https://www.mikumano.net/setsuwa/jinmu.html 【神武東征、ヤタガラスの導き】
熊野の神使、八咫烏ヤタガラス
熊野の神々の使いとされる八咫烏(やたがらす)。
八咫烏の「咫」は長さの単位で、それ1字では「あた」と読み、1咫の長さはいくつか説がありますが、約18cmという説を選べば8咫で約144cmになります。八咫(やあた)から(やた)と読まれ、八にはたくさんという意味もあるので、八咫で「大きな」という意味にもなります。
つまり八咫烏とは本来的には大きなカラスで、『古事記』の序にも八咫烏のことを大烏と書いてあります。それが3本の足を持つカラスとして描かれるようになったのは、中国神話に登場する3本の足のカラスが朝鮮半島を経て日本に伝わったことの影響のようです。
八咫烏、初代天皇を導く
『古事記』や『日本書紀』には、カムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)が東征の途上、天から遣わされたヤタガラスの道案内により熊野・吉野の山中を行軍したということが記されています。
神武天皇は初め、日向の高千穂の宮にいましたが、兄のイツセノミコトとともに東方に天下を治める都を造ろうと大和に向かいました。瀬戸内海を渡り、難波から淀川を溯上、河内に入り、大和に向かおうとしましたが、大和の豪族のナガスネビコの迎撃にあい、イツセノミコトが矢傷を負い、撤退。
神武はこの敗戦を、太陽女神アマテラスの子孫であるにもかかわらず太陽に向かって戦ったためと考え、紀伊半島を南に迂回して熊野から北上して大和に侵入することを目指します。イツセノミコトは熊野に至る前に命を落としました。
さて、この続きを『古事記』より現代語訳します。
『古事記』より現代語訳
さて、神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコミコト)はそこから迂回しなさって熊野の村にお着きになったときに、大きな熊が草木のなかから出たり入ったりして、すぐに姿を消した。
すると、カムヤマトイワレビコミコトは急に気を失って、また、軍隊もみな気を失って倒れてしまった。
このときに熊野の高倉下(タカクラジ)が一振りの横刀(たち)を持って、天つ神の御子(カムヤマトイワレビコミコトのこと)の倒れている所に来て、その横刀を献上したところ、天つ神の御子はたちまち目覚めて、「長寝したものだ」とおっしゃった。
そして、その横刀を受け取りなさるときに、その熊野の山の荒ぶる神は自然とみな切り倒されてしまった。すると、気を失って倒れていた軍隊もことごとく目覚めた。
そこで、神の御子はその横刀を得た仔細をお問いになったところ、高倉下が答えて、
「私の夢に、天照大御神と高木神の二柱の神が建御雷神(タケミカヅチノカミ)を召して、『葦原の中つ国はたいそう騒がしいようである。我が御子たちは困っているらしい。その葦原の中つ国は、もっぱら汝が平定した国である。そこで、汝、建御雷神が降って再び平定せよ』とのご命令をお下しになった。
すると、建御雷神は、『私が降らずとも、もっぱらその国を平定した横刀があるので、この刀を降しましょう』とお答え申し上げた。※この刀の名を佐士布都神(サジフツノカミ)という。またの名を甕布都神(ミカフツノカミ)という。またの名を布都御魂(フツノミタマ)。この刀は現在、石上神宮にいらっしゃる。
そして、建御雷神は今度は私に向かって、
『この刀を降す方法は、高倉下の倉の屋根に穴を開けて、そこから落とし入れよう。そこで、朝、目が覚めたら、お前は、この刀を持って、天つ神の御子に献上しろ』とおっしゃった。
そこで、夢の教えのままに朝早く自分の倉を見たところ、ほんとうに横刀があった。よって、この横刀を持って献上したのです」と申し上げた。
