柳枯れて道に寄り添ふ水の音

柳枯れ道は山へとうねりけり  五島高資

 柳枯れて道に寄り添ふ水の音  五島高資


田の神は山に帰る季節ですね。「道に寄り添ふ水の音」は再生への約束を暗示するようです。


https://blog.goo.ne.jp/fuuten-tora/e/c1bf21711beec71b160fc5f6c5f874ca 【「枯柳」(かれやなぎ)】 より

一年の風集め来て枯柳

(ひととせの かぜあつめきて かれやなぎ)

沼辺の枝垂れ柳もようやく葉を散らして、昨日の激しい雨、そして今日の強い風に完全に「枯柳」となりました。

今年も数日を残して、一年立ち尽くして集う人たちを枝垂れの中に包み込んできた柳の木々も暫くは冬眠に入ります。或る時は豪壮さに覚えた枝垂れも何か哀れさの風情を感じます。

小波のたつ沼面には、三々五々、鴨の浮き寝鳥の姿が望まれます。押し迫った世俗の忙しさを他所にまさに「忙中閑あり」の風情です。今年世話になった沼辺です

「浮き寝鳥」

めぐる池忙中閑あり浮き寝鳥

(めぐるいけ ぼうちゅうかんあり うきねどり)

「浮き寝鳥」は自分自身かも知れません。確実に今年は忙しく去ろうとしている一日です。

読売・編集手帳・12・27より

戯れうたに、「縁は異なものさて味なもの独活が刺し身のつまになる」とある。山の独活も、海の魚も、いつか同じ皿の上で隣り合うとは想像もしなかったろう

◆人もまた、「異なもの」の見えざる糸に導かれて生きていくことに変わりはない。日本文学研究者、ドナルド・キーンさんが本紙に連載していた回想録がこのほど終了した

もしも大学の教室で中国人の学生が隣に座らなかったら・・・。もしも日米開戦がなかったら・・・。東洋文化に目をひらくこともなく、米国海軍の通訳官になって日本との縁が結ばれることもなかったという

◆誰にも人生の岐路で選んだ道があり、選ばなかった道がある。皇后陛下のお歌を思い出す。「かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいずこ行きけむ」。選ばれなかった分かれた道の片方には別の人生があり、行方は誰も知らない

◆84歳のキーンさんはいま、60年以上の年月を日本人とともに歩んできた半生を追想し、「幸福だった」と語っている。日本文化のすぐれた理解者、紹介者を得た日本人にとっても幸運なことに違いない

◆年賀状を書きながら、その人と知り合った昔を顧みて、ふと筆の止まるときがある。袖すり合う縁がなかったら自分はいま、どこで何をしていただろう。歩むことのなかった「分去れの道」を旅するのも年の瀬ある。


https://blog.goo.ne.jp/marbo0324/e/11bcbc24014470d9c5f1affe1e9b46fd 【柳に翡翠(かわせみ)】 より

これも、子規の”病牀六尺”から派生した話。まず、その70(番)に載った文章をご覧下さい。

梅に鶯、竹に雀、などいふやうに、柳に翡翠(かわせみ)といふ配合も略画などには陳腐になるほど画き古されて居る。この頃画本を見るにつけてこの陳腐な配合の画をしばしば見る事であるが、それにもかかはらず美しいといふ感じが強く感ぜられていよいよ興味があるやうに覚えたので、柳に翡翠といふのを題にして戯れに俳句十首を作つて見た。これは昨年の春・春水の鯉といふ事を題にして十句作つた事があるのを思ひ出してまたやつてみたのである。

ぼくが不思議に思ったのは、梅に鶯、竹に雀は、現代でもよく見る画題であるが、柳に翡翠というと、はてなマークがついてしまう。少なくとも、ぼくのこれまでみた展覧会の中では、この画題の絵はみたことがない。念のため、”柳に翡翠”をキーワードにして、ネットで調べてみても、わずか、渡辺玄対(1749-1822)と石原章堂という画家の掛け軸が上ってくるのみである。

それが、子規が生きた明治時代には、取り合わせの良い一対のものとして、陳腐になるほど描き古されているとのこと。はやりすたりは世の習いだから、驚くことはないかもしれないが、ついでだから、何故すたれたのか、想像の世界に迷いこんでみようと思う(笑)。

まず、何故、柳とカワセミの組み合わせかが分からない。カワセミは、水辺に棲み、主として川魚を餌にしている翡翠色の羽根をもつ、うつくしい小鳥である。明治時代でも人気の小鳥であることは間違いない。

