各務支考

https://www.ajup-net.com/bd/isbn978-4-903866-35-2.html  【松尾芭蕉作『笈の小文』 遺言執行人は何をしたか】  より

松尾芭蕉作『笈の小文』ー遺言執行人は何をしたかー

これまでの常識に従えば、『笈の小文』は貞享五年(1688)冬に始まる吉野行脚の道中で書いた備忘メモを下敷きとし、元禄四年(1691)三月~九月の京都滞在中に現在の形に整理されたものと考えられている。この時期の『笈の小文』の山場は「吉野巡礼」であり、その実態は同行者坪井杜国の死を悼む追悼文である。この「吉野巡礼」に改編の手が加えられ、現状の『笈の小文』に再編成されるきっかけは、元禄六年七月に始まる芭蕉の病臥と閉門にある。当時、江戸の芭蕉庵では結核を患う養子桃印が臨終を迎え、看病・治療費・薬代とそれらを賄うための宗匠家業の繁忙が芭蕉の健康を虫食んでいた。そこに折り良く、前年、京都御所の与力を辞職していた医師中村史邦が京都から下ってくる。結核の感染を恐れて暮らしていた芭蕉は、殊の外喜んで中村史邦を庵室に迎え入れる。さっそく芭蕉の治療に当たった中村史邦の尽力により、芭蕉は同年十一月にかろうじて本復し執筆活動を再開する。松尾芭蕉には、この医師史邦への報謝の気持ちが強く残った。

 この時『笈の小文』の第二次編成期が始動する。坪井杜国の追福を主題とし、吉野巡礼を山場とする原『笈の小文』に「風羅坊の所思」「吉野三滝」「和歌浦句稿」「須磨明石紀行」が挿入されて、史邦への『笈の小文』授与を前提とした主題・構成の改編が始まる。主人公の風羅坊と万菊丸とがさらに経験豊かな廻国修行者に変貌すると同時に、「風羅坊かく語りき」とでも呼ぶべき、「狂句の聖(ひじり)」の巡礼記が出現する。そこで示された巡礼記は聖者による所感や観想の形を取らず、直感像叙述による啓示のかたちで示されている。その動きのある表象は、これを読む者に向かって、生存・文芸・巡礼の本質に関する妥協のない自問自答を喚起する力を秘めていた。 もとは松尾忠右衛門宗房、そして今、風羅坊と呼ぶお前はいかなる者か。お前の生存の拠点たる「狂句」は何処よりきたか。お前の狂句巡礼は、そも何に辿着く旅か。答えよ。というわけである。

 ところがその肝心かなめの問い掛けが喚起される表象部を芭蕉の遺言執行人の各務支考はバッサリと切り捨て、その改訂に対する自負心を語るのである。


http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2014/11/post-954f.html 【前後日記 支考 (全)――芭蕉の末期の病床にシンクロして――】 より

前後日記   支考

[やぶちゃん注:各務支考編になる元禄八(一六九五)年奥書の「笈日記」の一節。「笈日記」は芭蕉の死後に支考自らが伊賀・伊勢・近江・江戸などを巡って芭蕉の遺句や遺文を集めたものであるが、その中に芭蕉臨終の前後が日記風に詳しく記されており、以下はその部分。底本は小宮豊隆校訂「芭蕉臨終記 花屋日記」(昭和一〇(一九三五)年岩波文庫刊)の「附錄の一」を用いた。踊り字は「〱」「〲」は正字若しくは「々」に代えた。ポイント落ち割注は〔 〕同ポイントで出した。本文脇に附された編者のママ注記は省略した。小宮氏によって補填された字は《 》で示した。]

