https://blog.goo.ne.jp/satyclub14/e/2a9d5a67d140c0e4cac0471351e4c874 【近江・湖南 芭蕉への旅 その一】より
近江・湖南 芭蕉への旅の始まり
前記事の京都嵯峨・水尾への行き帰り、近江の芭蕉ゆかりの地、大津・膳所の幻住庵と義仲寺、彦根の俳遊館を訪ねてきました。かねてから自分の中に一つの疑問があって、これはやはり現地を観るのが第一歩と思ったからです。その疑問とは,故郷の伊賀上野や、その他のゆかりの地ではなく、「芭蕉はなぜ膳所の義仲寺を自分の永眠の地としたか」です。もっと簡単に言えば「なんで大津・膳所?なんで義仲?」・・・この疑問に関しては、その筋の専門家の間ではすでに、ある程度の結論が出ている事かもしれませんが、それとは別に自分の中である納得を得たいという想いがあったのです。
自分にとっての俳句は、時々てなぐさみでつくる程度で、俳壇とか、同人誌、種々の俳句の会やサークル・結社の活動とは無縁で、ただ「私の芭蕉」・「人間芭蕉」の認識という、あくまでも私的な文脈のなかでの納得ですが、なぜか、人間と土地・場所 ( トポス)との係わりについての、かなり根源的で現代的(特にグローバリズムが席巻する現代の世界)な問題を含んでいる気がして仕方がないのです。
芭蕉は、悲劇の武将、義仲にシンパシーを抱いていた、からか。しかし、また一方で心酔(師事か。その貫道するところは一なりで、志の共有か。)していた西行には、つぎの様な和歌が残されているのが、気にかかります。
世の中に武者のおこりて、西東北南、軍(いくさ)ならぬところなし。・・・・・
木曽と申す武者死に侍りけりな
木曽人は海のいかりを沈めかねて死出の山にも入りにけるかな (聞書、二二七)
と、時代的か、地獄の様相の一つとして、かなり突き放した言い方で、詠っています。
また、芭蕉はこの地でこんな句を得ています。
行く春を近江の人と惜しみける
近江膳所とは、芭蕉にとって何であったのか。ただ単純に、義仲さんへの追慕の念からとえない何かがありそうです。少しずつ歩きながら、これから考えてみようと思っています。愚句一句・・・・ 風狂の果ての淡海の小春かな
https://blog.goo.ne.jp/satyclub14/e/951f87edc1bfbb827978179821b53cd2 【近江・湖南 芭蕉への旅 その二】より
近江・湖南をめぐる芭蕉の事跡・作品・人間関係
近江・湖南、大津・膳所と芭蕉のかかわりについて、次の(1)事跡、(2)人間関係(3)作品の三方向から立体的にアプローチを試みようと思います。
(1) 時系列的に湖南地方にかかわる芭蕉の事跡についてプロットしてみました。(出典は新潮日本古典集成・芭蕉文集及び、芭蕉句集の芭蕉略年譜等に依りました。)
(2) また、カラー葡萄茶文字部分は、金子晋氏著 「芭蕉晩年の苦悩」、嵐山光三郎著「芭蕉紀行」「悪党芭蕉」からの引用です。主に芭蕉自身の個人的な事情と大津・膳所衆との人間関係に関する記述です。筆者の推論も多く含まれていますが、興味深い記述が多いので、書き入れてみました。
(3)芭蕉 の生涯に詠じた句は982句(芭蕉俳句集、中村俊定校注:岩波文庫)確認されているらしく、そのうちの1割ちかく約90句が大津・湖南地方で詠まれたものだという。また、36俳仙といわれる芭蕉の弟子の内三分の一、12人が近江の人だという。いかに芭蕉にとって近江・湖南との関係が濃密だったかわかる。芭蕉の作品の内、その時期、々の近江・湖南に関連するもの、湖南地方の風物・風光が題材になっているものを、カラー藍色にて書き入れました。
