https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498749405.html 【数ならぬ身とな思ひそ玉祭 松尾芭蕉】より
数ならぬ身とな思ひそ玉祭 松尾芭蕉
(かずならぬ みとなおもいそ たままつり)
「玉祭」とは「魂祀り」…、つまり「お盆」に、お供え物をして、亡くなった人の霊を慰めることである。
芭蕉にはたくさんの名句がある。
この句は、芭蕉ファンなら知っているが、世間には、さほど知られていないであろう。
ただ、私は「お盆」の頃になると、ふと、この句を思う。
お盆の句で、他に思い出す句は(私には…、)ない。
寿貞尼(じゅていに)がみまかりけるとききて
と前書きがある。
「寿貞尼が亡くなった、と聞いて」
という意味だ。
この句は元禄7年7月15日(旧暦)、伊賀上野の松尾家のお盆で作られた。
寿貞尼は、この年の6月2日、芭蕉不在の、深川芭蕉庵で死んだ。
芭蕉が、その訃報を知ったのは6月8日、京都嵯峨野の落柿舎に於いてであった。
この芭蕉庵は「第三次芭蕉庵」である。
「第一次芭蕉庵」は天和2年(1682)の天和の大火(八百屋お七の火事)で焼失した。
「第二次芭蕉庵」は、元禄2年(1689)、「おくのほそ道」へ出発するため、売り払っている。
第三次芭蕉庵は「おくのほそ道」のあとに作られた庵だが、実際、芭蕉は短期間しか住んでいない。
第三次芭蕉庵が建てられたのは元禄6年。
「おくのほそ道」の旅は元禄2年だから、4年ほど、芭蕉は江戸に帰っていない。
実際、芭蕉はもう、江戸に帰る気はなかったのではないか、と私は思う。
芭蕉の名はいまや天下にとどろいている。
芭蕉にとって、江戸は立身出世の場で、いまや、そこに固執する必要はなかっただろう。
「おくのほそ道」のあとは、京都周辺や、故郷・伊賀上野あたりをずっとうろついていたのである。
ひょっとしたら、芭蕉は死期を感じていて、その近辺で亡くなることを願っていたのかもしれないが、確証はない。
さて、「寿貞尼」とは何者か?
これも実はよくわかっていない。
一番有力な説は、芭蕉の妾だった、ということだ。
しかも「子持ち」の妾である。
嵐山光三郎さんが、延宝8年(1680)、芭蕉が日本橋から深川へ、突然、居を移したのは、この、寿貞尼と、芭蕉の甥の「桃印」が「駆け落ち」してしまい、それを知られないためだった、という説を著書の中で主張している。
当時の不義密通は大罪だったのである。
芭蕉と寿貞尼は夫婦ではなかったから、それで不義密通になるのだろうか、という疑問はあるが、きっと、そうなのだろう。
しかし、この説も確定ではない。
おそらく、深川へ移る頃から、芭蕉の手紙などから、寿貞尼や桃印の名がぱったりと消えてしまった、ということであろう。
その寿貞尼がなぜ、第三次芭蕉庵にいたのか?
どうやら、また芭蕉庵にひょこりと戻ってきたようだ。
そのためかどうかはわからないが、芭蕉は四年ぶりに江戸深川に戻り、、第三次芭蕉庵に半年だけ滞在し、また伊賀や関西へ向かう。
その際になぜか、寿貞尼の子の次郎兵衛を伴っている。
なにかいろいろな複雑な事情があるように思えるし、ただ単に老年となった芭蕉の旅を手助けするための随行かもしれない。
まあ、ようするによくわからないのである。
ただ、この寿貞尼が、さほど恵まれた人生を生きて来た女性ではないのはなんとなくわかるであろう。
その彼女の訃報を聞いた芭蕉の心持はどうであっただろう。
芭蕉は、
数ならぬ身とな思ひそ
つまり、
とるにたらない身だと思ってはいけないよ。
と呼びかけている。
きっと、寿貞尼は、時折、そんな言葉をもらしていたのではないか。
死ぬ時も、そんなことを思って死んでいったに違いない、と芭蕉は思ったのだろう。
そうではないんだよ。
と芭蕉は、呼びかけている。
私たち(私だけか?…)は、自分は特別な存在だ、と思う気持と、自分は世の中にとって、取るに足らない存在だと思う気持と両方あるのではないか。
悲観的に考えれば、ほとんどの人が「取るに足らない身」つまり「数ならぬ身」なのではないか。
私がこの句に感動するのは、これは芭蕉と寿貞尼の間だけに成立する句ではなく、広く普遍性を持っているからである。
亡くなった私の父も、叔父も、祖父も祖母も、私にとってはかけがえのない人物だが、大きく見れば「数ならぬ身」であるに違いない。
人間の大半はおそらくみんなそうなのだ。
ただ、この句を呟く人にとっては、その思う人は「数ならぬ身」では決してない。
寿貞尼がおのが運命を悲しんだとしても、芭蕉にとってはかけがいの人なのだ。
私が、こうしてお前の死を悼んでいるじゃないか。
私が悼んでいる限り、お前は「数ならぬ身」ではないのだ!
と言っている。
芭蕉はこの三ヶ月後の、10月に亡くなっている。
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