菊の香やならには古き仏達
松尾芭蕉
陰暦九月九日(今年は今日にあたる)は、重陽(ちょうよう)。菊の節句。この句は元禄七年(1694)九月九日の作。前日八日に故郷の伊賀を出た芭蕉は、奈良に一泊。この日、奈良より大阪に向かった。いまでこそ忘れ去られている重陽の日だが、江戸期には、庶民の間でも菊酒を飲み栗飯を食べて祝った。はからずも古都にあった芭蕉の創作欲がわかないはずはない。そこでひねり出したのが、つとに有名なこの一句。仕上がりは完璧。秋の奈良の空気を、たった十七文字でつかんでみせた腕の冴え。いかによくできた絵葉書でも、ここまでは到達できないだろう。(清水哲男)
梅やなぎさぞ若衆かな女かな
松尾芭蕉
つまり、梅はいい男みたいで、柳はいい女みたいというわけだ。見立ての句。「立てば芍薬 坐れば牡丹 歩く姿は百合の花」などの類であるが、ひるがえって最近の美男美女は、とんと花に見立てられることがなくなってきたようだ。人間と自然との交感が薄らいできたせいだろう。「牡丹のようなお嬢さん」と言われたって、第一、誉められた当人がわからない。「隆達小唄」に、こんなのがある。「梅は匂ひよ 木立はいらぬ 人はこころよ 姿はいらぬ」。……と、うたいながらも人に姿を求めている屈折した古人の「粋」を、君知るや。このとき三十九歳の芭蕉は、単なる野暮な男でしかないのである。(清水哲男)
木のもとに汁も鱠も櫻かな
松尾芭蕉
鱠は「なます」。木は「こ」と読ませる。昔から、桜に対するとどうも臍曲りになる表現者が多い。「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(在原業平)だとか、「わがこころはつめたくして/花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ」(萩原朔太郎)だとかと、枚挙にいとまがない。なにせはかない命の桜花だもの、そう表現したい気持ちはよくわかりマス。しかし他方では、せっかく咲いた桜なのだから「酒の肴」にしちまおうなんていう逞しい感覚の庶民もたくさんいたわけで(いまでも)、だとすれば、もっと楽しい作品があってもいいのになと思う。その意味で、この軽みはとてもよい。花見の座。そこに坐って一杯やったら、これっきゃないですよね。時は元禄三年(1690)、芭蕉四十七歳。晩年の句だ。(清水哲男)
たけの子や畠隣に悪太郎
向井去来
よく知られた芭蕉七部集のなかでも、『猿蓑』(元禄4年・1691年)は蕉風俳諧の円熟期の収穫とされるが、この句は猿蓑集巻之二・夏の部に登場する。去来の句のすぐ前に凡兆の「竹の子の力を誰にたとふべき」、すぐ後に芭蕉の「たけのこや稚き時の絵のすさび」がならぶが、いずれも理屈でもたつき、去来の直接的な明解さに及ばない。ニョキとはえ出たたけの子を隣りの土地から見つめている腕白小僧。たけの子のかわいさに柄にもなく見とれているが、じつは盗もうかいたずらしようかと悪智恵をめぐらしているようだ。俳句では古くからたけの子と子どもの連関が多く詠まれているらしいが、ここでは憎まれ小僧の"悪太郎"であるのがいかにも野趣があり、両者の対比が生きている。こうした健やかで愉快な初夏の情景が、今でもどこかに残っているだろうか。(八木忠栄)
里ふりて柿の木もたぬ家もなし
松尾芭蕉
元禄七年(1694)八月七日の作品だから、新暦ではちょうどいまごろの季節の句だ。柿の実はまだ青くて固かっただろう。農村に住んでいたせいだろうか、こういう句にはすぐに魅かれてしまう。私の頃でも、ちゃんとした農家の庭には必ず柿の木が植えられていたものだ。俗に「桃栗三年柿八年」というように柿の木の生育は遅いので、この句のように全戸に柿の木が成熟した姿で存在するということは、おのずからその村落の古さと安定とを示していることになる。ここで芭蕉が言っているのは、一所不住を貫いた「漂泊の詩人」のふとした自嘲でもあろうか。少なくとも俳諧などには無関心で、実直に朴訥に生きてきた人たちへの遠回しのオマージュのように、私には思える。二カ月後に、彼は「旅に病で夢は枯野をかけ迴る」と詠んだ。時に芭蕉五一歳。『蕉翁句集』所収。(清水哲男)
草いろいろおのおの花の手柄かな
松尾芭蕉
古来、梅や桜などの木の花は春、草の花はこの季節に多く咲くので秋のものとされてきた。したがって、この句の季語はそのように書かれてはいないが、「草の花」として秋の部に分類すべきだろう。句意は明瞭。草の種類は有名無名さまざまだけれど、それぞれの草がそれぞれに立派に花を咲かせている姿が見事だということである。ニュアンス的には、名も無き花に贔屓している。植物に「手柄」を使ったところも面白い。この言葉は武勲に通じるのでいまでは敬遠されがちだが、芭蕉の時代には、もっと幅広い含みがあったようだ。『笈日記』所収。(清水哲男)
色付くや豆腐に落ちて薄紅葉
松尾芭蕉