延宝六年(1677)庚巳 三十四才 夏、江戸にて。近江・琵琶湖を想ってか。
近江蚊屋汗やさざ波夜の床 貞享元年(1684)甲子 四十一才
この年に途についた「野ざらし紀行」の旅の旅程で、大和から山城・近江とたどり、美濃に・・・の記事あり。
貞享二年(1685)乙丑 四十二才 三月上旬頃、大津に入る。尚白・千那・青亜ら相携えて入門。
山路来てなにやらふかしすみれ草 辛崎の松は花よりおぼろにて
つつじ生けてその陰に干鱈割く女 命二ツ中に活たるさくらかな
(水口にて、19年ぶりに土芳と再会して。)「野ざらし紀行」
江戸にて、また旅ごころつのるの句。俳意に俳味ありと自評。「鳰の浮巣」とは「鳰の湖(琵琶湖)のかいつぶりの浮巣」であろうとされる。 五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん
貞享五年(1688)戌辰(九月三十日元禄に改元) 四十五才
六月五日、大津、奇香亭にて尚白・千那らと「鼓子花の」(ひるがおの)の十吟歌仙興業など。(このころ河合乙州、智月も芭蕉に出会うか。)同六日、大津出立、岐阜へ。
さみだれにかくれぬものや勢田のはし 草の葉を落つるより飛ぶ蛍哉
目に残る吉野を勢田の蛍哉 この蛍田毎の月にくらべみん
世の夏や湖水に浮む浪の上 海は晴れて比叡降り残す五月哉
夕がほや秋はいろいろのふくべ哉 鼓子花の短夜眠る昼間かな
ひるがほに昼寝せうもの床の山 (彦根にて)
元禄二年(1689)已巳 四十六才
この年、三月から九月まで「おくのほそ道」の旅。(この旅の途中、七月、加賀・金沢にて乙州と芭蕉と邂逅か。大津への来訪を乞うか。)その後、大垣から伊勢、伊賀上野に帰郷。
むざんやな甲のの下のきりぎりす (奥のほそ道の旅程、加賀の小松の多田の神社にて。義仲をかくまった斉藤別当実盛の遺品の兜など見出して、義仲の名を記しつつ。)
義仲の目覚めの山か月悲し (同じく奥のほそ道の旅程、越前の古戦場・燧が城にて)
十一月末、郷里を出立。奈良、京都・大津(乙州邸か。智月に再会。またこの頃、菅沼曲水、高橋怒誰、水田正秀、小林昌房ら入門か。)に遊び、(年末には曲水の仲介で珍碩〈洒堂〉入門か。)
丸雪せよ網代の氷魚煮て出さん 何にこの師走の市にゆくからす
膳所(この頃、智月が町年寄り・正秀に手配を頼み、芭蕉を義仲寺の小庵・無名庵に入庵させるか。)で越年。
少将のあまの咄や志賀の雪 はせお あなたは真砂此処はこがらし 智月
元禄三年(1690)庚午 四十七才
薦を着て誰人います花の春
正月三日、膳所より伊賀上野に帰り、(智月へ、礼状をしたためる。)・・・。三月二日、伊賀蕉門の小川風麦の宅で花見の宴の折の即吟発句は「軽み」を発揮したと自認。連句においてもこれを試みるが不成功。
木のもとに汁も膾も桜かな (伊賀の風麦亭にて、芭蕉自ら「軽み」の句とした。)
三月中下旬頃、再び膳所に出る。
かわうその祭見て来よ勢田の奥
近江蕉門の浜田珍碩(珍夕・洒堂)、菅沼曲水を相手に「花見」三吟歌仙(再度、木のもとに・・・)を興業。「軽み」の発揮されたのを喜び、「ひさご」巻頭に飾る。(またこの時、芭蕉は珍碩邸に招かれ逗留、洒落堂記を書き上げる。)
