阿倍比羅夫と蝦夷遠征

http://rarememory.justhpbs.jp/abe/abe.htm  【阿倍比羅夫と蝦夷遠征】 より

1) 阿倍比羅夫

阿倍氏は河内の生駒山脈の麓から摂津の阿倍野に居住していた豪族の子孫といわれており、阿倍比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)の時代、一族は分立して「布施臣」と「引田臣」(ともに後に朝臣の姓を受ける)と、それぞれ称していた。布施臣を率いる倉梯麻呂の息子・布施御主人(みうし、後の「阿倍御主人」)(635-703)は大宝律令下で最初の右大臣に任命されている。引田臣を率いる阿倍比羅夫は、斉明天皇に仕えて将軍として活躍し、7世紀中期の越国守であった。古代の越の国は越前、越中、越後だけでなく東北地方の日本海側も含む広大な地域の総称であった。ちなみに遣唐使で留学生として派遣された事で有名な阿倍仲麻呂の父である阿倍船守は、比羅夫の息子とも弟ともいわれている。

斉明7年(662)、中大兄皇子(後の天智天皇)の命により百済救援の水軍の将として半島へ遠征したが、663年、新羅と唐の連合軍に白村江の戦いで大敗した。この敗北により半島の足掛かりすべてが潰えた。しかし敗戦の責任を問われることはなく、後に北九州の大宰府の長官に任命される。

越国守の阿倍比羅夫は斉明天皇4年(658)から6年にかけて、越国内の兵士や柵戸(さくこ)・柵養(きこう)蝦夷を率いて、日本海沿いに3回遠征している。

大化のクーデターを成し遂げた改新政府は、中央集権化を促進するため、継体朝以来の「国奴」制度を解体し、新たな地方支配組織・国評制を施行する。それまで土着の有力豪族が任命され、「国奴」として世襲支配してきた「国」を細分化し、「評〔こおり〕」を設置した。「評」の役人として「評造〔こおりのみやつこ;ひょうぞう〕」「評督〔こおりのかみ;ひょうとく〕」「助督〔こおりのすけ;じょとく〕」などが置かれた。当時蝦夷とは、新潟県を含む東北地方から北海道に住む人々を呼んだ。必ずしも民族的区分とまではいえなかった。その北日本のうち、南方文化圏に属する新潟県・福島県・山形県・宮城県は、倭政権の古代国家の領域にあった。在地首長は「国奴」に任じられ地方支配を行っていた。

そこでも改新政府は、評制を施行し、更にオホーツク文化の段階にあった北方文化圏・北海道と接する中間文化圏にある青森県・秋田県・岩手県などの境界地域への支配の拡大を図った。越国に渟足(ぬたり;新潟市付近)柵を作り、柵戸を置く、『日本書紀』大化4年(648)には「磐舟(いわふね;新潟県村上市付近)の柵を治(つく)りて、蝦夷(えみし)に備ふ。遂に越と信濃の民(おおみたから)を選びて、始めて柵戸(きのへ)を置く」とある。以後、都岐沙羅(つきさら)柵や陸奥国に優嗜曇(うきたむ)柵も営なまれた。

柵の防備も兼ねて、柵戸として越と信濃からの多数の移民が送り込まれた(柵戸の移配)。そして柵周辺の蝦夷が服属して、城柵の支配下に入ると「柵養蝦夷」と呼ばれた。

2) 阿倍比羅夫の蝦夷遠征

斉明天皇4年4月 阿陪臣(あへのおみ)、船師(ふないくさ)一百八十艘(ふな)を率て、蝦夷(えみし)を伐つ。 齶田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡(こほり)の蝦夷、望(おせ)り怖(お)ぢて降(したが)はむと乞ふ。 是に、軍(いくさ)を勒(ととの)へて、船を齶田浦(あぎたのうら)に陳(つら)ぬ。 齶田(あぎた)の蝦夷恩荷(おが)、進みて誓ひて曰(もう)さく、 「官軍(みいくさ)の為の故に弓矢を持たらず。 但し奴(やっこ)等、性肉(ひととなりしし)を食(くら)ふが故に持たり。 若し官軍の為にとして、弓矢を儲(ま)けたらば、齶田浦の神知りなむ。 清き白(あきらか)なる心を将(も)ちて、朝(みかど)に仕官(つかえまつ)らむ。」とまうす。 仍りて恩荷(おが)に授(さず)くるに、小乙上(せうおつじやう)を以てして、 渟代(ぬしろ)・津軽(つかる)、二郡の郡領(こほりのみやっこ)に定む。 遂に有間浜(ありまのはま)に、渡嶋(わたりのしま)の蝦夷等(えみしども)を召し聚(つど)へて、 大きに饗(あへ)たまひて帰(かえしつかは)す。

 斉明天皇4年7月 蝦夷(えみし)二百余、闕(みかど)に詣でて朝献(ものたてまつ)る。 饗(あえ)賜ひて、贍(にぎはえ)給ふ。 常より加れること有り。仍(なお)柵養(きかふ)の蝦夷二人に位一階(しな)授く。 渟代(ぬしろ)郡の大領沙尼具那(さにぐな)には小乙下(せうおつげ)、 少領(すけのみやっこ)宇婆左(うばさ)には建武、 勇健者(いさみたけきもの)二人には位一階。 別に沙尼具那等に、鮹旗(たこはた;吹流し風に先が何本かに割かれた古代の旗)二十頭(はたち)・鼓二面・弓矢二具(そなえ)・鎧二領を賜ふ。 津軽郡の大領(こほりのみやっこ)馬武(めむ)に大乙上、 少領(すけのみやっこ)青蒜(あおひる)に小乙下(せうおつげ)、 勇健者(いさみたけきもの)二人には位一階授く。 別に馬武等に、鮹旗(たこはた)二十頭(はたち)・鼓二面・弓矢二具(そなえ)・鎧二領賜ふ。 都岐沙羅(つきさら)の柵造(きのみやっこ)には位二階(しな)授く。 判官(まつりごとひと)には位一階。 渟足(ぬたり)の柵造大伴君稲積には小乙下授く。 又、渟代(ぬしろ)郡の大領(こほりのみやっこ)沙尼具那(さにぐな)に詔して、 蝦夷の戸口(へひと)と、虜(とりこ)の戸口とを検覈(かむがへあなぐ)らしむ。

 斉明天皇4年11月 是歳(ことし)、越国守(こしのくにのかみ)阿倍引田臣(あへのひきたのおみ)比羅夫(ひらぶ)、 粛慎(あしはせ)を討ちて、生羆(しくま)二つ・羆皮(しくまのかは)七十枚献(たてまつ)る。

斉明天皇4年4月のこの時の遠征には180艘の船団を組んだ。 越国守であった阿倍比羅夫はその船団を率いて蝦夷征伐に出発した。 遠征先は雄物川河口の齶田(あぎた;後の秋田市)と米代川河口の渟代(ぬしろ;後の秋田県能代市)を中心に居住する蝦夷の地であった。古代から狩猟や漁労が生業で、弥生時代前期のB.C.300年余の一時期には、水田稲作も営まれた豊かな地方であった。秋田市四ツ小屋末戸松本字地蔵田に所在する地蔵田遺跡(じぞうでんいせき)は、旧石器時代・縄文時代・弥生時代と営まれてきた遺跡である。ここの弥生時代の集落が、B.C.3世紀の弥生時代前期に成立し、初期の稲作農耕文化を受容した痕跡を留めている。

