立石寺と芭蕉

https://09270927.at.webry.info/201501/article_4.html  【立石寺と芭蕉(2)】より

 芭蕉の東下後の落着き先は、日本橋本舟町の名主卜尺方とされる。卜尺は、芭蕉が京都の北村季吟に学んでいるときに出会った同門の俳友とされる。 

 小林卜尺は草創(くさわけ)名主であった。当時の日本橋は幕府御用達の商人しか住めない徳川家の公務員住宅地であり、ぽっと出の地方出身者がいきなり住める場所ではなかった。芭蕉は水道工事や河川の専門家としてスカウトされたと見るのが妥当だ。当初は神田上水の浚渫工事が芭蕉の本職で、むしろ俳諧の方が余技であった。いきなり江戸で俳諧師として食えるわけがない。

 水道、河川は既に機密事項の公務であって、芭蕉は江戸に出て来た頃から既に表と裏の顔を持つことが宿命であったようだ。その日本橋で芭蕉は杉風や山口素堂と懇意になった。

 杉風は通称鯉屋市兵衛という幕府御用達の魚問屋であるが、幕府の民間の諜報機関であったようだ。杉風は芭蕉の生涯にわたる庇護者となる。

 素堂(山口信章)は甲州生まれの才人で、本業は河川工事官である。芭蕉より2歳年上で、江戸で漢学を学び、京都で季吟門下となり和歌、書道を学んだ。生涯にわたって芭蕉との縁が深く、故郷笛吹川の堤防工事を監督したことで知られる。有名な「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句は素堂の句である。

 1674年(延宝2年)、芭蕉31歳の時、北村季吟から連歌俳諧の秘伝書「埋木」の伝授を受ける。

 1675年(延宝3年)、芭蕉32歳、東下中の西山宗因を歓迎する画(大徳院の住職)邸興行百韻俳諧に一座。連衆は、宗因、画、高野幽山(松江重頼門弟)、桃青(芭蕉)、山口信章(素堂)、木也、久津見吟市、少才、小西似春、又吟。この百韻俳諧で初めて芭蕉は「桃青」と号す。

 1676年(延宝4年)、芭蕉33歳の時、一度伊賀上野に帰り、甥の桃印を連れてきた。藤堂藩は藩を出国後5年に一度帰国する制約を設けていて、これを犯すと重罪であった。しかし、芭蕉が帰国したのは、その制約のためだけではなく、甥の桃印に水道工事の雑務を手伝わせるという狙いがあったのであろう。芭蕉が大志を抱いて江戸に出て来たのは、何も水道工事の監督になるためではない。俳諧に専念する時間を増やしたかったのであろう。

 北村季吟編「続連珠」に発句6句、付句4句入集。作者名として松尾宗房・桃青の2つの号が記される。

 日本橋界隈には芭蕉より一足早く幽山、以春などが住み込み文化サロンを形成していた。芭蕉は桃青という俳号でそのサロンに加わった。伊勢出身の幽山の執筆(書記役)をつとめ、連句の複雑な約束事やテクニックを学んだことが、後の宗匠として場を取り仕切るのに役だった。

 こうして俳諧修行をしながら、4年以上神田上水の浚渫工事に関わりお金を貯めた桃青(芭蕉)は、35歳のとき万句興行を行った。その為には江戸談林の野口在色の協力がいる。有力者に金を配らなければいけなかった。立机するにはそれ相応のお金がいる。

 俳諧師として立った桃青(芭蕉)は、流行にも乗り弟子に恵まれた。37歳の1680年(延宝8年)の春には、『桃青門弟独吟二十歌仙』刊行。杉風、卜尺、嵐亭(嵐雪)、螺舎(其角)嵐蘭ら総勢21名が名を連ねる。このころ、芭蕉は江戸俳壇で確固たる地位を築きつつあった。

 この中で注目するのは、其角と嵐雪であろう。特に其角は16歳前後で芭蕉に入門し、最後まで一番弟子として天才の名をほしいままにした。後年の芭蕉とは正反対で、豪放磊落、反骨の人で贅を尽くした生活をして酒の飲み過ぎで47歳で没した。

 芭蕉は其角を非難したが、何よりもその才能を高く評価した。自らも常に進化し続ける求道の人であった芭蕉にとって、其角は弟子であり最大のライバルであった。

 其角も超えたと思った師匠が、しばらくすると違う魔球を投げ込むので、常に気になる存在で師匠を認めていた。

 芭蕉は弟子を育てるが、その才能が古く陳腐になるとあっさり捨てるようなところがある。常に進化し続ける自分に付いて来られない弟子は、置き去りにされる。それは宗匠としては失格であるが、芭蕉は何よりも自分が一線の現役であることに拘る。

 スポーツ選手は結果が全てだ。過去の栄光で勝負はできない。一郎でさえ3割を切ればレギュラーを外されることがある。それと同じようなところが俳諧の世界にもある。俳諧の世界では作品(句)が全てだ。芭蕉先生も焼きが回ったと言われれば終わりである。流行の先端をいく人気稼業の俳諧の世界は常に勝ち抜きレースの勝負の世界だ。

 サッカー選手に三浦知良がいる。キングカズの愛称で親しまれる。現在47歳の彼は、プロフェッショナルリーグで実働する日本の最年長プロサッカー選手である。カズはJ2に舞台を移してでも現役に拘る。後輩の北澤や中山などがスポーツコメンテーターとして活躍する中でも、カズは現役に拘る。彼くらいの実績があればいくらでも指導者としての道が開かれている。しかし、今でもサッカーが好きで好きで上手くなりたいという少年のような気持ちを持っているという。カズと一郎はお互いに認め合う仲だという。