山は静かにして性をやしなひ、水は動いて情を癒す。静・動二つの間にして、すみかを得るもの有り。・・・・そもそもおものの浦は、勢田・唐崎を左右の袖のごとくし、海を抱きて三上山にむかふ。海は琵琶のかたちに似たれば、松のひびき波をしらぶ。日えの山・比良の高根をななめに見て、音羽・石山を肩のあたりになむ置けり。長柄の花を髪にかざして、鏡山は月をよそう。淡粧濃抹の日日にかわれるがごとし。心匠の風雲も亦是に習ふ成るべし。 はせを
四方より花吹き入れてにおの波 (最終稿では結句の波は海となっている。)
珍碩邸で「洒落堂記」をものした芭蕉は、惜春の情を共に味わうべく人々を誘って、義仲寺から志賀・辛崎に舟を浮かべた。
行く春を近江の人と惜しみける
四月一日、石山寺参詣、源氏の間を見物。この頃杜国(三月二十日没)の訃報に接す。四月六日~七月二十三日、国分山の幻住庵(曲水の伯父の幻住老人・本多八郎左衛門の旧庵。)に滞在。
曙はまだ紫にほととぎす ほたる見や船頭酔ておぼつかな 己が火を木々の蛍や花の宿
在庵中に「幻住庵の記」の稿の推敲を重ね、(六月二十日から二十五日まで六日間、洒堂邸に滞在、推敲に集中か。洒堂のお袋様、おせん姉さん(松寿)の世話をうける。)出庵後、八月中旬頃に最終稿が完成か。
「幻住庵の記」
石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。・・・・南薫峰よりおろし、北風海を浸して涼し。比叡の山、比良の高根より辛崎の松は霞をこめて、城あり、釣たるる舟あり、笠取に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍とびかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景として足らずといふことなし。中にも三上山は士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き住みかも思い出でられ、田上山に古人をかぞふ。ささほが嶽・千丈が峰、袴腰といふ山あり。黒津の里はいと黒う茂りて、「網代守るにぞ」と詠みけん「万葉集」の姿なりけり。なお・・・・・かく言えばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦んで、世をいといし人に似たり、・・・・・、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。・・・・・ ・・・・・いずれか幻の住みかならずや」と、思い捨てて臥しぬ。
先たのむ椎の木もあり夏木立 やがて死ぬけしきも見えず蝉の声 (一部の「幻住庵の記」の稿にあり)
幻住庵にて。
夕にも朝にもつかず瓜の花 猪もともに吹かるる野分かな
わが宿は蚊の小さきを馳走かな 夏草に富貴を飾れ蛇の衣
夏草や我先達ちて蛇狩らん 玉祭り今日も焼場の煙哉
七月下旬~九月下旬、湖南の地に滞在。おおむね膳所、義仲寺境内の無名庵に居住。その間八月十三日「ひさご」刊。
月しろや膝に手を置く宵の宿 白髪抜く枕の下やきりぎりす
明月や座に美しき顔もなし 月代や膝に手を置く宵の宿
桐の木にうずら鳴くなる塀の内 病雁の夜さむに落ちて旅ね哉
あまのやは小海老にまじるいとど哉 朝茶のむ僧静也菊の花
蝶も来て酢を吸う菊のなます哉 稲妻に悟らぬ人の貴さよ
草の戸に知れや穂蓼に唐辛子
九月末伊賀に帰郷。(その折、幻住庵記一部を智月に進呈か。)年末まで逗留。その間も京、湖南に出向く。十二月末、大津の川井乙州の新宅に滞在し、越年。
比良三上雪さしわたせ鷺の橋 かくれけり師走の海のかいつぶり
