奥の細道の足跡を訪ねて

http://senbonzakura.skr.jp/05hosomichi/00japan/001hosomichi/005doki.html 【『奥の細道』序文と旅立ちの動機】 より

月日は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老を迎ある者は、日々旅にして、旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。

予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上の破屋(はおく)に蜘蛛の巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて、取るものも手につかず。

ももひきの破れをつづり、笠の緒つけかへて、三里に灸(きゅう)すうるより、松島の月先づ心にかかりて、住める方は人にゆづり、杉風(さんぷう)が別しょに移るに、

草の戸も住みかはる代ぞひなの家  面八句(おもてはっく)を庵の柱にかけておく。

【現代語訳・概略】

月日は旅人である。人生もまた旅人である。古の人たちもたくさん旅に死んできた。私も物につかれたように、旅に出たくてどうしょうもなくなってきた。

旅支度をしていると、松島の月が真っ先に脳裏に浮かんでくる。

住んでいた家は他人に譲り、別れの句を柱に掛け置いた。

私の住んでいた草庵も住み替わる時が来た。季節も雛祭りの時期、今度は雛人形を飾るよう

な華やかな家になるだろう。 

【現代語訳】

月日は永遠に旅を続ける旅人であり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人である。船頭として船の上に生涯を浮かべ、馬子として馬のくつわを引いて老いを迎える者は、毎日旅をして旅をすみかとしている。古人の中には旅の途中で命を無くした風流人が多くいる。私もいつの年からか、ちぎれ雲が風に吹かれて漂うように誘惑されて、旅に出て歩きたい気持ちが我慢できず、海や浜辺をさすらい、去年の秋、隅田川の畔を破れ小屋において蜘蛛の巣を取り払って暮らしているうちに、次第にその年も暮れ、春になり霞(かすみ)が立ち込める空を見るにつけても、あの名高い白河の関を越えようと、人の心をそわそわさせる神が取り付いて私の心を狂わせ、道祖神が招くような気がして取るものも手につかない。旅行着の破れ目を直し、笠の紐(ひも)を付け替えて、足に灸をすえると、あの有名な松島の月の美しさが真っ先に気にかかって、住んでいる家は他人に売却し、杉風の別宅に引越しする時に、句を詠んだ。

「草の戸も」の句を発句とする連句の初めの8句を草庵の柱に掛けておく。

【奥の細道への旅立ちの背景】

松尾芭蕉は下級武士の出身だったが主君に俳諧の道でその才能を認められた。しかしそれ

は長く続かなかった。主君が急死してしまい、新しい主君は全く俳諧に興味は無かった。芭蕉の武士としての出世は諦めざるを得なかった。 芭蕉は俳諧に精を出し、談林派(だんりんは)全盛の当時、芭蕉も江戸に出て活躍し頭角を現しトップクラスに上り詰めた。

しかし又、その談林派も人々から飽きられ人気が低落、井原西鶴は小説の世界に活路を見出していったが、芭蕉はあくまでも俳諧の道を進もうとする。努力の甲斐があり俳諧の世界で成功を得て、弟子が増え収入も増えるが、弟子の指導などに時間を取られて自分自身を磨く時間が無くなってしまう。 

40歳を過ぎてもう人生はそう長くは無いと感じれば感じるほど文学の世界に自分なりの俳諧を高めて歴史に残したい。生活を文学化する為には『旅』が一番良い。

しかも、死を覚悟するような俗世界から遠ざかるようなぎりぎりの環境での旅が良い。自分を極限の世界に置くことにより理想とする、本当の俳諧の世界が見えてくるに違いない。

その為には、北の最果て『東北地方』が良いと考えた。その昔いわば異国の地の様なその地

は、西行などが旅をし、しかも伝説や歌枕、風光明媚な地が沢山あり、万が一にも旅の途中で死んでも悔いは無い。むしろ誇りとなろう。

 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 

この句を詠んで、旅の途中で死のう。旅立ちを決心した時に浮かんできた句であった。

松尾芭蕉、46歳。同行者、河合曾良、41歳の時の弥生三月、芭蕉の心の旅が始まった。


http://senbonzakura.skr.jp/05hosomichi/13tokyo/003fukagawa/fukagawa.html 【深川辺り 深川芭蕉庵・採茶庵】 より

芭蕉は江戸に出てきて、初め日本橋の繁華街に住んで俳諧の力量を発揮し、「桃青」と

言う俳号を名乗っていました。水道工事などにも携わりながら過ごし、34歳で談林派の

俳諧宗匠(お師匠さん)としてプロの道に入った。言ってみればお金に余裕のある人達の道楽の世界。弟子たちの俳諧を採点したりして採点料を稼ぎ、熱心な門人がパトロンとなって世話を見て貰うことになる。当時の俳諧は、今の俳句とは違い「和歌(短歌)のパロディ版」の連歌なので、グループとなって人が集まり、毎日面白おかしく笑い合いながらやっていた。やがて、その談林派もネタ切れで人々に飽きられて来る。