まさに日本の秋の色だろう。美しい。芭蕉三十五歳の作と推定されている。舞台は江戸の店のようだが、いまの東京で、このように庭で豆腐を食べさせるところがあるのかどうか。この句を読むたびに、私は京都南禅寺の湯豆腐を思いだす。晴れた日の肌寒い庭で、炭火を使う湯豆腐の味は格別だ。実際に、ほろりと木の葉が鍋の中に舞い降りてくる。そうなると日頃は日本酒が飲めない私も、つい熱燗を頼んでしまうのだ。たまさか京都に出かける機会を得ると、必ず寄るようにしてきた。この秋は改築された京都駅舎も評判だし、行ってみたい気持ちはヤマヤマなれど、貧乏暇なしでどうなりますことやら……。(清水哲男)
酒のめばいとゞ寝られぬ夜の雪
松尾芭蕉
前書に「深川雪夜」とある。芭蕉四十三歳。芭蕉はサラリーマンではなかったから、大雪になっても、翌朝の通勤を心配することはない。だが、酒を飲んでも、飲むほどに寝る気にはなれないというのだ。降雪による興奮で、かえって頭が冴えてくるからである。「雪見酒」のような呑気な酒にはならない。つまり、この句には人間がいかにデリケートに自然と交感する存在であるかが、具体的に描かれている。台風などのときにも、こういうことはよく起きる。首都圏は、ひさかたぶりの大雪だ。自然の成り行きに逆らって出勤するサラリーマンたちのストレスは、いかばかりであろうか。かく言う私も、例外ではない。諸兄姉の安全を祈る。『勧進牒』(貞享三年・1687)所収。(清水哲男)
紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ
松尾芭蕉
句意としては、こうだ。とある家の簾の下りた部屋の前庭に、紅い梅の花が咲き匂っている。その美しさはすだれの奥の女性の姿を彷彿とさせ、いまだ見ぬその人への恋心がつのってくる……。と、さながら恋に恋する少年のような心持ちを詠んでいるのだが、このときの芭蕉は既に四十六歳。もっとも「反古の中から出てきた句」だとわざわざ添え書きしてあるから、本当にずっと若いときの句かもしれないし、あるいは照れ隠しなのかもしれない。キーワードは「玉すだれ」で、簾の美称である。実用的にはいまどきの上等なカーテンであるが、心理的には恋の遮蔽物だったことを知らないと、この句はわからない。古くから、和歌では恋しい人を隔てるものとして詠みつがれてきている。間違っても、芸人の使う「ナンキン玉すだれ」ではありませんよ(笑)。なお、紅梅を詠んだ芭蕉の句はこの一句だけ。芭蕉にしてはあまり出来のよくない作だとは思うけれど、その意味で珍重されてきているようだ。なお、季語は「紅梅」。対して「白梅」という季語はない。「白梅」が「梅」一般という季語に吸収され「紅梅」が独立したのは、その艶やかさもさることながら、「紅梅」のいささかの遅咲きに着目した古人の繊細な時間感覚からなのだろう。(清水哲男)
五月雨の降のこしてや光堂
松尾芭蕉
旧五月十三日、芭蕉と曽良は平泉見物に訪れ、別当の案内で光堂(正式には金色堂)を拝観している。「おくのほそ道」の途次のことだ。句意を岩波文庫から引いておく。……五月雨はすべてのものを腐らすのだが、ここだけは降らなかったのであろうか。五百年の風雪に耐えた光堂のなんと美しく輝いていることよ。とまあ、これは高校国語程度では正解であろうが、解釈に品がない。芭蕉はこのように光堂の美しさをのみ詠んだのではなくて、光堂の美しさの背景にある藤原氏三代やひいては義経主従の「榮耀一睡」の夢に思いを馳せているのだからである。有名な「夏草や兵どもが夢の跡」はこのときの句だ。ところで光堂であるが、現在は鉄筋コンクリートの覆堂(さやどう)で保護されている。たとえば花巻の光太郎山荘と同じように、元々の建物をそっくり別の建物で覆って保護しているわけだ。家の中の家という感じ。芭蕉の時代にも覆堂はあり(と、芭蕉自身がレポートしている)、学者によれば南北朝末の建設らしいが、いずれにしても五月雨からは物理的に逃れられていた。『おくのほそ道』の文脈のなかではなく、こうして一句だけを取り出して読むと、光堂はハダカに見える。また、ハダカでなければ句が生きない。その意味からすると状況矛盾の変な句でもあるのだが、覆堂の存在を忘れてしまうほどの美しさを言っているのであろう。昔の句は難しいデス。(清水哲男)
さみだれを集めて早し最上川
松尾芭蕉
知っている人もいると思うが、この句の原形は「さみだれを集めて涼し最上川」であった。泊めてくれた船宿の主人に対して、客としての礼儀から「雨降りのほうが、かえって涼しくていいですよ」と挨拶した句だ。それを芭蕉は『おくのほそ道』に収録するに際して、「涼し」を「早し」と改作した。最上川は日本三大急流(あとは富士川と球磨川)のひとつだから、たしかにこのほうが川の特長をよくとらえており、五月雨の降り注ぐ満々たる濁流の物凄さを感じさせて秀抜な句に変わっている。ところで、実は芭蕉はこのときにここで舟に乗り、ずいぶんと怖い目にあったらしい。「水みなぎつて舟あやうし」と記している。だったら、もう少し句に実感をこめてくれればよかったのにと、私などは思ってしまう。単独に句だけを読むと、最上川の岸辺から詠んだ句みたいだ。せっかく(?)大揺れに揺れる舟に乗ったのに、なんだか他人事のようである。このころの芭蕉にいまひとつ近寄りにくい感じがするのは、こういうところに要因があるのではなかろうか。もしかすると「俳聖」と呼ばれる理由も、このあたりにあるのかもしれない。そういえば、実際にはおっかなびっくりの旅だったはずなのに、『おくのほそ道』の句にはまったくあわてているフシがみられない。関西では昔から、こういう人のことを「ええカッコしい」という。(清水哲男)