弘前市大字三和にある砂沢遺跡から、1枚の面積が70~80㎡ある6枚の水田遺構が発掘された。この水田遺構は、青森県田舎館(いなかだて)村の垂柳水田よりもさらに250年ほども遡ることになり、現段階では東日本最古の水田といえる。

ここに大船団を組んで遠征する阿倍比羅夫の目的は、その地を大和政府の支配下に入れることにあった。大和政権は聖徳太子以来、天皇中心の国家体制の確立を目指しながら、逆に蘇我氏が崇峻天皇を暗殺するほどに台頭してきた。皇極天皇4年(645)6月、中大兄皇子と中臣鎌足らにより蘇我入鹿を暗殺し、政治の実権を握ると、かつての氏姓制度を改革し、中央集権国家を強力に進める大化の改新策を実施する。その一方列島全域を統治するための軍事も敢行する。

「大化」の年号が意味する「大いなる風化」とは、「徳の教えを以て、すべての人心を善導する」ことである。ここでいう「風化」の「風」とは、上の者が下位の者を教え導くという意味で、また「風俗」とは地方の民族文化ではなく、中央の文化を指した。いわば大和政権の「皇命(おほみこと)」に服従させ、その傘下に入れる事、即ち「王化に服させる事」である。しかしながら実際に戦いが行われたことの記録に乏しく、後世、桓武朝における坂上田村麻呂の武力遠征とは異なり、懐柔策を主体にした王化策とみられる。比羅夫の遠征は蝦夷の風俗を調査し、服属と朝貢を促すことが目的であった。遠征後、都に蝦夷と一緒に 虜(とりこ)も連れて戻っているので、多少の戦闘はあったようだ。

齶田(飽田)・渟代の2カ所の蝦夷は、その大軍を見て怖れを為して、降伏する。 阿倍比羅夫は船団を齶田浦(あぎたのうら;雄物川河口付近)に停泊して降伏の 儀式を行い、 ここで齶田(あぎた)の蝦夷恩荷(おが)に小乙上(しょうおつ)の位を授けている。その冠位は冠位十三階を改訂した大化5年(649)施行の冠位十九階のもので、17階に当たる。

1. 大織(だいしき)

2. 小織(しょうしき)

3. 大繍(だいしゅう)

4. 小繍(しょうしゅう)

5. 大紫(だいし)

6. 小紫(しょうし)

7. 大花上(だいか)(大徳/大錦に相当)

8. 大花下(小徳/大錦に相当)

9. 小花上(しょうか)(小錦/大仁に相当)

10. 小花下(小錦/小仁に相当)

11. 大山上(だいせん)(大青/大礼に相当)

12. 大山下(大青/小礼に相当)

13. 小山上(しょうせん)(小青/大信に相当)

14. 小山下(小青/小信に相当)

15. 大乙上(だいおつ)(大黒/大義に相当)

16. 大乙下(大黒/小義に相当)

17. 小乙上(しょうおつ)(小黒/大智に相当)

18. 小乙下(小黒/小智に相当)

19. 立身(りゅうしん)(旧建武)

渟代(ぬしろ)と津軽(つかる)に2評(郡)を設置して、降伏してきた首長を評造に任じ、その支配を任せた。ここで出てきた「津軽」は、そのあとに、有間浜(ありまのはま)に、渡嶋(わたりのしま)の蝦夷等(えみしども)を集めて 大いにもてなしたこととの繋がりから、現在の青森県の津軽地方と素直に理解したい。

次に「渡嶋」については、有間浜同様の津軽半島の一地方を指すか、現代のように北海道の南のことなのか定まらない。現在の“渡島”(おしま)という地名は、“北海道”などと同じく明治になっての名称で、古代にいう「渡嶋(わたりのしま)」は、現在のどこに当たるのか。

 余り穿ち過ぎる考古学上の諸説は、逆にその後の考古学上の成果により、脆くも敗れている。北海道説と素直に理解したい。その主な論拠は、「渡嶋」という名称の意味が、津軽海峡を渡った北海道の自然地形と合致するという点と、阿倍比羅夫が生きた羆を連れ帰っている、羆の生息地は北海道以北に限定されるという点の2点に集約される。

斉明天皇4年7月に蝦夷(えみし)二百余、が京にのぼっており、 この時に、渟代(ぬしろ)と津軽の評造などにそれぞれ位を授けている。 そして、「蝦夷の戸口(へひと)と、虜(とりこ)の戸口」とも一緒に連れている。 この「虜」とは、この遠征時に戦った蝦夷の捕虜を「虜」といい、帰順した蝦夷の「戸口」と区別したとみる。

斉明天皇5年(659)3月 是の月に、阿倍臣(あへのおみ)を遣して。 船師(ふないくさ)一百八十艘を率て、蝦夷国(えみしのくに)を討つ。 阿倍臣、飽田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡の蝦夷二百四十一人、其の虜三十一人、 津軽郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、胆振鉏(いふりさへ)の蝦夷二十人を 一所に簡(えら)び集めて、大きに饗(あへ)たまひ禄賜(ものたま)ふ。 即ち船一隻と、五色の綵帛(しみの帛【はく】=絹)とを以て、彼(そ)の地(ところ)の神を祭る。 肉入籠(ししりこ)に至る。 時に、問菟(とひう)の蝦夷胆鹿嶋(いかしま)・菟穂名(うほな)、二人進みて曰く、 「後方羊蹄(しりへし)を以て、政所(まつりごとどころ)とすべし」といふ。 胆鹿嶋(いかしま)等が語(こと)に随ひて、遂に郡領(こほりのみやっこ)を置きて帰る。 道奥(みちのく)と越(こし)との国司(くにのみこともち)に位各二階(しな)、 郡領(こほりのみやっこ)と主政とに各一階授く。

斉明天皇5年3月文注 或本に云わく、阿倍引田臣比羅夫、粛慎(あしはせ)と戦ひて帰れり。 虜(とりこ)四十九人献(たてまつ)るといふ。

斉明天皇5年3月にも阿倍比羅夫は遠征に出発したことになっている。 経過はほぼ斉明天皇4年4月の遠征のときと同じで、 ここでも「飽田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡の蝦夷二百四十一人、其の虜三十一人、 津軽郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、胆振鉏(いふりさへ)の蝦夷二十人」と 蝦夷と虜と2つに分けられている。斉明天皇4年4月の遠征のときと同じように 「虜」とは蝦夷と倭人との間の戦いの捕虜であった。 征討地域としては、胆振鉏は、この順序でいく と津軽郡よりも北であるが、場所は特定できない。 その後、肉入籠(ししりこ)に到達しており、後方羊蹄(しりへし)にも評造を置いる。この肉入籠(ししりこ)もその場所は、やはり不明。後方羊蹄は、北海道の羊蹄山の北、後志(しりべし)地方か。

斉明天皇4年4月の内容と斉明天皇5年3月の内容は「阿陪臣(あへのおみ)、船師(ふないくさ) 一百八十艘(ふな)を率て、蝦夷(えみし)を伐つ。以下略」とほぼ同じ事をいっておりますから、 これは同じ出来事を別々の原典から拾った記述とおもえる。

