『竜の柩』キャラクターの背景

http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/ryuh/chara.htm  【『竜の柩』キャラクターの背景】より

九鬼氏

九鬼虹人の生い立ちについて、『竜の柩』では詳しくは語られないが、その核となった『龍の伝承』では「おまえの父が生まれ育った熊野は」とあり、虹人が熊野と関係があることが分かる。

九鬼氏、そして熊野といえば、すぐに思い起こされるのが九鬼水軍と『九鬼文書』であろう。

九鬼氏は元来は紀伊熊野地方の豪族で、その祖は熊野別当長快とも、隆真とも、藤原隆信とも言う。

後醍醐天皇が吉野に落ちのびる際、三種の神器を警固して幕府の追っ手と戦い、その獅子奮迅ぶりが「鬼(かみ)の如し」で、しかも一人や二人の鬼ではないというところから「九鬼」と呼ばれたという。

豊富な材木と良港を背景にもつ熊野地方には、古くから水軍が発達し、中央政界の動向とも密接に関係した。

九鬼水軍もその一つで、紀伊国牟婁郡九木浦を本拠とし、南北朝期には志摩国にもその勢力を及ぼした。

戦国期、九鬼嘉隆は初め北畠氏、後に織田信長、豊臣秀吉に属して水軍の将として活躍、志摩国一円を支配した。

子の守隆は関ヶ原の戦で東軍につき加増、鳥羽に五万五千石を安概された。

子孫は摂津三田三万六千石と丹波綾部二万石に分かれ、幕末に至る。

『九鬼文書』は、正しくは「鬼」の上の点がない字で「くかみもんじょ」と読むが、一般の活字にないため「鬼」の文字で代用している。

九鬼家の遠い祖先である天児屋根命(あめのこやねのみこと)の時代に記録された神代文字の原文を藤原不比等が漢字に書き改めたもので、前述した丹後綾部の九鬼氏が保管してきたという。

『九鬼文書』は『竹内文書』の影響が強いと指摘され、出現経緯や内容・表現から見て、近代以降の成立である事は明らかとされる。

しかし、斉藤隆一氏は、九鬼家独自の所伝には注目に値すべきものがあるという。

『竹内文書』とは異なるこの文書の一番の特徴は、出雲王朝を正統としていることである。

「高天原」は出雲の地にあり、須佐之男の系譜が現在の天皇に繋がるとしているのである。

「紀伊熊野別当九鬼家に、出雲関係の伝承があってもおかしくはない。」と、斉藤隆一氏は記す。

出雲と熊野の関係について、記紀を見ると

『記』はイザナミが葬られた場所を出雲国の境の比婆山としているが、『紀』の一書は熊野の有馬村に葬るとしている。

また、スサノオの子の五十猛命は紀伊国に木種を運び熊野に祀られる。

少彦名も出雲から熊野経由で常世国に渡っている。

神武東征の時、熊野で活躍する神々は、出雲の国譲りと同じパターンである。

熊野で神武を衰えさせたものは、『記』には神、『紀』には熊とあり、熊野の神、つまり出雲熊野大社の神と考えるべきである。

神武軍は熊野で原出雲族=龍一族の抵抗を受けたのだろう。

だからこそ、天照は、出雲の国譲りに貢献した建御雷神を下そうとする。

また、高倉下(たかくらじ)に下された布都(ふつ)の御魂も、建御雷神と伴に出雲に降り立った経津主神(ふつぬしのかみ)と同じである。

ということは、出雲の国譲りと同じことが、熊野で起きているのである。

以上のように、古代において熊野と出雲は密接な関係があったことが推察される。

さらに、斉藤氏は九鬼家の祀る異神「宇志採羅根神(うしとらのこんじん)」とアラハバキとの関係を指摘する。

『九鬼文書』は大本教との関係が深いとされ、「艮の金神」をめぐって本家争いも起きた。

出口王仁三郎はこの「艮の金神」を東北に封じ込められた始原神であるとした。

竹内健氏は東北に多く分布するアラハバキ神を大元神と同一とみている。

大元神は、中国地方に多くみられ、出雲系と考えられている神で、吉野裕子氏は大元神の本体を蛇と見る。

また原田実氏や吉野裕子氏はアラハバキ神と出雲の関係を指摘している。

佐治芳彦氏は、「出雲指向と素戔鳴命(すさのおのみこと)指向を見ただけでも、九鬼文書の伝承には天津神系(いわゆる天孫族)というよりも、彼らよりも一足さきに日本に土着していた神々(国津神の系列に入るが、さらに古くからこの国に土着していた原住の山人族のいただく国津神とはちがう)のものであることがはっきりしている。」という。