三日月の匂ひ胡瓜の一二寸
佐藤惣之助
巧い。パッと見せられたら、誰もがウムと唸る句だろう。ほのかに匂うような三日月を指して、一二寸の胡瓜のそれに似ていると言うのである。作者の才気煥発ぶりを感じさせられる。だが、この句には下敷きがある。一枚目のそれは其角の「梅寒く愛宕の星の匂かな」であり、二枚目のそれは芭蕉の「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」である。下敷きがあっても構いはしないが、下敷きを知っている人には、どうしても原句にあるのびやかさが気になって、この句の空間が狭く思われてしまう。止むを得ないところだ。ところで、佐藤惣之助はご存じ「赤城の子守歌」〔東海林太郎・歌〕など多くのヒット歌謡曲を書いた人で、いわば「殺し文句の達人」であった〔自由詩の詩人としても実績がある〕。この句も、実に小気見よく決まっている。いつの時代にも、またどんなジャンルにあっても、クリエイターが大衆に受け入れられるための条件のひとつは「換骨奪胎」の巧みさにあるようで、かつて一度も登場したこともないような新しい表現物は確実に置いてきぼりにされてしまうのが常である。ただし、問題はそうしたことを苦もなくやってのけられる才能の側にもないわけではなくて、詩人としての佐藤惣之助が忘れられようとしているのは、たぶん、そのあまりにも巧みな「換骨奪胎」による「殺し文句」のせいであろうかと思われる。溢れ出る才能にも、悲しみはある。(清水哲男)
荒海や佐渡によこたふ天河
松尾芭蕉
あまりにも有名な句。そして、文句なしの上出来な句。スケールの大きさといい品格の高さといい、芭蕉句のなかでも十指に入る傑作だろう。この句は越後の出雲崎で詠まれた句と推定されているが、実はこのあたりの海の波は非常におだやかだったらしい。が、あえて芭蕉は「荒海」と詠んだ。なぜか。それは芭蕉の気持ちが、かつて「佐渡」に流された多くの罪人や朝敵の気持ちに乗り移っているからである。波は静かでも、彼らにとっては「荒海」以外のなにものでもない海なのであった。悲愴感に溢れる彼らの心境を天の川に昇華させた、寒気がするほどに凄い作品だと思う。このようなフィクションを、芭蕉は『奥の細道』のあちこちで試みていて、なかには無残にも失敗した作品がないわけではない。が、この句は格別だ。事実ではないからといって句をおとしめてはならないし、芭蕉だからといってすべての作品をありがたがってもいけない。この句を受けて、北原白秋は「海は荒海、向ふは佐渡よ」という書き出しの傑作歌謡『砂山』を書いた。しかし、そこでの白秋は文字通りの「荒海」として、芭蕉の海をとらえている。短慮なのだけれども、この短慮あっての白秋の天才があったと言うべきだろう。(清水哲男)
物書て扇引さく余波かな
松尾芭蕉
余波は「なごり」。奥の細道の旅で、金沢から連れ立ってきた北枝が越前松岡まで来て別れるときの句である。句意は、別離にあたって北枝に進呈する句を扇面に書いてはみたものの、どうも意に満たないので、引き裂いてしまったというところだろう。ところが、北枝の書き残した記録によると、このとき芭蕉は「もの書て扇子へぎ分る別哉」と書いたのだそうだ。「へぎ分る」は扇子を裂くのではなく、扇子の骨に張り合わせてある二枚の地紙を剥ぎ分けることだから、相当に句の趣きは変わってくる。掲句のほうが格好はよろしいが、事実は北枝の書いているとおりだと思われる。扇子の表に芭蕉が句を書き、北枝が裏面に脇句をつけ、それをていねいにはがしてお互いの記念としたのである。当時の旅での別れは、生涯の別れであった。いい歳をした大人が、扇子の紙をていねいに引き剥がしている図も、もはや生きて会うことはないだろうという意識を前提にして、はじめて納得がいく。その意味からしても、芭蕉の決定稿より初案のほうがよほどいいのにと、私などは思ってしまう。なお、当歳時記では、句の季語は作られた季節を考慮して「秋扇」に分類しておく。(清水哲男)
いきながら一つに冰る海鼠哉
松尾芭蕉