人に家をかはせて我は年忘れ 三尺の山も嵐の木の葉哉
たふとさや雪降らぬ日も蓑と笠 大津絵の筆のはじめは何仏
元禄四年(1691)辛未 四十八才
大津で新年を迎える。上旬、乙州江戸下向の餞別俳諧興業。同じ頃、膳所・義仲寺にて「木曽塚」と題する句会あり。伊賀上野に帰郷。
木曽の情雪や生えぬく春の草
六月二十五日~九月二十八日、おおむね膳所、義仲寺境内、無名庵に居住。その間、京に出向くことあり。
牛部屋に蚊の声暗き残暑哉
八月十四日、大津楚江亭で待宵の句会。同十五日、義仲寺にて仲秋の観月句会主催。同十六日、堅田に遊び、既望の観月句会に臨む。九月十三日、之道らと石山参詣。
秋の色ぬか味噌つぼもなかりけり 淋しさや釘に掛けるたるきりぎりす
米くくる友を今宵の月の客 三井寺の門たたかばやけふの月
鎖明けて月さし入れよ浮御堂 やすやすと出でていざよふ月の雲
十六夜や海老煎るほどの宵の闇 祖父親孫の栄えや柿蜜柑
草の戸や日暮れてくれし菊の酒 橋桁の忍は月の残り哉
石山の石にたばしる霰哉 稲雀茶の木畠や逃げ処
鷹の目も今や暮れぬと鳴くうずら
芭蕉の門人には農民もいた。粟津の荘右衛門・山姿亭にて。
蕎麦も見てけなりがらせ野良の萩
秋も深まり、夜は寒い。夜食の乳麪(にうめん)が有り難い。
乳麪の下たきたつる夜寒哉 (曲水邸にて)
九月二十八日、膳所から江戸へ旅立つ。
元禄五年(1692)壬申 四十九才
一月十八日、曲水宛に長文の書簡「風雅三等之文」を執筆。
八月九日、彦根藩士森川許六、入門。
九月初め、膳所の珍碩、俳道修行のため芭蕉庵に来庵して食客となり、翌年一月末まで滞在。
元禄六年(1693)癸酉 五十才
二月八日、曲水宛に金子一両二分の借用を嘆願。結核で芭蕉庵で療養中の甥の桃印の療養費に窮したためである。(五月頃、洒堂、大坂移住か。)
三月下旬、芭蕉が格別の愛情を注いでいた甥の桃印が、芭蕉庵で病死。享年三十三才。
十月九日書簡:贈洒堂
難波津や田螺の蓋も冬ごもり (市の庵)
元禄七年(1694)甲戌 五十一才
閏五月十六日、上野を発ち、同十七日、大津の乙州亭に一泊。同十八日、膳所に移り、曲水亭に四泊。膳所の能役者游刀宅にて。
さざ波や風の薫の相拍子 湖や暑さを惜しむ雲の峰
同二十二日、膳所を出、洛西嵯峨の落柿舎に入る。六月二日に、江戸深川の芭蕉庵で、芭蕉と切実な間柄の女性寿貞が病死したと推測され、その急報に接した芭蕉は、哀惜痛恨の書簡を六月八日に江戸に急送している。
六月十五日、この日から七月五日まで、おおむね義仲寺境内、無名庵に居住。同月十六日、曲水邸にて夜遊の宴。「夏の夜」歌仙あり。
夏の夜や崩て明けし冷し物 飯あふぐ嬶が馳走や夕涼み
また、誰かに招かれて。 皿鉢もほのかに闇の宵涼み
同二十一日、大津の木節邸で「秋近き」歌仙。
秋ちかき心の寄るや四畳半
大津の能役者本間主馬の屋敷にて。
ひらひらと挙ぐる扇や雲の峰 蓮の香を目にかよはすや面の鼻
稲妻や顔のところが薄の穂
七月になって、義仲寺に戻ってみると、草花がおい茂り。 道ほそし相撲取り草の花の露
七月初旬、木節の邸にて。 ひやひやと壁をふまえて昼寝かな
七月五日、膳所、無名庵を出て、同月中旬まで京都に滞在。その後、帰郷。その後、二度と近江・湖南の地を踏むことはなかった。
八月十四日、大津、智月尼より、南蛮酒一樽、麩二十本、菓子など届く。(智月宛書簡)
九月八日、郷里を出立。大阪に向かう。(洒堂と之道との確執仲裁のためとも、肥前長崎をめざした旅ともいわれる。)