龍と牡牛の仮説を導入すれば、『九鬼文書』は龍一族の書とでも言えるだろうか。

『九鬼文書』では、物部氏滅亡の際に「天地言文(あめつちのことふみ)」の写しが、守屋一族、大中臣一族、春日一族、越前の武内一族によって保存されたと伝えていて、非常に興味深い。

この守屋一族とは、『物部文献』を伝える秋田県の唐松神社の神主・物部氏。

大中臣の一族とは信州諏訪湖の辺に逃れた一族。

春日一族とは、原田実氏によれば「昭和初期に活躍した神道家・春日興恩氏の家系のことらしい」とある。

越前の武内一族とは竹内巨麿の家系ではないかとされるも、巨麿は越中出身のため疑問が残ると言われる。

龍の仮説を踏まえてこれらの一族をみると、また別の見方ができる。

物部氏の祖・饒速日(にぎはやひ)は、長髄彦(とみのながすねひこ、登美能那賀須泥毘古)と同盟を組んでいた人物。

『旧事紀』には「大倭国鳥見ノ白庭山ニ坐ス」とあり、『物部文書』によると、邇芸速日は鳥見山(鳥海山)に降り立ったという。

「トミ」「ナガ」の名が示す通り龍一族である。

次の大中臣は諏訪ということと「トミ」で龍と結びつく。

『九鬼文書』では中臣の「臣」を「登美」と表記する。

春日一族とは和邇氏から出た一族である。

和邇氏の名が欽明以後記紀に見出し得なくなることから、本宗和邇氏の衰退後に、支流である春日氏が継いだものと考えられている。

春日氏を探るためには和邇氏を調べる必要がある。

和邇氏は五、六世紀代の大王家と姻戚関係を結び、葛城氏、蘇我氏よりもさらに多くの后妃を出しているが、政治面では表立った活躍はみられず、謎が多い氏族とされる。

記紀に登場する「ワニ」は、

因幡の素菟(しろうさぎ)が騙した和邇

山幸を送り届ける一尋(ひとひろ)和邇

龍王の娘である豊玉姫の出産の時の八尋(やひろ)の和邇

大物主が八尋(やひろ)の熊鰐(わに)となって三嶋ミゾクイ姫と結婚した

などで、この「ワニ」の実態に関して、

舟説

魚説(鮫(さめ)・鱶(ふか))

鰐説

が出されている。

日本には鰐が生息していないため、一般的には鮫であると言われるが、『出雲国風土記』では沙魚( さめ)と和爾(わに)を区別している。

また、ワニとなった豊玉姫の姿を「匍匐(はらば)ひ、モゴヨひき」と記しており、これは龍が最も近いイメージではないだろうか。

鹿島神宮に祀られる建御雷は、もともと国津神の建甕槌(蛇神)であり、これを祀っていた大氏は春日氏同様和邇氏の氏族である。

以上から、和邇氏・春日氏も龍一族と考えられる。

越前の竹内一族というのが不明だが、『竹内文書』によって、武内宿禰を祖とすると考えてみる。

武内宿禰と越前との繋がりといえば、『古事記』の気比大神と太子(後の応神)の話が思い起こされる。

越前の角鹿にいた時に、気比大神が夢に現れ、名替えを提案し、そのお礼に浜に「鼻を毀(こぼ)てる入鹿魚(いるか)」を与えたという。

イルカの鼻の血が臭いので「血浦」といい、それが都奴賀となったという話を記す。

「鼻を毀てる入鹿魚」とは、一体何であろうか?

 尖がっているイルカの鼻が潰れ、つるつるした肌、と連想すれば、因幡の素菟と変わらないイメージではないだろうか? 

