慈覚大師とその時代

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0936105100/0936105100100020/ht000120 【慈覚大師とその時代】 より

 蘇我氏中心の政治に不満をもった中大兄皇子,中臣鎌足らは,645年蘇我氏を滅ぼして政治の改革に乗り出しました。この改革が「大化改新」といわれるものです。

 大化改新は中国(隋・唐)の政治のしくみをならい,律と令によって政治を行おうとしたものです。律や令を定め,全国の戸籍を作ったり税のとり方を改めたり,地方の政治のしくみを整えたりし,政治のしくみを整えようとしました。

 701(大宝元)年には大宝律令ができあがり,天皇を中心とする政治のしくみが確立していきました。

 このころの日本は隋や唐に使いを送り,政治のしくみだけでなく,進んだ文化を積極的に取り入れようとしていました。下野国都賀郡(しもつけのくにつがのこおり)に生まれた慈覚大師・円仁は,このころに活躍した僧侶で,最後の遣唐使の一行に加わって唐に渡り,五台山や長安で仏教を学びました。

 894年に遣唐使は中止されますが,約300年にわたる隋や唐との交流をもとに,その後,徐々に日本風の政治のしくみや文化が育っていくことになります。

 このように日本が大きく変化していった,大化改新から奈良・平安時代にかけての下野国(しもつけのくに)や壬生の政治や社会は,どんなようすだったのでしょう。また,円仁たちが中国で学んだ仏教はどのように日本の各地に広まっていったのでしょうか。


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【第1節 古代国家と下野国】

1 律令制と人々のくらし  より

奈良の都・平城京は,唐の長安を手本にしてつくられ,広い道路によって碁盤の目のように区切られ,貴族や役人のやしきや大きな寺院が建っていました。平城京の人口は,1万人ほどの貴族や役人をふくめ,10万人くらい(一説によると20万人くらい)と考えられています。当時の日本の人口は600万人くらいですから,相当に大きな都市といえるでしょう。地方に住む人の多くは農民でした。地方でも役所などには大きな建物もありましたが,農村では古墳時代と同じように,竪穴式住居がふつうだったようです。

 朝廷は,6年ごとに,人々の名前と年齢を書いた戸籍を作りました。戸籍は,朝廷が必要とする労働力や兵力を集めたり,税をきちんと取り立てたりするためにはなくてはならないものでした。

コラム  What is your name?

現在の日本では,名前をよびあうことは当たり前ですが,古代において名前を自分に関係のない人に知られることは,とても困ったことでした。

この時代の女の人が男の人に名前を教えることは「結婚してもいいよ。」ということでした。また,他人に名前を知られると,のろいをかけられてしまうと信じられていたそうです。

律令制度をよく知らない普通の人たちにとって,戸籍がつくられ名前をみんなに知られるということは,私たちには考えられないくらいの大事件だったのかもしれません。

(小学館発行日本の歴史より)

当時の下野国(しもつけのくに)の戸籍は残ってはいませんが,下野国には約10万人,都賀郡には約1万7千人が住んでいたといわれています。また,このころ,土地は律令制によってすべて天皇のものと考えられていました。国民は6才になると口分田が与えられ,死んだら返すことになっていました。農民たちは口分田を与えられるかわりに,租・調・庸・雑庸などの税や負担を負いました。

このころの農民の税や負担をまとめてみましょう。

農民の税や負担

 口分田1反につき現在の米で4升4合(44カップ)を納める。壬生付近の人は,11月末日までに栃木市にあった国の役所に納めた。

調

 成年男子に課せられる。絹や綿等の衣料品や油,染料などを国に納める。12月の末までに都まで運んでいく。運搬する日数は,行きが34日,帰りが17日もかかり,運んでいく農民は大変だった。

 成年男子に課せられる。年に10日間,都へ行き労働をする。

雑庸

 国や都のための土木工事や建設工事をする。年間60日まで。食料は自分持ち。

兵役

 都の警備(1年間)北九州で外国の進入を防ぐ,防人の仕事。3年間の任期。

 このように,いろいろな税や負担があったので,農民の生活は苦しいものでした。万葉集で山上憶良が「貧窮問答歌」※に歌ったような苦しい生活のようすは全国で見られたと想像できます。そのため,農民の中には口分田を捨てて逃げ出したり,戸籍をいつわって税を逃れたりするものが出たといいます。

