時の感覚

https://kokugonomado.meijishoin.co.jp/posts/1204 【夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過各なり。】より

本文(書き下し文):夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過各なり。

読み:それてんちはばんぶつのげきりょにして、こういんはひゃくだいのかかくなり。

通釈:そもそも天地は万物を宿す旅館のようなものであり、(その中に来るものあり去るものあり)月日は永久に往いて帰らぬ旅人のようなものだ(いつまでも留ることはない)。


「光」は日、「陰」は月の意味で、「光陰」は月日や時間を表すと言われます。これが芭蕉の時に関する感覚ではないでしょうか?視点は今・ここ 蕪村は懐旧と言われます

もしかしてこの「時」の感覚が不易流行のベースと言えるのではないでしょうか?

蕪村は温故知かもしれませんね。


https://blog.goo.ne.jp/shysweeper/e/8c28efc9c8c61b00c780b5c59736bfd2 【「遅き日のつもりて遠きむかしかな」(蕪村)】 より

★遅き日のつもりて遠きむかしかな(蕪村)

この句とても有名である。私も中学か高校の頃に習ったと思う。しかし未だにまだ納得のいく解釈に出会ったことがなかった。遅き日、春の季語である。

その春の日を昔にたどっていくとさまざまな思い出があり、自分の人生を思い出して懐旧の念がつのる、というのが一般的な解釈である。しかし私は自分の人生を振り返ることと、遅き日との必然性がどうしてもピンとこない。春の日である必要が理解できなかった。夏の日ではいけないのか、秋それも晩秋の日ならばもっとロマンチックではないのか、冬の日ではどうしていけないのか、疑問が湧いてくる。

安藤次男の「与謝蕪村」(講談社文庫)を読んで少し理解できたように感じた。

角川ソフィア文庫版ではこの句は1775(安永5)年、蕪村60歳の時の句としている。講談社文庫の安藤次男の「与謝蕪村」では年代未詳としながらも「懐旧」という前書き、「つもりて遠き」という感慨から、晩年の作という推定を行っている。66歳で亡くなっている蕪村にとっては60歳の1775年は間違いなく晩年である。

その上で安藤次男は蕪村の師である巴人、炭大祇、黒柳召波、などへの追悼の意があると記している。自分よりも先に亡くなった師友など親しい人を偲ぶ、という意味で「つもりて遠き」という感慨は理解できる。

「遅き日」という語がまさに生きてくる。春の日の遅きとじっくりと向き合いながら、自身の過去と向き合うには、この「遅き日」でなくてはならない。

さらに安藤次男の解説を読むと、蕪村晩年の頃の泰平ムードを踏まえている、という。芭蕉の頃とは違う市井の町人文化、文人の世界だという。確かに文化の在りようが芭蕉のころと蕪村の時代では異なっている。安藤次男は「泰平の中に乱世の心を求めた芭蕉」という把握をしている。

その芭蕉には「遅き日」と「懐旧」は似合わない。芭蕉の世界は確かにまだ戦国の世の厳しい乱世の時代が匂っていた。武士の世なのである。人生を流れる時間の密度が芭蕉と蕪村では大きく違う、と私も納得した。芭蕉にとっての時間は「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」(奥の細道)という文言にも表れている。

芭蕉の時間に対する感性はとても厳しく濃密である。濃密な時間の流れの中にいる若い時代は、芭蕉のこの厳しい人生観、時間の感覚に吸い寄せられるものではないだろうか。

10代の私には理解できなかった蕪村の「遅き日」のイメージは意外と芭蕉と蕪村の本質的なところに繋がっていたのかもしれない、と蕪村が亡くなった年齢に近くなってしみじみと思える。そしてそれが江戸時代前半と江戸時代の後半の世相、社会の大きな差なのであろう。

そして幕末から明治にかけて時代は再び風雲急を告げたのかもしれない。ついでに付け加えるならば、戦後70年の時代もどちらかというとこのような断絶があるかもしれない


https://blog.goo.ne.jp/nikonhp/e/8cc65c6ee09fe0bd738a4baafa856395#:~:text=%E9%81%85%E3%81%8D%E6%97%A5%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E9%81%85,%E3%81%8F%E6%98%A5%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%82  【遅き日】  より