また『日本書紀』では、都奴賀の地名起源として、角のある人(都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと))がやってきたためとし、エイリアンの象徴である角まで登場する。

また、この名替えの後、大和に迎えられた太子を母親の神功皇后が御酒を造って献上する歌がある。

「此(こ)の御酒(みき)は 吾が御酒ならず

神酒(くし)の司(かみ) 常世(とこよ)に坐(いま)す

いはたたす 少御神(すくなみかみ)の 

豊(とよ)寿(ほ)き 寿(ほ)き廻(もと)ほし 

神(かむ)寿(ほ)き 寿(ほ)き狂(くる)ほし

献(まつ)り来(こ)し 御酒そ

あさず飲(を)せ ささ」

歌の中に龍一族の神である少彦名が登場するが、一種不気味な歌であり、気比で名替えをしたということが、龍一族の帰属を祝い歌ったのか、または呪歌ではないかと思うほどある。

また、「いはたたす少御神」とは、石の上に立つ少彦名という意味で、『竜の柩』で語られるように、少彦名が石神としての信仰されていたことを示している。

さらに、気比大神と名前をとり替えた応神には、尾があったという伝承が残っている。

応神が隣の部屋に行った時に、御付きの者が早く戸を閉めてしまった。

残っていた尾が挟まって痛かったので「尾籠(おこ)」(ばか者という意)と言ったというものである。

気比神社の神は、神功皇后の母方の祖神である天日槍(あめのひぼこ)という説があり、天日楯は牡牛の神・蚩尤(しゆう)を祀る一族である。

また天孫族であることや、八幡との関係を考えれば、応神はやはり牡牛一族であろうか。

以上、『九鬼文書』で「天地言文」を伝えたとされる一族がどれも、エイリアンである龍や牡牛と関係が見られ面白い。

最後に、九鬼氏の本拠地である牟婁郡といえば、高橋克彦ファンならばすぐにピン! とくる牛鬼伝説のメッカである。

「牟婁とは牛鬼の乗り込んでいるうつろ舟」

「牛鬼、つまりエイリアンは水棲の生き物だったんじゃないかな」

と『蒼夜叉』の剣は語る。

そのエイリアンの地で虹人の父親が生まれ育ったという奥深い設定には、唸らずにはいられない。

<I>

宗像氏

『竜の柩』では、宗像剛蔵が出雲一族に繋がる家系であるということが語られている。

それでは、宗像氏と出雲一族との間には、どのような結びつきがあるのであろうか。

宗像氏は、宗像海人といわれる海人族である。

宗像海人はインドネシア系といわれ、フィリピン付近の海域から黒潮の流れに沿って、台湾、沖縄、などを伝って南九州に達したと考えられる。

海人族とは、水神の表徴である蛇と中国の龍が結びついた海神を祀る一族である。

「履中紀」には、宗像氏と同じ南方系の海人である安曇氏が、目の縁に入墨をしていたことが記されているが、金関丈夫氏は「宗像海人も胸に入墨をしていたため、胸形の名がつけられたのではないか」と述べている。

谷川健一氏は、「これは海人特有の入墨であり、海底に住む龍神を自分たちの祖先と考え、身体に竜蛇の入墨をほどこして、自分たちの出自を誇ったと考えられる」と述べている。

つまり、宗像氏は、龍の一族であり、このことから出雲一族と結びつく。

しかし、出雲とのつながりは、これだけに留まらない。

『播磨国風土記』には、宗形(むなかた)の大神である奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)が、伊和(いわ)の大神の子を身ごもったという話がある。

伊和の大神とは、伊和坐大名持御魂(いわにいますおおなもちのみたま)といわれ、大国主神と同神化される神である。

ということは、宗像の神・奥津嶋比売命が出雲のオオクニヌシ命と結ばれたということであり、これは『古事記』に、オオクニヌシ命が奥津宮に座すタギリヒメ命を娶り、阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)を産ませたとあるのに合致する。

『播磨国風土記』

伊和の大神

  ∥――― 子

奥津島比売

『古事記』

オクニヌシ

  ∥――― 阿遅志貴高日子根

タギリヒメ

また宗像氏の祖について、『西海道風土記』は大海命とするが、これは大汝命すなわちオオクニヌシ命のことであり、『新撰姓氏録』でも宗像朝臣はオオクニヌシ命の末とされている。