 芭蕉は枯淡な求道者などではなく、カズのように少年の心を持って、いくつになってももっと俳諧が上手くなりたいという情熱を持っていた人ではなかったかと考える。

 芭蕉は「おくの細道」の旅で、「不易流行」の理念に辿り着く。しかし、それを正確に理解できる弟子はいない。芭蕉にとって不易と流行は矛盾するものではない。“不易”がなければ残らない。しかし、“流行”に乗り今の時代に粋でなければ、単なる禅語のようになり句としての生命力に欠ける。芭蕉にとって“不易”と“流行”が両立することが課題なのである。その“流行”の部分を具現しているのが其角の句であったかもしれない。

 芭蕉の説明は禅問答のようになり、理解できない。弟子たちは勝手に解釈する。しかし、悟ってしまえば俳諧は終わってしまうことを一番知っているのは芭蕉だ。俳諧は常に巷に浮き沈みしながら流れるものだ。

 まだ、「不易流行」は、『おくの細道』という具体例があるので、何となく分かる。しかし、芭蕉が晩年に打ち出した「軽み」の理念は理解できない弟子が多く、それが古参の弟子の離反に繋がった。芭蕉は築き上げたものを卒業して次のステージに上がってしまう。そして築き上げたものを過去のものとしてふり返らない。弟子たちはやっと習得した財産を否定されることになり、居たたまれない。やっと辿り着いた場所に師匠はもういない。芭蕉が築き上げたものに魅了されて入門した弟子にとっては、それは裏切り行為だ。古くからの弟子たちは、芭蕉の元で培った古き良きものを守りたいと考える。芭蕉が弟子を捨てたのではなく、芭蕉が弟子に見捨てられたのである。

 芭蕉は亡くなる前に、弟子の去来の故郷である長崎への旅に意欲を持っていた。長崎への旅が実現して、その紀行句集でも出来ていたら、「軽み」を理解する助けになったのではないかと惜しまれる。

 芭蕉と其角はお互いに認め合いながら反発し合った。二人の関係は端から見れば奇妙であったのだろうが、二人にしか分からない距離感があったのであろう。天才のことを本当に分かるのは天才なのかもしれない。芭蕉が提唱した「不易流行」も「軽み」も本当に理解していたのは其角だけだったかもしれない。

  1680年(延宝8年)、37歳で新進気鋭の俳諧宗匠として江戸俳壇で確固たる地位を築きつつあった芭蕉に、また不幸が訪れた。

 春に「桃青門弟独吟二十歌仙」刊行して、これからという年(1680年)の冬に、日本橋から杉風所有の深川の草庵に居を移した。

 これは俳諧師にとっては自殺行為だ。日本橋には大店が多く、パトロンとなる旦那衆が多い。俳諧は新興都市町人中心の知的な余芸である。俳諧の席は日本橋界隈でなければやっていけない。

 これは桃青(芭蕉)が、市中の喧噪と俳諧師生活の俗習に耐えかねて隠棲したと言われることがあるが、それは考えられない。これは深川へ移らなければならない複雑な事情があったのであろう。その複雑な事情が芭蕉自身のものなのか、強制されたものなのかは分からない。

 明らかに芭蕉には表と裏の顔がある。表の顔は句として残り後世に伝えられたので、ある程度理解できるが、裏の顔は歴史の闇の中に消えてしまったので推測するしかない。

 深川の芭蕉庵の場所は、其角の「芭蕉翁終焉記」に草庵の位置は第二次芭蕉庵と同じ所とあるので、その位置を記した「知足斎日々記」の貞享2年4月9日の条から「江戸深川元番所 森田惣左衛門御屋敷」であることが知られる。

 入庵して間もない頃の句に、

「 柴の戸に茶をこの葉掻くあらし哉 」 がある。

 そしてこの頃から俳号として「芭蕉」を使うようになる。芭蕉という俳号にも多くの隠しコードがあるが、ここでは語らない。

 芭蕉は、この頃から頭を丸め僧形になったようだ。しかし、得度したわけではない。

 入庵して間もないころから、当時深川大工町臨川庵に滞在していた仏頂禅師のもとへの参禅がはじまったようだ。明らかに、心境の変化がある。それは、あこがれの西行法師に倣ったなどということで考えられる問題ではない。確かに後に『幻住庵記』で、

「 ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、…… 」 と書いているが、本気で僧になろうとしたわけではない。おそらく隠棲したように見せる必要があったのであろう。

 事情はともあれ、芭蕉は落胆し沈んだ。そして無常を考えるようにもなったのかも知れない。しかし、この時期(第一次芭蕉庵・第二次芭蕉庵)の経験が、その後の芭蕉の句に枯淡の趣を与えるようになったのは確かであろう。

 俳諧師の夢を諦めることは芭蕉にとって死を意味する。そして俳諧師であるには俗に交わっていなければならない。芭蕉は基本的には人が好きで一人では生きていけないタイプだと考える。芭蕉の旅は全て随伴者がいる。それには事情があったのではあろうが、基本的に旅に出る人は孤独を求めて旅に出るわけではない。それは出会いを求めてである。人との出会い、自然との出会い、土地が醸し出す歴史との出会い、過去との出会い、未来との出会い、いろいろな出会いが待っている。私は一人で旅をするようになってから、何となく分かってきた。そして旅は帰るところがあるから旅であり、帰るところを失った者は旅人ではなく、たださすらうだけの漂流者になる。芭蕉にとってのホームは伊賀上野であり琵琶湖南岸である。江戸は江戸稼ぎの場所であり、ホームではなかった。

 私は芭蕉の心底には、19歳の時から数年、蝉吟らと歌仙を巻いた楽しい記憶があり、それが俳諧への情熱を支えている原点だと感じる。そしてその情熱は芭蕉のなかで“不滅の法灯”のように燃え続けていたと考える。芭蕉にとって俳諧に精進することは、亡き主人・蝉吟への弔いでもあったと考える。僅か25歳で亡くなり、好きな俳諧の道を閉ざされた蝉吟。芭蕉はその蝉吟の夢や無念さも背負っていた。芭蕉には常に蝉吟の分まで頑張らねばならないという思いがあったと考える。今となっては芭蕉と蝉吟を繋ぐものは俳諧しかなかった。