   去年元祿の秋九月九日、奈良より難波津

   にわたる。生涯の邊より日を暮して

菊に出て奈良と難波は宵月夜     翁

   今宵は十三夜の月をかけて、すみよしの

   市に詣けるに、晝のほどより雨ふりて、

   吟行しづかならず。殊に暮々は惡寒にな

   やみ申されしが、その日もわづらはしと

   て、かいくれ歸りける也。次の夜はいと

   心地よしとて、畦止亭に行て、前夜の月

   の名殘をつくなふ。住吉の市に立てとい

   へる前書ありて

舛買て分別かはる月見かな

   十六日の夜、去來・正秀が文をひらくに、

   奈良の鹿殊の外に感じて、その奧に人々

   の句あり。

北嵯峨や町を打越す鹿の聲      丈 草

露草や朝日にひかる鹿の角      野 明

猿の後聞出しけりしかの聾      荒 雀

棹鹿の爪に紅さすもみぢかな     爲 有

振わけて尾花に見せよ鹿の角     風 國

啼鹿を椎の木間に見付たり      去 來

南大門たてこまれてや鹿の聲     正 秀

   冬の鹿

鹿の影とがつて襲き月夜哉      洒 堂

きよつとして霞に立や鹿の角     支 考

川越て身ぶるひすごし雪の鹿     臥 高

  其柳亭

秋もはやはらつく雨に月の形     翁

    此句の先「昨日からちよつちよつと

秋も時雨かな」といふ句なりけるに、い

かにおもはれけむ、月の形にはなしかえ

申されし。廿一日・二日の夜は雨もそぼ

   降りて靜なれば

秋の夜を打崩したる咄かな

    此句は寂寞枯稿の場をふみやぶりたる

   老後の活計、なにものかおよび候はんと、

   おのおの感じ申あひぬ。

   車庸亭

面白き龝の朝寐や亭主ぶり      翁

     廿六日は淸水の茶店に連吟して、

    泥足が集の俳語あり。連衆十二人。

人聲や此道かへる秋のくれ

此道や行人なしに龝の暮

     此二句の間いづれをかと申されしに、

    この道や行ひとなしにと獨歩したる所、

    誰かその後にしたがひ候半とて、是に、

    所思といふ題をつけて、半歌仙侍り。

    爰にしるさず。

松風や軒をめぐつて秋暮ぬ

   是はあるじの男の深くのぞみけるより、

  かきてとゞめ申されし。

   旅懷

此秋は何で年よる雲に鳥

     此句はその朝より心に籠てねんじ申

    されしに、下の五文字寸々の腸をさか

    れける也。是はやむ事なき世に、何を

    して身のいたづらに老ぬらんと、身に

    おもひわびられけるが、されば此秋は

    いかなる事の心にかなはざるにかあら

    ん、伊賀を出て後は、明暮になやみ申

    されしが、京・大津の間をへて、伊勢

    の方におもむくべきか、それも人々の

    ふさがりてとどめなば、わりなき心も

    出きぬべし、とかくしてちからつきな

    ば、ひたぶるの長谷越すべきよし、し

    のびたる時はふくめられしに、たゞ羽

    をのみかいつくろひて、立日もなくな

    り給へるくやしさ、いとゞいはむ方な

    し。

白菊の目にたてゝ見る塵もなし    翁

     是は園女が風雅の美をいへる一章な

    るべし。昨日の一會を生前の名殘とお

    もへば、その時の面影も見るやうにお

    もはるゝ也。

   畦止亭

    今宵は九月廿八日の夜なれば、秋の名

   殘をおしむとて、七種の戀を結題にして、

   おのおのほつ句あり。是は泥足が其便集

   に出し侍れば、爰にしるさず。

    明日の夜は芝柏が方にまねき、おもふ

    よしにてほつ句つかはし申されし。

秋深き隣は何をする人ぞ       翁

 廿九日

 此夜より泄痢のいたはりありて、神無月一日の朝にいたる。しかるを此叟は、よのつね腹の心地惡しかりければ、是もそのまゝにてやみなんと思ひいけるに、二日・三日の比よりやゝつのりて、終に此愁とはなしける也。されば病中の間は、晉子が終焉記にくはしければ、但よのつねの上、わづかにかきもらしぬる事を、支考が見聞には記し侍る。

 十月五日

 此朝南の御堂の前、しづかなる方に病床をうつして、膳所・大津の間、伊勢・尾張のしたしき人々に、文したゝめつかはす。その暮支考をめして、殊の外に心の安置したるよし申されしを、さばかりの知識達も生死は天命とこそおぼし候へ、たゞ心のやすからんはありがたう侍ると申して、介抱のものも心とけぬ。

 六日

 きのふの暮よりなにがしが藥にいとこゝちよしとて、みづから起かへりて、白髮のけしきなど見せ申されしに、影もなくおとろへはて、枯木の寒岩にそへるやうにおぼえて、今もまぼろしには思うはるれ。