後方羊蹄(しりへし)  ここで北海道・蝦夷地が初めて歴史上に登場する。比羅夫は軍船を率いて蝦夷遠征を行い、その際に飽田、渟代二郡(現在の秋田県秋田市と能代市)の蝦夷、津軽郡の蝦夷、胆振(北海道胆振地方)の蝦夷を集めて饗応している。さらに肉入龍に進軍している。特定は出来ないが、北海道南部の地域であろう。そこで地理的な情報を聞き出している。現地の蝦夷よりの提言で、後方羊蹄に評造を置くことになった。  

後方羊蹄の「羊蹄」とは羊蹄山を指している。後方というのは内浦湾側から見て、あるいは「渡嶋」から見て羊蹄山の後方の事を言っている。 すると後志(しりべし)地方のこととなる。 後志地方には「比羅夫」という集落があり、JR北海道の函館本線には比羅夫という駅が存在する。同支庁喜茂別町には国道276号線沿いの比羅岡に比羅夫神社がある。「比羅夫」とはもちろん、阿倍比羅夫の比羅夫であろう。ただその地名の由来は、後志の中央部を流れる尻別川のアイヌ語名、シリ・ペッ(【山の】【川の】の意)の音から、松浦武四郎が「後志(しりべし)」と名付けた、かなり後代の知名だ。比羅夫の足跡が後志で確かに証明される考古学的な痕跡は、未だ見つかっていない。事実であれば、当時の大和朝廷は、早くも蝦夷地まで進出していたことになる。評造も設置している。都より執政官を送り込んでの直接統治ではない。現地任せの放置も同然と推測される。

斉明天皇6年(660)3月、阿倍臣を遣して、船師(ふないくさ)二百艘を率て、粛慎(あしはせ)を伐たしむ。 阿倍臣、陸奥(みちのく)の蝦夷を以て、己が船に乗せて、大河の測(ほとり)に到る。 是に、渡嶋の蝦夷一千余、海の畔に屯聚(いは)みて、河に向ひて営(いほり)す。 営の中の二人、進みて急に叫びて曰はく、 「粛慎(あしはせ)の船師(ふないくさ)多(さは)に来りて、 我等(おのれら)を殺さむとするが故に、願(こ)ふ、 河を済(わた)りて仕官(つか)へまつらむと欲(おも)ふ」といふ。 阿倍臣、船を遣(つかは)して、両箇(ふたつ)の蝦夷を喚(め)し至らしめて、 賊(あた)の隠所と其の船数とを問ふ。 両箇(ふたつ)の蝦夷、便(すなは)ち隠所を指して曰はく、「船二十余艘なり」といふ。 即ち使(つかひ)を遣して喚(め)す。 而るを来(まうき)肯(か)へず。 阿倍臣、乃(すなは)ち綵帛〔しみのきぬ)・兵(つわもの)・鉄(ねりかね)等を海の畔(ほとり)に積みて、 貧(ほし)め嗜(つの)ましむ。 粛慎(あしはせ)、乃(すなは)ち船師(ふねいくさ)を陳(つら)ねて、羽を木に繋(か)けて、挙げて旗とせり。 棹を齊(ひとし)めて近つき来て、浅き処に停止りぬ。 一船の裏(うち)より、二の老翁(おきな)を出(いだ)して、廻(めぐ)り行(あり)かしめて、 熟(つらつら)積む所の綵帛〔しみのきぬ)等の物を視しむ。 便(すなは)ち単衫(ひとへきぬ)に換へ着て、各布一端(むら)を提(ひきさ)げて、 船に乗りて還去(かえ)りぬ。 俄(しばらく)ありて老翁(おきな)更(また)来て、換衫(かえきぬ)を脱き置き、 併(あわせ)て提(ひきさ)げたる布を置きて、船に乗りて退(まか)りぬ。 阿倍臣、数(あまたの)船を遣(つかは)して喚(め)さしむ。 来肯(まうきか)へずして、弊賂弁嶋(へろべのしま)に復(かえ)りぬ。 食頃(しばらく)ありて和(あまな)はむと乞(まう)す。 遂に聴し肯(か)へず。 己が柵(き)に拠りて戦ふ。 時に、能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)、敵(あた)の為に殺されぬ。 猶戦ひて未だ倦(う)まざる間に、賊破れて己が妻子(めこ)を殺す。

斉明天皇6年5月 阿倍引田臣、夷(えみし)五十(いそ)余献る。 又、石上池(いそのかみのいけ)の辺(ほとり)に、須弥山(すみのやま)を作る。 高さ廟塔(めふたふ)の如し。以て粛慎(あしはせ)四十七人に饗(あへ)たまふ。

慎粛討伐  斉明6年に阿倍比羅夫は蝦夷地への本格的な進出を目指し、軍船2百艘を率いて、蝦夷地の先住民族の国・慎粛(あしはせ)の討伐を行う。 慎粛を建国した先住民は、元来中国の北方の沿海州付近に住んでいる民族で、アイヌ人の血流の一つといえる。この頃朝鮮半島では新羅・百済・高句麗の三国が覇を競い合っていた。 粛慎の国はこの高句麗の北にあったと考えられている。当時、唐は靺鞨(まっかつ)と呼んでいた。その靺鞨の出先の基地が、北の北海道周辺にあったとする可能性を否定はできない 。或いはこの靺鞨族の支流が流入していたことも予想される。その慎粛討伐を確実なものとするため、2年前の斉明4年(658)に平定した齶田(飽田の別名)と渟代の蝦夷数名を水先案内にして大河の傍に至る。 軍船を停泊させていると、渡島蝦夷1,000人も屯集して、河に向かって宿営を始めた。やがて営の中から2人が川岸に現れて、粛慎の軍船が多数来て殺されそうだ、川を渡って仕えたいという。比羅夫は迎いの舟を差し向け二人を救った。彼らから粛慎軍が潜む位置と軍船の数、20隻余りとの情報を得ている。

比羅夫が渡島蝦夷と対陣した大河とは、江差町に近い上ノ国(かみにくに)町を流れる天の川か、更に北上して尾花岬(おばなみさき)を越した利別川(としべつがわ)か、定かではない。ただその後、弊賂弁嶋(へろべのしま;奥尻島)で慎粛と戦っているので、そのいずれかと考えられる。

比羅夫は、その川を挟んで、水先案内としてつれてきた蝦夷を介し、慎粛の軍に対して懐柔策を講じるが失敗する。比羅夫は慎粛軍の前に、絹や武器、鉄製品などを置いて相手の出方を探る。 粛慎側は長老格の老翁(おきな)か出てきて、それらの物を拾い上げ、一時は和睦が 成立したかとおもわれたが、しばらくしてその物が元の所に返された。 これは互いの言葉が通じない相手に対する一つの交渉方であって、それらを受け取り、 別の何かを返せば、親睦を表したことになる。しかし、今回は逆で 敵意を表明した。 それで、阿倍比羅夫軍と粛慎軍は戦争状態に突入した。

粛慎は弊賂弁嶋(へろべのしま)に戻って「柵」に立て篭もり、臨戦態勢をとる。 この弊賂弁嶋は渡島の近くなので、奥尻島と比定できる。ここ至り、開戦は不可避、比羅夫は弊賂弁嶋の攻略を決意するが、比羅夫は「和(あまな)はむ と乞(まう)す」と降伏勧告をする。 これも決裂して、阿倍比羅夫軍は弊賂弁嶋の柵を攻撃、戦いは苛烈さを極め、能登臣馬身龍(のとのおみまむたつ)という将官が戦死するが、奥尻島の慎粛を降伏に追い込んだ。粛慎は敗れて自分の妻子を殺して、降伏します。このように弱者を犠牲にする敗軍の処置は、北東アジア大陸の風儀なのだろうか?

