https://4travel.jp/travelogue/10982854 【平将門を歩く(その2)坂東市 ―終焉の地と地元民の敬慕―】より
かつては朝敵とされた将門が、地元では将門公と呼ばれ「東国の独立を望み、命を懸けて悪政に苦しむ民を守った」と崇敬・敬慕されている。今回は「坂東市観光ガイドマップ」を持って将門終焉の地・坂東市を訪ねた。
東隣の常総市にも将門公一族墳墓之地や将門公苑や奈良時代の国庁あとなどがあり、この地は古代からの政治の拠点地域と考えられている。
表紙はこの地で没した将門公の木像をご神体とする国王神社の茅葺・流造りの社殿(県重文)です。
平将門は、900年ころ桓武天皇五代の末裔、賜姓皇族の平良将の子として千葉県佐倉に生まれた。現在でも将門町という地名がある。少年時代を相馬郡(現在の取手・竜ケ崎・守谷・我孫子などの諸市)で過ごし、15歳ころ平安京に出て藤原忠平に仕えた。父の死により東国に帰ったが、将門の父の遺領を占有した叔父との争いが下総国、常陸国におよぶ平氏一門の争いとなった。
この平安朝末期の豪族の私闘から始まった将門の軍勢は、庶民の期待と同情を得て反体制の軍勢となり、短時日で勢力を伸ばしたので、将門を頼る官人がでてきた。
武蔵国権守の興世王は、受領の百済貞連と不仲になり将門に身をよせた。また、常陸国で追補令がでていた藤原玄明を匿って追補令の撤回を求め、939年に将門は常陸国に出兵して国府軍を破り国衙の印綬を没収した。
つづいて興世王の教唆を受けて将門は下野・上野(栃木・群馬)でも印綬を奪って関東一円を制し、上野(群馬)の国衙で文武百官を任命し、茨城県坂東市に政庁を置き、京都の朱雀天皇に対する「新皇」を自称して東国の独立を標榜した。
この戦いで将門は、騎馬隊の編成、反りがある日本刀など、武士の時代を先駆け、武士の台頭の烽火となったが、「新皇」即位の2か月後、940年陰暦2月14日に藤原秀郷、平貞盛(従兄弟)らとの戦いで、夕刻に及んで本陣への帰途、流れ矢に当たって亡くなった。38歳であった。
同時代に瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友も941年に討伐された。
当時、乱世を統治すべく登場した荘園領主の藤原氏は、貴族政治を強行して我が世の春を謳歌したが、地方官僚は善政を忘れて民の膏血を絞り、災害もあって庶民の窮状は言語に絶した」(神田明神の掲示)
このような状況下で、体制刷新と東国の独立を掲げて蜂起した将門は、「命を懸けて庶民の窮状を救った」と地元で評価されている。
これら承平天慶の乱は、巨大官僚組織で国を支配した平安時代の律令制度の崩壊の象徴であった。
平成の世に、巨大官僚組織を背景とする公務員年金の積立金はローリスクで運用し、庶民の国民年金と厚生年金の積立金をハイリスクで運用する「官安全・民不安」の現状を考えると、将門の出現を期待したくなる。
当時、平安京では失意の王族の怨霊が夜ごと貴族を悩ませていた。最大の怨霊は藤原氏に疎まれて配流先で没した菅原道真(後世に祟り神から学問の神に変質)であったが、道真の没年(903年)頃に生まれた平将門は道真の生まれかわりともいわれた。
将門記によれば、文武百官を任命した時に八幡大菩薩の託宣があり「朕が位を平将門に授けその位記は右大臣菅原朝臣の霊が表す」と告げたという。
将門の没後に、京都で晒された首級は夜ごと「体はどこか、首をつないでもう一戦せん」と叫んだとか、三日後には空を飛んで大垣で射落され大垣市で御首神社(みくびじんじゃ)として祀られたとも、武蔵国まで飛んで現在の東京・大手町の三井物産わきに落下して大地鳴動したとも、密かに京から持ち帰られたともいわれる。(別旅行記:平将門を歩く(その1)将門の首級・・・)
最近の旅で知った説話は、藤原秀郷(俵藤太)が将門一党の19の首級を持って東海道を上り、掛川で京都から下ってきた勅使の首実検を受けた後、その地に埋葬された(掛川市・十九首塚)という説で、最もリアリティがある。
平将門と菅原道真の怨霊は「最後で最大の怨霊」ともいわれている(日本史のしくみ)。
