妙見堂(妙見宮)と妙見菩薩・平将門資料集

https://www.ensenji.or.jp/contents/category/bosatsu/ 【妙見堂(妙見宮)と妙見菩薩・平将門資料集】 より

平松の妙見様と平将門

当所・綿貫家の伝承では、平将門(たいらのまさかど)公(延喜3年・903年?~天慶三年・940年)が在京中、妙見菩薩に危難を救われ、御尊像を奉受 し、守り本尊として持ち帰ったと伝えられています。天慶の乱で敗れた将門公配下の武将・綿貫豊八は隠れ住み、この御尊像を密かに祀り守護してきました。残念ながら現在の妙見像は二代目です。

弘化五年(1847・永元年)平松出身の分限者・綿貫伊助の尽力により、実家の妙見菩薩像を京都神祇官統領伯王殿公文所より円泉寺境内にお祀りすることが 許可され、(実際には、その十年前に円泉寺に祀られるようになっていた)現在のように土を村民総出で高く盛り上げて、お堂を建立し祀りました。

現在の本尊様は二代目です。妙見菩薩は北極星、北斗七星の神格化された姿であり、その信仰は奈良・平安時代かなり盛んになったようです。


https://www.ensenji.or.jp/blog/1326/ 【綿貫家妙見堂関連古文書】より

当山の妙見菩薩の由来を伝える文書は、当山檀家綿貫家に伝わる古文書のみであり、詳細は明らかではありません。

将門公が戦いに敗れ討ち死にすると、配下の武将であった綿貫家の先祖であ平豊八は、将門公の念持仏である妙見菩薩像を守護し、代々守り通したと伝えられています。

Wikipedia平将門

綿貫の名字は現在の群馬県高崎市綿貫より出たようです。

妙見菩薩像は今から180年ほど前に綿貫家より当山に移し祀りました。

それから約十年後の弘化五年綿貫家六、七代前の分家で川越藩出入りの御用商人となった綿貫伊助が、、京の神祇官公文所の許可を得て、あらためて境内を高く盛り土し、お堂を建立して祀りました。

村民が総出で工事にあたったそうです。

しかし、私が入山した時は妙見菩薩像は祀られて無く、御幣のみでしたので、新たにお姿の御神紙を元に御尊像を彫っていただき祀りました。現在は二代目の御尊像となっています。

私が入山後、あまりにも妙見様のことを知らなかったためにいろいろ調べた資料をホームページに掲載したのが「妙見菩薩資料集」です。

今年の9月19日より、東京都「板橋区立郷土資料館」において『特別展 武蔵千葉氏』が開催されるに当たり、この古文書はありませんが、私の集めた資料の一部が展示される予定です。            埼玉県 飯能市平松376番地 円泉寺 


https://www.ensenji.or.jp/contents/category/believe/ 【妙見菩薩と妙見信仰】より

紀元前数千年前、元々は現在のイラクやイランに栄えた古代アッシリアやバビロニアの砂漠の遊牧民が方角を確認するために北極星を神として信仰し、遊牧民を経て、中国に伝わりました。

中国においても、北辰信仰は、紀元前二千数百年前の堯・舜(伝説の王の名・夏の前)の時代に記録されているという。

北極星の信仰が古代中国に伝わり、道教などの星信仰と習合していきます。

北極星は、道教においては、天帝太一神の居所であり、北辰を北極大帝、北極紫微大帝、玄武大帝もしくは北極玄天上帝などと称し、最高神である玉皇大帝の命をうけて星や自然界をつかさどり、天界、人界、冥界の三界を総宰する神格とされるようになりました。

仏教では「七仏八菩薩諸説陀羅尼神呪経(妙見神呪経)」として組み込まれました(正倉院の写経請本帳(736 年)にこの経もみえる)。「妙見」とは仏典を根拠とする言葉です。 妙見菩薩とは、北極星、北斗七星を神格化した仏様のことです。

菩薩とありますが、天部の仏様です。

玄武は中国の四神(青竜、朱雀、白虎、玄武)のひとつで、北方の守護神といわれ、五行説で北は水に属します。

宋(960 ~ 1279)の時代(1014 年)には諱避(いひ)のために真武と名を変えました。

「宋真宗大中祥符七年(1014 年)加封為翌聖保德真君後為避聖祖趙玄朗之諱改玄武為真武」

※玄=色では黒を表す。(玄は、げん、くらい、くろ、くろいと読む) 真武大帝(しんぶたいてい) Chinese mythology ホームページより。 四聖獣のひとつ玄武(げんぶ)の神としての姿。真武神、裕聖真君、玄天上帝など別名を多く持つ。黒の衣をま とい、七星剣を持ち、亀と蛇を踏む姿で表される。北方を守護し、水神、武神でもあり、北斗七星とも関係が深 い。

