の細道紀行』(おくのほそみちきこう)。

四六判ペーパーバックスタイルのビニール掛け。240ページ。芭蕉の『奥の細道』をたどった紀行文であると言ってしまえば、よくある一書とおもわれてしまうかもしれない。しかし、本書は、「奥の細道」を中心とした非常に内容の濃い古典ワールドが展開されていくというものだ。

著者の大石登世子さんは、2010年にふらんす堂より第一句集『遊行』を刊行しておられる俳人であり、かつては大手出版社につとめるジャーナリストでもあった。ゆえに一書を成す意義というものをよくわきまえておられる。ここには「奥の細道」にまつわる資料がぎっしりとおもしろいエピソードなどとともに記されている。能の研究書を持つ著者でもある。古典への造詣のみならず、文芸へ関心の深さがあますところなく語られた一書である。

わたしがとくにおもしろいと思ったのは、目次にある「同行曾良」の曽良についての記述である。

長いのだが、興味深いことが記されているので紹介したい。

漂泊の詩人といわれ、生涯を旅に過ごしたとされる芭蕉だが、実際に旅の日々に明け暮れたのは晩年の十年間に集中している。これらの旅は、『野ざらし紀行』『鹿島詣』『笈の小文』『更科紀行』などの作品となって残っているが、いずれも芭蕉の一人旅ではなく、弟子や知人が同行しているのが特徴。『奥の細道』も同様、門人曾良を伴った旅であった。なぜ芭蕉の旅は一人ではなく、いつも誰かが一緒だったのか、考察してみるのも面白いかもしれない。

 曾良の名が広く知られるのは、『奥の細道』の旅に随伴したこと、特にこの旅の詳細な記録を残したことによる。この旅日記が発見され、世に出たことで『奥の細道』研究は飛躍的に進んだといわれる。『奥の細道』が、単なる紀行文などではなく、大いなる虚構のうえに成り立つ文学作品であることは、いまや常識となっている。曾良の日記がある故に、両者をこまかく比較分析し、『奥の細道』の記述の一部を、事実と違っているとかフィクションであるなどとする指摘は、本末転倒もよいところで、おかしなことである。

 日数にして百五十日、六百里に及ぶ長途行脚の記録を四百字詰原稿用紙にして四十枚足らずの作品に昇華した芭蕉の凄腕ぶりこそ見事だと思える。曾良の旅日記を読み、そして実際に私もその跡を辿り歩いたことで、いかに多くの物を捨て、省略しているか実感できるし、すきのない緊密な文章、巧みな伏線の敷き方、挿話を重層させて旅が進んでいく構成はさすがと思わせる。

 一方、曾良の旅日記は、あくまでも記録することに徹した姿勢が潔い、と思う。全行程の日付、天候、出発到着の時刻や場所、移動した距離をはじめ、周辺の地形、宿泊地、面会した人物や一日の行動を簡潔に記す。情緒的記述はまったくない。素っ気ない日記の行間から二人の旅姿が浮かんでくるような気がするのは、客観的な事柄のみを記しているからこそ、ともいえる。神社仏閣の知識が豊富で歴史地理に通じ、記憶力抜群、几帳面で事務能力が高く、芭蕉とは違った視点で物を見ている曾良の人物像も見えてくる。

 芭蕉は日光に到着した時点で、読者に曾良の略歴と人となりを紹介している。深川の芭蕉庵の近くに住み、何かと日常生活の手助けをしていたと記すが、貞享三年冬の作とされる「雪丸(ゆきまろげ)」には、「性隠閑(いんかん)をこのむ人にて、交(まじはり)金(こがね)をたつ」ような曾良との交流を記す。ある雪の夜に訪ねてきた曾良におくった「きみ火をたけよき物見せむ雪まるげ」の句は、草庵に暮らす隠士の交わりを想像させ、曾良との深い信頼関係がうかがわれる。曾良は芭蕉を慕い、芭蕉も、名利や栄達を望まず、物静かで金銭に恬淡とした曾良の人柄を好もしく感じていたであろう。

 曾良は慶安二(一六四九)年、信濃の国上諏訪の生まれ。芭蕉より五歳年下である。高野家の長男として生まれるが母方の河西家で育てられ、六歳で両親が死去してからは叔母の嫁ぎ先である岩波家の養子となる。本名を岩波庄右衛門正字(まさたか)と称するのはこのためか。十一歳のとき養父母も亡くなったため、叔父を頼って伊勢の長島に赴く。叔父は伊勢大智院の住職の地位にあった。二十代の頃は長島藩へ出仕したらしいが、致仕後は江戸へ出て神道家吉川惟足(よしかわこれたる)に入門し、神道と和歌を学ぶ。