※ 貧窮問答歌… 「地面にじかにわらをひいて休む」「かまどには火気がなく,なべにはくもの巣がはっている。」「税を取り立てる里長の声がねているところまでひびいてくる。」など農民の貧しく,苦しい生活のようすが歌われている。「万葉集」巻五にある。

コラム  出世がしら 下毛野古麻呂(しもつけのこまろ)

 当時の下野国は,都からはずいぶん離れたところで,中央で活躍し,記録の上に残っている人を見つけることは難しい仕事です。しかし,その中の一人に下毛野古麻呂がいます。

 大宝律令は,刑部親王・藤原不比等などの19人の人たちによってまとめられましたが,その中の一人に下毛野古麻呂がいます。古麻呂は701年4月に,親王をはじめ朝廷の人たちに,新しくできた大宝律令の説明をする役目もしています。大宝律令をつくった功績で土地をもらったり,兵部卿・式部卿といった朝廷の重要な役職につくなど,中央で活躍しました。下毛野古麻呂は,下野古代史の上で忘れてはいけない人物といえるでしょう。


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2 下野国の成立  より

 4世紀も半ばをすぎると,北関東にも大和朝廷の力が及び,下野でも古墳がつくられるようになりました。

 この頃,下野は上野(群馬県)とともに毛野国(けぬのくに)とよばれていました。下野国(しもつけのくに)といっても,栃木県全体というわけではありません。現在の那須郡のあたりは,那須国(なすのくに)と呼ばれ独立していました。したがって壬生は毛野国の北東部にあったといえます。

 では,いつごろ,栃木県全体が下野国になったのでしょう。いろいろな資料から,だいたい下の図のように考えられます。

「日本書紀」の687年3月の記事には「新羅人を下毛野国(しもつけのくに)に置く」という記事があります。このことから,このころ,毛野国が上・下毛野国に分かれたのではないかと考えられます。また,那須国と下毛野国が含併して,下野国になったのかを知る手がかりに,那須郡湯津上村にある,「那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)」があります。そこには,那須地方の支配者であった直韋提(あたいいで)が,700年に亡くなったので,その子意斯麻呂(おしまろ)らが父の立派な業績を惜しんで建立したこと,直韋提は那須国造であったが,689年には那須郡の初めての郡司に任命されたということが書かれています。

 国造から郡司になったということは,那須国から那須郡になったことをあらわしています。

 これらのことから7世紀の後半に,毛野国が下毛野国と上毛野国に分かれ,そして,下毛野国と那須国が合併,下野国になったと考えられるのではないでしょうか。

 壬生町をふくむ都賀郡も,那須郡と同じように,このころ成立したと考えられています。


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3 東山道と下野国府  より

令のきまりによると,全国は60余りの国々に分けられ,さらに五畿と七道に分けられていました。

「五畿」というのは,今の近畿地方の大和・山城・摂津・河内・和泉の5か国のことで「畿内」ともいわれました。これは中国で都の周りを「王畿」といったのにならったもので,これらの地方には調の半分や庸の全部を免除するなどのさまざまな特権が認められていました。

これは地方に反乱が起きたとき,都の周辺を守るということもありましたが,またこの地域には貴族の出身者がたくさんいたということが関係しているようです。

五畿以外の国々は,東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の「七道」に分けられました。この分け方は交通路によるもので,下野国(しもつけのくに)は,東山道に属していました。10世紀ごろの下野国には,足利・梁田・安蘇・都賀・寒川・芳賀・塩谷・那須の9郡に分けられていました。壬生は都賀郡に属していました。

 都賀郡の区域は,はっきりと分かっていないのですが,今の下都賀郡の大部分と鹿沼市・西方町(現栃木市)や日光市の一部と考えられています。

 国の役所を国衙(こくが)といい,国衙のおかれたところを国府といいます。都から派遣された国司は国衙で政治を行い,下野国の国衙は都賀郡に置かれていました。

 下野国府は,栃木市田村町古国府(ふるこう)地区で発見されています。上の図の古代の国のおかれたようすを見てみましょう。東山道は都から各国の国府を結びながら,多賀城(宮城県多賀城市)まで通じていました。下野国・栃木県内は,足利,岩舟を通って栃木市の国府へ,そして思川(おもいがわ)を渡って藤井の吾妻古墳の近くを通り,下野市・上三川町の多功へと通じていたようです。また,国府に近いことから,その当時の壬生の周りは,かなり開けた所であったと考えられます。