東京からはJR山手線日暮里駅>JR常磐線快速で柏駅>東武野田線愛宕駅>茨城急行バス・岩井行で茨城県坂東市役所の庁舎がある岩井局前で降ります。バスは1時間ごとですが、これが最も頻繁な公共交通で東京から日帰り可能です。
なお、将門の次女春姫は江戸、畠山、河越、稲毛など諸氏の源流である秩父平氏に嫁いでいる。
また、都内西部の青梅、五日市などに残る伝説は、将門が藤原秀郷などに追われて相模からこの地に来て立て籠ったという伝説であるが、将門は山岳戦よりも平地で騎馬隊の戦いが得意だったと思われ、資料からも多摩地区に来た事実はないようです。おそらく、将門の一族が潜伏して生まれた伝説と思われる。
東武野田線の愛宕駅。ここは千葉県で、なつかしい感じの古い駅だが日曜日だったせいか、駅付近の商店は全部シャッターが下りていた。
仕方なく駅近くのスーパーでパンとジュースを買って店内で食べて昼食として出発。
醤油の町なので駅にはキッコーマン病院の産科再開という看板が出ていた。
利根川を越えて 茨城県 坂東市です。日本に7ッしかない鉄道駅がない市です。
実際の巡回経路ではなく、ストーリィを作って紹介します。
これはベルフォーレという図書館・音楽ホールの前にある平将門の騎馬像です。
日本で最初の騎馬隊を組織した将門の雄姿です。
伝説には何らかのモノがあって確からしさを伝えているのと、証拠不要の言い伝えとがあります。
最初の訪問地は 証拠がある神田山(かどやま)の延命院です。
将門の首は京都に運ばれて晒されたとか、東海道の真ん中、掛川で検死をうけて掛川に埋葬されたとかいうが、胴は密かにこの地に埋葬されたという。
タクシーの運転手が寺の横から入ったので寺の写真は撮りそこなった。
胴体を埋めた塚は少し盛り上がっただけの塚だが、将門山古墳とされている。塚には天然記念物に指定された大きなカヤの木が生えていた。
神田山 将門・・・・ という石碑の前には花が供えられ、何本かの酒も供えられていた。
亡くなったのが旧暦2月14日で、訪ねた日が新暦だが2月15日だったので、あるいは地元の人が供えたのかもしれない。
それにしても1000年以上も前に、困窮の民を救うべく律令制度に反旗を翻して滅んだ武士を これほどまでに敬慕していることに感銘を受けました。
もう一つ、証拠がある伝説地です。これも疑問をさしはさむ余地がない伝説です。
この國王神社は、出家した将門の三女が 将門33回忌にこの地に庵を結び、自ら彫り上げた次の写真「衣冠束帯の将門公坐像」(県重要文化財)をご神体としています。
これは読んでいただきたい由緒です。
宮司は東京杉並区の大宮八幡宮で2年間修業された方で、フランクで親切な方でした。
前日の2月14日に東京の青梅市から訪ね来たひとが、青梅に将門神社があること、鞭にしていた梅の枝を「我が志成るものならば根付け」と言って挿して根付いたのが青梅の始まりと述べていたそうです。
調べてみたら、青梅線・鳩ノ巣駅東方数百メートルの尾根上と、奥多摩駅西北、約2??ほど、ヘリポートの先の尾根上の2か所に将門神社がありました。
将門公の三女は、戦火を逃れて四ツ倉の恵日寺で日々を過ごしていたが、地蔵菩薩が夢に現れて道を教えられ、出家して父の冥福を祈っていた。
将門公33回忌にあたり、石井の地に帰り霊木を得て一刀三拝して父の像を刻み、祠を立てて祀ったのが国王神社の創始という。写真は由緒書きから複写。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/8547b9b59d07f1b75fed279b5f05a6b6?fm=entry_awc_sleep 【将門まつり(坂東市)】 より
11月第二日曜日(11日)に、坂東市で「将門まつり」が執り行われました。