このとき、また、高木大神のご命令で、お教えになって、
「天つ神の御子、ここより奥の方には入りなさるな。荒ぶる神がたいそう多くいる。いま、天より八咫烏(ヤタガラス)を遣わそう。その八咫烏がお前を導くだろう。その案内する後からお行きなさい。」とおっしゃった。
そこで、その教えのままに、八咫烏の後からお行きなさったところ、吉野川の上流にお着きになった。
熊野の神々の最初の祀り手も八咫烏が神々の元に導く
記紀では八咫烏は天から遣わされたように記されていますが、八咫烏は熊野の神々のお使いです。
熊野の山の荒ぶる神々は、神武の手にした横刀によって倒されました。熊野にとって神武は侵略者です。したがって、八咫烏は、神武東征の話だけに関していえば、侵略者の象徴ともいえる存在です。
侵略者の象徴である八咫烏を、熊野の民が熊野の神々の使いとするようなことがあるだろうかと考えると、八咫烏はもともとは熊野土着の信仰であったと考えるのが自然なことだと思います。
我々はカラスと不思議な絆を持っている。
そのように考える氏族が熊野にいて、その氏族が神武と手を結ぶこととなり、神武軍を熊野・吉野の山中を先導するという役割を担ったものと思われます。
人間や人間の集団が、特定の動植物との間に、不思議なつながりがあると信じて、その動植物の名前を自分につけたり、その動植物を傷つけたり殺したりしないという習俗をトーテミズムと呼びます。
熊野には、カラスをトーテムとする氏族がいて、他にもおそらく様々な動植物をトーテムとする氏族があったものと思われます。
熊をトーテムとする氏族もあったのでしょう。
熊トーテムの氏族は、外界からやってきた神武軍を迎撃しますが、敗れ、それを知ったカラストーテムの氏族は、神武軍と戦うことよりも協力関係を結ぶことのほうが得策だと考え、神武軍と手を結んだのだと思われます。
神武軍は熊野・吉野の山中をヤタガラスに導かれました。
また、熊野の神々の最初の祀り手である猟師も、狩りの途中に山中迷って困っていたところをヤタガラスに導かれて、初めて熊野の神々に遭遇しました。
『神道集』巻二に見える熊野権現縁起譚「熊野権現の事」に、そういう伝承が記されています。「熊野の本地5」で現代語訳していますが、それをここに引用します。
牟婁郡の真砂(まなご。西牟婁郡中辺路町。清姫の故郷です)という所に、千代包(ちよかね)という猟師がいた。獣待(ししまち)をしていたときに道が途絶えて、どこへ行くこともできない。そんなときに八咫烏(やたがらす)が出てきた。
猟師は大きな猪に手傷を負わせたが仕留めることができず、どこへ逃げたのかわからなかったが、逃がすに惜しい猪なので、探したが見つけられない。
すると件の八咫烏が先に立って、静々と歩いていった。猟師は怪んで、ついていくと、大平野(おおひらの。未詳)という所で、この烏は色を変えて、金色に見えた。後にある人がこのことについて申したのには、「金の烏は太陽である。外典(仏典以外の書籍)にも『金の烏は天上に遊ぶ』とあるが、それがこの烏である」。
その猟師は烏と一緒に行くと、曾那恵(そなえ。本宮大社旧社地の川向こうに備崎(そなえざき)という所があり、そこに備宿(そなえのしゅく)という修験道の霊場がありました。ですので、その辺りを曾那恵といったのでしょう)という所へ入った。猪はそこに倒れ伏していた。また、烏は何処ともなく姿を消していた。猟師は怪んで、この猪のことを忘れて、不審に思いながら、歩いていくと、烏もいなくなってしまったので、天を仰いで立っていたところ、イチイの大木の上に光る物を見つけた。
この物が自分に危害を加えようとする物だと思ったので、猟師は大きな鏑矢をつかんで、その発光物体に問いかけ、
「我は15歳の時から狩りをして、60になるまで、このような不可思議現象に遭遇したことは度々ある。しかし、いまだ不覚をとったことはない。どういう物にでも変じて見せよ」と言った。