元禄六年(1693)の作。亡くなる前年の句ということになるが、それより五年前の貞享五年(途中から元禄元年)とする説もある。いずれにしても、芭蕉晩年の軽みの境地を示す。魚屋の店先だろうか。海鼠(なまこ)が入れられた桶をのぞくと、張ってある水が寒さのために凍っている。当然、入れられているいくつかの海鼠も冰(こお)りついており、そのせいでいくつ入っているのか区別もつかない。なんとなく「一つ(一体)」のように見えてしまうのである。それも「いきながら」であるから、海鼠のグロテスクな形状と合わせてちょっぴり笑ってしまうのだが、しかし同時に、笑うだけではすまされない哀れの感情もわいてくる。この句に関連して「俳句朝日」(1999年2月号)に出ている廣瀬直人の付言は、実作者に目を開かせる。「句を作る場合には、見える表現をとか、よく見て写生をなどと言われるが、理屈はとにかくとして、この掲句のように、まず、いかにも『海鼠』らしいと感じさせることが基本になる」。なるほど、いかにも芭蕉の見たこの「海鼠」は「海鼠」らしいではないか。蛇足ながら、句尾の「哉」は「かな」と読む。(清水哲男)
冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす
松尾芭蕉
白状しておけば、冬に咲く牡丹(ぼたん)を見たことがない(東京では上野で見られるようだが……)。仕方なく図鑑の写真で見ると、雪のなかで藁(わら)のコモをかぶり、鮮やかな赤い花をつけている。冬牡丹(寒牡丹)は、庭などに植えられる普通の牡丹の「二季咲き性の変種」で、美しく咲かせるためには春と晩夏の摘蕾が必要だという。つまり、かなり無理をさせて冬場に咲かせてきた花である。温室栽培など考えられなかった芭蕉の時代の「冬牡丹」は、したがってまことに珍重すべき花だったろう。その美しさを表現するのに、芭蕉も最大級の美しい言葉を使って応えている。情景としては、冬の牡丹に見惚れていると、どこからか千鳥の声が聞こえてきたという場面。これだけでも十分に句になるところだが、四十一歳の芭蕉はあまりの花の美しさに、もうひとつ大きく振りかぶった。「これはまるで、雪中で鳴くほととぎすみたいではないか」と。ほととぎすが厳冬に鳴くわけもないが、本来の牡丹の季節に鳴くほととぎすが、今、この寒さのなかで鳴いているような美しさだと述べたのである。もちろん「鳴いて血を吐くほととぎす」の「赤」も意識している。あざとい表現かもしれないが、私は好感を持つ。だから、冬牡丹を見たこともないのに、ここに書きつけておきたいと思った。句の前書に「桑名本當寺(ほんとうじ)にて」とある。(清水哲男)
山路来て何やらゆかしすみれ草
松尾芭蕉
前書に「大津に出る道、山路をこえて」とある。教科書にも載っており、芭蕉句のなかでも有名な句に入るだろうが、さて、この句のどこがそんなに良いのか。味わい深いということになるのか。まことに失礼ながら、この句の眼目をきちんと生徒に説明できる国語の先生は、そんなにはおられないと思う。無理もない。なぜなら、芭蕉の時代の「すみれ草」に対する庶民的な感覚ないしは評価を、ご存じないだろうからである。当時の菫は、単なる野草の一種にすぎなかった。いまの「ペンペン草」みたいなものだった。贔屓目にみても「たんぽぽ」程度。たとえばそれが証拠に、江戸期の俳句に「小便の連まつ岨(そば)の菫かな」(松白)があったりして、小便の先にも当然菫は咲いていただろう。菫が珍重されはじめたのは明治期になってからのことで、それまではただの草だったということ。詩歌の「星菫派」といい、宝塚の「菫の花咲くころ」という歌といい、菫が特別視されだしたのは、つい最近のことなのだ。だから、この句は新鮮だったのである。つまらない「野の花」に、なにやら「ゆかしさ」を覚えた人がいるという驚き。句からは、これだけを読み取ればよいのだが……。(清水哲男)
古池や蛙とび込む水の音
松尾芭蕉
俳句に関心のない人でも、この句だけは知っている。「わび」だの「さび」だのを茶化す人は、必ずこの句を持ち出す。とにかく、チョー有名な句だ。どこが、いいのか。小学生のときに教室で習った。が、そのときの先生の解説は忘れてしまった。覚えておけばよかった。どこが、いいのか。古来、多くの人たちがいろいろなことを言ってきた。そのなかで「実際この句の如きはそうたいしたいい句とも考えられないのである。古池が庭にあってそれに蛙の飛び込む音が淋しく聞えるというだけの句である」と言ったのは、高浜虚子だ(『俳句はかく解しかく味う』所載)。私も、一応は賛成だ。つづけて虚子は、この句がきっかけとなって「実情実景」をそのままに描く芭蕉流の俳句につながっていく歴史的な価値はあると述べている。この点についても、一応異議はない。が、私は長い間、この句の「実情実景」性を疑ってきた。芭蕉の空想的絵空事ではないのかと思ってきた。というのも、私(田舎の小学生時代)が観察したかぎりにおいて、蛙は、このように水に飛び込む性質を持っていないと言うしかないからだ。たしかに蛙は地面では跳ねるけれど、水に入るときには水泳選手のようには飛び込まない。するするっと、スムーズに入っていく。当然、水の音などするわけがない。そこでお願い。水に飛び込む蛙を目撃した方がおられましたら、ぜひともメールをいただきたく……。(清水哲男)
先ず頼む椎の木もあり夏木立
松尾芭蕉