現在,下野国府跡周辺は国史跡に指定されており,史跡公園となっています。

この時代の下野国の政治の中心地,国府はどんなようすだったのでしょう。

下野国府復元図

 昭和51年から58年まで,下野の国府跡の発掘調査が行われました。その結果,広さは東西約500メートル,南北約600メートル以上の規模で,中には,周りを一辺約90メートルの板塀で囲まれた政庁がありました。ここで,国司をはじめ多くの役人が,税のとりたてなどの仕事をしていたのです。政庁は4回にわたって建て直しが行われたことが確認されており,掘立柱建物※(一部は礎石建物)の役所が立ち並んでいました。屋根は瓦でふいたものもありましたが,多くは板や檜皮でふいていたと考えられます。政庁には,東西南北に一つずつ門があり,南門からは幅9メートルの南大路がのびていました。きっと毎日,多くの役人や,税をおさめる農民たちがこれらの門や通りを通っていったことでしょう。その他,国府内からは,役所・役人の宿舎・食堂などの跡や木簡が多数発見されており,そのころの国府のようすを知る手がかりを与えてくれます。

郡司は郡衙(ぐんが)と呼ばれる役所で政治をおこない,地域の税を集めるなどの仕事をしました。

 壬生が属していた都賀郡の郡衙の跡は,残念ながらまだ確認されていません。どのくらいの広さがあり,どんな建物が建てられていたかは分かりません。しかし,県内で確認されている那須郡衙のようすや,他の県の郡衙跡を参考にすると,一辺が200~300メートルぐらいの土地に,郡内から集めた稲を収める倉庫・政治を行う郡庁・宿舎・食堂などがあったと想像されます。

※ 掘立柱建物…穴を掘って柱を直接土の中に埋めてしまう建物の建て方。礎石や土台をつくるより簡単だが,柱はくさりやすかった。

掘建柱建物 礎石建物


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【第2節 下野の仏教】 

1 仏教の広がりと寺院の建立  より

日本の文化に大きな影響を与えた仏教が,伝えられたのはいつごろでしょうか。552年説などありますが,現在では538年に朝鮮半島の百済から伝わった,という記録があり,この説が有力です。ただ,仏教が伝えられたと記録に残されているより前にも,中国大陸や朝鮮半島から日本にやって来た人々(渡来人)によって,仏教が伝えられていたということは十分に考えられます。

日本で最も古い寺は,588年に造り始められた蘇我氏の氏寺である飛鳥寺といわれています。

法隆寺全景

その後,聖徳太子によって法隆寺※1や四天王寺※2など,たくさんの寺院が造られました。天武・持統天皇が仏教を大切にしたこともあって,8世紀の半ばまでには北は宮城県,南は熊本県までの広い地域に,およそ700の寺院が建てられたといわれます。

下野国(しもつけのくに)でも7世紀後半には,那須郡の馬頭町や小川町に寺院が建てられました。下野国の位置を考えてみると,朝廷が力を伸ばそうとしていた蝦夷地に近いところだったことがわかります。下野国には,蝦夷進出の基地としての役割もあり,7世紀の後半には,進んだ技術を持った多くの渡来人が移住しています。渡来人の多くは,朝鮮半島からやって来た人たちでした。当時,仏教は朝鮮半島の多くの人々の間で広く信仰されていました。下野国に移住した人々の多くは,農民だったと考えられますが,仏教を知っており,寺院を建てたり,仏像を作ったりする技術者もいたと考えられます。


https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0936105100/0936105100100020/ht000200 2 下野薬師寺  より
そのころは,どうしたら正式なお坊さんになれたのでしょう。それには仏教を勉強することはもちろんですが,戒という僧の守るべききまりを授けられて,初めて正式な僧として認められるのです。ところが,その戒を授けることのできる資格を持つ僧が,日本にはいませんでした。そこで鑑真和上※1が苦労の末,唐から日本にやって来ました。754年4月,東大寺に戒壇※2を作り,その後,筑紫観世音寺(福岡県太宰府町)に,761年には下野薬師寺に戒壇が作られて天下の三戒壇と呼ばれました。関東など東国で僧になるためには,下野薬師寺で戒を受けなければなりませんでした。