一方、柳はというと、現在では銀座の柳、ローカルになるが(笑)、藤沢の柳通りなどの街路樹が、まず思いつく。でも、こういう場所にはカワセミはやってこない。では、水辺の柳というと、たしかに、川沿いや池の畔に植えられた柳もたまには目にすることはある。新宿御苑の日本庭園の池の畔とか、ローカルになるが、近所のいたち川沿いの一本柳とか。そのどちらの水辺でもカワセミを観察しているが、柳の枝に止まっている姿は一度も見たことがない。

結論。現代では、”柳にカワセミ”はありえない!(笑)

明治時代に”柳にカワセミ”がありえたのは、何故か?それには、まず、水辺に柳が豊富にあったことが条件となる。ちょっと調べてみると、柳は湿地を好み、根もよく張り、生命力も強い植物とのこと。もともと水辺や河原に生育する植物だが、江戸時代くらいから水害防止のために川や池の周りのよく植えられたらしい。そうか、明治時代の川や池の畔には、柳は普通に見られたのだ。カワセミも、今よりずっと多いはずだから、柳の枝に止まるカワセミもあたりまえの風景だったかも。

結論。明治時代では、”柳にカワセミ”はありうる!

そのうち、大正、昭和と水辺から柳が消え、自然環境も悪化してカワセミも少なくなり、誰も気づかなくなった、という結論にしよう!明治は遠くになりにけり。


https://himama356.hateblo.jp/entry/2020/03/18/233305【正岡子規「柳に翡翠」十首】より

正岡子規が俳句の初心者に適した文章を残しています。

岩波文庫「正岡子規 病床六尺 七十」

脚色を施し私なりに解読をしてみました。

梅に鶯、竹に雀というように、柳に翡翠という組み合わせの絵はありふれていてつまらないなぁ、あ~古くさい。

この頃はどの画集を見ても、このありきたりな組み合わせの絵を、まぁ、、、とりあえず見ているんだけどね。

「ありきたりでつまらん」と思っていたけど、しばしば眺めていると不思議なもので、「美しい」という気持ちが湧いてくるんだよね。

「美しい」と思いはじめたら、ますます「柳に翡翠」という絵に興味がわき、「柳に翡翠」を題材にして遊び半分で俳句を十首作ってみた。

昨年「春水の鯉」を題材にして十句作ったことがあったのを思い出して、また作ってみようと思ったんだ。

「春水の鯉」を題材にして作った時は本当に難しくて、身動きもできないと言えばいいのかな…とにかく言葉が全くでてこないんだ。

今回の「柳に翡翠」はやや心にゆとりを持ちながら作ることができた。

いろいろ工夫したり、情景を入れ替えてみたりする余裕があった。

で、その十首をよくよく眺めてみると「春水の鯉」の時に作った俳句と比べると「柳に翡翠」の方が嫌味のある句が多い。

「柳に翡翠」で十首作ってみたけど、まぁ、こんな句の作り方はただの暇つぶしに過ぎない。

ただこういう俳句の作りを実際に試みると、句法研究にとても優れた題材であるといことが今回わかった。

つまり、俳句を作る時に配合の材料があっても、やり方によっては善い句にも悪い句にもなる。今回、ありきたりな「柳に翡翠」という題材で俳句作りをしたけど、このようなやり方でやってみて俳句の作り方を改めて確認することができた。

遊び半分でやっただけなのに、よくわかって面白かったなぁ。

さて、ひと眠りするか(-_-)zzz

(脚色ありです。「柳に翡翠」十首は岩波文庫「病床六尺:正岡子規 七十」で確認できます。これ以上書いたら岩波書店から怒られます。そして私は正岡子規が作った「春水の鯉」の句をまだ確認できていません)

子規が作った「柳に翡翠」の十首。

短歌、俳句マイブームで初心者の私にはわかりやすい俳句です。

十句の内、九句は「翡翠」から始まっています。

季語を頭において、後の文を考えるという点ではとてもわかりやすいです。

「今の」私は必ず季語を入れて作りたいので、子規の作った句は参考になりました。

「柳に翡翠」がありきたり(陳腐)だと子規は言っていますが、私は「柳に翡翠」がとまっている姿をみたことがありません。

柳はおろか、カワセミだと認識してカワセミを見たことがありません。

子規は伏している状態で、仲間が持ってきた画集などをみて十首作ったわけですね。

まさに暇つぶしか、新聞記事のネタ作りだと思います。

「柳に翡翠」がありきたり(陳腐)でしょうか?