九月九日、夜、大阪に到着。翌十日から二十日ごろまで、連日、発熱、悪寒、頭痛に悩み、二十一日以後、小康を得る。この間、「この道・・・」の句の推敲。「所思」と題して、次句の成案に達する。
この道や行く人なしに秋の暮
九月二十八日、芭蕉が起きて得た最後の句。
秋ふかき隣は何をする人ぞ
九月二十九日、夜、烈しい下痢を催し、以後、日を追って様態悪化。
十月五日、朝、病床を、南御堂前の花屋仁右衛門の貸座敷に移し、芭蕉危篤を湖南、伊勢、尾張など各地の門人に急報する。(この間、之道懸命の看護。) 十月八日夜明け、枕元の呑舟に代筆させた芭蕉最後の句。
旅に病で夢は枯野をかけめぐる
十月十二日、午後四時頃死去。「骸は木曽塚に送るべし」の遺言により、遺骸を膳所の義仲寺に葬るため、当夜、淀川舟にて伏見に上り、同十三日昼過ぎ、義仲寺に到着。遺骸に従った者、去来、其角、乙州、支考、等十名。( 路通の「芭蕉翁行状記」によれば、「ここは東西のちまたさざ波きよき渚なれば生前の契り深かかりし所也」と言い残したとある。)
嵐山光三郎氏は芭蕉が故郷に葬られることを望まなかった、また葬られなかった理由として芭蕉自身の湖南・木曽義仲への愛着のほかに、
1、兄の半左衛門に対する次男である遠慮・配慮等。
2、「旅を栖とし」の心境から、故郷を思いながら、執着はなかった。
3、甥の桃印の一件とそれによる藤堂藩・故郷の世間への負い目。
4、伊賀蕉門が芭蕉の大坂での臨終、湖南での葬送に駆けつけるのが遅れたこと。
があるとしている。桃印は江戸へ出てから没するまで一度も故郷に戻らなかった。藤堂藩では藩を出国後五年目に一度帰国する制約をもうけていて、これを犯せば重罪であった。それを手助けした者も罰せられる。桃印は密通罪(嵐山氏は田中善信氏の桃印、寿貞駆け落ち説をとっている。その説によればまた、その駆け落ちが芭蕉の深川隠棲の隠されたもう一つの理由という。詳しくは「芭蕉=二つの顔」講談社メチエ1998年刊)も適応されるから捕まれば死罪はは免れなかった。桃印の伯父である半左衛門にも累が及ぶこと必至であった。これを切り抜ける窮余の策として、桃青(後の芭蕉)は深川隠棲の頃、幕府に桃印の死亡届を出し、桃印の死を装った。というのが田中説である。松尾家の菩提寺である愛染院過去帳に「冬室宗幼 延宝八年八月十日 半左衛門甥」とあるのが桃印である。という。
Dsc_0429_2 十月十四日、子の刻、義仲寺境内に埋葬。(智月と乙州の妻、亡骸の浄衣を縫い、着せる。)導師、直愚上人、門人焼香者、八十名。会葬者三百余名。
十月十八日、義仲寺にて、蕉翁追善俳諧開催さる。また初七日にも亡師を偲ぶ俳席あり。以後、随意の芭蕉追善俳席もたれるも、洒堂の出席の記録なし。
元禄十年(1697)
洒堂、膳所に帰郷か。膳所藩主、本田候に仕官したと伝えられる。菅沼曲翠(曲水)の尽力ありか。
元禄十五年(1702)
洒堂、旧友水田正秀と「白馬」編纂。以後、洒堂晩年には、木曽塚、無名庵の再興を志すも、庵再興途中で没した。没年は七十才程度。師を敬慕する心は、生涯変わらなかったようだ。
享保二年(1717)
菅沼曲翠(曲水)、九月四日膳所藩の奸臣を自邸玄関先で槍をもって刺殺し、自刃して果てる。享年四十八才。
昭和四十四年(1969)
七月、膳所不動寺筋(現・中庄一丁目)の旧址に「菅沼曲翠邸址」の碑建立。
昭和四十八年(1973)
義仲寺境内に「曲翠墓」建立。没後、実に二百五十七年、初めての建墓である。
愚句一句。
秋深し 君は近江の 人となる