この発光物体は3枚の鏡になって答えて言った。
「我こそは天照大神の五代目の子孫にして、摩訶陀国(まかだこく:マガダ国、ガンジス川中流域にあった古代インドの王国)のしばらくの主、また我が国でも先祖代々伝わってきたものである。王をはじめとして、万人を守る者である。熊野権現として現れるのも我等のことである。過ちをしなさるな。宿縁によって汝に姿を見せるのである」
猟師は、弓矢を投げ捨て、袖を合わせて、
「これだから凡夫の力は情けないものです。神仏と知らず、矢でもって過ちを犯すところでした。恐る恐る罪深いことです」と畏まって、その木のもとに3つの庵を造り、「仰せの通りならば、ここにお移りください」と申し上げたところ、3枚の鏡は3つの庵にお移りになった。
猟師は奉る物がないので、間に合わせに山芋を掘り、鹿肉を切って供御にそなえ、折から五月五日、端午の節句であったので、携行食に持っていた麦を飯にして、それに山芋や菖蒲などを取り添えてお供えし改めて急ぎ山を出て、天皇の宣旨を賜ろうとして都へ上った。
熊野権現もまた、藤代(和歌山県海南市藤代町)から、猟師より先に飛行夜叉(ひぎょうやしゃ)を遣わし、夢のお告げでもって天皇に申し上げた。そこへ千代包が参上して、この由を申し上げたので、天皇は千代包に「早く御宝殿を造り申し上げるように」と仰せ付けられた。
夜を日に継ぎ、三所の御宝殿を件の所に造り、人も多く集まって、在家の数も300軒ばかりになった。その人々はみな熊野権現をもてなし申し上げた。権現の神力によって、人は楽しみ、世は栄えていった。千代包はその宮の別当(熊野三山の管理職)になった。このときの人皇は七代孝霊天皇と申した。
(「熊野権現の事」)
人を導くカラス
神武もカラスに導かれ、熊野の神々の最初の祀り手である猟師・千代包もカラスに導かれました。
カラスが人を導くというのは、まったくの絵空事ということではなく、現実にあることなのだそうです。
カラスはとても頭のよい動物で、鳥類のなかではもっとも知能が高いといわれています。カラスは声で仲間とコミュニケーションをとる社会的な動物で、学習もし、遊びもします。
道具を使うカラスもいます。これはニューカレドニアのカラスですが、倒木の幹に穴を開けて棲むカミキリムシの幼虫を、カラスは細い木の枝を釣り竿にして釣り上げて食べます。
日本のカラスは、自動車を使います。堅い胡桃の殻を割るのに、カラスは、胡桃をくわえてきて車道に置き、車がそれを轢くのを待つのです。
また、空を飛ぶカラスは、地上を這う人間や動物たちよりはるかに広い視野を持っています。
カラスは雑食性で、肉も食べます。
とはいっても、カラスには、獲物を捕らえるための鉤爪も、肉を切り裂く鋭いくちばしもありません。小さな動物ならともかく、大きな動物を狩ることなどできません。
ではどうやって大きな動物の肉を得るかというと、カラスは目と知恵を使います。優れた視力や観察力、情報収集力、知恵を駆使して、カラスは肉を得ます。
カラスは、上空を舞い、地上の様子を捉えます。あるいは息絶えた動物の姿をとらえ、あるいは獲物を追う肉食動物の姿をとらえます。
地上に死んでいる動物の姿を見つけた場合、その動物が猪や熊であったら、カラスのくちばしでは、その分厚い毛皮を引き裂くことはできません。そこで、カラスは手近なところにいる猟師や肉食動物を探し、連れてきて、毛皮を引き裂いてもらうのだそうです。
獲物を追う猟師や肉食動物の姿を見つけた場合、猟師や肉食動物に獲物のありかを教え、狩りのサポートをします。
猟師や肉食獣に食べ物のありかを教えて肉を与えるかわり、自分も当然、その分け前にあずかる。そのようにして、カラスは動物の肉を得るのだそうです。