つまり、宗像氏と出雲一族は、大国主命を祖とする同族なのである。

考古学的にも、北九州と出雲には多くの接点があり、大分県産の黒曜石の島根県での出土、出雲の横口式の石棺が九州の家形石棺の系統を引くものであるとする指摘、山陰系土器の北九州での分布、そして綾杉文(あやすぎもん)を持つ鋼戈(どうか)の共通性などが指摘されている。

宗像氏は、宗像大神(むなかたのおおかみ)を祀る宗像大社の大宮司でもある。

宗像大神とは、宗像三女神の総称であり、『記紀』によれば、アマテラス大神とスサノオ命の誓約(うけい)によって誕生している。

『古事記』は、宗像三女神の誕生を次のように記している。

父イザナギに追放されたスサノオが、根の堅州国に行く前に、姉のアマテラスに会おうとに高天原に上る。

しかし、そのときに山川が動き国土が揺れ動いたため、アマテラスはスサノオが、国を奪おうとしていると思い、武装して「なぜ上ってきたのか」と問いただした。

スサノオは、自分の心が清明であることを証明するために、アマテラスと誓約を行なう。

誓約とは、古代日本で行われた卜占(ぼくせん)の一種で、ある事柄の吉凶、真偽、成否につき、神に誓って神意をうかがうことである。

この場合は、心が清明であるといったスサノオの言葉の真偽を、お互いに子を成し、その性別で占おうとしたのである。

アマテラスは、スサノオの十拳剣(とつかのつるぎ)を三つに折り、噛んで吐きだした息で、

多紀理毘売命(たきりびめのみこと)(またの名・奥津嶋比売命)、

市寸島比売命(しちきしまひめのみこと)(またの名・狭依毘売命(さよりびめのみこと))、

多岐都比売命(たきつひめのみこと)

の宗像三女神を生んだ。

この三神は、スサノオが身に付けていた十拳剣から現れたので、スサノオの子とされる。

そして、それぞれ福岡県宗像郡の宗像大社の三宮、つまり、

沖島(おきのしま)の奥津宮(おきつみや)、

大島の中津宮(なかつみや)、

玄海町田島の辺津宮(へつみや)

に鎮座し、胸形(むなかた)の君が祀る神であるとされる。

『日本書紀』では、三女神については異説があり、また一書には、アマテラスが勾玉を噛み切って吹き出した息から三神が生まれたとされるが、アマテラスとスサノオの誓約によって生まれた子という設定は同じである。

一方、『西海道風土記』は、『宗像社記』を引いて次のように記している。

宗像の大神は天より降り、玉と鏡を神の形と成して、宗像大社の三つの宮に納め置いた。

荒井秀規氏は、「玉は潜水を行なう海人文化には欠かせないものであり、宗像大神の形代が玉であるのは宗像氏固有の在地の伝承として、その成立は古い」と述べている。

ここで注目すべきことは『西海道風土記』にある宗像氏固有の伝承には、誓約説話がないことである。

荒井氏は、「古くからの在地の伝承にヤマトの力が加わった結果、宗像大神は三女神に整理され、アマテラス大神とオオクニヌシ命の祖スサノオ命の誓約によって誕生したものと位置付けられるようになった」と述べている。

しかし、龍の仮説を導入すれば、スサノオは龍一族を討った牡牛一族の神であり、オオクニヌシの祖神ではありえない。

龍一族の神である宗像三神がスサノオの子とされるのは、宗像氏がスサノオによって制圧され、帰属したことを示している。

また、出雲においてオオクニヌシをスサノオの子孫と位置づけ国譲りを正当化したように、宗像三神をスサノオの子とすることによって、宗像氏に対する支配に正当性を与えることを意図するものである。

誓約に勝ったスサノオは、驕りから暴挙を働き、アマテラスの岩戸隠れを引き起して、神やらいを受け出雲に天降る。

つまり、誓約は出雲に天降るためのプロローグになっている事が解る。

これは、スサノオがヤマタノオロチを退治する、つまり出雲一族を征服する前に、同族である宗像氏を帰順させることが必要であったからであり、宗像三神がスサノオの子となって初めて出雲一族の征服が可能であったことを示している。