戦時中、日本の少年が南洋の島の王様になって活躍する『冒険ダン吉』(島田啓三)という人気漫画があった。リアルタイムで読めた最後の世代に属する私などに魅力的だったのは、ストーリーよりも、ダン吉や村人たちにはまったく飢餓の怖れがなかったというところだった。島のあちこちにはバナナの樹が群生しており、空腹になれば、彼らは好き勝手にバナナを食べればよかったのである。日常的な飢餓状態にあった東京の小学生(正式には「国民学校生」)には、なんとまぶしい南洋生活に写ったことか。彼らには「先ず頼む」バナナという強い味方があったのだ。ここで芭蕉も、食料がなくなれば「椎の木」を頼むことができるさ、と言っている。いよいよとなったら椎の実があるじゃないかと。その気持ちが、明るい夏木立にキラキラと反射している。芭蕉は奥羽北越の旅を終えてから、近江は石山近くの庵に入って静養した。「単に(ひたぶるに)閑寂を好み、山野に跡を晦(くらま)さんとにはあらず、やゝ病身人に倦(う)みて世を厭ひし人に似たり」(『幻住庵記』)という境地。もとより、芭蕉とダン吉の心情には水と油ほどの違いがあるが、双方の読者としては「先ず頼む」ものがあるという一点において、羨望の念を禁じ得ない。ところで、あなたの「先ず頼む」ものとは何でしょうか。漫画的蛇足ながら、バナナは「バショウ」科に属しています。(清水哲男)
夏草や兵どもがゆめの跡
松尾芭蕉
兵は「つわもの」。『おくのほそ道』には「奥州高館(源義経の居館だった)にて」との詞書。添えられた「三代の栄燿一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有……」云々は、すこぶるつきの名文だ。名句名文、文句無し。それはそれとして、芭蕉がこの古戦場に立ったのは、栄華を極めた藤原三代が滅亡して五百年後のことである。時間的には、現代と芭蕉の時代のほうがはるかに近い。私がわざわざここに引っ張りだしたのは、句における芭蕉の気持ちの半分以上は、実は自分のことを詠んでいるのではないのかという思いからだ。芭蕉は、武士だった。といっても生家は半分百姓で、藤堂家に仕えてからも、剣術なんかはさして必要はなかったようだ。いわば武士のはしくれでしかなかったわけだが、ひとたび古戦場に立てば、今日の私たちの感慨とは、かなりの差異があったはずである。若くして主君に先立たれた(それも自殺)芭蕉は、日常的な刃傷沙汰も知っていただろうし、五百年前の軍馬剣戟の響きに半ば本能的に反応する感覚は、十分に持ち合わせていたはずだ。血が騒いだはずだ。だから、このときの芭蕉が、「兵」に重ねて自らの喪失した「武士」を思うのは自然と言うべきだろう。このような解釈をする人にお目にかかったことはないが、私の読みはそういうことである。飛躍して、若き日の主君であった藤堂新七郎への秘めたる鎮魂歌と読んでよいとも。(清水哲男)
一家に遊女もねたり萩と月
松尾芭蕉
かの『おくのほそ道』のなかでの唯一の色模様。というほどでもないけれど、田舎わたらいをする遊女と同宿したエピソードは、この旅行記を大いに盛り上げている。「一家」は「ひとつや」。田舎(市振)の宿だから、隣室の会話は筒抜けだ。芭蕉が「枕引よせて」寝ていると、次の間から遊女の哀れな身の上話が洩れ聞こえてきてしまう。翌朝、出発しようとしている芭蕉と曾良にむかって、彼女は心細いので「見えがくれにも御跡をしたひ侍ん」と頼み込むのだが、この後の芭蕉の返事が格好よい。「我々は所々にてとゞまる方おほし。只(ただ)人の行(ゆく)にまかせて行(ゆく)べし。神明の加護かならず恙(つつが)なかるべし」と、クールにも断っている。そうは言ったものの「哀さしばらくやまざりけらし」と書いた芭蕉の得意や、思うべし。このシチュエーションのなかでの、この句である。世間を捨てた者同士が、寄り添うこともなく別々に流れていくという美学。それはまさに「萩」と「月」のように、同じ哀調をかもし出しながらも、ついに触れあうこともない関係に相似している。蛇足ながら(御存じとは思うが)、遊女とのこの話がフィクション(真っ赤な嘘)であったことは、多くの野暮な研究者たちが立証ずみである。(清水哲男)
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
松尾芭蕉
あれっ、どこか違うな。そう思われた読者も多いと思う。よく知られているのは「かれ朶に烏のとまりけり秋の暮」という句のほうだから……(「朶」は「えだ」)。実は掲句が初案で、この句は後に芭蕉が改作したものだ。もとより推敲改作は作者の勝手ではあるとしても、芭蕉の場合には「改悪」が多いので困ってしまう。このケースなどが典型的で、若き日の句を無理矢理に「蕉風」に整えようとしたために、活気のない、つまらない句になっている。上掲の初案のほうがよほどよいのに、惜しいことをする人だ。「とまりたるや」は、これぞ「秋の暮」を象徴するシーンではないか。「ねえ、みなさんもそう思うでしょ」という作者の呼びかける声が伝わってくる。それがオツに澄ました「とまりけり」では、安物のカレンダーの水墨画みたいに貧相だ。私の持論だが、表現は時の勢いで成立するのだから、後に省みてどうであろうが、それでよしとしたほうがよい。生涯の表現物をきれいに化粧しなおすような行為は、大袈裟ではなく、みずからの人間性への冒涜ではあるまいか。飯島耕一が初期の芭蕉を面白いと言うのも、このあたりに関係がありそうだ。「エエカッコシイ」の芭蕉は好きじゃない。(清水哲男)