先ほど日本橋から深川へ移ったのは俳諧師にとっては自殺行為だと書いたが、事実、門弟のほとんどが去っていき、わずかに会いに来たのは其角、杉風、嵐雪あたりになったようだ。杉風は幕府の民間諜報員、其角の父竹下東順は近江本多家藩医で諜報機関、服部嵐雪の服部家は伊賀忍者の家系で、芭蕉のもとに集まってくるのは怪しい人物ばかりである。それに、芭蕉の甥と言われる桃印が、藤堂藩の5年に一度帰国するという制約を破り、その後一度も帰国しなくなるのも不思議だ。

 政界での変化はこの年(1680年)の7月に、綱吉が5代将軍になったことだ。5月に4代将軍家綱が没した後、一悶着あった。大老酒井忠清が京都より有栖川宮幸仁親王を将軍として迎えようとしたのだ。まるで鎌倉幕府の執権北条氏のやり口だ。

 4代将軍家綱は“そうせい様”と呼ばれた。それは大老酒井忠清の言うことに何でも「そうせい」と言ったからだそうだ。そのためか大老酒井忠清は下馬将軍とも呼ばれた。忠清は将軍職を鎌倉幕府の将軍職のように名ばかりのものにしようとしたのであろう。

 下馬将軍の大老酒井忠清に対して筋違いだと非難したのは、前年老中になったばかりの堀田正俊だった。正俊は館林にいた綱吉を推した。将軍になった綱吉は酒井大老の職を解き、閉門とした。翌年の5月酒井忠清は失意のうちに死んだ。

 藤堂家に近い芭蕉は日本橋に居にくい状況があったのかもしれない。また、芭蕉が移った深川の小名木川河口の庵の南側には伊達家の蔵屋敷があり、米を運ぶ千石船の様子がつぶさに観察できたという。また、延宝・元禄の俳諧師は俳句だけで喰っていける者は少なく、他の生業を持っていることが多かったという。立机したばかりの芭蕉、しかも深川へ移った芭蕉は俳諧師以外の仕事をしていたのであろうか。そしてそれが芭蕉の裏の顔なのだろうか。

 1681年(天和元年)芭蕉38歳。

 伊藤信徳が刊行した八吟「七百五十韻」に呼応する四吟二百五十韻「俳諧次韻」を刊行。連衆は、芭蕉、其角、揚水、才丸。鈴木清風の初撰集「おくれ双六」にも句を寄せる。

 1682年(天和2年)芭蕉39歳。

 茅屋子編「俳諧関相撲」刊行。これは京都、大坂、江戸の三都で名立たる名匠6人ずつ、計18人を選んで各々の評点ぶりを紹介するもので、江戸では、芭蕉、調和、幽山、露言、言水、才丸(西鶴の弟子)が選ばれる。望月千春編「武蔵曲(むさしぶり)」に発句6句入集。

 江戸の名匠6人に選ばれたものの、深川へ移ってからの2年間は芭蕉は低迷した。そして、年も押し迫った1682年12月28日、天和の大火(八百屋お七の火事)で芭蕉は焼き出された。

 駒込の大円寺からあがった火の手は、強い北風にあおられ、大名75家、旗本166家、神社47社、寺院48宇を焼き尽し、千人を超す焼死者を出した後、翌朝卯の下刻(6時ごろ)ようやく鎮火したという。其角の「芭蕉翁終焉記」に、大火の様子などについて「深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかづきて、煙のうちに生きのびけん、これぞ玉の緒のはかなき初めなり」とある。

 1683年(天和3年)芭蕉40歳。

 焼き出された芭蕉は、秋元藩家老・高山伝右衛門繁文(麋塒)の招きで甲斐の谷村に逗留。

 私は初めての車中泊の旅で谷村を訪れた。町には立派な用水が流れていたのを思い出した。今考えると、私は既に初めての車中泊の旅で芭蕉に出会っていたのである。

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 果たして、芭蕉は復活できるか。

 1683年5月に江戸に帰った芭蕉を待っていたのは、其角編『虚栗』(みなしぐり)であった。『虚栗』は23歳の其角の名を一気に高めた。『虚栗』は漢詩漢文調を主とした天和期蕉門を代表した撰集だ。芭蕉を筆頭に才丸、嵐蘭、嵐雪、西山宗因、素堂などそうそうたるメンバーが名を連ねる。其角は句も上手いが編集戦略にも長けていてその才能は高く評価される。

 芭蕉は『虚栗』の跋文を書いて、

「 其ノ語振動虚実をわかたず、宝の鼎(かなえ)に句を煉て、竜の泉に文字を冶(きた)ふ。是必他のたからにあらず、汝が宝にして後の盗人を待テ。 」と褒め称えた。

 要するに、“其角の言葉づかいは虚にして実、実にして虚と多様に変化し、名剣を洗うように言葉を洗ってとぎすましている。今後、この宝のような書から多くのことを盗む者が現れることを望む”というような意味であろうか。

 愛弟子の撰集への推薦文であるが、褒めすぎかもしれない。其角はこの『虚栗』において、芭蕉を挑発し師の復活を狙ったのであろう。私は其角流のエールであったと思う。

 其角は自他共に認める芭蕉の一番弟子である。そして深川へ隠棲する前のバリバリの野心家である芭蕉の分身でもあるように感じる。芭蕉は其角を非難しても其角を捨てきれない。それは自分の右腕を切り落とすようなことであるからだ。其角も師から離反しようとするが、自分の中に芭蕉を見る。芭蕉は本来反骨の人である。そしてその部分を一番体現している弟子が其角であろう。

 