特にこの神は南方での人気が高く、ベトナムや台湾では最高神の扱いをうけているという。「北遊記」(注: 東西南北の物語が作られ、特に西遊記が有名)では主人公として活躍する。 藤山天皇大帝(てんおうだいてい)ともいわれ、日本の天皇号も宇宙最高神の権威の象徴として成立した。

七世紀に高句麗、百済などの渡来人により伝わったようです。

最初は渡来人の多い関西以西の信仰だったようでが、天智天皇以降に渡来人を強制的に関東に移住させたために関東に妙見信仰が伝わりました。

妙見様は、北斗七星の第七番目の星が、破軍星と言われたために武門に信仰され、山口市の大内氏は氷上山興隆寺を厚く敬いました。

特に桓武平氏の千葉氏系は妙見信仰で強い絆を持ち、鎌倉幕府設立には大きな力になりました。

一族は日本各地に広がり、各地に妙見菩薩を勧請しました。

現在も千葉神社を中心に千葉県内には妙見菩薩を祀る約400 の寺社があるようです。

福島県の野馬追いで知られる妙見三社などがよく知られています。 他に、秩父氏では埼玉県の秩父神社が知られています。

鎌倉末期天台教学と融合した山王信仰が説かれた。山王七社は北斗七星でもあり、庚甲・北斗・山王信仰との関係が密接です。

江戸時代には、妙見信仰が日蓮宗に広がり、特に大阪府豊能郡能勢町の能勢妙見が有名です。

京都では昭和61年に日蓮宗を中心に洛陽十二支妙見が再興されました。

北辰鎮宅霊符神として祀られているところもあります。

地域によっては水神、鉱物神・馬の神としても信仰されたました。隠れキリシタンは妙見を天帝として祀ったこともあったようです。

水神として祀っている地区(高知県・熊本県など)。

水天を妙見と取り違えて祀ってあるところもあるようですが、どこかは分かりません。摩耗したら判断がつかないでしょう。

※水天も亀蛇に乗る。

めうけん(妙見)はきたのきたにぞおはします 衆生ねがひを満てんとて空にはほしとぞみえたまふ 「梁塵秘抄」

自治体単位で現在調べたところもっとも多いのは、広島県福山市の32ヶ所。

妙見山(山号)、妙見寺とあっても、現在は祀られていないところもある。

有名な所千葉神社(千葉氏) 能勢妙見(兵庫県) 八代神社(熊本県) 秩父神社(埼玉県) 足立山妙見宮御祖神社(北九州市) 相馬野馬追(福島県、相馬中村神社・太田神社・相馬小高神社)

妙見菩薩の本地仏は十一面観音(真言宗)、七仏薬師(天台宗)とされている。

伊勢の天台宗常明寺にて日蓮上人の前に妙見菩薩が示現したという話しは、本化別頭高祖伝(1720 年)にある。

亀の中国思想史(永谷恵氏)が面白い。 http://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/04/nagatani.html

「阿裟縛抄」第六の「妙見」に「帖に云わく。北辰は妙見なり。又尊星王と云う是なり」とある。

『山書月報』の谷有二氏の解説に「地中の埋蔵鉱物は、空の星が降って地の中で育つと信じられた時代があった。

そこで北極星、つまり妙見が鉱山師の信仰を受けるようになったらしい。

その妙見を祀る山が、妙見山である」という。

※石見銀山(世界遺産)は延慶2年(1309)周防国守大内弘幸が日頃信心する妙見神のお告げにより銀山を発見された。

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廃仏毀釈・神仏分離の影響

古事記、日本書紀にただの一度だけ記されている神である天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、道教の天帝の思想を取り入れた神とされているようだ。天の真ん中の神(北極星)。

明治維新において、平田篤胤の国学の影響は大きく(彼の国粋主義思想だけがとくにとりあげられ、明治政府の国家神道をささえる思想的柱となった。先祖は平将門とし、篤胤が祀ったの将門像は神田明神にある。)、廃仏毀釈の嵐は想像を絶するものであったようだ。神仏分離の布告(明治3年・1870)により、多くの寺院が破壊されたり神社に変えさせられた。神社の仏像仏具は破棄されるか、ひっそり祀られていたり、近くの寺院に納められた。修験や普化宗(虚無僧)は廃止させられた。