参考文学作品:芭蕉と智月との交友?について
https://blog.goo.ne.jp/satyclub14/d/20071219【近江・湖南 芭蕉への旅 その三】より
芭蕉の詩境(芸境)の変遷
では、芭蕉が晩年、近江・湖南に縁浅からぬ身に至った内面的・精神的な情況を推察するために、その詩境(芸境)の変化(芭蕉は生前、俳論書の類は残しておらず、終生一介の旅の俳諧師と覚悟していたので、書簡や門人の著作など傍系的な資料から察するしかないが)、またはそれに影響を与えたであろう事跡について(新潮日本古典集成・芭蕉文集及び、芭蕉句集の芭蕉略年譜、栗山理一著「芭蕉の芸術観」、尾形仂編「芭蕉ハンドブック」等参考にしました。)、概観してみます。カラー抹茶色は書簡、文献からの引用・抜粋です。
寛永二十一年・正保元年(1644)甲申 出生
伊賀国阿拝郡小田郷上野赤坂町(現伊賀市赤坂町)に、松尾与左衛門の次男として生まれた。
伊賀といえば、この芭蕉が生まれたわずかに六十五年前、天正七年(1579年)から、本格的には天正九年、信長が大軍を擁し伊賀への焦土侵攻作戦を展開し、伊賀の地侍たちをほとんど根絶やしにするほどの徹底殲滅掃討した。その戦闘のすさまじさは今も伊賀人の語りぐさになっている。これを天正伊賀の乱といい、江戸時代の地元の民間学者の著作には、その信長に反抗し勇戦した伊賀侍のなかに松尾氏の名前もみえるという。本能寺の変の後、秀吉の命を受けて伊賀国主になった筒井氏は厳しい残党狩りを行ったが、徳川時代に入り慶長十三年(1608年)伊賀・伊勢の城主となった藤堂高虎は融和懐柔策をとり、中世伊賀の豪族名家の後裔を無足人(名字・帯刀を許される無給の武士)の制度に組み入れた。後の近世後期の資料によれば、上柘植に五家、鵜山に三家、以下計十一家の松尾姓がみえるという。芭蕉の松尾家が無足人待遇を受けたかどうか資料的裏付けは見つかっていないが、生家の規模から無足人クラスの中世伊賀土豪の後裔であったことは確かだろう。とすれば、芭蕉の血の中には、中世から近世に移る動乱の中、本拠地を追われた敗残者の血が色濃く流れていたことになる。このことは芭蕉の精神形成に大きく影響を与えたものと思われる。
寛文六年(1666)丙午 二十三才
四月二十五日、主君藤堂良忠(蝉吟)死去。芭蕉(松尾宗房)は致仕か。この後、寛文十二年(1672)まで、俳諧の製作を続けながらも、京(京への遊学はなく、地元の民間学者・蔵書家のもとで教養を身につけたという説あり。)の禅寺で修行したり、漢詩文の勉学にも勤めたようである。
寛文十二年(1672)壬子 二十九才
正月二十五日、「貝おほい」を上野の菅原天神社に奉納。春に新天地、江戸に下る。江戸で「貝おほい」出版。その俳風は数年後に俳壇を席巻する談林調を先取りしていて、異常な才能と鋭敏な時代感覚を感じさせるものであった。
延宝二年(1674)甲寅 三十一才
春に帰郷。旧主藤堂良忠(蝉吟)の俳諧の師匠北村季吟に会う。京に上って季吟の薫陶を受ける。貞門流の俳諧論書「埋木」を、奥書して授けられた。
(北村季吟は寛永元年・1624年に野洲郡北村に生まれ、松村貞徳門下で頭角を現し中心的存在になった。松村貞徳没後明暦二年・1656年、俳諧宗匠として独立、多くの門人を擁し俳書を著した。寛文七年・2667年、山崎宗鑑にならい「新続犬筑波」を上梓した。古典の研究にもひかれ古典注釈書・源氏物語「湖月抄」は代表作で、江戸時代を通じて広く読まれた。天和二年・1682年、あとを子の湖春にゆずり、京都松原五条の新玉津島神社の社司となり、古典に没頭、元禄二年1689年には、湖春とともに幕府歌学方に召し抱えられた。芭蕉と近江とのかかわりは、この師匠と称すべき季吟との交流のなかでつちかわれたものといわれる。)