いざさらば雪見にころぶ所迄
松尾芭蕉
雪国の方には申しわけないが、東京などに住んでいると、降雪というだけで心がざわめく。はっきり言うと、うれしくも浮き浮きしてくる。背景には、いくら降ったところでたいしたことにはならないという安心感があるからだ。せいぜい、数時間ほど交通機関が混乱するくらい。全国的にもっと降ったであろう江戸期にしても、江戸や京の町の人たちは、花見や月見のように「雪見」を遊山のひとつとして楽しんでいたようだ。やはり、うれしくなっちゃつたのである。現代では「雪見」の風習はすたれてはいる。が、昔の人と同じ心のざわめきは残っており、居酒屋などで「雪見酒」と称する遊び心の持ち合わせは失われていない。ただ、昔の人と違うのは、雪を身体で受け止められるか否かの点だろう。「雪見にころぶ」というのは、今日の私たちが誤ってスッテンコロリンとなる状態ではありえない。もっともっと深い雪のなかで「雪見」と洒落れるのには、必ず「ころぶ」ことが前提の心構えを必要とした。その「ころぶ」ことをも含めた「雪見」の楽しさであった。なるほど「いざさらば」なのである。「いざさらば」は滑稽にも通じているが、真剣にも通じている。身体ごと雪を体験した時代の人の遺言のような句だ。(清水哲男)
かたつむり甲斐も信濃も雨の中
飯田龍太
かたつむり(蝸牛)という小さな存在を基点に、意識をいっきょにとてつもなく大きな空間に広げてみせた芸。つとに名句の誉れ高い芭蕉の「かたつぶり角ふりわけよ須磨明石」のいわば続編で、作者は、ならばと「甲斐も信濃も」と二方向に「ふりわけ」させている。明るい雰囲気の「須磨明石」ではなく「甲斐信濃」であるところに、雨の必然の説得力もある。句を反芻していると、雨の香りまでが漂ってくるようだ。蝸牛は多品種で、日本だけでも七百種類はいるのだという。さらに柳田国男によれば地方ごとに異名も多く、二百四十以上はあるそうだ。なかでポピュラーなのは「でんでんむし」「ででむし」「まいまい」「まいまいつぶり」あたりか。「まいまい」はれっきとした学術上の和名で、これが本名。私の故郷山口では「でんでんむし」だった。昔の教科書に載っていた唱歌「かたつむり」の二番に「お前のめだまはどこにある」とあるが、モノの本には、二対の触覚の長いほうの先にあると書いてある。これで、明暗の判別くらいはできるらしい。蛇足ながら、エスカルゴ料理には食指が動かない。まさか、幼なじみの遠縁を食うわけにはいかない。泥鰌(どじょう)についても同様である。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)
行春や鳥啼き魚の目は泪
松尾芭蕉
芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出発したのは、元禄二年(1689年)の「弥生も末の七日(三月二十七日)」のこと。この日付をヒマな人(でも、相当にアタマのよい人)が陽暦に換算してみたところ、五月十六日であることがわかったという。すなわち、三百十一年前の今日のことだった。基点は「千じゅと云所」(現在の東京都足立区千住)であり、出立にあたって芭蕉はこの句を「矢立の初めとし」ている。有名な句だ。が、有名なわりには、よくわからない句でもある。まずは、季節感が生活感覚からずれているところ。江戸期だとて、いまどきの体感として晩春とは言い難いだろう。そこらへんは芭蕉が暦の「弥生」に義理立てしたのだと譲るとしても、唐突に「鳥」と「魚」を持ちだしてきた心理が不可解だ。別れを惜しんで多くの人々の見送りを受けるなかで、なぜ「鳥、魚」なのか。なぜ「人」ではないのだろうか。これでは、見送りの人に失礼じゃなかったのか。気になって、長年考えている。休むに似た考えの過程は省略するが、いまのところの私の理解は、当時の自然観との差異に行き当たっている。いまでこそ「自然」はいわば珍重されているけれど、往時はそんなことはなかった。自然は自然に自然だったのだから、自然にある人の心も他の自然のありようで自然に代表させることができたのだと思う。ややこしいが、要するに句の意味は、見送りの人に無関係な鳥や魚までもが惜別の情に濡れているという大仰なことではなくて、鳥や魚が濡れていると作者が感じれば人についても同様だと言っているにすぎない。これだけで、句に「人」は十二分に登場しているのである。
[読者からのご教示により追記・5月16日午前5時30分]岩波文庫『おくのほそ道』の付録に18世紀の芭蕉研究家・蓑笠庵梨一の『奥細道菅菰抄』が収録されています。以下、該当部分。「杜甫が春望ノ詩ニ、感時花濺涙、恨別鳥驚心。文選古詩ニ、王鮪懷河軸、晨風(鷹ヲ云)思北林。古楽府ニ、枯魚過河泣、何時還復入。是等を趣向の句なるべし」。つまり、漢詩を下敷きにしたという説。それもあるだろう。が、ここまでくると「人」の匂いがしない。どちらかと言えば故郷や山河との別れだ。芭蕉の句は「や」の切れ字に「人」としての匂いがあるために、「人」との惜別の情が表現されている。そんなふうにも思いましたが……。ううむ、朝からいささか混乱気味です。ありがとうございました。(清水哲男)