動物を狩り、肉を食べる人間や肉食動物にとって、獲物のありかを教えてくれるカラスは、非常に有り難い存在でした。
狩猟する動物、オオカミなどは、カラスと連帯関係を結び、好んでカラスとつきあっているようです。狩猟する人間も、カラスと連帯関係を結んだのでしょう。
カラスは、狩猟する人間にとって、先を見通す目をもった賢者であり、獲物のありかまで導いてくれる先導者であり、特別な存在であり、神格化もされました。
熊野の神々は、もともと猟師によって祭られたと伝えられています。猟師によって祭られた神だから、カラスが神使をつとめるのでしょう。
羽黒修験の開祖もカラスが導く
西日本の熊野修験に対し、東日本で興隆したのが羽黒修験ですが、その開山にも、カラスの導きがあったと伝えられます。
崇峻(すしゅん)天皇の第三皇子、蜂子(はちこ)皇子はカラスに導かれ、羽黒山に入り、そこで観世音菩薩を発見し、この地を修行地とした。羽黒山の名は、黒い羽のカラスに導かれたことに由来する。
蜂子皇子は羽黒修験の開祖となり、人の苦しみを能く除いたことから能除太子(のうじょたいし)と呼ばれた。
世界各地の神話の中のカラス
カラスは、世界中の様々な民族の間で創世神話や建国神話の上で重要な役割を果たしています。
イヌイットの神話、カラスが世界を創造
北極圏に住むイヌイットの神話では、カラスが世界を創造しました。
生物が生まれる前、一つの堅い殻があった。
それはこの世界に存在するあらゆるものの内にある聖なる生命力であり、「父なるオオガラス」と呼ばれる。
最初、それは人の形をしており、自分の形に似せて土の中から人間を創りだした。しかしそれは怒りっぽく乱暴でせわしなく土を掘り続けるので、かれはそれを深淵に投げ込んでしまった。これが後に悪霊となり、地上のすべての悪魔の元となった。
「父なるオオガラス」は深淵の下に興味をもち、スズメを使いに出すと、スズメは出来たばかりの陸地があることを伝えた。
かれは、スズメを真似て、木の枝を自分の肩につけると、それは本物の翼となり、額にある塊は伸びてカラスのクチバシとなった。
かれはスズメとともに地上に降り、荒涼とした地上にたくさんの植物を植えた。
その植物の花のなかのいくつかのサヤから、美しく成熟した人間が生まれた。
そののち、かれはすべての物を創造し、大地から飛び立つと暗い天に昇り、火打ち石を使って星を造り、残りを空に投げると、それは大きな光を大地にそそいだ。
オオガラスは、日本ではワタリガラスと呼ばれています。体長1mほどになる世界最大のカラスで、現在の日本では冬期、北海道に渡ってくるためワタリガラスと名づけられましたが、ヨーロッパや南北アメリカなどでは留鳥であるため文学作品などではオオガラスと訳されることもあります。そこでここではオオガラスと表記しました。
八咫烏は大きなカラスという意味ですし、1咫は親指と中指を広げた長さで4寸(約12cm)であるという説もあるので、それに従うと8咫は3尺2寸、約96cm。およそ1mということになります。オオガラスなら、ヤタガラスにぴったりですが、残念ながら熊野にオオガラスは生息していません。
チュクチ族の神話
シベリアのチュクチ族の神話でも、オオガラスが世界を創造します。
オオガラスの妻が夫に「大地を造ってよ」と言った。夫のオオガラスは「そんなこと、できないよ」と答えた。
オオガラスの妻は「じゃあ、私は人間を造るわ」と言って、横になった。妻のお腹は見る見るうちに大きくなって、人間の男と女を産んだ。
すると、オオガラスの夫は「おまえは人間を造った。おれは大地を造る」と言って、飛び立って糞をした。
水の上に落ちた糞は、見る見るうちに大きくなり、大地となった。
また、オオガラスは厚い氷の天にクチバシで穴をあけ、闇に閉ざされた地上に光をもたらし、天界に飛んでいって、ボール遊びをしている子供からボールを奪って蹴りあげ、空に太陽や月や星をもたらした。