日本画がわからない私には少々高尚な気がいたしますが。

子規が生きた時代と現在では環境が変化していることも高尚と思う原因かもしれません。

「柳に翡翠」十首の内、どれが一番「ただそれ無難なるは主観的の句のみならんか。」かと読んでいると、不思議なことに十首すべてが面白いなぁ、と思いました。一番は決められません。

十首がどんな内容か子規の俳句から「柳に翡翠」を写生をしたいと思います。

私は大学の文学部を卒業しているわけではありません。高卒です。

そして国語が特別好きな教科でもなく、通信簿ではだいたい3でしたね。

そんな私の写生(読解力)だとご承知おきください。

子規は病床に伏しながらも、戯れに画集などを見て「柳に翡翠」の俳句を作っているという状況です。

「春水の鯉」の時はその難しさに身動きもできなかったわけで、その時の句に比べれば「柳に翡翠」は嫌味のある句が多いと書いています。

気持ちを楽にして俳句を作ることができたんですね。一体どんな絵を見たのでしょう。

一首目から写生をしたいと思います。

1.カワセミが魚を仕留めようと、柳にとまり水面を覗いている。

2.カワセミが鳴く声がする。柳に来ているようだが、枝の茂りが多くてカワセミの姿みえないなぁ。

3.美しい羽色を持つカワセミが度々くる柳はありがたいなぁ、柳があるからカワセミが来るわけで。柳、ありがと!!

4.カワセミが池の周りをグルグルと飛んで、とまる柳を探しているようだが、皆柳の木ではないか。天敵がいないか伺っているのかなぁ。

5.今日は風が強く、柳の木が荒々しく揺れているのう。こんな日はカワセミは来ないだろう。

6.柳の木にカワセミも鷺もきている。鷺はカワセミを狙っているのではないか?

7.柳の木を伐ってしまったのか…もうカワセミがくることはないだろう。

8.カワセミが柳にきてあちこちと枝を飛び渡っている。魚を仕留めるために枝を選んでいるのだな。

9.「翡翠の去つて柳の夕日かな」原文←難しい

10.カワセミが柳から飛び去ってしまった。寂しさあり。

雑な写生になりました。元の俳句を見ないとわからないと思います。

カワセミが餌をとるところから始まり、最後は飛び去りました。後半は少し寂しい気持ちになります。

子規は、

「柳に翡翠」は陳腐であり古くさいと毒舌を書いています。

そしてできた句を「春水の鯉」と比べると嫌味のある句が多いと。

嫌味?何故でしょう?

四月季語「柳」

六月季語「翡翠」

けぶる柳は俗っぽいと?

美しく小さい小鳥(翡翠)が絵のように佇んでいるのではなく、魚影を狙い、またその仕留める様があまりにも素早いからでしょうか?コバルト色の羽は毛鉤であると。

三月季語「春水(春の水)」の方が自然情緒あふれる美しい季語だと言いたいのでしょうか?

※「鯉幟」は歳時記にありましたが「鯉」掲載されていませんでした。

なぜ「柳に翡翠」の方が嫌味な句が多くできたのか?

「春水の鯉」の句を見なければわかりません。気になって仕方がない。

子規は病床に伏しながらたくさんの画集を見たでしょう。「春水の鯉」も画集を見て俳句を作ったと考えます。

絵を書いた人が誰なのかも知りたいですね。誰の絵を見たのでしょう?

その絵を書いた人の絵心が気に入らなかったんじゃないの???と思ったりもします。

でもしばしば眺めているうちに「美しい」と感じ、句を作るまで至りました。

そして子規は月並みより、写生を推しています。実際に草花の絵を描くことが好き。←繊細

子規なりのデッサン力があるわけで、ただ人が書いた柳にカワセミの絵をみて、

「ほ~これが柳に翡翠か」と感心するだけが子規の仕事ではなかった。

陳腐な絵に出会えど、やはりそこには子規の逞しい想像力と写生術が発揮されたのだと思います。

「幼時より客観美に感じやすかりしわれ」の資質も重なり、子規は俳句を大成することができました。限られた病床六尺の中で。

私は絵には詳しくありませんが、デッサン力というのを侮ってはいけないと、常々思ってきました。

だから美術大学での入学試験にデッサンとかありますよね。

子規の文章を読んでいると「基本を怠ってはダメ」という印象を感じることがあります。

先生(・∀・)

私も先生の「柳に翡翠」十首をしばしば読み返して初めは「普通じゃないか?」と思いましたよ。

でも何度も読み返しているうちにどの句も面白く、「美しい」、そして俳句の世界は奥深いと思いました。これを写生と言っていいでしょうか?

先生の言う通りとても勉強になる十首です。

でも子規先生についてはまだまだ勉強不足であり、そしていつになったら「病床六尺」が読み終わるのかわかりません。

(ヲハリ)

参照

岩波文庫:「病床六尺」正岡子規三省堂:「ホトトギス新歳時記」稲畑汀子編