段々そんな自分に疑問を持ち始め、「昭和枯れススキ」の文句『いいえ、世間に負けた~

♪』状態で郊外の寂れた場所に移住しようと、当時深川で魚の養殖をしていた門人の魚の

番小屋の一つを提供して貰い住む事にした。

植物の芭蕉(バナナの一種)を植えた事から『芭蕉庵』と呼ばれ、芭蕉自身も『芭蕉』と名乗るようになりました。ここで、滑稽さを売り物とする談林派から離れた芭蕉独自の作風を作り上げ始めます。 

一番最初の芭蕉庵は住んで二年後に火事で丸焼けになり、その後、弟子達によって再建

されました。ここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残した。

芭蕉没後、武家屋敷となり幕末から明治にかけ消失しますが偶然大正6年(1917)津波

襲来のあと芭蕉が愛好したと言われる石像の蛙が発見されここに芭蕉稲荷神社を建立、

大正10年に東京府により「芭蕉庵跡・芭蕉翁古池の跡」と認定された。

尚、この場所が狭隘なため、近くの場所に芭蕉記念館を建設した。

昭和56年に芭蕉記念館が完成。

記念館に有る『草の戸も住み替はる代ぞひなの家』の句碑。芭蕉庵を去るときの句。

住んでいた草庵も住み変わる時が来た。

今度は雛人形も飾る華やかな家になるだろう。 庭には芭蕉庵のミニチュア版が建立されて

います。

草庵脇に、『ふる池や・・・』の句碑 草庵の中に芭蕉像

平成7年に分館が稲荷神社の脇に芭蕉庵史跡展望庭園として開館しました。芭蕉像と、芭蕉庵史跡庭園から見た船出の想定地・(青い橋)清洲橋辺り。ここで、管理人が在住の「仙台」の名前が付いた堀が出て来ます。

地図の下手、東側に江戸時代仙台藩の倉庫があり、コメなどの特産物を運ぶ運河として掘削された。

仙台堀の「採茶庵」で旅の準備をして、仙台藩内まで北上したのは、何かご縁があるような

感じがしますね。

芭蕉庵を売却し、「奥の細道紀行」の準備のため清州公園の近くにある「採茶庵(さいとあん)」に移り住んだ。

芭蕉と曾良の二人と、見送りの同人たちが採茶庵を出て多分青い橋・清洲橋の辺りから船に

乗り、千住に向かった。

「採茶庵(さいとあん)」のレプリカ  芭蕉像


http://senbonzakura.skr.jp/05hosomichi/13tokyo/004senju/senju01.htm 【出立の地(矢立初の地) 千住】 より
1689年3月27日(新暦5月16日)千住から奥の細道への長い旅路が始まりました。

弥生(3月)も末の27日、あけぼのの空はおぼろに霞み有明の月(明け方の月)で光が薄らいでいるとは言え、富士山が霞んで見え、上野や谷中には桜の梢が見える。それらを又いつ帰って見られるのか…、心細く思える。親しい者たちは前の晩から集まって、今朝はともに舟に乗り見送ってくれる。

千住と言うところで船を下りると、ここから先3000里も有るかと思うとその思いで胸がいっぱいになり、どうせこの世は夢幻のように儚い世界だとしても、そうは分っていても旅立ちにあたっては別れの涙を流すのである。

行く春や鳥啼き魚の目は涙  ( いくはるや とりなき うおのめはなみだ )

(春が去ろうとしている。そして我々も旅立とうとしている。その心細さに、鳥の鳴声が泣いている様に聞こえ、魚の目には涙が浮かんでいる様に思えるよ)    

この句を旅の最初の句として、旅の第一歩を踏み出したがなかなか思うように足が進まない。人々は道の途中に立ち並んで、後姿が消えるまでといつまでも別れを惜しんで見送ってくれるのである。

中央卸売市場足立市場前の『千住宿 奥の細道プチテラス』。

平成16年(2004)12月12日(日)奥の細道 矢立初の芭蕉像 落成式(松尾芭蕉生誕360年記念事業)が行われました。

江戸から、東北地方に向かう日光街道の支えとなるのが千住大橋。当時、川に橋の有るかどうかが街道の重要なポイントとなりました。

深川から舟で隅田川を遡り、千住で舟を降りていよいよみちのくへの旅立ちです。

橋の北側・橋の下にちょっとした広場があって、壁面に関連の記事や絵が描かれています。

橋の袂に広場・大橋公園が有ります。ここに、松尾芭蕉・曾良の「奥の細道」紀行出発にあたり、初めの一句を詠んだところ(=矢立初めの地)の記念碑が建っています。

また、矢立ての初句、『 行く春や鳥啼き魚の目は涙  』の石碑が有ります。 

ところで、実際には別な句が詠まれたようで、『おくのほそ道』の仕上げの段階でこの句になったようです。

結びの地・大垣の句は『 蛤(はまぐり)のふたみにわかれて行く秋ぞ 』

つまり、『行く春や』と『行く秋ぞ』が対になっています。