比羅夫軍は粛慎の前線基地である弊賂弁嶋を攻略したにすぎない。 その一方で人的被害が増大したことや、比羅夫自身がその戦果に満足して兵を退いたので、当初予定していた後方羊蹄(しりへし)を橋頭堡にする本格的な進出という目的は達成されていない。実質的な成果が伴わない点、大和朝廷側の戦略的敗北といえる。しかしその一方、斉明朝の改新政権は北方・中間文化圏の多種・蝦夷集団を服属させ、朝貢させるばかりか、その風俗・習慣についても詳細な記録を後世に残すという画期的成果をあげた。それ以上に当時、粛慎の有り様から感じ取り、北海道が大陸北部に通じていることを理解していた。 

同年に朝鮮半島の百済より援軍要請があり、比羅夫も軍船を率いて朝鮮半島に出兵した。3年後の天智2年(663)、白村江の戦いで、陸戦では唐・新羅の軍に、倭国・百済の軍は破れ、海戦では、白村江に集結した1,000隻余りの倭船の中で400隻余りが炎上するという大敗北に遭う。この戦だけで兵士1万余りが半島で消失している。その損失は大きく、また唐・新羅の軍の侵攻も予想され、慎粛討伐どころではなくなっていた。

阿倍比羅夫の遠征以降も蝦夷の反抗は続き、王化の拡大は東北地方の民にとって、最悪の事態を招いた。派遣された貴族や官人の一方的な搾取と露骨な人種的差別、官人の威を借りる商人達の収奪に等しい交易の横行、地勢・気候風土を弁えない施策と租庸調の過酷な負担。

大和朝廷が陸奥経営に本格的に動き出すのは奈良時代の始めである。この時代は藤原不比等の主導の下、大宝律令の整備など律令国家の体制が確立した時代である。元明天皇の和銅2年(709)に巨勢朝臣麻呂を鎮東将軍に任命される。養老4年(720)に按察使・上毛野広人が陸奥柵(仙台・長町付近)で殺される事件が起る。神亀元年(724)に東北経営の拠点として、按察使兼鎮守将軍・大野東人により多賀柵(城)と出羽柵が造営され、前線基地として天平宝字2年(758)に桃生城と雄勝柵が造営される。神護景雲元年(767)に伊冶(いじ;これはり)城が造営される。

その後も称徳天皇薨去により擁立された光仁天皇の時代、宝亀5年(774) 、陸奥国の蝦夷が蜂起し、朝廷側の行方郡(なめかたぐん)の穀倉が焼かれ、桃生城(ものうじょう;石巻市【旧桃生郡河北町】飯野字)を攻撃、以後38年戦争と呼ばれる全面戦争が勃発する。

伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)は蝦夷の族長で、出羽国の管轄にあった志波村の蝦夷征討に功を上げ、宝亀9年(778)には外従五位下を授けられたが、同11年、陸奥此治(これはり;伊治)郡大領として従軍している時反乱を起し、陸奥按察使・紀広純のいる伊冶城を包囲攻撃し殺害した。これにより、朝廷軍の飛駅(ひえき;早馬)による情報網が破壊されてしまった。

天応元年(781)桓武天皇が即位する。延暦8年(789)3月9日に5万余りの政府軍が北進を開始した。征東大使は紀古佐美(きのこさみ)である。 6月3日朝廷に到着した報告によると、前・中・後の3軍に分けて、北上川の東岸への渡河作戦を決行した。前軍は反乱軍に阻まれて渡れなかったが、中・後軍は河を渡り、遭遇した反乱軍300人と戦った。圧倒的な兵力の政府軍は、勢いに乗じて前進するが、800人の強力な賊軍と遭遇、退却しようとしたところを、別に東山より出現した400の賊軍に退路を断たれ、政府軍は混乱に陥って敗走する。政府軍は胆沢(岩手県奥州市水沢区)の有力首長である阿弖流為(あてるい)率いる蝦夷軍の巧みなゲリラ戦法により大敗した。

しかし延暦13年、桓武天皇が平安京に遷都した年に10万、同20年には4万と執拗に続く征討軍の侵攻は、蝦夷社会にも深刻な打撃となってきた。征夷大将軍・坂上田村麻呂が登場し、802年(延暦21年)に胆沢城を造営したのを機に、阿弖流為らが降伏し、一応の決着を見る。桓武天皇は延暦15年、東国・北陸などから伊治城に9千人を移住させる。以後も、東北地方最大の城柵・志波城(盛岡市)を造営し、胆沢城には東国の浪人4千人を移配した。

3) 蝦夷と粛慎

『日本書紀』によれば、658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、さらに粛慎(あしはせ、しゅくしん、みしはせ)を平らげたとする。それは、粛慎の前衛基地の攻略に成功したに過ぎない。粛慎(しゅくしん)について、「転じて其民族の住したる地方の国名となる。 また『アシハセ』とも訓す。 支那には其の名、古くより聞え、按ずるに,比羅夫の征討せしは、大陸にあらずして、 樺太方面に居住する通古斯民族なりしなるべし。 當時唐の勢力強大にして、遠く北方満州地方に及び、 同地方の通古斯民族が、唐人より得たる貿易品の転じて樺太に入り、 更に蝦夷を経て我が国に傳はりしより、蝦夷の北方に別種の民族あること知られ、 かくして比羅夫の遠征を誘致せしものと見るべし。」

粛慎は本来満州東北部に住むツングース系民族の国名を指すが、オホーツク文化人とも取れ、周代には既に知られていた。 息慎とも稷慎とも記され、石鏃を用い、狩猟と漁労を主な生業としていた。 漢代以後にはその名は見えず、此の地方の民族は?婁(ゆうろう)として知られる。その民族の分流が、沿海州から樺太、蝦夷地に移動してきたと考えられ、大陸北部に由来する文化・習俗をもたらした。中国三国時代、高句麗の北、満州地域に住んでいた民族・勿吉(もつきつ)とは同族で、勿吉は現在の松花江(ソンホワチャン)から烏蘇里江(ウスリー江)、黒龍江流域に居住していた。?婁(ゆうろう)も、中国三国時代に、外満州(Outer Manchuria;北満州ともいう外興安嶺【スタノヴォイ山脈;Stanovoy Mts】以南・黒竜江(アムール川)以北・ウスリー川以東の地域)付近にあった国で、容貌は扶余に似ているが、言葉は異なっていたとあり、元々、粛慎と呼ばれていた氏族の末裔とされ、前漢代以降は扶余に従属していた。しかし、しばしば反抗を繰り返していたと記録されている。また、唐時代の靺鞨(まっかつ)もその末裔とみられ、中国の隋、唐時代に、勿吉(もつきつ)の表記が変化したものと考えられている。粛慎にしても靺鞨にしても、その訓(よ)みは共に「あしはせ」である。女真(女眞、じょしん)は、女直(じょちょく)ともいい、中国東北部の松花江一帯から外興安嶺以南のロシア極東地域および朝鮮半島北部にかけて居住していたツングース系民族で、10世紀ごろから歴史に登場してくる。17世紀に「満洲(マンジュ)」と改称した。民族の聖地を長白山としている。 元々は、女真以前に満洲に居住していた黒水靺鞨の後裔とみられている。主に狩猟採集・牧畜・農耕に従事し、中国との間で朝鮮人参・毛皮を主に貿易していた。度々略奪遠征をし、1019年に船で対馬・壱岐・九州に刀伊の入寇と呼ばれる侵入をし、多大な被害を与え、藤原隆家ら大宰府官人に撃退された集団が、女真族主体のようであった。 やがて中国に1115年「金」帝国・1636年「清」を建国する。