京の雨午前に止みぬ金魚鉢
川崎展宏
旅行者の句だ。言葉による絵はがきがあるとすれば、こういうものだろう。旅先ではことさらに鬱陶しく感じられる雨が、ようやく上った京の町でのスケッチ。葭簀(よしず)の掛けてある小さな店に金魚鉢が置かれているのを、ちらりと認めたというところか。雨上がりを喜ぶ心に、いかにも京都らしい風情が好もしく思えている。昨日掲載した高屋窓秋の作句態度とは異なり、川崎展宏のそれは一貫して、いわば風袋(ふうたい)を軽くする態度で書かれてきた。第一句集『葛の葉』の跋に曰く。「俳句は遊びだと思っている。余技という意味ではない。いってみれば、その他一切は余技である。遊びだから息苦しい作品はいけない。難しいことだ。巧拙は才能のいたすところ、もはやどうにもならぬものと観念するようになった」。このとき、作者は四十六歳。あくまでも、俳句が中心。その中心が「遊び」だというのだから、この態度もなかなかに辛いだろう。いつだったか、作者が俳句に目覚めた句として、芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」をあげた話を聞いたことがある。作者の「遊び」の意味が、少しはわかったような気がした。『葛の葉』(1971)所収。(清水哲男)
花合歓や凪とは横に走る瑠璃
中村草田男
合歓(ねむ)の花を透かして、凪(な)いだ瑠璃(るり)色の海を見ている。合歓が咲いているのだから、夕景だ。刷毛ではいたような繊細な合歓の花(この部分は雄しべ)と力強く「横に走る」海との対比の妙。色彩感覚も素晴らしい。海辺で咲く合歓を見たことはないが、本当に見えるような気がする。田舎にいたころ、学校に通う道の川畔に一本だけ合歓の木があって、どちらかというと、小さな葉っぱのほうが好きだった。花よりも、もっと繊細な感じがする。暗くなると眠る神秘性にも魅かれていた。眠るのは、葉の付け根の細胞の水分が少なくなるからだそうだ。ところで合歓というと、芭蕉の「象潟や雨に西施がねぶの花」が名高い。夜に咲き昼つぽむ花に、芭蕉は非運の美女を象徴させたわけだ。しかし、この句があまりにも有名であるがために、後に合歓を詠む俳人は苦労することになった。それこそ草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」が、同じ季題で詠むときの邪魔(笑)になるように……。合歓句に女性を登場させたり連想を持ち込むと、もうそれだけで芭蕉の勝ちになる。ましてや「象潟(きさがた)」なる地名を詠むなどはとんでもない。だから、懸命にそこを避けて通るか、あるいは開き直って「象潟やけふの雨降る合歓の花」(細川加賀)とやっちまうか。そこで遂に業を煮やした安住敦は、怒りを込めて一句ひねった。すなわち「合歓咲いてゐしとのみ他は想起せず」と。三百年前の男への面当てである。『中村草田男全集』(みすず書房)所収。(清水哲男)
暑き日を海に入れたり最上川
松尾芭蕉
最上川の河口は酒田(山形県)だ。いましも、遠い水平線に真っ赤な太陽が沈もうとしている。その情景を「沈む」と抒情せず、最上川が太陽を押し「入れたり」と捉えたところに、芭蕉の真骨頂がある。最上川の豊かな水量とエネルギッシュな水流とが想像され、また押し「入れ」られてゆく太陽の力感も想起され、読者はその壮大なポエジーに圧倒される。初案は「涼しさや海に入たる最上川」だったという。このときに「入たる」を「いりたる」と読んでしまうとさして面白みはない句になるが、掲句と同様に「いれたる」と読めば、句はにわかに活気を帯びて動き出す。つまり、最上川が自分自身を悠々として海に「入れた」ということになり、情景は雄大なスケールのなかに浮き上がってくる。ただ、この情景が「涼しさ」に通じるかどうかについては、意見の分かれるところだろう。芭蕉としても地元への挨拶としての「涼しさ」(真夏というのに、当地は涼しくて良いところですね)の使用だったろうから、はじめから若干の無理は感じていたのかもしれない。捨てがたい味わいを持つが、やはり掲句の格が数段上である。(清水哲男)
川上に北のさびしさ閑古鳥
岡本 眸