伊勢神道では妙見菩薩(みょうけんぼさつ)を天御中主神に配当し、渡会(わたらい)家の氏寺である伊勢の常明寺の境外仏堂に祀っていた。(現在はよみうりランドの妙見堂に祀られている。東京都稲城市矢野口)天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を本居宣長(1730-1801) 天の真ん中の坐々して世の中の宇斯(うし・家のような?)たる神平田篤胤(1776-1843) 天地万物の主宰神、北斗七星の神としてとらえた。復古神道においては天御中主神は最高位に位置づけられている。明治に大教院が祭神と規定し、妙見菩薩は、天御中主神などとして祀られた。妙見堂は、地元の名を冠した神社や星宮神社などと呼ばれるようななったり合祀された。福島県の相馬藩内では、初発(はじめ)神社と改名された。

※星宮は古くからあるが道教の星宮(せいきゅう)も関係しているのではないだろうか。(例・永楽宮壁画) 「勾陳、即勾陳星宮天皇大帝、也稱紫微天皇大帝、是後世用以代表(赤極)的. 顆星、居北極前隅、…」

◎埼玉県山西省友好記念館「神怡館」(しんいかん)に永楽宮壁画の模写があります。入れ替えがありますので 確認を取ってください。仏宮寺釈迦塔縮小建築模型など、すごい展示品ばかりです。いつもすいています。 埼玉県秩父郡小鹿野町薄2245 TEL:0494-79-1493 休館・火曜日

※福岡県久留米市の水天宮は、廃仏毀釈後に水天から天御中主神に代えられた。祭神として現在水天としては祀られていない。ここより全国に勧請された水天宮も同様である。また、天御中主を祀る神社では、妙見菩薩とまったく関連がない神社〔例:日野市の日野宮神社(日野宮権現:本地仏・虚空蔵菩薩)〕も多い。元の祭神・本尊がわからなくなっている場合もある。なかには創建当時から天御中主神を祭神として祀ったように記載している神社がある。天御中主神を祀ったのは、廃仏毀釈以降がほとんどのはずで、それ以前に祀ったところがどれだけあったのだろうか。妙見菩薩との関係を意識的に隠している神社もある。

星宮神社は栃木県が一番多いようだが(祭神は天御中主神・いわさく・ねさくなど)、日光修験の関係で元は虚空蔵菩薩です。水戸学の影響が色濃く残ったところに星宮神社が多くあるようです(栃木県神社庁HPの質問に対する答えの一部)。※ウナギが虚空蔵菩薩の使いとして、氏子や信者は食べないという習慣が残っているところが多い。

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妙見菩薩の御利益

妙見菩薩の利益は目が美しく澄み切っていて物事の真相を見極める力を持っているとされ、

国土を守り災厄を防ぐとともに目の病にも効験があるとされます。

他に天下太平、海上安全、立身出世、財宝充満、家業繁盛、子孫安泰、災難退散、方位除、厄除、安産守護、

悪病平癒(特に目の病)、五穀豊穣、などがあります。北斗七星の内、破軍星があることから軍神として信仰があった。

岩手では乳の出の良くなる祈願の信仰もある。円泉寺では、養蚕の神としても信仰された。しかし当時を知る人は少ない。

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東京文化財研究所美術部のオープンレクチャー

真武の日本における妙見菩薩としての受容の講演は、先生の著作・日本の美術『中世の童子形』の中の妙見菩薩の例をさらに詳細に論じたもので、有意義なものでした。平安期までと鎌倉以降の妙見菩薩像の像容がまったく異なっているのは、中国において11世紀頃から道教神である玄武が亀と蛇が絡み合った姿が徐々に擬人化して玄武神(真武)となり、中世に千葉氏など有力氏族や寺院などが直接中国と交易をし文物が直に日本に伝わって来るなかで、妙見菩薩として信仰され日本的な変容があったことと説明がありました。さらに日本においては中国と異なりは童子の姿での像容であることが大きく異なることでした。

※注 真武神の特色である男子の被髪(ひはつ)は、人では罪人・〝特別な能力のある男性〟を表しています。古は日本や朝鮮においても男性は普段はかぶり物をしており、髪の毛を直に見せるのは恥と思われていたようです。髪をほどいた姿で人前にさらされるのは、罪人としてでした。テレビや映画で罪人が髪をほどかれていたのを見た人も多いと思います。

※注 日本においても髪を伸ばしたままの大人の男子は八瀬童子・牛飼童(うしかいわらべ童子姿の牛車を引く従者)・根来(ねごろ)の行人(根来の僧兵とは言わない)などが知られています。大人でありながら子供の姿・髪を伸ばした特別の存在の人が、まれにいたわけです。神像として髪の毛を伸ばした姿をしているのが全て女神だとは限りません。