多賀城碑(たがじょうのひ)は、宮城県多賀城市大字市川にある古碑(奈良時代)であり、国の重要文化財に指定されている。書道史の上から、那須国造碑、多胡碑(たごひ;群馬県多野郡吉井町池字御門)と並ぶ日本三大古碑の一つとされる。これまでその碑文の内容が、余りにも重大且つ意外な内容のため、偽作とされてきたが、近年の科学調査により、天平宝字6年(762)に建てられた真作と確定した。

実際の碑文は縦書きである。

      去京一千五百里(京を去ること一千五百里)

   多賀城

      去蝦夷国界一百廿里(蝦夷国の界を去ること一百二十里)

      去常陸国界四百十二里(常陸国の界を去ること四百十二里)

      去下野国界二百七十四里(下野国の界を去ること二百七十四里)

      去靺鞨国界三千里(靺鞨国の界を去ること三千里)

西 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将(按察使【あんさつし】;陸奥・出羽両国の上級行政監督官)

  軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置(鎮守府将軍;陸奥軍政府の長官)

  也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山(陸奥守であり参議)

  節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守(節度使【せつどし】;東海・東山道の臨時の軍政官)

  府将軍藤原恵美朝臣朝?修造也

         天平宝字六年十二月一日

当時政治の実権を握っていた藤原仲麻呂の子・藤原恵美朝臣朝?(ふじわらのえみのあそんあさかり)が、大陸の渤海国に属していた靺鞨を、ことさら意識しているのはなぜか?比羅夫が接触した粛慎に、他の蝦夷とは違う文化と習俗が見られ、その特異性があった。黒竜江沿岸部の靺鞨・女真文化と深い関わりを予想させる、オホーツク文化の香りがあった。しかし、靺鞨国と渤海国を混同してはいない。神亀4年(727)以降、渤海国は来朝している。しかも多賀城碑が建てられる天平宝字年間(757~765)に来朝していた使節を「高麗使」と呼んでいた。当時の日本は渤海国を高麗国の後裔と理解していた。養老4年(720)、孝謙天皇は靺鞨国の風俗を観察する国覓使(くにまぎし)として、渡嶋津軽津司(わたりしまつがるのつのつかさ)と諸鞍男(もろのくらお)を北海道に派遣する。彼らは粛慎の民がすむ靺鞨国が北方に実在すると認識した。それで藤原朝?は多賀城から3千里、平城京から4千5百里のかなたの帝国・靺鞨国として碑文に刻んだ。

総じて言えば、靺鞨は、高句麗に服属し、後に高句麗遺民と共に渤海を建国した南の粟末靺鞨と、後に女真族となり金国、清国を建国した北の黒水靺鞨とに二分される。多賀城碑でいう靺鞨は、黒水靺鞨の支流で、樺太経由で氷上を渡るか、直接舟による北海道への渡海と考えられる。

靺鞨にとって松花江は、母なる大地を養う重要な大河で、源は長白山に発し、嫩江(ノンチャン)・牡丹江(タンチャン)を併せて臨江(リンチアン)で黒龍江に合流する。その流域は東北平原の北部をなし、狩猟・農耕に適したため古くからツングース系民族の居住地となっていた。またその川は、唐代には粟末水、遼代には黒水と呼ばれ、女真族が松花江と呼んだ。

668年の高句麗滅亡後、高句麗に与して唐に反抗した靺鞨の一部などとともに営州(遼寧省)に移させられた。

690年に唐で武則天が即位すると、内政が混乱を始める。696年、この動揺を突いて、同じく強制移住させられていた契丹の酋長松漠都督李尽忠が唐に叛旗をひるがえすと、それに乗じて高句麗遺民らは、部衆を率いる粟末靺鞨人指導者乞乞仲象(コルゴルジュンサン;きつきつ ちゅうしょう)の指揮の下に営州を脱出した。その後、乞乞仲象の息子大祚栄(テ・ジョヨン;だい そえい)が指導者となる。則天武后は、将軍李楷固((チョン・ボソク))をして大祚栄討伐軍を派遣するが、大祚栄は高句麗・靺鞨の部衆を合せて迎え撃ち、これを大破する。大祚栄は高句麗の故地に帰還、東牟山(トンモサン;吉林省延辺朝鮮族自治州【ヨンビョン・ジョソンジョク・チャチジュ】敦化市)に都城を築いた。渤海の都が後に上京竜泉府(現・黒竜江省牡丹江市)に移ると、東牟山の地は「旧国」と呼ばれるようになる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、満州東部に一大勢力を確立し、698年には自立して震国王と称す。

705年、武則天が中宗に禅譲することで武周は消滅し、唐が復活すると、中宗は懐柔策をとり、同年、侍御史(じぎょし)張行岌(ちょうこうきゅう)を派遣して招撫を図った。祚栄も唐との通交の利を考えて、その子大門芝を唐に遣わして朝貢せしめ、ここに唐との和解が成立する。710年中宗が毒殺され、その後の政争を李隆基(り・りゅうき)が治め、712年玄宗皇帝として即位する。玄宗は翌年、鴻臚卿崔忻(さいきん)を遣わし、祚栄を左驍衛員外大将軍忽汗州郡督に任じ、渤海郡王に封じる。これより、国を渤海と号すようになる。渤海国は、高句麗人と粟末靺鞨人の混成国家であった。

4) 阿倍比羅夫が通過した古東山道

 『延喜式』にのる官道は、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の7道で、古を付けて呼ぶのは古東山道だけである。それは延喜式以前から、関東、東北に通じる主要道があり、古代にその道筋を利用して東山道ができ、それから外れた旧道を古東山道と名付けた。東山道は近江の国府(大津市)を出発地とし、不破関(関が原)を通って美濃国に出る。岐阜市、瑞浪市、恵那市、中津川市と通り、神坂越えとなる。

 信濃国における経路は、美濃国坂本駅から信濃坂(神坂峠;みさかとうげ)を越え阿智駅(下伊那郡阿智村駒場)に下り、伊那郡を下る天竜川沿いを遡上し、育良(いくら:下伊那郡伊賀良村)・賢錐(かたぎり;上伊那郡中川村.旧片桐村;上伊那郡の最南端に位置)・宮田(みやだ;上伊那郡宮田村;古くは伊那路交通の要所で信濃15宿の一つ。江戸時代は高遠藩領であった。)・深沢(ふかさわ;天竜川の支流深沢川が流れる上伊那郡箕輪町中箕輪)の各駅を経て善知鳥峠(うとうとうげ;松本平と伊那谷の境界をなす峠.表日本と裏日本の分水嶺をなす峠の一つで、標高889m。江戸時代中馬の道・三州街道は、小野からこの峠を越えて中山道と合流した。長野県塩尻市)を越えて筑摩郡に入り、覚志駅(かかしのうまや;松本市芳川村井町。平安時代から信濃国府が置かれた)を経て、錦織駅(にしごり;上水内郡【かみみのちぐん】四賀村【旧保福寺村】錦部)に出る。保福寺峠越えの重要な駅であった。峠の名は宿の東端にある曹洞宗保福寺に由来する。江戸時代保福寺街道保福寺宿に、松本藩の保福寺番所が置かれていた。そこから保福寺峠越えとなる。