延宝三年(1675)乙卯 三十二才
五月、江戸に来遊した談林派の総帥西山宗因歓迎の百韻に一座し、初めて「桃青」の俳号を使用。
延宝五年(1677)丁巳 三十四才
この年、万句(百韻百巻)を興業して宗匠立机(宗匠として独立)か。この年から延宝八年までの四年間、江戸小石川の水道工事の現場監督のごとき副業に従事。専門の職業俳諧師でありながら、営利的な点取俳諧の拒否の気持ちが強かった為といわれる。
延宝八年(1680)庚申 三十七才
冬、江戸市中から郊外の深川の草庵(後の芭蕉庵)に隠棲。俳壇の俗流と絶縁。
笈の小文に、この時期を述懐して:ある時は倦んで放擲せんことを思ひ、ある時は進んで人に勝たんことを誇り、是非胸中に戦うて、これがため身安からず。・・・・・九年の春秋市中に住み侘びて、居を深川のほとりに移す。「長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し」と言ひけん人のかしこく覚え侍るは、この身の乏しき故にや。
このころ荘子と禅・西行、宗祇、杜甫、李白、白楽天、蘇東坡、黄山谷などへの傾倒が顕著:延宝八年秋の嵐亭治助(嵐雪)のある序文に、「桃翁・・・・為に俳諧無尽経を説く。・・・判詞、荘周が腹中を呑んで、希逸が弁も口に蓋す」。また最初深川の新居を「泊舟堂」と号したが、これは、杜甫の詩「窓含西嶺秋雪 門泊東呉万里舟」によるものである。また、「野ざらし紀行」の冒頭「千里に旅立ちて」や「路糧を包まず、三更月下無何に入る、・・・・は、「荘子」逍遙遊編の「千里ニ適ク者ハ三月糧ヲ聚ム」や、中国禅僧の詩集「江湖風月集」の中の広聞和尚の詩句「路粮ヲ齎マズ笑ヒテ復歌フ、三更月下無何ニ入ル」。また、この「無何」は「荘子」逍遙遊編にいう「無何有之郷」(有無を超越し一才の執着を離れきった、人間精神の理想郷)など。「荘子」は芭蕉の人生の書であったと言えるのではないか。(新潮日本古典集成芭蕉句集 今栄蔵氏解説による)
同じく(新潮日本古典集成芭蕉句集)今栄蔵氏解説によれば、「それにしても芭蕉をそういう思索に駆りたてたもの・・・・。それは、中国古代の「荘子」の宇宙哲学・人生哲学による啓示と、中国・日本の古典に見られる理想的文人像と純粋高雅な文学精神への熾烈な憧憬・・・・・。もっとも、「荘子」は宗因風の理論的裏付けとされた「寓言」をとおして当時一般の俳人に広く親しまれ、和漢の古典の詩歌文章は本歌本説取りの材料として、これまた俳人必須の教養とされていたから、芭蕉だけが特殊な本を読んだというわけではない。・・・・・芭蕉ひとりその奥に流れる思想・精神の根源に魂の触手でじかに触れることができた・・・・・。そして、時代の平均的な享受の態度とは異質のこの対応の仕方にこそ、芭蕉の持って生まれた独特の個性の光があった。」