閑古鳥(かんこどり)は郭公(かっこう)の別称。「かっこ鳥」とも。初夏から明るい野山で鳴いているが、どこか哀愁を誘うような鳴き声で親しまれている。「岩手行四句」のうちの一句だから、川は北上川だ。「川上に北」と舌頭に転がせば、おのずから「北上川」に定まる仕掛けになっている。こんなところにも、俳句ならではの楽しさがある。そして「北のさびしさ」とは、渋民村(現在の岩手郡玉山村大字渋民)の石川啄木に思いを馳せての感傷だろう。もちろん「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」の一首も、感傷の底に流れている。芭蕉に「うき我をさびしがらせよかんこどり」があるように、このときの閑古鳥の鳴き声は、いやが上にも作者の感傷の度合いを高めたのである。澄み切った青空に入道雲が湧き、川面はあくまでも清冽に明るく流れ、寂しげな閑古鳥の声が聞こえてくる。心身ともにとろけるような感傷に浸るのも、また楽し。旅情を誘う好句だ。私はこの五月に出かけてきたばかりだが、また北上川を見に行きたくなった。今日も、しきりにカッコーと鳴いているだろう。『矢文』(1990)所収。(清水哲男)
あの雲は稲妻を待たより哉
松尾芭蕉
ゴロゴロッと鳴ってピカーッと来る閃光。あれを「稲妻」とは言わない。古人曰く「光あつて雷ならざるをいふなり」。すなわち、秋季に「音も交えず、雨も降らさず、夜空を鋭く駆ける」(角川歳時記)光りが「稲妻」だ。ちょっとした遠花火の趣きもある。句の「待」は「まつ」と読み下す。夜空を遠望して、あの雲の様子ではそろそろ「稲妻」が現われるぞ。と、ただそれだけの句。「稲妻」の予兆を「たより」としたのが技といえば技だが、感心するほどのものでもない。それよりも注目すべきは、句の主体だろう。詠んだのは芭蕉に違いないが、べつに芭蕉に教えてもらわなくても、このような予感は当時の人々の常識であった。それを、芭蕉がわざわざ詠んだところに「俳句」がある。つまり、この句の真の主体は、芭蕉を含む共同社会なのだ。「みんな」が主語なのである。誰もが感じていることを、芭蕉が作品として書きつけたわけだ。正直言って、面白い句ではない。作者の発見がないからである。でも、考えてみれば、俳句は短い詩型であるだけに、誰が書こうと共同社会が究極の(隠されてはいても)主体なのだという認識を、作者が欠いてしまったら「俳句」にはならない。理解不能になるだけである。その意味からすれば、面白みはないとしても、この一行は「俳句」だとしか言いようガない。「オレが、ワタシが」では「俳句」にはならないのである。「俳句」の説得力は、ここに根ざしていないかぎり、常に空振りとなるだろう。面白くない句が何故面白くないかを考えるとき、かなりの確率で問題はここに帰着する。そんな気持ちで掲句に戻ると、悪くはないなという気もしてくる。テレビの天気予報官なら、早速使いたくなるはずの一句だ。(清水哲男)
粟の穂や一友富みて遠ざかる
能村登四郎
粟(あわ)は五穀の一つ。他は、稲、麥、黍(きび)、稗(ひえ)である。芭蕉に「粟稗にまづしくもなし草の庵」とあり、昔は粟や稗を主食とする者は貧しい人たちであった。「あは」は「あはき」の略という説もあり、米などよりも味が淡いことから来ているというが、風に揺れる粟の穂の嫋々たる姿をも感じさせる命名だ。句意は明瞭。一友は、事業にでも成功したのだろう。あれほど仲がよかったのに、爾来すっかり疎遠になってしまった。かつては伴に歩いたのであろう粟畑の道を、彼ひとり「遠ざかる」姿が見えているのか。しかし、作者には、離れていった友人に対する嫉(そね)みもなければ、ましてや恨みもない。半ば茫然と、浮世の人間(じんかん)の不思議さを詠んでいる。その淡々とした詠みぶりが、粟畑をわたる秋風に呼応している。最近はさっぱり粟畑を見ないが、まだ栽培している農家はあるのだろうか。昔の我が家では少し作っていて、正月用の粟餅にして食べていた。美味。『合掌部落』(1956)所収。(清水哲男)
色付や豆腐に落て薄紅葉
松尾芭蕉
まだ色づいているかどうかも知らないでいた木の葉が、真っ白い豆腐に落ちてきたことで、薄紅葉になっていたことが知れたという意。「色付や」は「いろづくや」。この句を思い出すたびに、京都に行きたくなる。私にとっては、この季節の観光ポスターのコピーみたいな句だ。と言っても、とくだん芭蕉さんに失礼にはあたるまい。よく出来てますよ、旅行雑誌の写真なんかよりも、こうして言葉だけにしたほうが、よほど豆腐の美味さと風趣が際立つような……。南禅寺か嵐山周辺の湯豆腐屋の庭で食べていると、ちょうどこんな感じになる。本当に、薄紅葉が炭火にかけた鍋の上に舞い降りてくる。豆腐の白に映える薄紅葉は、天からの御馳走だ。仲秋を過ぎてからの京都の戸外は、肌寒い。だから、ほとんど日本酒の飲めない私ですら、必ず一本つけてしまう。これが、また豆腐の味わいをより深くする。よくぞ日本に生まれけり。愛国者ではない私が、インスタント愛国者になる数少ない場面である(笑)。もっとも、芭蕉が食べたのは湯豆腐ではないのかもしれない。だったとしたら、句の色合いはかなり変わってくる。寂しくも冷たい美しさ。いずれにしても、この句に美を感じるのは、代々この国に根を張って生きている人たちだけだろう。そんなことに思いをめぐらしていると、不思議な気持ちになってくる。はや、明日は「立冬」。湯豆腐の季節がやってきますね。(清水哲男)
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