明治になって英国の登山家ウェストンが保福寺峠で、北アルプスの連山の展望に感動し日本アルプスと命名した話は有名である。江戸時代は手前の刈谷原宿が、北国西街道(善光寺街道)との分岐点として栄えた。やがて鉄道の開通・車社会の到来で、二筋とも殆ど使われない道となった。

本道は東に方向を転じ、保福寺峠を越えて小県郷浦野駅(うらの)に至る。今の小県郡青木村に隣接する上田市に浦野の地名が残る。駅の場所は特定されていないが、東山道の難所保福寺峠越えの重要な駅であった。亘理駅(わたりのうまや)は千曲川を渡る重要な駅で、千曲川畔に設けられた駅(うまや)で、伝馬10疋をそなえていた。その場所は、現在の上田市常磐城と推定されている。

森将軍塚古墳から屋代方面を眺める。左前方が筑摩山地

従来信濃国府は上田市亘理周辺にあったと考えられていた。近年の屋代遺跡群の発掘調査により、その定説をくつがえす木簡が発見された。 森将軍塚古墳に近い屋代遺跡から出土した木簡には、年紀(乙丑【(きのと うし】年=665年)が書かれ、その裏面に「『他田舎人(おさだのとねり)』古麻呂」と氏名と名が記されていた。全国最初の地方「国符木簡」の出土で、信濃国司から更科郡司等に対する命令の木簡であった。また、「信濃団」の文字が記された木簡もあった。亘理駅から屋代にあったと思われる信濃国府に通じる道が当然あったはず、即ちその道が、後の鎌倉街道となったものと考えられるが、現在ではその道筋も、伝承もない幻の街道となっている。

千曲市の東山道も、後の鎌倉街道も、千曲川の洪水によって流失したあと、村上時代に山の裾野に街道が開かれたからで、そこに鼠の宿も設置された。 亘理駅で千曲川を渡り、上水内郡の多古(たこ:長野市三才から田子付近)・沼辺(ぬのへ:上水内郡信濃町野尻または古間)の良駅を経て越後国に至る支路があった。それぞれ駅馬は5匹であった。亘理駅で千曲川を渡り、佐久郡清水駅(小諸市諸)・長倉駅(ながくら;軽井沢町の長倉;中軽井沢の北隣)経て、古くは碓氷坂といわれた入山峠を越え、上野国坂本駅へ至る路となる。さらに下野を経て、陸奥、出羽に到る。小諸市諸にあった清水駅も、信濃にある15の駅の一つで、当然水の確保も課せられていた。水の豊富な諸にはうってつけであった。清水駅は全長約270mあり、中央の道路をはさんで両側に、間口およそ22m、奥行およそ45mの地割をして駅の役人たちの屋敷にした。道路の中央には駒飼(こまがい)の堰を通し、また屋敷北側の後ろには飲用の堰を流し、それに沿って小道が通じていた。

ところで古東山道となると、上伊那郡宮田村にあった宮田を過ぎた所で、右折し天竜川を渡り、そのまま東方向に遡上する三峰(みぶ)川の渓谷を歩み高遠に出る。この上伊那郡高遠町の三峰川沿いに鉾持山(ほこじやま)がある。諏訪明神が戦いを終え、鉾を埋めて納めた山である。矢は守屋山に納めた、その名の由来となっている。ここから藤沢川沿いを遡り、山間の晴ケ嶺に達する。ここから諏訪盆地に向かうが、その後の道は古代より多岐で、諸説ある。鎌倉時代以降重要な道筋は、上伊那郡高遠町から御堂垣外(みどがいと)へ出て、東に折れて松倉川沿いを行き、松倉の集落を過ぎ、千代田湖を右手に見て金沢峠越える。茅野市金沢(後の旧金沢宿)を結ぶ峠で、松倉峠ともいう。標高1315mである。この峠は中世以来、諏訪と上・下伊那を結ぶ最短の重要な交通路で、鎌倉幕府に仕えた伊那の藤沢氏一門は、藤沢谷から金沢峠を越えて鎌倉に馳せ参じたといわれる。正嘉2年(1258)、諏訪氏と同族の下伊那の知久信貞が幕府的始めの射手に選ばれて鎌倉に赴いたのは高遠経由のこの道(鎌倉道)と伝えられている。また元亀3年(1572)、武田信玄が大軍を率いて甲州から伊那路を遠江に向った道も、大池から金沢峠越えであったと語り伝えられている。江戸時代の元禄(1688~1704)ごろから、この峠を通る道は、飯田藩、高遠藩の参勤交代の公道に指定された。金沢宿より江戸へは48里半の里程となっている。

しかし何故甲州街道が、古代に開設されなかったのか。山梨県道212号の頂上にある笹子隧道の直上が、甲州街道最大の難所と言われた「笹子峠」(標高:1,096m)がある。大和村(甲州市)からの峠越えである。

現在山梨県道・東京都道33号上野原あきる野線の分岐点の左手にある脇道に入り、さらに右に曲がって鶴川を渡り急峻な山間部を通って鳥沢に至る、ほぼ現在の山梨県道30号大月上野原線のルートがある。一部は中央道の工事に際し埋没してしまったが、これらの急峻な地形が仇となって、古代では整備するのが至難となった。

しかし古東山道となると、古代、藤沢村の人々は諏訪にでる場合、金沢峠を越えず、千代田湖の手前で左に折れて、硫黄沢神社の脇を通り、小飼峠の谷川沿いを下り、国道152号線から山の中に数百メートル奥にある静鉱山(しずかこうざん)から安国寺の集落に出る。高遠方面の人々が諏訪に出るときは、小飼峠道といって、通常ここを通った。尚、安国寺村の古名は小飼村である。

諏訪大社前宮は、本宮から同じ山裾の旧鎌倉街道を東へ1,6キロほどの所から一段高い地に祀られている。古代この一帯を神原(ごうはら)と呼び、諏訪大神が始めて出現した場所と伝承され、その発祥の地として神聖視していた。ここには御祭神の末裔で神格を持った生き神、大祝(おおはふり)が住まい、上社にとっては最も由緒深い地で、普通上社と言った場合は、前宮を指した。また高部の磯並(いそなみ)社の後ろ鎮座する周囲20m余におよぶ巨石・小袋(こぶくろ)石は盤座(いわくら)である。したがって、藤沢川沿いを登り、杖突峠から諏訪神社の御神体・守屋山の山裾を下り、高部に出、現在の守矢神長官家の西から諏訪盆地には達することは、古代では神聖な場所を侵すとして、使われていなかったはずだ。