 この吉川惟足という人は、江戸生まれだが京都で吉田神道を学び、後に吉川神道を創始し、五代将軍綱吉から幕府の神道方という要職に任ぜられた人物。興味深いのは、前身が日本橋で魚を扱う商人であったこと。芭蕉のパトロンとして終生芭蕉を援助した杉山杉風と同業である。杉風も日本橋小田原町の幕府御用の魚問屋だったから、二人は知り合いだった可能性がある。吉川惟足の門人だった曾良と杉風は親しく、曾良が芭蕉に入門したのは杉風の仲介だったともいわれ、いずれにしても三人が直接間接に幕府筋につながっていることが面白い。

 『悪党芭蕉』を書いた嵐山光三郎氏は、曾良を極め付きの神社フリークと呼んでいるが、単なる神社オタクを超えた高度な神道の知識を備えていたであろうし、神官としての資格のようなものを持っていたかもしれない。元禄四年、芭蕉に江戸帰京を促すために京に向かうが、そのとき記した『近畿巡遊日記』は近畿地方の神社仏閣をくまなく踏破した記録で、すさまじいほどの執念と超人的な脚力を示している。

 ここでは、芭蕉の俳諧の門人としてだけでなく、旅好きで、しかも神祇・歴史地理に精通した岩波庄右衛門という別の顔も見えてくる。宝永七(一七一〇)年三月、曾良は幕府の九州方面巡見使(巡国使)の随員として旅立つ。二千石の旗本の用人の位にあり、前年末に莫大な旅費をあずかっていたといわれる。巡見使とは諸国の藩政の実情や民情を査察するため幕府が派遣するもの。それ以前の曾良は六十六部となって乞食のような旅をしていたともいわれるから、鮮やかな転身とも見える。故郷に「春に我乞食やめてもつくし哉」の句を送っている。そして五月、壱岐で死亡したとされる。まさしく、師の芭蕉と同じく旅の途中で死んだことになる。

 ところが、実は曾良は壱岐で死んでいないのではないかとする説がある。村松友次著『謎の旅人曾良』によれば、徳川中期の儒学者並河誠所(なみかわせいしょ)が正徳六(一七一六)年、地理学者関祖衡(せきそこう)と共に上州伊香保温泉に旅した記録『伊香保道(みち)の記(き)』に、曾良らしき人物が登場するという。二人が榛名神社で出会った仙人のような不思議な老人が二十年前の知り合いで、芭蕉と歌枕を見に旅した人であると記しており、村松氏はその人物を曾良ではないか、としている。並河誠所は伊藤仁斎門下で、江戸へ出てまもなくの曾良と知り合う。博学で兵法や和歌にも通じていたという。

 並河の紹介で曾良を見知ったと思われる関祖衡は著名な地理学者で、鎌倉時代最明寺(北条)時頼が記したとされる『人国記』に地図を加え、日本全国の国ごとに人間の性格や気質、風俗を記した人間論的地誌『新人国記』をまとめた人物。関祖衡は曾良が巡見使に指名されたことを祝い、九州へ旅立つ曾良へ「送岩波賢契之西州詩並序」と題したはなむけの言葉を贈っている。この二人は曾良を俳人としてより、旅の達人であり、神祇や歴史地理に通じた岩波庄右衛門として認識しているように見える。

 『奥の細道』の跡を歩いた経験からもいえることだが、長期間にわたって他人(たとえ師匠であっても)と寝食を共にすることは大変なことだと思う。曾良は芭蕉の身の回りの世話ばかりか、旅程の調整、宿の手配、関所の手続きなど、奥州行脚の全体を取り仕切っていたと思われるから、その苦労は並大抵のものではなかったろう。

 百五十日間の長旅が成功したのも、同行者曾良の誠実な人柄や学識、旅に対する豊富な知識があったればこそ、と思えてしかたがない。 

いかがだろうか。とても読みやすくしかも資料をよく調べ上げ、こなれた文章でわたしたちの眼前にいきいきと曽良を紹介する。かっこうの「曽良入門」の一文である。

著者の大石登世子さんは、何度も何度も奥の細道を旅しておられる。

「東海道の一筋も知らぬ人風雅におぼつかなし」とは、芭蕉の言葉である。新しい千年紀の記念として東京日本橋から京都の三条大橋まで、五百キロ近くを足掛け三年かけて歩いた東海道五十三次の旅が、私にとって大きなテーマをもって歩く最初の旅である。東海道を歩きながら多くの神社仏閣、歴史的建造物、史蹟を訪ねた。川を渡り、峠を越え、四季の花を愛で、風に吹かれて町や村を訪ね、街道を歩く楽しみを知った。この旅がきっかけとなり、多くの歴史街道や古街道を歩いたり、坂東や秩父の札所巡りを始めるようになった。芭蕉の『奥の細道』の旅の後を追って歩きだしたのは、東海道の旅の最中の二〇〇二年である。といっても、きちんとした計画や目論見があって始めた旅ではなかった。最初は思いついた場所や名前の珍しい土地に惹かれて点々と辿っていたにすぎない。点が線になり、線が伸びてゆく楽しみも出て、はっきりと『奥の細道』を意識して歩くようになって数年後、陸奥、出羽から北陸を経て、結びの地、大垣に達したのは二〇〇七年のことである。