 私はまだ芭蕉については半可通であるが、現時点で芭蕉の分身である弟子を3人見つけた。それは単なる私の思い込みであるのだが、その3人を挙げておく。一人は何と言っても其角である。後の二人は路通と丈草である。そして分身ではないが芭蕉のコアには常に俳諧の兄・蝉吟がいる。

 其角編『虚栗』が刊行された直後、6月20日、郷里では芭蕉の母が亡くなった。

 9月には旧友の素堂が「芭蕉庵再建勧化簿」の文を書き、杉風、其角らがこれを持ち廻って、総勢52名の寄進者を得て、第二次芭蕉庵ができた。

 その「芭蕉庵再建勧化簿」の文の中に、

 “翁みづからいふ唯貧なりと” とある。翁とは芭蕉のことである。40歳で翁と呼ばれるということから、江戸時代の寿命の短さが分かる。40歳で翁であるなら、差詰め私などは老翁であろう。

 「芭蕉庵再建勧化簿」の文を書いた素堂は75歳まで生きた。古稀(70歳)は、杜甫の「人生七十古来稀なり」から来ているが、芭蕉が51歳で亡くなったのは決して早くはないのだろう。しかし、芭蕉がおくの細道を旅したのは46歳であることを考えれば、もっと長生きしてもよかったように思う。

 死因は明らかではないが胃癌説がある。しかし、死期を早めたのは、死の前の1ヶ月間の心労と過労であろう。風邪をこじらせ体調が悪い中、弟子の争いの仲裁に伊賀上野から大阪に出掛け、9月9日に大阪に着いてからは、健康な人でも参ってしまうような過密スケジュールであった。弟子たちは何故止めなかったのだろう。弟子たちも我が儘であった。

 1684年(貞享元年)、芭蕉41歳。

 2月15日に其角(24歳)は、京都への旅に出た。この日は西行の命日で、この日を選んで“西に行く”とは其角らしい。

 其角はこの旅で去来と親しくなり、去来は2年後に芭蕉に入門する。芭蕉が嫌う西鶴にも会って昵懇になった。其角はすでに芭蕉がコントロールできる弟子ではなくなっている。

 一方、芭蕉は其角から半年遅れた8月に、前年に亡くなった母の墓参を兼ねて、門人千里とともに「野ざらし紀行」の旅に出る。

 旅の途中、名古屋蕉門と歌仙を巻いて、翌年の初めには荷兮編の『冬の日』が刊行された。

 『冬の日』とあるように、名古屋に於いて11月以降に5回ほどの歌仙を巻いたことが分かる。ここで後に衆道関係になる杜国と出会う。

 「野ざらし紀行」の旅は、東海道から、伊勢、伊賀上野、当麻、吉野山、大垣、桑名、熱田、名古屋、伊賀上野(越年)、奈良、京都、大津、水口、鳴海 と旅し、木曽路から甲州路に入り、1685年(貞享2年)4月末、江戸に戻る。大垣では木因を訪ねた。この旅の最中に越人が入門。

 この頃の政界の動きは、犬公方と呼ばれた5代将軍綱吉の時代であるから、「生類憐れみの令」が出て、異常な時代であった。綱吉は自分を将軍に擁立した堀田正俊の功に報いて、没収した酒井邸を与え、さらに大老職を与え13万石とした。堀田正俊は三河武士である。しかし、正俊は1684年(貞享元年)に殿中で斬殺された。ちょうど芭蕉が「野ざらし紀行」の旅に出た年である。正俊斬殺の陰には御用人柳沢吉保がいたという。其角や芭蕉が隠密であれば、旅はこの政界の動きによる影響等の情報収集であった可能性もある。芭蕉は旅の空からも、スポンサーの杉風などによく手紙を出している。そこには旅先で作った句などが書かれることがあるが、句の中に何らかのメーセージが隠されていたことは十分に考えられる。杉風は幕府の民間諜報員である。芭蕉の旅にはいつも随伴者がいることも注目される。

 1685年(貞享2年)、芭蕉42歳。

 4月に「野ざらし紀行」の旅から、江戸に帰る。旅は芭蕉を元気にする。深川隠棲以来の低迷から脱出して、次のステージに上がる準備が整った。

 6月2日には江戸小石川で、鈴木清風歓迎の七吟百韻「古式百韻」を興行。連衆は、清風、芭蕉、嵐雪、其角、才麿、コ斎、素堂。

 この頃、曽良が芭蕉の門弟となり、芭蕉庵近くに住む。曽良こと岩波庄右衛門は幕府秘密調査官である。

 1686年(貞享3年)、芭蕉43歳。

 春に芭蕉庵で蛙の二十番句合を興行。芭蕉の他、素堂、李下、去来(京から文音で参加)、嵐雪、宗波、杉風、曽良、其角など全40名が参加。

 ここで、「古池や蛙飛び込む水のおと」を発表。『蛙合』は仙化の編集で西村梅風軒より板行された。この小冊子により、芭蕉の名は全国に知れ渡り不動の地位を確立した。芭蕉完全復活である。

 この句に関しては語りたいことが多いが別の機会に回す。ただ、芭蕉没後、俳諧が低迷して久しい天保期(1830~1844)にも、「古池やその後とびこむ蛙なし」と川柳にからかわれる程この句は有名で、今でもこの句を超える知名度のある句が出ていないことを書き添えておく。

 3月20日には、江戸小石川で七吟歌仙を興行。連衆は、芭蕉、清風、挙白、曽良、コ斎、其角、嵐雪。

 8月下旬には名古屋蕉門から、荷兮編『春の日』刊行。ここにも「古池や蛙飛び込む水の音」が収録される。こうして元禄期に蕉門が俳壇を席巻する基礎が作られていく。

 1687年(貞享4年)、芭蕉44歳。

 8月中旬、月見と鹿島神宮参詣を兼ねて、曽良と宗波を伴い鹿島へ旅立つ。8月下旬には『鹿島紀行(鹿島詣)』が成立。

 10月下旬、「笈の小文」の旅に出る。江戸の芭蕉庵から、鳴海、豊橋、渥美半島、伊良湖崎、熱田神宮、伊賀上野(越年)、伊勢、吉野、高野山、和歌浦、奈良、大阪と巡り、1688年(貞享5年)4月20日、須磨、明石を訪れ、須磨に一宿したところまでの紀行が『笈の小文』としてまとめられている。