沖ノ島には多くの祭祀遺跡があり、鏡、玉類、武器類や、ササン朝ペルシアのカットグラスなどの数万点の遺物が発掘され「海の正倉院」といわれる。

これは、沖ノ島が古代大陸交渉に重要な位置を占めていたことを示し、また宗像氏が海人族として広域な活動を行っていたことをうかがわせる。

岩田明氏は、古代シュメール船を粘土板から復元し、実際にシュメール人がたどったコースを検証する航海を実行した。

船は、インドの沿岸、スリランカ、シンガポール、そして台湾をへて、沖縄へと辿り着いた。

この航路の後半部分は、インドネシア系海人族といわれる宗像氏が黒潮に乗って到達したルートと重なる。

宗像氏は、龍発祥の地・シュメールから、長い航海の末に日本へと辿り着いた龍の一族であるのかもしれない。

<A>

緒方氏

緒方氏は九州の名族である。

『和名抄』に豊後国大野郡緒方郷がみえ、『宇佐大鏡』に緒方荘がある。

この地に拠った大神(おおが)氏の一族で、大和三輪氏の下向土着とも、宇佐八幡宮大宮司家の祖たる大神氏ともいわれる。

史上に有名なのは源平時代に活躍した惟義である。

『平家物語』巻八「緒環(おだまき・小手巻)」によると、惟義の先祖は、豊後と日向の国境、優婆岳の蛇神が里の女に通って生ませた子で大太(だいた)といわれ、夏も冬も手足に胝(あかがり=ひび、あかぎれ)が絶えなかったので胝大太と呼ばれたとある。

胝が蛇の鱗状の肌を連想させるところからの命名であろうという。

惟義はその大太から五代の孫にあたり、『源平盛衰記』には

「蛇の子の末を継ぐべき験にやありけん、後に身に蛇の尾の形と鱗の有りければ、尾形三郎と云」

と記している。

緒方氏の先祖の伝承は、記紀の崇神天皇の条で語られる三輪山伝説と同型である。

緒方氏の祖が大神(おおみわ、大三輪)氏より出たところから、在地の豪族の伝承として再編されたものと考えられる。

緒方氏は蛇神の子孫であり、三輪山の大物主を介して、龍一族である大国主命と繋がるのである。

『龍の伝承』では謎解きに活躍した緒方連一郎だが、『竜の柩』では日本に置き去りにされ影が薄くなったことが残念である。

彼に鱗がないか、また後身に「尾」がないかが気になるところであるが……。

<I>

おまけ 東

一部のファンに囁かれていた東の名前の由来。

それは東哉期というのは、東+最後と考えれば、『いなかっぺ大将』の西一(にしはじめ)の逆なのではないか?(笑)というものである。

しかし、先日先生にお会いした折にお聞きした所では、全くの偶然ということであった。

<I>

閑話休題

越後の五十嵐氏には、緒方氏同様、先祖が蛇で身体に鱗があるという伝説がある。

一方、荒木の「アラ」は『出雲神話の謎を解く』によれば、朝鮮からの牡牛一族。

だがアラハバキを「阿臈鬼(あらき)」とも言うので、どちらとも言い難いか?

さて、肝心の高橋氏は? というと、高橋氏の遠祖は、大彦命の後裔である磐鹿六雁命。

膳氏の系統を引く古代の豪族で天皇の供御をつかさどる内膳司に奉仕する。

また高橋氏が特に任ぜられたのは、志摩……と、ここまでくればもうお分かりでしょう。

志摩は九鬼水軍の支配地だったのですから。

強引に結論すると(笑)、九鬼虹人とは高橋克彦氏そのものなのです。

蛇足ではありますが…(蛇ばっかり)…安倍晴明が最初陰陽師としてではなく、内膳司として朝廷に仕えるのは、「饗(あえ)」の一族であるからです。

安倍氏は、高橋氏や膳氏と同様、大彦命を祖とします。

つまり、高橋克彦氏は虹人であり、晴明でもあるのです!

<I>

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