「あとがき」より引用した。

時間をかけ資料を読み漁り「奥の細道」の旅の魅力に捉えられていく。

文中のいくつかの箇所を紹介したい。

まずは「殺生石」より。

芭蕉の文章の歯切れのよさ、緊密な構成力、周到な伏線の敷き方は『奥の細道』の大きな魅力のひとつだと思うが、この作品のメインテーマが垣間見えてくるのもこの辺りからと思えなくもない。『奥の細道』の旅は、能因や西行ら先人の歩いた道を辿り、陸奥(みちのく)や北陸の歌枕を訪ねる旅であり、本文は歌仙を巻くような展開で構成されている、つまり連句的構成になっていると説明されることが多い。確かに陸奥には歌枕が多く、畿内に次ぐ数があるといわれる。

 さらに、自らを「桑門の乞食(こつじき)巡礼ごとき」身だと記していることから(日光の段)、旅する自分の姿を能のワキ僧に擬しているのだという説もある。さらには在原業平の東下りを下敷きにしているという説を読んだ記憶がある。芭蕉は業平ほどの高貴な身分ではないから、この説はさすがに? と思うのだが。能好きの私としては、能のワキ僧説はちょっと心惹かれる。

 この観点から『奥の細道』の行程を見ると、実に興味深い。那須野自体がすでに「殺生石」という能(謡曲)の世界であるし、以後、太平洋側の北端、平泉までは、まさに謡曲の舞台となった土地をなぞるような旅となっている。私が『奥の細道』の跡を歩いていたときも、義経や西行の登場する能にゆかりの地を辿っているようで不思議な感じがした。

 しかし考えてみれば、謡曲の詞章には多数の和歌が綴れ織のように折り込まれており、和歌は歌枕を詠み込むことが多いから、芭蕉が歌枕巡りをめざしたとすれば、これが謡蹟巡りと重なるのはまったく自然なことともいえるのだ。

大石さんの文学的素養にもとづく独自な見解も見えてきて読者を飽きさせない。

「大垣」の一部も紹介したい。

結びの地になぜ大垣が選ばれたのか。旅程の中で唯一、三度目の訪問地であり、門人や知人が多く、旧知の土地と人に囲まれて疲れた心身を休めるのに相応しい、かつ故郷の伊賀上野にも近い、などの理由が考えられるが、芭蕉の深い思慮分別まではわからない。

 「親しき人々、日夜訪ひて、蘇生の者に会ふがごとく、かつ喜びかついたはる」と記し、大垣や美濃、近江一帯の門人たちの熱烈歓迎を受けている様子が彷彿とうかぶ。

 「前途三千里の思ひ胸にふさがりて」「もし生きて帰らばと」いう覚悟で江戸深川を出発した日のことが芭蕉の頭に去来したであろうか。(略)素人の思いつきのようなものなのだが、芭蕉は『奥の細道』の旅の後、活動の本拠地を上方に移すつもりだったのかもしれない、と感じることがある。自分に残された余命と体力、故里への回帰本能、すぐれた弟子の確保と江戸における杉風のような大スポンサーの確保など、蕉風確立のための条件をみたす土地を近江辺りに検討していたのではないか、あるいは大垣も候補地にあったのか、など想像をめぐらすのも面白いと思う。どこかで江戸に見切りをつけていたのではと考えると、帰着地が江戸でないこともうなずけるのだが。

 奥州から北陸行脚を続ける過程で芭蕉のうちに俳諧の道、風雅の道への思索の深まりがあり、自分の進むべき道の将来を江戸より西の地へ託すことを考えていたとも思える。研究者でもない私がとやかくいうことでもないのだが、芭蕉の『奥の細道』を何度も辿ることで、私自身の旅することへの思いが深まってきたことも確かである。

何度も「奥の細道」をたどることで見えてきたもの、著者と芭蕉の距離はどんどん近づいていく。

内容はぎっしりと詰まっているが、読みやすくなによりペーパーバックスタイルの本であるのがいい。「奥の細道」の旅を計画している人は、この一書を読みいろいろと知識を入れておくといっそう旅が楽しくなりそうだ。

ブックデザインは、君嶋真理子さん。シンプルな出来上がりだが、用紙はデラックスに題字を金箔おしにして美しい本となった。