 では,下野薬師寺とは,どんな寺だったのでしょう。

 下野薬師寺は7世紀の後半,下毛野(しもつけの)氏の氏寺として建立されました。その後だんだんと大きくなり,8世紀の中ごろには中央の法隆寺・四天王寺と同じくらいの格式を誇っていました。東国の中で立派な寺であったということができるでしょう。

 下野薬師寺に戒壇がつくられた理由は,勝道上人※3による日光山開山にもみられるように,下野国(しもつけのくに)が仏教の盛んなところだったということのほか,朝廷で活躍していた,下毛野古麻呂(しもつけのこまろ)などの力があったと,考えられるでしょう。


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3 下野国分寺  より

「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の……」と歌われた平城京でしたが,病気(天然痘)が流行し,多くの人が亡くなったり,東北地方や九州地方では,朝廷に対して反乱が起こるなど落ち着かない世の中でした。

そのころ,仏教には国を守り世の中の不安を取り除く力がある,と信じられていました。そこで,仏教の力で国を鎮め守ろうとしたのが聖武天皇です。

 聖武天皇は,都には大仏を本尊とする東大寺を建て,地方には国ごとに,国分寺と国分尼を建てさせました。下野国(しもつけのくに)では壬生町の隣の下野市国分の台地の上に,国分寺と国分尼寺が建てられました。2つの寺は,聖武天皇の命令によって建てられたものですが,いつごろ建てられたのかははっきりしません。

国分寺の広さは,東西232メートル,南北250メートルで,南から,南大門・中門・金堂・講堂・僧坊が並んでいました。これは,東大寺の建物の並び方と同じです。また,中門と金堂を結ぶ回廊の外側には七重の塔が立っていました。寺の回りは掘立柱の塀で囲まれていました。

国分尼寺は国分寺の東方約600メートルの位置に造られ,塔がないだけで,国分寺と同じ建物の並び方で造られました。

国分寺には,お坊さんが20人,国分尼寺には尼さんが10人くらいおり,国の安全や世の中の不安を取り除くために,仏に祈りを捧げていました。

2つのお寺の建物は現在は残ってはいませんが,建物の下の土の壇や,近くから見つかる瓦や土器から,当時の寺の広さや大きさが想像できます。

瓦には,文字が書かれていることもあり,国分寺や国分尼寺で使われた瓦は,現在の宇都宮市と佐野市にあった窯で焼かれたことが分かっています。

このように下野国では,薬師寺もあり,国分寺や国分尼寺も建てられ,多くの僧や尼がたくさんおり,仏教が盛んであったことが,日本の仏教の発展に大きな力をつくした,慈覚大師・円仁を生む背景の一つとなっていたといえるでしょう。


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【第3節 慈覚大師・円仁】

慈覚大師像(壬生寺(みぶじ))  より

1994(平成6)年,壬生の町のあちこちで「慈覚大師」という名前を見たり聞いたりすることができました。

この年は慈覚大師が誕生して1200年目の年でした。壬生町では,それを記念して「大師まつり」や「屋台・みこしパレード」などの催し物を開きました。京都市でも,比叡山延暦寺を中心に,さまざまな「生誕1200年記念行事」が開かれました。

慈覚大師・円仁は794(延暦13)年,下野国都賀郡(しもつけのくにつがのこおり)に壬生氏の子として生まれ,平安時代初期に活躍した有名な僧侶です。最澄※1の教えをうけ,唐に渡って仏教を学び,天台宗の基礎を固め,比叡山延暦寺の第3代の座主(ざす)※2になりました。そして死後には,天皇から日本で初めて「慈覚大師」という大師の称号を贈られました。

また,唐に渡ったときの記録,「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」は,西遊記で有名な三蔵法師の「大唐西域記」,マルコ・ポーロの「東方見聞録」とともに,アジアの三大旅行記の一つと言われています。