安国寺から上川沿いに東に向かう道筋は、横内の下蟹河原から塚原の横井・阿弥陀堂辺りに出て、そこから北上して本町の古屋敷に至る。その先は現在と同様、縄文時代からの2つのルートが、その地形から想定できる。1つは茅野市北大塩の米沢筋からホーロク坂を越え、音無川沿いに白樺湖へ、2つめが鬼場で上川を渡り、台地上を進み、湖東を通過して、芹ケ沢を入り口として北山へ。

また白樺湖大門峠に向かう時の宿駅は、「泊(とまり)」の地名が残る諏訪地方の「大泊(おおどまり)」で、茅野市北山湯川の飛岡(富岡)辺りとみられている。飛岡は雨境峠と大河原峠越えの分岐点にあたり、その麓の宿駅であった。小県側では「四泊(よとまり)」の記録があり、旧長門町大門が比定されている。

貞観年代に編纂された令の注釈書『令集解』考課令殊功異行の条に、笠朝臣麻呂の木曽路を開通させた功と並べて、「須芳郡の首長が須芳山嶺道を作った功績で正八位を授けられた」と記されている。笠朝臣麻呂は、和銅7年(714)閏2月、木曽路を開通させた功により封戸70戸、功田6町を賜わっている。すると8世紀には、青木村の保福寺峠越の「東山道」の近道、「須芳山嶺道」が諏訪から佐久に通じていたことになる。

その後、阿倍比羅夫は縄文時代に繁栄を極めた湯川以北の北山浦の当時ほぼ無人の地を過ぎ、この時代、沼地だった白樺湖の大門峠を右折して、女神湖を下り、現在の長門牧場の北東にある雨境峠を越えて、望月(現北佐久郡望月町)に出る。更に佐久郡に下り、佐久平を北東に進んで碓氷坂に至ったと推定されている。当時旅人は、峠の台地で、旅を全うするための祈願をし、幣(ぬさ)を奉った。武人の阿倍比羅夫も同様であったと思われる。白樺湖の御座岩、長門牧場の雨境峠で、旅人の幣の痕跡が検出されている。白樺湖の御座岩は盤座で峠神に旅の安全を祈願した。その遺跡からは、土師器、須恵器、滑石製剣形模造品、宋銭などが出土している。雨境峠は北佐久郡立科町雨境の地籍で、白樺湖から北東10kmにあり、標高は1,579m、この付近の勾玉原や与惣塚(よそうづか)からは、大量の祭祀遺物が発掘されている。

勾玉原からは、勾玉・管玉(くだたま)・臼玉(うすだま)・有孔円板・剣形など滑石模造品類が出土した。この模造品は、この峠を通行する旅人が、糸で綴って木につるし、峠の神に旅の安全を祈る幣(ぬさ)として捧げたものであるとおもえる。

尚、幣とは、祈願をし、または、罪・けがれを払うため神前に供える幣帛(へいはく)のことで、多くは紙・麻・木綿(ゆう)などを使う。天皇が官幣神社に給う幣は、特に『みてぐら』といわれる。

与惣塚は北佐久郡立科町芦田八ケ野の地籍で、長門牧場より南1km、白樺湖よりにある。その祭祀遺物は鉄製の薙鎌、青銅製鏡の模造品、興味深いのは、多くの北宋銭、永楽銭、寛永通宝などの古銭類の出土である。宋銭は平安時代中頃に国内で流通した。永楽銭は室町時代、3代将軍足利義満の没後に広く流通した明銭である。寛永通宝は江戸時代、3代将軍家光の代に鋳造され、幕末まで通用した。この事実から、古東山道は古代のみならず、中世、近世と長く重要な道筋として利用されたことがわかる。

茅野市北山湯川の飛岡からのもう一つの古代通路は、芹ケ沢で渋川を渡り仏石付近、鬼石、厩の尻、千遍坂を経て、蓼科の親湯温泉に出、滝の湯川沿いに城の平から、さらに上流を遡り標高2,000mに近い天祥寺原、それから横岳と蓼科山の間の鞍部にあたる大河原峠(2,090m)を越え、春日渓谷から鹿曲川(かくまがわ)を下って佐久南部地方に向かう須芳山嶺道が、西上野への近道であった。天祥寺原は、南八ヶ岳の眺望が見事で、旅人の多くは、その山稜に向かい思わず旅の無事を祈念したため付けられた地名であろう。天候の急激な悪化に備える非難小屋があったといわれている。また天祥寺原から蓼科山の山頂を越える将軍平は、坂上田村麻呂が延暦20年(801)蝦夷征伐の際、そこに祭壇を設け、幣を奉って戦勝を祈願したことから名付けられたという。しかし行軍の道筋からかなり離れているので、その伝承には、もっと謙虚な検証が必要と考える。

筑摩郡を経由する道は大宝2年(702)に開通していた。東山道の最大の難所は、南の信濃坂峠、北の碓氷坂及びその中間にある保福寺峠であったが、東海道には幾つかの大河があり、架橋が整備されてない欠陥があった。それでも平坦という利点があり、大和朝廷が陸奥・出羽への侵出に当たって次第に重要路線となり、奈良時代の中頃になるとその主要道路とされた。 

5) 蝦夷が語る信濃

 延暦7年(788)年3月、東海・東山・坂東の軍、5万2千8百余人、多賀城に集結の動員令が下り、7月、紀古佐美を征東大使に任じる。しかし大軍を擁しながら、大敗北をする。この時代も信州の民は、為政者の暴戻に苦しんだでしょう。この時代の官符に、 『兵士を一人点ずれば、一戸が滅びる』と記されている。「戸」は、いわゆる「郷戸」をさし、奴婢も含んだ数戸の大家族集団であったので、一戸当たり20人前後となる。

 律令の兵制では、「一戸」から一兵士を募るため「戸」が編成されたともいわれている。「50戸」で「一郷」であるから、当時の茅野市のヤマウラ地方にあった山鹿郷の人口は、1,000人強の見当となる。生産性が低い時代に、軍役だ「移配」だとなれば、郷村は疲弊する一方となる。

 『日本書紀』によれば、既に大化4(648)年の条に、大和朝廷は「磐舟柵(いわふねのき、いわふねさく)を治めて蝦夷に備え、越と信濃の民を選んではじめて柵戸( きのへ)を置いた」と記す。新潟県村上市岩船の辺りに置かれ、廃絶の時期は不明だが8世紀初めまで存続した。信濃の民は、故郷から遠方に派遣され、柵を築かされると、そのまま移配された。

 天平13(714)年、「聖武天皇が詔勅により諸国に国分寺を造らしむ」時代、尾張・上野・信濃・越後の国の民200戸が、出羽柵にはいる。このあと諸国農民が数千戸の規模で蝦夷の土地を奪い入植。これは苛税に耐えられず、集落単位で逃散する農民の姿であった。秋田県へ移設される前の当時の出羽柵は、庄内地方(山形県沿海部)、赤川の河口と羽黒山の中間地域に設置された。

 霊亀2(716)年に信濃・上野・越前・越後から各100戸。

 717年にも信濃・上野・越前・越後から各100戸。

 養老3(719)年には東海道・東山道・北陸道から200戸を出羽柵へ入植。

 これらは、蝦夷を王化し、出羽国の開発・開拓を促進するために行われたものである。

 延暦21(802)年、坂上田村麻呂の大和軍の侵攻による長期の戦いにより、蝦夷地が疲弊し、ついに阿弖流為(アテルイ)は降伏し、都に送られて、斬首された。阿弖流為の本拠地に胆沢城を造築後、居住民蝦夷を追放し、その跡地に関東・甲信越から4,000人が胆沢城下におくり込み、柵戸として警備にあてた。その後、150年にわたる陸奥北半の経略拠点となる。