 『笈の小文』は、この旅の草稿をもとにして、大津蕉門の川井乙州(おとくに)が編集したもの。この旅の伊良湖崎以降は、流人の杜国を伴っての旅になる。これがお上に知れたら重罪である。当然、『笈の小文』は芭蕉の生前には発表されず、芭蕉没後の刊行になる。(芭蕉没後15年の宝永6年に刊行)

 芭蕉編集の有名な『おくの細道』(曽良随伴)も、刊行されたのは芭蕉の没後である。芭蕉には裏の顔があるようで、生前には発表できない理由があったのは事実である。

 『笈の小文』には、“西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫道するものは一つなり。”と書いた部分があるように、芭蕉の揺るぎない自信が窺える。芭蕉は絶好調で恐いもの知らずである。

 1688年(元禄元年)、芭蕉45歳。

 8月、仲秋の名月を見るため、弟子の越人(えつじん)とともに岐阜から信濃国の更科へ旅立つ。木曽路を上って更科の姨捨山へ行く。古来、更科から鏡台山や姨捨山にかかる月を見るのが風流とされており、多くの旅人が当地を訪れている。観月の後、長野から浅間山の麓を通って江戸に戻った。この旅の紀行は『更科紀行』としてまとめられた。

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 初夏に凡兆入門。後の『猿簑』の編者になる凡兆と去来はいずれも其角がスカウトした門人だ。天才其角は人を見る目も確かだ。其角は芭蕉の高弟の中でも別格である。

 1689年(元禄2年)、芭蕉46歳。

 春、荷兮編『あら野(阿羅野)』が、京の井筒屋から刊行。名古屋蕉門の中心人物である荷兮は“芭蕉七部集”と言われるもののうち、『冬の日』『春の日』『あら野(阿羅野)』の3部を刊行している。しかし、荷兮(かけい)は芭蕉が晩年提唱した「軽み」に付いて行けず蕉門を離反する。

 ついに、3月27日、曽良同道で「おくのほそ道」の旅に出立。伊達藩の動向を探るのも目的の一つだという説あり。

 そして、元禄2年(1689年)5月27日(新暦7月13日)に、ここ山寺にやって来た。

 芭蕉と曽良は5月13日の平泉の旅から、出羽越えをして17日には鈴木清風のいる尾花沢に着いた。清風は尾花沢の豪商で江戸で何回も歌仙を巻いた旧知の仲である。尾花沢には10日間逗留している。当初、尾花沢から直接大石田に行く予定であったが、逗留中に清風から山寺の参詣を強く勧められ、山寺へやってきた。

 私は当然山寺は芭蕉の観光コースに入っていたと思っていたが意外であった。

 ここで鈴木清風について記しておく。 

 清風(1651~1712)は通称八右衛門(三代目)と言い、清風は俳号だ。71歳で没したというので、この時代では長命であった。幕藩体制が進む中、出羽国の産業経済も進展した。特に河村瑞賢により西回り航路が整備されると北前船交易の隆盛もあり、最上川河口の酒田は港町として大いに栄えた。

 河村瑞賢は幕命で1672年(寛文12年)に酒田を訪れ、最上川流域各地の天領から川舟で運んだ米を積みかえるために、ここに倉を建てた。それまで敦賀・小浜止まりだった海運は大坂・江戸まで直航できるようになり、港町酒田が栄えるきっかけになった。

 酒田本間家などは大地主に成長し大名貸しになり、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」という歌も詠まれるほどの栄華を誇った。酒田本間氏は佐渡本間氏の分家だという。

 漆・青苧(あおそ)・紅花などの特産品も最上川舟運により盛んに運ばれた。特に紅花は“最上の紅花”として全国的に有名で、“紅花大尽”として有名な尾花沢の鈴木清風のような豪商も出現した。尾花沢や大石田は最上川船運の中継基地として栄えた。

 清風は61歳のとき長男の四代目八右衛門あてに遺言を書いている。そこには、公儀を第一に大切にすること、運上沙汰は取り組まないこと、荷物を無税で関所を通さないこと、禁制品は商売しないこと、新田開発は願い出ないこと、鉱山および材木山経営は行わないこと、一村徒党の場合は村の重立や百姓の多数派に印判することの7ヶ条などが書いてある。このような家訓は幕府から目をつけられないための処世術である。このような処世術を清風はどこで身につけたのであろう。

 この遺言と清風にまつわるエピソードにはかなりの開きがある。清風のエピソードには、1702年(元禄15年)江戸の問屋が清風の紅花荷物をボイコットしたとき、品川河岸で紅花を焼き捨て市場の“紅花大尽”となった話、江戸吉原の三浦屋高尾のことで仙台藩主と恋のさやあてをしたという話、更に江戸吉原の大門を三日三夜閉じて遊女全員に休養を与えたという話などがある。いずれも士農工商の下位に位置づけられた商人として、人間の本能を肯定し、武士により卑しめられていた営利活動を認め、財力により何事も成し遂げられる商人の自信を代弁している話だ。

 冒険や一攫千金を戒める清風の遺言は、このようなエピソードとは対照的である。元禄時代は幕府や藩の財政が厳しくなり、節約が叫ばれるようになる中、越後屋や紀伊国屋などの豪商が台頭した時代でもある。芭蕉の弟子には藩士もいるが、豪商や医師が多い。