1200年を過ぎた今でも,人々に敬われ世界的にも有名な僧侶・慈覚大師の生い立ちや修行のようす,功績をもう少し詳しく調べてみましょう。


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1 誕生と生い立ち  より

円仁は都が平安京に定められた794(延暦13)年,下野国都賀郡(しもつけのくにつがのこおり)に壬生氏の子として生まれました。

平安時代に書かれた慈覚大師の伝記によると,円仁が生まれたとき,その家の上に良いことの印である紫色の雲がたなびいたといいます。

壬生寺に残る「産湯の井戸」

円仁が生まれた所は都賀郡というだけで,はっきりした場所は分かりませんが,壬生町紫雲山壬生寺(しうんざんみぶじ)が誕生の地であるという言い伝えがあります。

江戸時代初期の記録によると,現在の壬生寺周辺は「お里」と呼ばれており,円仁の生まれた所と言い伝えられてきました。壬生町には,国・県指定の古墳も数多くあり,国府跡・国分寺・国分尼寺跡も近く,円仁が生まれた当時も文化的に恵まれ,開かれた地域であったと想像できます。現在,壬生寺には円仁が生まれた時に産湯として使ったという「産湯の井戸」が残っています。

円仁は生まれつきおだやかで,頭のよい少年だったといわれています。幼いころから兄についてお経の本などを学び,9歳になったとき,大慈寺(だいじじ)(栃木市岩舟町小野寺)の高僧広智(こうち)のもとで,仏教を学び始めました。

大慈寺・大師堂

広智は鑑真和上の弟子である下野薬師寺の道忠(どうちゅう)の弟子でした。円仁はお経の本が納めてある蔵に入り,たくさんの本を読みあさったといいます。少年時代の円仁は,大慈寺だけでなく,広智と道忠との関係から,下野薬師寺でも多くのことを学んだのではないかと想像できます。

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2 比叡山や唐での修業  より

15歳のとき,円仁は広智(こうち)の勧めで比叡山にのぼり最澄の教えを受けることになりました。円仁は広智の期待通り修行に励み,最澄の教えをよく身につけました。21歳の時に正式な僧になり,30歳になってからの6年間は,山にこもって厳しい修行を続けました。

その後は,最澄の教えを広めるために山を下り,法隆寺や四天王寺で僧侶に仏教の講義をしました。また,病気が流行し多くの死者がでた東北地方をまわって,人々を助けたという言い伝えもあります。

 しかし,40歳の時,長年の修行の疲れのためか円仁は病に倒れました。視力もおとろえ死も覚悟したようですが,修行として教典を写すなどしていると奇跡的に回復しました。42歳の時,遣唐使とともに短期の留学僧(るがくそう)(請益僧(しょうやくそう)という)として唐に渡りました。

 日本は630年から9世紀半ばまでの間に,10数回にわたって唐の都長安へ使節を送りました。これを遣唐使といいます。

 遣唐使の一行は,大勢の留学生や留学僧をともなっていたため,数百人の規模になりました。ふつう4隻の船が使われることから,「よつのふね」とよばれ,難波(大阪府)を出発して瀬戸内海を通り,大津浦(博多,福岡市)から大陸に向けて出発しました。当時は造船や航海の技術が未熟なために,難破したり漂流したりして,4隻無事に往復できることはまれでした。

しかし,人々は危険な航海を乗り越え,政治のしくみや仏教などの,大陸の進んだ文化を伝え大きな成果をあげました。円仁は最後の遣唐使の一行に,留学僧の一人として加わり,唐に渡ったのです。

留学僧として唐に渡った円仁

海をわたる「よつのふね」

円仁の乗った船も2回は逆風で日本にもどされ,3回目には船が大きくこわれたものの,唐の揚州に着くことができました。神仏に祈り,まさに命がけの航海でした。838(承和5)年7月2日,日本を出発してから約1か月ほど後のことです。

円仁の唐への道すじ

円仁の目的は,最澄が唐でわずかしか学ぶことができなかった天台密教という学問を学ぶことでした。そのため,天台山※で学ぶことを希望していましたが,許可されませんでした。

そこで,円仁は839(承和6)年,帰国する遣唐使一行に唐で求めたお経の本や資料を日本に届けてもらえるよう頼み,自分はひそかに唐に残りました。これは現代風にいえば不法滞在ですから,見つかればどんなふうに罰せられるか分かりません。円仁の仏教を学ぶことへの強い決意がうかがえます。