 七日

 此朝湖南の正秀夜船より來る。直に枕のほとりにめされて、何ともいふ事はなくて、泪をおとし給へりけるが、いかなる心かおはしけむしらず。その程も過ぎるに、洛の去來きたる。その暮つがた乙州・木節・丈艸おのおの來りつどふ。平田の李由きたる。

 洛の去來は、しばらくも病家をはなれず。いかなるゆへにかと申に、此夏阿叟の我方にいまして、誰れ誰れの人は吾を親のごとくし侍るに、吾老て子のごとくする事侍らずと仰せられしを、いさしらず、去來は世務にひかれてさるべき孝道もなきに、かゝる事承る事の肝に銘じおぼえければ、せめて此度ははなれじとこそおもひ候へと申されし也。

 八日

 之道すみよしの四所に詣して、此度の延年をいのる。所願の句あり。しるさず。此夜深更におよびて、介抱に侍りける呑舟をめされて、硯の音のからからと聞えければ、いかなる消息にやとおもふに

     病中吟

    旅に病で夢は枯野をかけ廻る   翁

 その後支考をめして、「なをかけ廻る夢心」といふ句づくりあり、いづれをかと申されしに、その五文字は、いかに承り候半と申ば、いとむづかしき事に侍らんと思ひて、此句なににかおとり候半と答へける也。いかなる不思議の五文字か侍《る》らん。今はほいなし。みづから申されけるは、はた生死の轉變を前にをきながら、ほつ句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に籠て、年もやゝ半百に過たれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の聲におどろく。是を佛の妄執といましめ給へるたゝちは、今の身の上におぼえ侍る也。此後はたゞ生前の俳諧をわすれむとのみおもふはと、かへすかへすくやみ申されし也。さばかりの叟の辭世はなどなかりけると、思ふ人も世にはあるべし。

[やぶちゃん字注:「たゝち」は「こゝち」の原典の誤字であろう。]

 九日

 服用の後支考にむきて、此事は去來にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて

    大井川浪に塵なし夏の月

と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もなき跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて

    淸瀧や波にちり込む靑松葉    翁

 十日

 此暮より身ほとをりて、つねにあらず。人く殊の外におどろく。夜に入て去來をめして良談ず。その後支考をめして遺書三通をしたゝめしむ。外に一通はみづからかきて、伊賀の兄の名殘におくらる。その後は正秀あづかりて、木曾塚の舊草にかへる。

 是より後、十六日の夜曲翠亭に會して、おのおのひらき見るに、伊賀への文は、たゞ何事もなくて先だち給へる事の、あさましうおぼゆるよし、かへすがへす申殘されしなり。

 外の三通には、思ひをける形見の品々、おほくは反故・文章等の有所、なつかしき人々への永き別をおしめるなりけり。

  一 新式  埋木 〔二傳〕

  一 古今ノ序註  百人一首 〔兩部〕

  一 三日月日記  奧の細道

  一 披風  銅鉢

[やぶちゃん字注:「披風」は「被風」(ひふ:羽織様の外着。)の誤字。]

 その外ばせを庵に安置申されし出山の尊像は、支考が方につたへ侍る。是は行脚の形見なるべし。

 夜ふけ人いねて後、誰かれの人々枕の左右に侍りて、此後の風雅はいかになり行侍《る》らんとたづねけるに、されば此道の吾に出て後、三十餘年にして百變百化す。しかれどもそのさかひ、眞・草・行の三をはなれず。その三が中に、いまだ一・二をもつくさゞるよし。唇を打うるほし打うるほしやゝ談じ申されければ、やすからぬ道の神なりと思はれて、袖をねらす人殊におほし。

 十一日

 此暮相に晋子幸に來りて、今夜の伽にくはゝりけるも、いとちぎり深き事なるべし。その夜も明るほどに、木節をさとして申されけるは、吾生死も明暮にせまりぬとおぼゆれば、もとより水荷雲棲の身の、この藥かの藥とて、あさましうあがきはつべきにもあらず。たゞねがはくは老子が藥にて、最期までの唇をぬらし候半とふかくたのみをきて、此後は左右の人をしりぞけて、不淨を浴し香を燒て後、安臥してものいはず。