 芭蕉や其角はこのような豪商との付き合いがあり、表の顔は反骨で反体制であるように見え、裏ではお上に繋がっているような奇妙な事情が見え隠れする。

 芭蕉の「おくの細道」の旅は、8月21日の大垣着で終わる。その後、芭蕉は江戸に戻らず、伊賀上野、大津、京都周辺で2年以上過ごす。江戸に帰るのは「おくの細道」の旅に出てから、2年8ヶ月ぶりの1691年(元禄4年・芭蕉48歳)10月の末である。それも桃隣(芭蕉の甥とも従兄弟とも)にせがまれ渋々の東下であったようだ。

 芭蕉は「おくの細道」の旅に出る前に庵を売り払っている。江戸に帰るつもりはなかったようだ。芭蕉が留守の間に江戸の俳壇は肥大したが、俳諧賭博なるものも横行し、芭蕉にとって許容の範囲を超えていた。そしてその江戸俳壇のトップに君臨していたのは芭蕉の一番弟子の其角と嵐雪であった。芭蕉は其角を裏では非難したが、依然としてその才は認めていた。江戸においては其角の人気は芭蕉を遥かに上まわっていて、芭蕉は過去の人になりつつあった。しかし、其角は蕉門から離脱したわけではない。また、芭蕉の高弟である嵐雪も雪門を形成しつつあったが、蕉門から離脱したわけでもない。

 其角や嵐雪の人気が高まれば高まるほど、その師である芭蕉の評価も上がるというジレンマを抱える中、芭蕉は「不易流行」から「軽み」に軸足をシフトしていく。そこには、其角の影響があったであろう。芭蕉と其角は光と影の関係にあり、其角は芭蕉の分身でもある。しかも、芭蕉が光で其角が影であるばかりでなく、其角が光で芭蕉が影となる場合もあり、二人は表裏一体であった。そして師弟の関係を超えた永遠のライバルでもあった。私は芭蕉が訳あり深川へ隠棲するまでは、信条に於いて芭蕉と其角は俳諧の兄と弟、双子のような関係であったと感じる。

 其角は既に『虚栗』において、

 「 詩商人(あきんど) 年を貪る 酒債(さかて)かな 」 と詠み、自分を詩商人と自嘲している。そして、芭蕉もそれを否定しない。芭蕉は亡くなる1ヶ月余り前、「 俳諧師は乞食行脚の身であることを忘れてはならぬ 」と言っている。

 其角は吉原などに豪遊し、遊興の生活を送り、御政道批判とも受け取られる句も詠み、反骨を装った。芭蕉は政治色のある句を詠むのを避け風雅を求め、幕府の勧める倹約の生活を送り、一見清貧に甘んじた。しかし、芭蕉はどこへ行っても弟子たちの厚遇を受けて決して乞食行脚ではなかった。

 1690年(元禄3年)、芭蕉47歳。

 前年、「おくの細道」の旅から帰った芭蕉は、伊賀上野や大津・京都で過ごす。前年に入門した洒堂(珍碩)が、早くも洒堂編「ひさご」を京の井筒屋から刊行。この年に支考入門。

 「おくの細道」の旅で、「不易流行」の理念を得た芭蕉は、芭門ベストとも言っていい『猿蓑』の制作に入る。編者に起用したのは、去来と凡兆。去来は1686年入門、凡兆は1688年入門。共に其角がスカウトした人材だ。

 1691年(元禄4年)、芭蕉48歳。

 7月に去来・凡兆編、芭蕉監修『猿蓑』刊行。序文を其角が書き、跋文には入門まもない丈草が抜擢された。刊行されるやたちまち大ヒット蕉門の地位を不動のものにした。

 『猿蓑』に入集した発句の部は108人である。除夜の鐘は108つの煩悩を撞く。ある意味で、ここに選ばれた108人が芭蕉が認定した門人である。更に言うと108人の内71人までは一句のみの入集である。残りの37人が芭蕉から実力を認められた門人であろう。

 芭蕉は去来と凡兆を編者に配して、新旧のバランスをとったが、結果として凡兆の名声が高まった。編者の特権とも言えるが、『猿蓑』には凡兆の発句が41入集し、これは芭蕉の40句、去来、其角の25句を上まわる。芭蕉には編者の特権だけで入集させるような甘さはない。確かにこの時の凡兆の句には冴えがあった。

 凡兆は1688年入門だが、「おくの細道」の旅から帰った芭蕉に足繁く通ってめきめき実力をつけた。凡兆は芭蕉より3~4歳年上である。『猿蓑』の編集で功なった凡兆は慢心して、後に蕉門を離反する。火種は既に『猿蓑』の編集中からあったようだ。『猿蓑』の刊行後、芭蕉の興味関心は既に凡兆から洒堂に移っていたようだ。『猿蓑』編集中に既に洒堂編『ひさご』が出ている。芭蕉は才を育てるのが上手いが、新しい才能に飛びつくことも容易である。それは子供が古い玩具を捨てて、新しい玩具に飛びつくようでもある。芭蕉は自ら言うように風狂の人であり、聖人君主ではない。この気むずかしい師に真に認められるには、其角のように師の永遠のライバルになるか、師にとことん尽くすしかないようだ。

 凡兆は知人の犯罪に連座し1693年(元禄6年)には入牢している。芭蕉の弟子にはいかがわしい人物も多く、俳諧そのものがそのような俗の中で成立していたのであろう。

 『猿蓑』の刊行が成った年(1691年)の9月末、芭蕉は桃隣(芭蕉の甥とも従兄弟とも)と共に江戸に立つことになる。

 決定版蕉門傑作集とも言える『猿蓑』については語っておかなければいけないことがいくつかあるが、後に述べるとして、芭蕉の略年表を続ける。

 1692年(元禄5年)、芭蕉49歳。

 前年の10月末に2年8ヶ月ぶりに江戸に戻った芭蕉は、しばらく仮住まいであったが、1692年(元禄5年)の5月には杉風と枳風の出資、曽良と岱水の設計により、旧庵の近くに第三次芭蕉庵が新築された。この庵は、元禄7年(1694年)5月11日に江戸を離れるまでの丸2年間の住まいとなった。