ハイダ族の神話
カナダ大平洋沿岸のハイダ族の神話では、
大洪水がハイダの土地を襲った。荒れ狂う波の上には島のてっぺんしか見えなかった。その島のてっぺんには腹をすかせた一羽のオオガラスが止まっていた。
水が引くと、砂地には貝や兄や魚などが埋まっているのをオオガラスは見つけ、たらふくそれらを食べた。魚などは豊富にあり、食うには困らなかったが、次第にオオガラスは退屈になってきた。オオガラスはこの浜に他に何かおもしろいものがないか捜して歩いた。
「誰かいないか」
オオガラスが呼び掛けたところ、それに答える小さな声が足元からした。
足元には砂地に半分ほど埋まった大きなハマグリの貝殻があった。
この貝殻をよく見ると、中にたくさんの小さな生き物たちがうごめいてた。
オオガラスは貝殻の中の生き物たちに出てくるように説得すると、生き物たちは外に出てきた。
オオガラスが初めて見たその生き物は、2本足で立ち、羽根も翼もなく、裸で、変わった姿をしていて、それがハイダの人々の祖先であった。
オオガラスは人間たちを見守り、様々な知恵を授けた。
また、空に星や月や太陽をもたらしたのも、火を人間に与えたのもオオガラスであった。
と語られます。ハイダ族には、オオガラスが海に漂う貝の口をこじ開けて、そこからハイダの祖先たちを救い出し、島に運んだという神話もあります。
クリンギット族の神話
アラスカのクリンギット族の神話では、
オオガラスは、人間や植物や生き物を造った。しかし、それらは動かず、魂がなかった。それを寂しく思ったオオガラスは、鷹の若者に頼んで海中から火を取って来させ、それを世界中の木々や動物に降り注いで、魂を吹き込んだ。
この神話には、天上からオオガラス自らが火を取ってきたとの話もあるようです。
北欧神話、オーディンの斥候を務める2羽のカラス
オオガラスは北欧でも尊敬を受けています。
北欧神話の至高神、オーディンは神々の国アースガルズの高座に座して世界を見回している。オーディンの両肩には二羽のオオガラス、フギン(思考)&ムニン(記憶)が止まっている。二羽のオオガラスは、朝が来ると、オーディンの肩から飛び立って、夕方には世界中のことを見聞きして戻り、すべての出来事をオーディンに伝える。
北欧では、何でも知っていることを「オオガラスの知恵」というそうです。
太陽神と八咫烏
また、カラスは太陽と強い結びつきをもつ鳥です。
神武東征説話にしても、太陽神・天照大御神の子孫である神武をヤタガラスが先導しています。また、『古事記』では高木大神がヤタガラスを遣わしたと記していますが、『日本書紀』では天照大御神が遣わしたと記しています。
ギリシア神話
ギリシアの神話では、光の神で太陽神とも考えられるアポロンはカラスを使いとしていました。
旧約聖書
旧約聖書のノアの洪水神話。
神からの警告を受けたノアは、箱舟に家族と動物の対を乗せて、洪水から助かった。ノアは水が引いたかどうかを調べるためにカラスを放った。が、カラスは飛んでいったきり帰ってこなかった。しばらくしてノアはハトを放ち、ハトはオリーブの枝をくわえて帰ってきたので、ノアは水が引いたことを知った。
帰ってこなかったカラスは太陽を目指してどこまでも飛んで行ってしまったといわれている。
アイヌの神話
またアイヌの神話では、カラスが太陽を救います。
神が世界を作ろうとしたとき、魔物が邪魔をして太陽を飲み込もうした。そのとき、カラスが魔物ののどに飛び込んで、のどをつまらせ、世界を救った。カラスは一度世界を救ったことがあるので、何をしてもいいと思って、人間の食べ物を盗んだりする。
漢族の神話
中国の漢族の神話では、