 十二日

 されば此叟のやみつき申されしより、飮食は明暮をたがへ給はぬに、きのふ十一日の朝より今宵をかけてかきたえぬれば、名殘も此日かぎりならんと、人々は次の間にいなみて、なにとわきまへたる事も侍らず也。午の時ばかりに目のさめたるやうに見渡し給へるを、心得て粥の事すすめければ、たすけおこされて、唇をぬらし給へり。その日は小春の空の立歸りてあたゝかなれば、障子に蠅のあつまりいけるをにくみて、鳥もちを竹にぬりてかりありくに、上手と下手とあるを見て、おかしがり申されしが、その後はたゞ何事もいはずなりて、臨終申されけるに、誰も誰も茫然として、終の別とは今だに思はぬ也。此夜河舟にてしつらひのぼる。明れば十三日の朝、伏見より木曾塚の舊草に入れ奉りて、茶菓のまうけ、います時にかはらず。埋葬は十四日の夜なりけるが、門葉燒香の外に、餘哀の者も三百人も侍るベし。

 十八日

 所願忌

 湖南・江北の門人おのおの義仲寺に會して、無縫塔を造立す。面には芭蕉翁の三字をしるし、背には年月日時なり。塚の東隅に芭蕉一本を植て、世の人に冬夏の盛衰をしめすとなり。此日百韵あり。略之。

    なきがらを笠にかくすや枯尾花 其角

    温石さめてみな氷る聲     支考

    行燈の外よりしらむ海山に   丈草

 乃至

 霜月三十日 此時は伊勢の國にありて、我草庵にこの日の供養をまうけ侍る。

 大練忌

 葉落て山つきぬれば、曉の雲の歸るべきたよりもなく、日暮て道遠ければ夜の鶴のうらむべき方もなし。されば此叟の宿世、いくばく人にかちぎりをきける。生前の九十日はしらぬ事のくやしさをかなしみ、死後の四十九日はかへらぬ事のかなしさをくやむ。すべての明暮は誰がためにかかなしみ、誰がためにかくやめるならむ。

    節シ節シのおもひや竹に積る雪 支考

   右は去年の冬季歸鳥庵におゐて記焉

[やぶちゃん字注:「節シ節シ」の後半は底本では踊り字「〱」。]


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松永貞徳(1571~1653)、西山宗因(1605~1682)

北村季吟(1624~1705)たちによって庶民的なものとして各地に根付いていった俳諧は、松尾芭蕉(1644~1694)によってより高度な芸術的文学として完成されていきます。

芭蕉の没後その蕉風と呼ばれる芭蕉の俳諧のもつ魅力を論理的にわかりやすく説明し、だれでも作れる平明な俳諧をめざし全国に広めていったのが、弟子の各務支考(1665~1731)です。

支考は優れた俳人であったと同時に優れた理論家でした。

彼は北陸・近畿などへたびたび行脚し、芭蕉の追悼行事、夜話と呼ばれる講和などを通して俳句の指導や句集・理論書を出版し、蕉風俳諧の伝播に努め、各地に多くの門人を輩出しました。

支考の後継者となった門人の仙石蘆元坊(1688~1747)は、師の支考の教えに従い、東北から九州に及ぶ行脚を通して蕉門勢力の拡大に力を注ぎました。

この活動は弟子から弟子に受け継がれ、美濃の支考の居である獅子庵を中心に各地に俳壇が育ち全国に広まっていくことになります。

この一派を支考の生地であり活動の拠点であった美濃に因んで「美濃派」あるいは「獅子門」と呼びます。

美濃派系譜

  一世 松尾芭蕉(1644~1694)

  二世 各務支考(1665~1731)

  三世 仙石蘆元坊(1688~1747)

  四世 田中五竹坊(1700~1780)

    (以哉派と再和派に分裂)

  (以哉派)            (再和派)

  五世 安田以哉坊(1715~1780) 五世 河村再和坊(1725~1786)

  六世 大野是什坊(1726~1793) 六世 佐々木森々庵(1733~1798)

  七世 野村白寿坊(1738~1817) 七世 多賀雨岡庵(1742~1812)

  八世 岡崎風蘆坊(1745~1812) 八世 渡辺一楽庵(1752~1817)

  九世 山本友左坊(1756~1846) 九世 多賀徐風庵(1772~1832)

  十世 浅野逸歩仙(1768~1837) 十世 田中五竹庵(1776~1830)

        (以降略)            (以降略)

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