 「草庵に桃・桜あり。門人に其角・嵐雪あり」と前書きして、

 「 両の手に桃と桜や草の餅 」と吟じた。

ここで、私の好きな其角と嵐雪の有名な句を1句ずつ紹介する。

「 夕すずみよくぞ男に生まれける 」 其角

 「 梅一輪一りんほどのあたたかさ 」 嵐雪

 其角の句には難解なものが多いが、これは簡潔だ。上半身裸になって夕涼みするのは男の特権である。

 結婚してマンションに住んでいた頃、妻に、見えないようでも飛沫が外に飛ぶので小便も便座に座ってやるように言われた。勿論、断った。

 「 立ちしょんべんよくぞ男に生まれける 」 立ってこそ男というものだ。そして男を立ててくれる女こそ、いい女である。今は二階のトイレを私が使うので問題はない。

 8月には許六が入門。大津蕉門の洒堂が来庵して、越年。洒堂は翌年の1月まで居て『俳諧深川』を編んだ。

『おくの細道』を清書する能書家の素竜が初めて来庵する。

 1693年(元禄6年)、芭蕉50歳。

 3月、甥の桃印、芭蕉庵で亡くなる。洒堂が帰った後、芭蕉庵へ引き取ったようだ。薬代を工面するために借金もしたようだ。桃印は肺を病んでいたようだ。桃隣は俳諧師になっていたが、桃印は一句も詠んでいない。

 7月から8月にかけて約1ヶ月間、庵にこもり面会を絶つ。「閉関之説」を書く。この間に『奥の細道』を仕上げたようだ。

 8月27日、弟子の嵐蘭47歳で没。8月29日、其角の父・東順72歳で没。「閉関之説」まで書いて閉関したが、葬儀への出席などもあり、閉関は約1ヶ月間で終わったようだ。

 この年、西鶴が52歳で没する。凡兆は知人の犯罪に連座して入牢した。

 1694年(元禄7年)、芭蕉51歳。

 年明けより望郷の念募る。

 5月11日、帰郷のため寿貞の子二郎兵衛を伴い江戸を発つ。曽良、箱根まで同行する。懐には能書家素竜に清書させた『奥の細道』が入っていた。この紀行文は兄半左衛門への土産でもあった。28日には伊賀上野に着いた。

 『奥の細道』が井筒屋板本として出回ったのは、芭蕉没後8年経った元禄15年であった。それは兄半左衛門が没した翌年であった。兄にも迷惑がかかることが無くなった。

 旅行案内でもある紀行文はタイムリーさが必要なので、旅が終わって1年以内に刊行されるのが普通だが、幕府巡見使曽良同道の『奥の細道』は芭蕉の生前には刊行できるものではなかった。

 伊賀上野に帰ってからは、伊賀蕉門や大津蕉門、美濃蕉門の支考らと幾度か歌仙を巻く。

 6月、寿貞(芭蕉の妾と言われる)が、芭蕉庵で死去したことを知る。

そう言えば、三嶋大社に芭蕉の句碑があったのを思い出した。それは江戸に残してきた病床の妻「すて」の身を案じて詠んだ句であった。寿貞とは「すて」のことであろう。一介の俳諧師の妾が寿貞などという立派な名前を持つはずがない。後世、芭蕉が俳聖などと崇められるようになったので、「すて」も寿貞と呼ばれるようになったのであろう。

   ( 関連記事  旅317 三嶋大社(2) )

 前年の1693年(元禄6年)、芭蕉のライバル西鶴が52歳で亡くなった。西鶴は早々と俳諧を捨てて「好色もの」の散文作家に転じていたが、西鶴の弟子たちがいたので、芭蕉は本格的に大阪進出はしていなかった。芭蕉は西鶴が没したのをチャンスと考え、新エースの洒堂(27歳)を送り込んだ。しかし、それが大阪蕉門の之道の島を荒らす結果となった。芭蕉は之道(38歳前後)と洒堂が協力して大阪蕉門を発展させてくれると甘い計算をしていた。洒堂は前年の1月まで江戸の芭蕉庵に滞在し『俳諧深川』を編んだ才人で、芭蕉が最も期待していた弟子である。しかし、洒堂は大津蕉門でももめ事を起こした前科があり、大阪進出を託すのに適任であったかどうかは疑問である。凡兆が離反して入牢していなければ、凡兆が適任であったかもしれない。いずれにしてもオルガナイザーとしての芭蕉の失敗である。

 1694年(元禄7年)9月、芭蕉は体調がすぐれない中、之道と洒堂の仲裁のため大阪入りをしたが、仲裁は難航した。その心労が死期を早めた原因の一つであろう。9月末、芭蕉は倒れた。そして10月12日に亡くなった。享年51歳。

 

 葬儀は芭蕉の死の前日に駆けつけた一番弟子の其角が中心になって行われた。芭蕉の遺言通り、義仲寺に埋葬される。葬儀に参列した門人は80名、会葬者は300余名にのぼったという。

 今度、芭蕉関連の本を読んでいて、連句は難しくて理解が容易でないことが分かった。やたらと約束事が多く、鑑賞するにはかなりの古典知識と句作経験がなければ分からない。それは知的遊戯でもあり、正にオタクの文芸である。前後始末の句が絡み合い、歌仙は隠密同志の暗号座談会の様相を呈する。連衆だけが納得して悦に入る。

 よく読解では行間を読むという言葉を聞くが、連句には句と句の余白に物語があるという。連句では連衆により様々な検討がされながら進められ、場を仕切る宗匠の力量が試されるという。連句はそれぞれの句が微妙に絡まり本来的に謎を含んだ暗号文学という側面があるという。