尭(ぎょう)帝の時代、十個の太陽が一斉にみな空に出たため、地上の草木が焦げて枯れ始めた。そこで、帝は弓の名人羿(げい)に太陽を射落とすように命じた。羿(げい)は空に向かって矢を放ち、九個の太陽のなかにいる九羽のカラスの体を射抜いた。カラスたちはみな死に、地上に落ちた。こうして太陽は一個だけになり、地上の人々は焼死を免れた。
とあります。古来、中国では、太陽の中に三本足のカラスが住むと考えられ、また、太陽はカラスによって空を運ばれるとも考えられていました。
カラスの足を三本足とするのは、陰陽五行思想によるものだと思われます。陰陽五行思想では、二は陰数で太陽にふさわしくなく、陽数である三こそがが太陽にふさわしいと考えられます。
この中国の太陽の象徴である三本足のカラスが朝鮮半島を経て日本に伝わり、日本でも三本足のカラスが太陽の象徴とされたのでしょう。
太陽女神の子孫である天皇の即位礼に立てられる幟の紋様には、青竜・朱雀・玄武・白虎の四神と、三本足のカラスが使われたそうですし、天皇の礼服の紋章には円形の中に三本足のカラスの刺繍が施されているそうです。
熊野のヤタガラスも三本足で描かれますが、これは日本の朝廷が中国から取り入れた太陽の象徴としての三本足のカラスが熊野のカラス信仰と習合し、熊野のヤタガラスも三本足になったものと考えられます。
また、これは後世のこじつけのようなものかもしれませんが、ヤタガラスの三本の足は、智・仁・勇、あるいは、天・地・人を表わすともいわれています。
なぜカラスが太陽と結びつくのか
しかし、そもそも、なぜカラスが太陽と結びつくのでしょうか。
空を運行する太陽が、空を飛ぶ鳥と結びつくのはわかるとして、なぜそれがカラスだったのでしょうか。
はっきりとした答えは出ていませんが、太陽にある黒点をカラスだと見たとする説が有力なようです。
太陽黒点とは太陽の表面に見える黒い点です。黒く見えるのは温度が周囲に比べて低いためで(太陽の表面温度は約6000度。黒点は約4000度だそうです)、黒点が低温なのは、強力な磁場によって太陽内部で起こる熱の移動が妨げられているためと考えられています。
人類がいつごろから太陽黒点の存在に気付いていたのかははっきりとはしませんが、太陽に霧や靄がかかっているときや日没のときなどであれば、肉眼でも黒点を見ることはできるそうで(目を傷めそうですけれど)、紀元前28年頃には、古代中国の天文学者たちが、太陽黒点の変化周期を体系的に観察し、記録に残しているそうです。
紀元前4世紀以降のギリシアの哲学者たちの著述にも、黒点について触れているものがあるそうです。
また、アステカの神話には、顔に種痘の痕のある太陽神が登場しますが、これはアステカの人々が太陽黒点の存在に気付いていたことを示すものだと考えられています。
熊野が誇る天才・南方熊楠も、太陽とカラスの結びつきについて、太陽黒点がカラスの黒に似ているからで、そのうえカラスが定まって暁を告げるからである、と述べています。
カラスは早起きで、夜明け前から動き出します。しかし、早起きなだけでしたら、ニワトリでもよいですものね。優れた飛翔能力をもつことは、太陽神の使いを勤めるための必要条件でしょう。
またカラスが光り物好きであることもカラスが光や太陽と結びつけられた理由のひとつかもしれません。
カラスはコインとかビー玉とか宝石とかキラキラ光る物が好きらしく、光り物を自分の巣に持ち込んでコレクションします。私の知人にもカラスに車のキーを盗まれた人がいます。
しかし、やはりカラスといえば真っ黒な体の色が真っ先に思い浮かびます。まず、この真っ黒な体の色が太陽と結びつくいちばんの理由なのでしょう(他にも付随的な理由はあるのかもしれませんが)、おそらく。そうすると、太陽黒点=カラス説がやはり有力です。
考えてみれば、カラスは、人間にとっていちばん身近な野生動物なのですね。カラスに関する俗信などを調べてみると、いろいろあって面白いです。
日本サッカーと八咫烏