遅き日のつもりて遠きむかしかな

わたしが若いころから好きだった与謝蕪村の一句である。

遅き日とは、「遅日(ちじつ)」を訓読みにした語で、日永になっていく春の日のこと。

たとえば、須賀敦子さんの「トリエステの坂道」の世界を、ひとことでいい換えれば、この一句に収斂してくるようなものである。

過去をふり返らず、まっすぐに歩いていけ・・・などと、人はよくいう。

たしかに、ふり返りたくない「過去」が、一つやふたつ、だれにもあるに違いない。

しかし、わたしとは何者かと考えた場合、それはわたしという人間の過去の総体なのではあるまいか。

「このごろ、昔話が多くなった。気をつけようぜ、おたがい」

久しぶりに古い友人とお茶すると、そういって笑ったりする。

会社から帰って、近ごろめっきり老いた母と話をすると、話題の90%は「昔話」。

毎日、毎晩、母の子ども時代の話題ばかり・・・それも、毎回、同じような内容を、くり返し聞かされる(^_^)/~ つい昨日と、50年、60年昔の区別は、あまり存在しない。

それを洗練させていけば、須賀敦子の世界に通じるな――などと、わたしはおもう。

アコヤガイに傷をつける(タネを植え込む)と、貝はそれを癒そうとして、真珠を作り出すという。

須賀さんのエッセイは、そういった意味で、紛れもなく真珠なのである。

彼女は「自分から失われた世界」ばかりを書いている。

すでになくしてしまった時間の輝き。それをたんねんにたぐり寄せる、その手さばきの見事さ。

「あのとき、わたしは」

「あのとき、夫は」

「あのとき、コルシア書店のあの作業場では」

研き抜かれた、美しい、しなやかな日本語。あんなふうに、日本語をあやつれる人は、文学者といわれる人たちのなかですら、そう多くはないだろう。

『彼方にあった時代と人間について、そのときそこで起きた出来事について、そこに流れていた時間、当たっていた日射しについて、そしてもっと多くの事柄について、

静かに、しかし確かに話しかけてくるもの、

それが写真だ。

遠い、見知らぬ人びとの面影と景色が、遙か、見覚えぬ光と影の輪郭と記憶が、

たたずむぼくたちの日常のなかにつと甦ってき、

かつてのことを、たった現在(いま)のことを、そして来るべき日のことを、

そっと耳もとに囁いてくるもの、それが写真だ』

森山大道さんは、写真集「NAKAJI」(講談社)の一ページに、こう書きしるしている。

一昨日の日記に書いたように、「NAKAJI」は、森山さんの1980年代の写真でできている。

つまり、30年か、それ以上の時間が、すでに流れすぎていることになる。


http://e2jin.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-9185.html 【遅き日のつもりて遠きむかしかな(蕪村)】 より

蕪村の句、「懐旧」【遅き日のつもりて遠き昔かな】を鑑賞します。

(意訳)日に日に日没の時間が遅くなってきた。積りつもったこの夕暮れに、遠い昔が思い出されることよ。

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この句の評価としては、

「…日本の詩歌における感傷・詠嘆の最も純粋な母型の一つを示しているかのよう…」(中村草田男)

「…蕪村の情緒。蕪村の詩境を端的に詠嘆していることで、彼の代表作と見るべきだろう…」(萩原朔太郎「郷愁の詩人与謝蕪村」)

「…永い春の日が、積りつもった遠い遥かな昔、幼い日の懐古。…」(山本健吉「俳句鑑賞歳時記」)

「私の大好きな句です」(内藤鳴雪「蕪村句集講義」)

など、絶賛する人が多いです。ただ、

「…全く主観的の句である」(河東碧梧桐「蕪村句集講義」)

との声もあります。もちろん私はこの句が好きです。なんといっても言葉の響きが美しいです。「遅き」と「遠き」、「日」と「昔」。十七音の中に押韻と対句をほどこした構成に感動します。そして前書きの「懐旧」が効果的です。日本人のだれもが感じるノスタルジーに訴えかけています。