 つまり、元もと俳諧は深読みしようと思えばいくらでも深読みできるということだ。

俳人の多くが芭蕉を深読みし、深読みすればするほど芭蕉の句は輝きを増していく。それは恐らく大いなる曲解であり、本来は芭蕉は単純明快なことしか詠んでいないのであろう。 私も芭蕉を深読みする。大いなる曲解をする。

 一般人が理解するには解釈書が必要で、今までも解釈書がいくつも出ている。その難解さが、数学を解くように面白いと思う人には妙味であるが、大衆化することができず廃れた原因でもある。

 私は、子供相手に仕事をしてきた時期がある。ダジャレが好きでよく言ったものだ。子供達は、ダジャレが分かれば、「あ~ぁ寒い」などと言うが、少しひねると分からない。説明してやると、「ふ~ん」と妙に納得する。説明が必要なようなシャレは、すでにシャレではない。

 俳諧も解説書が必要になり、そういう暗号解読書によって納得するようなものになってしまえば、もはや鑑賞とは言えない。

 

 芭蕉には『野ざらし紀行』『鹿島紀行』『笈の小文』『更級紀行』という紀行文があるが、いずれも生前に刊行された形跡はなく、題名を決めていた紀行文は『奥の細道』だけである。しかし、多くの有名な句は生前から門人やパトロンには知られていた。芭蕉は旅先から門人やパトロンに多くの手紙を書いた。そこに旅先で作った句を書くことも多く、まだ句集に載らないものでも知られていた句も多い。

 芭蕉の生前に刊行された蕉門ベストと言ってもよい『猿蓑』には、『奥の細道』に出てくる62句中の8句が既に収録されている。

 『猿蓑』の序で其角は、発句編巻之一「冬の部」の冒頭の『猿蓑』の題の元にもなった句「初しぐれ猿も小簑をほしげ也」について、

 「 我が翁行脚のころ、伊賀越えしける山中にて猿に小簑を着せて、俳諧の神を入れたまひければ、たちまち断腸の思ひを叫びけむ、あなた懼(おそ)るべき幻術なり。」 と述べている。

 芭蕉は観念が先行する人で、旅をしても風景などはつぶさに見ていない。感動が深すぎれば言葉は出てこない。芭蕉の頭の中にある杜甫や西行の詩の風景を現場に見立ててフィクションを構築するのであろう。

 有名な「 荒海や佐渡に横たふ天の河 」は、芭蕉が幻視した句である。『曽良日記』によれば、この句を詠んだ夜は雨が強く降り、佐渡も天の河も見えなかった。

 『猿蓑』には「荒海や……」の句は入っていないが、ここにも正に其角が言うところの“幻術”の妙がある。やはり其角は芭蕉を理解している。

 『猿蓑』には、芭蕉が仕えた故人の蝉吟(藤堂良忠)、良忠の子の探丸、良忠の甥の百歳の句も入集している。48歳にしてまだ芭蕉は主人であった蝉吟(藤堂良忠)に礼をつくす。

 私は立石寺でも、芭蕉は幻術を使い幻視・幻聴したのではないかと考える。

 立石寺で詠んだ、

「 閑さや 岩にしみ入 蝉の聲 」は主人であった藤堂良忠(俳号・蝉吟)を追悼したものであろう。無足人の家に生まれた芭蕉が俳諧師になるきっかけを作ってくれた恩人であり俳諧の兄であった蝉吟に思慕がある。恐らく蝉吟と宗房(芭蕉)は衆道の関係にあったのだろう。

 この山寺で鳴く蝉の聲は、蝉吟が吟じる俳句の調べであろう。芭蕉はそれを幻聴し蝉吟の姿を幻視したのであろう。閑さは芭蕉の心の情態であろう。それは蝉吟を追悼することでもあった。何故なら山寺は死者が集う山であるからである。芭蕉の感性は見事にそれを察知した。

 私は山寺を初めて訪れた。芭蕉が「閑さや 岩にしみ入 蝉の聲」の句を詠んだ寺であることは知っていたが、その岩がこのような巌であることは知らなかった。私がイメージしていた岩は、日本庭園にあるような岩であった。

 私は山寺に来て、初めて芭蕉が山寺に着いたのが陽暦の7月13日の夕刻であることを知った。麓の「預かり坊」に宿をとり、その足で山上の堂に登ったことが「曽良旅日記」に記されている。

 つまり、芭蕉が「閑さや 岩にしみ入 蝉の聲」の句を詠んだのは、じりじりと日差しが照りつける昼間ではなく、夕闇迫る夕刻なのである。

 私は確信した。この山は寺が建立される前から死者の山であったのだろう。古代信仰は磐座を神が降臨する場所とする。縄文から続くアニミズム的信仰はこのような岩山を放っておくはずがない。この山は古代から死者と交信する山であったのだろう。

 芭蕉は夕闇迫るこの岩山で、確かに蝉吟を幻視し、蝉吟の声を幻聴したのであろう。

 芭蕉には表と裏の顔があり、句をつくるためだけに旅をしたのではない。しかし、旅と俳諧興行が連動しうるところが芭蕉の凄いところでもある。

 『奥の細道』は芭蕉の自信作ではあったろうが、芭蕉自身『奥の細道』だけが、これほど後世に評価されて残るとは予想しなかっただろう。

 それはそこに収録されたいくつかの句が、心地よいリズムで心に入ってくるからだ。そこには小難しいコードも古典の知識も必要なく、ごく自然に耳に馴染み、口をついて出る軽やかさがある。子供も大人もそれぞれのレベルで鑑賞できる小気味いい流れがある。芭蕉が時を超えて親しまれる所以である。

 『奥の細道』より

夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)

閑さや岩にしみ入る蝉の声 (しずかさや いわにしみいる せみのこえ)

五月雨をあつめて早し最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ)

荒海や佐渡によこたふ天河 (あらうみや さどによこたう あまのがわ)

 立石寺(3)では、この山が死者の山であるかどうかに迫りたい。更に芭蕉と一番弟子の其角にもついても少し論考してみたい。