唐に残った円仁は,天台山よりも近い五台山※にすぐれた僧がおり天台の教えに通じていると聞き,五台山行きの公験(パスポート)を申請しました。

やっとのことで公験を手に入れた円仁は,五台山で志遠和上(しおんわじょう)をはじめ,多くの人の教えに接することができました。

※ 天台山・五台山… 中国天台宗の聖地

コラム  円仁と「巡礼行記」

 円仁は仏教関係の本はもちろんのこと,数多くの本を書きましたが,一般に最も知られているのは,アジアの三大旅行記の一つとされている「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」でしょう。これは,平安時代版の旅の記録であると同時に,歴史書でもあります。遣唐使がどのようにして海を渡ったか,泊めてもらった宿の様子,食べ物の値段,船や馬の交通費,名所や旧跡の様子,お祭りなどの行事,人々の暮らしの様子,風景などが細かく記録されています。それらに加え,「会昌(かいしょう)の廃仏」という歴史的大事件についても冷静かつ正確に記録されています。これらのことから,当時の唐の様子を知る上でも,一級の資料とされています。

 ひそかに唐に残り,役人にとらえられた円仁は,「病気で」などと言い訳をします。また,親切な人ばかりではなく,泊めてくれるように頼んでも追い返されたり,途中で強盗におそわれたりもします。旅の終わり近くには,苦労をともにした弟子を病気で失くしてしまいます。このほかにも,「巡礼行記」の中には,ただ立派な人というだけでなく,たくさんの苦労に出会いながらも,温かい人間味にあふれた円仁を感じることのできるところが,たくさんあります。「入唐求法巡礼行記」の現代語訳を文庫本で簡単に手に入れることができます。ぜひ,読んでみてください。

 また,ここで37巻のお経を写しました。コピーなどない時代で,筆で一文字一文字写していくのですから大変な作業です。これらのお経の本は,帰国の時日本に持ち帰られています。そのほか,民謡や浄瑠璃のもととなった仏教音楽の声明も持ちかえりました。

 五台山を去った円仁は長安に向かいました。約1か月半の旅のあと長安に着いた円仁は,ここでも多くの立派なお坊さんの教えを受け,たくさんのお経の本や曼陀羅を写しました。また,仏像や名僧の伝記・仏の世界を図式化して仏像を配置するための壇の様式から道具類まで,たくさんの仏教に関係するものを集めました。インド僧から古代インドの言葉「悉曇(しったん)」も学びました。

 円仁が長安で学んでいたころ「会昌の廃仏」という,武宗(ぶそう)皇帝による仏教弾圧が始まりました。845年には円仁たち留学僧にも僧をやめて,国に帰るように命令が下りました。

 五台山や長安で手に入れた本や貴重な物も,取り上げられる危険が出てきました。しかし,円仁の仕事に理解をもつ,周りの人の友情に守られ,円仁は普通の人の服装を身につけ,貴重な本や仏教の道具などを持ち,日本に向かうことができました。

 円仁が日本に帰ったのは,847(承和14)年9月のことでした。請益僧として唐にわたって約10年,長く苦しい,しかし,実りの多い10年間でした。

コラム  声明と曼陀羅

慈覚大師は多くのものを唐から持ち帰っていますが,声明と曼陀羅について説明してみましょう。

声明は,仏教儀式のときに,経典の一部を一定のふしをつけてうたうものです。声楽を中心に行うので,声明といいます。声明は,中世以降,平曲(へいきょく),謡曲(ようきょく・能),浄瑠璃(じょうるり)へと発展しました。

曼陀羅は仏様の世界を特別な書き方で理論的に図に示したものです。曼陀羅 man-daraも,サンスクリット語です。密教特有のものです。密教の中心大日如来を中心に,たくさんの仏様が位や役割により配置されています。

・バイリンガル円仁

みなさんもお寺やお墓で左図のような不思議な文字を見たことがありませんか。これが古代インド語(悉曇)=サンスクリット語です。円仁により広く日本に紹介されました。そして,円仁の研究家によると,円仁は悉曇語の読み方を19世紀以前に理解していたただ一人の日本人だそうです。

また初めの頃は,文字を書いて会話をしていた円仁も中国語が話せるようになったと思われます。円仁は,現代風にいうと立派なバイリンガル(二つの言葉を自由に使うことのできる人)なのです。