 元慶2(878)年3月に勃発した元慶の乱に、数千の軍を擁しながら、蝦夷の賊徒千余人の奇計により壊滅した。5月2日、陸奥国と出羽国の両国・飛駅使(ひえきし) が、京に官軍の壊滅を告げる。 

 陸奥軍大敗の報を受けた朝廷は、藤原保則を出羽権守に任命し終息を願う。保則の至言がここにある。「一もて百に当りて、与(とも)に鋒(ほこのさき)を争ひがたし。如今(いま)のことは、坂(従三位坂上大宿禰田村麻呂)将軍の再び生まるといえども、蕩定すること能はじ。もし教ふるに義方(義にかなった正しい方法)をもてし、示すに威信をもてして、 我が徳音(とくいん)を播(ほどこ)し、彼の野心を変ぜば、尺兵(せきへい;短い武器)を用ゐずして、大寇自らに平かならむとまうす。」

 律令軍団制の実情は、集められた農民兵を、国司や軍毅が私的に使い、弓馬の訓練を疎かにした結果、藤原保則に「蝦夷兵一人に百人の軍団兵士があったても勝負にならない」と言わしめた。『続日本紀』によれば、宝亀11(780)年3月、律令軍団制が大きく変革され、農民兵を減員する代わりに富豪で弓馬の技術に優れた者を徴発するようになった。そして延暦11(792)年には、軍団制が全廃された。ただ西海道の北半は新羅、唐との国際緊張の中、弘仁4(813)年、大幅な兵士減員が実施されただけであった。

 しかし天長3(826)年12月3日、西海道の軍団兵士制も廃止された。当時の西海道は連年にわたる飢饉と天然痘などの疫病で、一般庶民から兵士を集める事が困難となっていた。大宰府では対外的な緊急事態に備えて、衛卒2百人を置いた。

 『類聚三代格』巻18に、「名はこれ兵士にして、実に役夫に同じ、身力疲弊して兵となすに足らず」「兵士の賤は 奴僕にことならず」「窮困の體、人をして憂い煩わしむ」と記される。新たに大宰府や国府の警備には、「富饒遊手の児(ふじようゆうしゆのちご;富豪の子弟)」から、弓馬の技術に長けた者を選抜し選士(せんし)とし、給与も支払われるようになった。大宰府では、4百人の選士を8人の統領が率いた。

 『三代実録』によれば、貞観11(869)年5月、新羅の海賊船2隻が博多に侵入し、豊前国の年貢の絹綿を略奪し逃走した。この時海辺の百姓56人が懸命に戦ったのに、統領や選士は惰弱で役に立たなかったという。この報せに朝廷は、当然大宰府を譴責するが、その対応策に「今後は、降伏した蝦夷である夷俘(いふ)を動員して火急に備えさせよ」とある。この時代軍団兵士制は廃止されていたが、たった海賊船2隻にすら対応できる組織的軍事力は存在せず、少数精鋭の夷俘の武技にしか頼れなかった。

 長岡京と平安京と続く桓武天皇による2度の大掛かりな遷都と、上記の度重なる蝦夷遠征により国家財政は破綻していた。その重税と軍役負担、それに重なる自然災害により、8世紀末期から9世紀に入ると、信濃でも農村が荒廃していった。宝亀6(775)年の全国的飢饉でも、三河・丹波と並んで信濃でも深刻で、その救済のために公費までも支出された。延暦8(789)年には、信濃国司の員である『介』に当たる多始比賀智(たじひのがち)を養民司(ようみんし)に任じ、その救済に当たらせるほどであった。弘仁6(815)年、信濃の大凶作で、餓死者が続出し、国衙は商布を販売し、それによる1万石の穀物を救恤(きゅうじゅつ)に充てたが、農村の疲弊の回復と生産力の復興には、程遠いようであった。弘仁8(817)年には大飢饉となり、租税を払えない農民が続出し、あえて流民となる者が増大した。

 

 6)大化以降の国評制度

 大化以降、大宝律令制導入以前までは、地方の「国」は廃止され、代わって「評(こおり)」が設置された。「国造」は行政と関わりのない世襲の祭祀職となり、一国に定員1名ずつ置かれることになる。かつての「国造」の多くは、「評」の地方官役として「評造(こおりのみやつこ;ひょうぞう)」「評督」「助督」などに任じられた。大化の改新後の律令制導入で、改めて地方の行政単位として「国」、「郡」、「里」が設置され、「国造」支配地の多くが統廃合され、新たに広域的な「国」を置き、朝廷から、これを治める中央貴族の「国司」が派遣されることになった。「国司」は四等官制で、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す。

 中央集権的な律令制下で、国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。特に律令制を根幹的に支えた班田収授制の実務、戸籍の作成、田地の班給、租庸調の収取等の重要な職務を担った。

 大化の改新以降、「評」は「国」の下位組織となり、その下に「里長」が管轄する「里」が設置され、「里」は、50戸をひとまとめとする単位で、これを「国評里制(国評制)」と呼んだ。

 大宝律令では、大化以降の「評」が「郡」に改められ、これを管轄する「郡司(ぐんじ)」が置かれることになり、元の「国造」が任じられた「評造」「評督」「助督」等の地方豪族は、多く、この「郡司」に任じられた。「郡司」は終身制であった。「郡司」は郡衙に政庁を置き、その長官が「大領(だいりよう)」、次官が「小領(しようりよう)」、「主政(しゆせい)」、「主帳(しゆちよう)」等の役職があった。『倭名類聚抄』によれば、平安時代中期の信濃には、伊那、諏訪、筑摩、安曇、更科、水内、高井、埴科、小県、佐久の10郡があった。諏訪郡では、当然金刺氏一族が「郡司」となったでしょう。当時諏訪大社春宮が下社の中心であった。郡衙は下ノ原か東山田付近とおもわれる。

 「戸」は、「郷」を構成する50戸の「郷戸(ごうこ)」で、正倉院文書として残る大宝2(702)年と養老5(721)年の戸籍によると、戸主の親族だけでなく、その姻族も含み、更には使用人家族、奴隷などもその構成員であった。正倉院文書によれば、1戸の人数は最大が124人で、平均は20余人であった。郷戸は数戸の竪穴住居等の「房戸(ぼうこ)」から構成されていた。

 729年~749年(天平年間)の時期には、政治の簡素化が図られ、これに伴って「里」が切り捨てられ、「郷」だけが残された。防人として北九州に、北方の蝦夷征伐に兵としてかり出され、柵戸として強制的に移配させられた。

 北九州の防備にあたる統領や兵士は惰弱で、大和政権は、特に北部九州の勢力には相当不信感を抱いていた。それで防人が、遠方の東国出身者で構成せざるを得なくなり、結果万葉集にうたわれる多くの悲劇が生じた。戸主が徴用されれば、残った家族は重要な働き手を失い、餓死することが多かった。律令制は、その存続の根源となる民にとって余りにも加重でありすぎた。この民を兵士に使いながら、定められた訓練も疎かにし、朝鮮半島へ出兵し、東北の蝦夷と戦わせたわけだから結果は無残なものであった。