※次の朴亨國先生(武蔵野美術大学助教授)の「韓国と日本の女神像の初期図像」の講演によると、韓国においては女神像は無いと言われていたそうです。慶州市の南山に従来いわれてきた仏坐像が唯一女神像ではないかとの見解を示しています。ここから日本の初期女神像に影響があったのではないかと推測しています。

*あるいは、渡来人が朝鮮半島を経てもたらした神像は、すべて男神像だったのかもしれません。

唐代においては、まだ玄武は亀蛇として理解され、人格化及び伝説の形成は宋代(十一世紀初頭)に成立した。宋の1014 年に諱避のため、玄武から真武に変えられた。

キトラ古墳壁画の玄武(7 世紀末から8世紀初め頃)

キトラ古墳壁画の玄武

玄武 高松塚と共に日本が一番新しい例。

この時代は、玄武もに擬人化していない。

真武像

11世紀ごろから玄武が中国において擬人化し、徐々に像から蛇が離れていった。

鎌倉期に直接文物が流入するが、真武が妙見菩薩として信仰されるにあたり、童子形という日本的転換があった。

それまでの、図像集に見られる妙見菩薩像、吉祥天とは異なる像の移入があった。

真武像

山東省博物館・真武像擬人化の最も古い例。

11世紀ごろの石棺「中世の童子形」より。

※真武神の格は、中国においてはあまり高くないが、ベトナム、台湾では、

最高神のようです。民間の神のトップは関帝(関羽)。

※亀の中国思想史(永谷恵氏)も為になる。

http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/students/04/nagatani.html

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妙見信仰の広がり

妙見信仰が日本に渡来したのは、紀元後500 ~ 600 年のようです。

大阪府太子町の天白山妙見寺は、推古天皇6 年(598)創建で蘇我馬子の開基と伝えられ、河内の国最初の霊場です。

611 年には聖明王の第三子琳聖太子が肥後国八代郡白木山神宮寺(八代妙見宮)に、七星と諸星を描いたことにより始まるとする説もある。当初は渡来人の多い南河内など辺りで、次第に畿内などに広まっていったようです。

天智天皇の666 年から霊亀(716 年)に近畿・駿河・甲斐・相模などに住んでいた渡来人の東国移住と共に、その信仰も広がっていった。

「正倉院文書」〔天平勝宝4年(752)頃〕に仏像彩色料として「妙見菩薩一躰並彩色」の記事、続日本紀に「宝亀2年(771)上野国、美作国・・各々50烟を給す妙見寺(天白山)」の記載がある。

延暦15 年(796)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を「風紀の乱れ」として禁止したことが記録にある。

江戸時代の真言宗妙見経典の出版は、京都の醍醐寺三宝院、智積院のものが、多く見られるようです。

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『妙見菩薩像』いろいろなお姿の妙見菩薩

中世以前の妙見様のお姿は、図像集にある菩薩形や吉祥天と同じだったようです。日本の美術『妙見菩薩と星曼荼羅』林温著によると、古代には妙見菩薩像と吉祥天像は、ほぼ同じお姿だったようだ。現在に残されている古い時代の吉祥天は妙見菩薩の可能性があるようです。

日本の美術『中世の童子形』津田徹英著が童子形の妙見菩薩の成り立ちについて詳しい。

童子形は、「髪が長い」「袍(ほう)の下に胸甲を着ている。あるいは胸甲のみ。」「剣(七星剣)を持つ(持たない像もある)」「亀に乗る(乗らない場合もある)」とした特色があります。日蓮宗系の菩薩像(能勢形)、鷲妙見(お酉様)、また、密教系、北辰霊符神もあります。

日本の美術『中世の童子形』津田徹英著によれば、中世千葉氏系東(とう)氏が伝える千葉県東庄町保管の童子姿の妙見神像を説明し、

「その姿は髪を撫で付け、後頭部から背面にかけて長く伸ばし、垂下させる被髪(ひはつ)とし~略~

平安・鎌倉時代を通じ、密教の図像集や事相書類には全く言及が無く、我が国特異な被髪の姿は求む

べきもない。ただし、視野を中国にまで広げるとき極めて近い像容を示すのが真武神である。」

11世紀に成立した道教の神『真武』の姿は、髪の毛を腰まで伸ばした被髪姿であるが童子姿ではない。日本においては、「中世には、子供は老人と共に神に近い存在であったことは、国文学や歴史岳、民俗学といった分野から指摘されて久しい。」としている。「中世には多くの童子形の仏像、神像が作られ、聖徳太子や山越阿弥陀如来来迎図の持幡童子などがよく知られている。」とも書かれている。

鎌倉時代には千葉氏・大内氏などは中国と直接交易していたが、真武像を直接妙見として取り入れず、童子形の御尊像を造立し信仰した。

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