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3 天台座主  より

比叡山

円仁が比叡山に帰ったのは,帰国した翌年848(承和15)年3月26日のことでした。比叡山の人々は,大喜びで円仁を迎えました。二代目の座主(ざす)がなくなっても,円仁の帰りを待ち誰も座主にならなかったのです。854(仁寿2)年,円仁は天皇の命令で天台座主となりました。

円仁は,唐から持ち帰ったお経の本,天台宗のきまりをはじめ学んできたことを多くの本に著し,世の中に広めました。

 最澄が開いた天台宗は,長い間日本の政治や文化・宗教に大きな影響を与えていきましたが,その基礎を固め,大きく発展させていくのに果たした円仁の働きはとても大きなものでした。

864(貞観6)年1月14日,円仁は亡くなりました。71歳でした。866(貞観8)年7月14日,天皇は円仁の働きの大きさを認め「慈覚大師」という称号を贈りました。日本で最初の「大師」という称号です。大師とは天皇の師となり,国の繁栄に役立つすばらしい力のある僧のことです。この時,最澄にも「伝教大師」と称号が贈られています。

現在では,「お大師様」といえば空海の「弘法大師」が有名ですが,空海がその称号を贈られたのは,円仁の55年後のことです。このことからも当時,円仁の業績や人柄が朝廷からも高く評価されていたことがわかります。


https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0936105100/0936105100100020/ht000280 【4 東北地方と円仁】 より

関東・東北地方には,慈覚大師によって開かれたり,再興されたと伝えられるお寺がたくさんあります。東北地方では93寺,関東地方で209寺あるという研究もあります。

 芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」で有名な山寺(立石寺),松島の瑞巌寺,金色堂で有名な中尊寺,恐山の地蔵堂などもそうです。

 それが事実かどうかは,有力な手がかりが得られないため,はっきりとはしていません。

 慈覚大師の業績や人柄に対する人々の深い尊敬と憧れの気持ちの現れ,とみるのがよいのかも知れません。

 いずれにしても,日本の天台宗の基礎を固めたというだけでなく,「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」によって世界史の上にも大きな足跡を残した慈覚大師が郷土の出身であるということは,私たちにとっても大きなほこりといえるでしょう。次のページに慈覚大師にゆかりのあるおもなお寺を集めてみました。もちろんこれだけではありませんので時間があったら調べてみましょう。また,旅行に行ったときなど,ちょっと慈覚大師のことを思い出してみて下さい。

立石寺(山形県)  山寺ともいわれる立石寺は慈覚大師円仁が最初に開いたと言い伝えられています。また,円仁の頭部を形どったといわれる木造の頭部の彫刻が伝わっています。

<慈覚大師にゆかりのお寺MAP>

お大師様が開いたという言い伝えがあり、ゆかりのあるお寺で有名なものを集めてみました。

① 比叡山

② 浅草寺(東京都台東区)

③ 大慈寺(だいじじ)(栃木県栃木市岩舟町) 大師修行の寺

④ 壬生寺(みぶじ)(栃木県壬生町) 大師が生まれた時に使ったという「産湯の井戸」が残る。

⑤ 圓宗寺(えんじゅうじ)(栃木県壬生町) 大師が唐から持ち帰ったという法華曼荼羅が残る。

⑥ 輪王寺(栃木県日光市) 大師により寺が整備された。三仏堂の阿弥陀仏,千手観音,馬頭観音(ばとうかんのん)は大師の作。

⑦ 瑞巌寺(宮城県松島)

⑧ 立石寺<山寺>(山形県山形市) 大師がこの地の風景を好み弟子の心能,実玄の両名を留めて道場としたのがおこり。 大師のお墓と伝えられるがんくつがある。 また大師は壬生から麻の種をこの地に移したという。 そのために、干布村の地名がある。

⑨ 毛越寺(岩手県平泉町) この方角は、都にとってよくないので,大師が薬師如来の像をつくり,国家を守るために安置した。

⑩ 中尊寺(岩手県平泉町) 大師の草創,利生院には,大師をたたえる歌が残っている。

⑪ 恐山の地蔵堂(青森県下北郡名部町) 大師の開山。大師山の地蔵尊を安置している。





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