日本サッカー協会のシンボルマークとしても用いられているヤタガラス。
サッカー日本代表チームのユニフォームのエンブレムにもヤタガラスが描かれています。
なぜヤタガラスが日本サッカー協会のシンボルマークとなったのか、詳しい経緯は分かりませんが、日本サッカーの生みの親といわれる中村覚之助の郷里は那智勝浦町浜ノ宮で、生家は熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)のすぐ近くです。
シンボルマークは中村覚之助氏の死後に制定されたものですが、中村氏の日本のサッカー普及への貢献の大きさをかんがみ、氏の故郷である熊野の神使をシンボルマークとして取り入れようということになったのではないでしょうか。
また、ヤタガラスには足が3本もあるので、足で行うスポーツであるサッカーには似つかわしいと考えられたものと思われます。
また、白河院の側近で、蹴鞠(けまり)の達人と謳われた大納言 藤原成通(ふじわらのなりみち。1098~?)が、技能向上を祈願するため、何度も熊野を詣でたということも考慮のうちにあったのかもしれません。
蹴鞠は、8人までの人数で円陣を作って、鹿革製の鞠を地に落とさずに足でパスしあい、どれだけ多くパスを続けられるか、その回数を競うゲームです。平安時代、貴族の間で大流行しました。もちろんサッカーとは違いますが、足でボールを蹴るのですから、似ていますよね。
藤原成通には様々な蹴鞠にまつわる伝説があり、2000日間、毎日、リフティング修行をやり続けたとか、1000日のリフティング修行ののち、鞠の精と会見した(!)とか、高く蹴り上げた鞠が空高く消えていった(!)とか、清水寺(きよみずでら)本堂舞台の欄干の上を端から端まで鞠を蹴りながら何度も往復してみせた(!)とか。すごすぎます、藤原成通。
藤原成通は歌人でもあり、西行とも親交がありました。西行の祖父と見られる人物は蹴鞠の名手で、西行も出家前には蹴鞠をやっていたのでしょうね。藤原成通に蹴鞠の手ほどきを受けていたのかもしれません。
サッカーの好きな方は、ぜひ、熊野においでの際には八咫烏のお守りをGETしてくださいませ。
また、カラスを神の使いとする熊野三山では、何羽ものカラスの姿を組み合わせて文字を現わした熊野牛王宝印(くまのごおうほういん)というお札を発行しています。カラス文字のお札は熊野ならではの物ですので、ぜひともこちらもお土産にどうぞ。
八咫について
八咫について余談ですが、先に引用した『神道集』巻二の「熊野権現の事」の末尾には以下のようにあります。
これは天照大神が天の岩戸に隠るとき、「子孫に見せるために御姿を鋳留めるべきです」と申し上げると、天照大神は「もっともなことである」といって、御姿を鋳留めさせて残しなさった。これを内侍所(ないしどころ。三種の神器のひとつの八咫鏡(やたのかがみ)のこと)という。この内侍所を鋳師の大明神が預かりなさって、神武天皇の時にお渡し申し上げなさった。祖父.曾祖父の形見として崇めたてまつりなさった。
人皇第9代の帝・開化天皇の御時までは同じ御殿の同じ床におられたが、崇神天皇の御時、天つ社と国つ社とを定めなさったとき、恐れをなして、内侍所を別の御殿に移し申し上げることとなり、温明殿(うんめいでん。紫宸殿の東南にある殿舎)にお置きになられた。内侍所の第一の守護神は熊野権現である。
(「熊野権現の事」)
ここでは太陽神の姿をかたどった八咫鏡の第一の守護神が熊野権現であると語られています。
三種の神器のひとつである八咫鏡の「八咫」と、熊野権現の使いである八咫烏の「八咫」。
「八咫」は大きいということを表わすだけでなく、太陽神との関わりをも示す言葉なのかもしれません。
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