午前11時、國王神社のうっそうとした杉並木の参道を総勢70余名の武者が進みます。「神田明神将門太鼓」の勇壮な響きと、木洩れ日の中の参拝シーンは時代絵巻を見る思いがします。これが将門まつりのスタートです。市内は歩行者天国になります。午後に「出陣式」が行われ、武者行列は神田ばやしのおはやしにのって歩行者天国内を練り歩きます。武者行列は武将・皇族・文官・女武者・郎党それに姫役のきらびやかな姿が続き、また70名あまりの稚児行列も近年人気があります。まつりの最後には、市内の十字路で山車による「神田ばやし」の競演が行われました。各保存会の最も得意とする曲目と舞が交互に演じられ、ここに「神田明神将門太鼓」も加わりクライマックスに達します。年々、ビデオ・カメラマンで大変なにぎわいです。特に人気があるのは、将門役と姫役のきらびやかな姿。また、午前中に行っている「岩井将門ハーフマラソン」に、将門他20余名もPRを兼ね参加して一役を担っています。といっても、今年も出かけることができませんでした。来年こそは、是非行ってみたいです。
http://www.rurubu.com/event/detail.asp?ID=10418
http://www21.tok2.com/home/omatsuri/01t/a/ta8.htm
https://ibamemo.com/2017/11/18/masakadom/ 【国王神社と岩井将門まつり(坂東市)】 より
平将門たいらのまさかどは茨城県の英雄です。間違いありません。
将門の伝説は県内各地にありますが、その中でも坂東市は特別。以前、将門の首塚ならぬ胴塚の紹介をしましたが、他にもたくさんのゆかりがあります。
そんな坂東市へ再び足を運びました。今回は平将門をご祭神としている国王神社と岩井将門まつりをご紹介します。
国王神社とは
国王神社は坂東市の岩井にあります。岩井はかつて将門が活躍した場所。そして終焉したとされる場所でもあります。
将門と国王神社の関係を入口の立て札から引用します。
国王神社
祭神は平将門である。将門は平安時代の中期、この地方を本拠として関東一円を平定し、剛勇の武将として知られた平家の一族である。天慶三年(940年)二月、平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、流れ矢にあたり、三十八才の若さで戦死したと伝えられる。
その後長い間叛臣の汚名をきせられたが、民衆の心に残る英雄として、地方民の崇敬の気持は変わらなかった。本社が長く地方民に信仰されてきたのも、その現れの一つであろう。
本社に秘蔵されている将門の木像は将門の三女如蔵尼が刻んだという伝説があるが、神像として珍しく、本殿とともに茨城県文化財に指定されている。
坂東市
将門はもともと混乱していた関東の地にやってきて不利な状況ながら連勝を続けて名を挙げました。当時の状況を考えれば将門がいなくても戦はありましたし、力のある誰かが統治者になっていたでしょう。戦をしたことは問題ではなく、勝利を続けるうち新皇を名乗ったことが後世まで問題視されました。
国王神社のWebサイトによれば、江戸時代まで表立って祀ることができなかったとか。明治時代になるとふたたび朝敵に。将門を神として祀っていた神田神社は明治政府によって将門をご祭神から外されています。(1984年に復帰)
将門については時代によって大きく評価が変わっていますね。中央集権を目指す政府にとっては危険人物なのかもしれません。
鳥居鳥居
国王神社の入口です。とても厳粛な雰囲気。境内が高い樹々に囲まれていて昼間でも少し暗めです。この日はのぼりがあって少し賑やかでした。
平将門の胴塚のある延命院(坂東市)
国王神社といえば立派な茅葺き屋根。立派すぎてやや歪んでいる気も。。
国王神社は972年に将門の三女如蔵尼にょぞうにが建てました。ただ、その経緯は謎に満ちています。如蔵尼は奥州(いまの東北地方)にいたのですが、突然この地に戻ってきて父を祀る神社を建てたのです。将門に関する不思議な夢を見て思い立ったそうですが。。かなりのミステリー。そのときに彫った将門の像が、いまでもご神体です。
内観内観
たくさん奉納品があるのは、この日に開催された岩井将門まつりで戦勝祈願がされたため。まつりで『勝つ』のはちょっと変わっていますよね。
国王神社は天下泰平と国家の安全を祈る神社。ご祭神が平将門ということで『戦いに勝つ』ご利益があるとも。勝負どころでお参りするのがよいでしょう♪
御朱印は岩井将門まつりの日とお正月にいただけます。まつりでいただく場合は10時の戦勝祈願の前後がオススメです。
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