また、同じく(新潮日本古典集成芭蕉句集)今栄蔵氏解説によれば:「荘子」は、天地の間にある新羅万象ー木も草も石ころも虫けらも美しい鳥も人もーの一切を等しく根源的な宇宙意志(大自然の理法)のおのずからなる顕現であるとして、万物みな平等に所を得ている(物皆自得)と見る世界観において、自然哲学の色彩を濃厚にもっているが、その根本精神は人間を俗物化の渦中からときはなして、根源的な人間性の純粋を奪回することにあった。そして現実の人間が実利万能、功利最優先の世の中を作って利害得失を争い、毀誉褒貶を事とし、いたずらに貴賤、賢愚、貧富、栄辱の別を立てて、対立抗争を繰り返しながら、天然自然の純粋を摺りへらしてゆくこと(何か、現代の社会状況を彷彿とさせます。ー 管理者)の無意味さを徹底的に説きあかし、利害を破却し世俗的な価値観の束縛から脱して自由無礙の心の世界ーいわゆる「無何有之郷」ーに住むこそが理想の生き方なのだと説く。
延宝九年(1681)辛酉 三十八才
深川草庵に芭蕉の株が移植され愛好。庵号「芭草庵」、俳号「芭蕉」を用いるようになる。
天和四年(1684)甲子(二月二十一日、貞享と改元) 四十一才
八月、「野ざらし紀行」の旅へ。翌年四月末、約九ヶ月間に及ぶ旅となった。冬、名古屋で「冬の日」(俳諧七部集の第一集)の五歌仙を興業。
貞享二年(1685)乙丑 四十二才
三月、東海道水口の宿で、土芳と当地の医師柳軒とに、寛文五年以来二十年ぶりの感激の対面。「命二ツ中に・・・桜かな」の句を得る。
貞享三年(1686)丙寅 四十三才
八月下旬、尾張蕉門の山本荷兮編「春の日」(俳諧七部集の第二集)出版される。
貞享四年(1687)丁卯 四十四才
八月、「鹿島詣」。十月二十五日、「笈の小文」の旅へ、江戸を出立。途中、渥美半島に「米延商い」(空売り)の罪で御領分追放の身であった杜国とも合流、翌五年四月二十日まで、約六ヶ月に及ぶ旅となる。
笈の小文に己の本質を告白して:百骸九竅の中に物あり。仮に名づけて風羅坊というふ。まことに羅の風に破れやすからんことをいふにやあらん。
この笈の小文のなかの「風雅におけるもの、造化(大自然の理法)に順ひて四時(四季)を友とす」「造化に順ひ造化に帰れ」や、三冊子のなかの「松のことは松に習へ、竹の事は竹に習へ」「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちに言い止めよ」・・・は、「私意を離れよ」との心であるとし、さらにこれを敷衍した、「習えといふは、物に入りて、その微の顕れて、情感ずるや句となるところなり。たとへ物にあらわれ言い出ても、その物より自然に出づる情にあらざれば、物我二つになりて、その情に至らず。私意のなす作意なり」も、「荘子」の宇宙哲学・自然観の芭蕉における到達点を示すのではないか。(前出、新潮日本古典集成芭蕉句集の今栄蔵氏解説による)
貞享五年(1688)戊辰(九月三十日元禄に改元) 四十五才
四月二十三日~六月六日、京都・湖南の間に滞在。八月十日から約二十日間、信濃の旅「更級紀行」の旅。
元禄二年(1689)己巳 四十六才
三月上旬、深川芭蕉庵を人に譲り、杉山杉風の別宅に移る。山本荷兮編「阿羅野」(俳諧七部集の第三集)に序文書き与える。
三月二十七日、「おくのほそ道」の旅に江戸を出立。九月六日まで約六ヶ月に及ぶ旅となる。この旅中において「不易・流行」の思索が始まり、最晩年の「軽み」の芸境へと深化発展することになる。
不易・流行について
去来抄には: 蕉門に、千載不易の句、一時流行の句、というあり。これを二つに分けて教へたまへども、その元は一つなり。
三冊子には: 師(芭蕉)の風雅(俳諧)に、万代不易あり、一時の変化あり。この二つにきはまり、その本一つなり。その一ついふは、「風雅の誠」なり。・・・・新古にもわたらず、今見る所、昔見しに変らず、あわれなる歌多し。これまず「不易」と心得べし。・・・千変万化するものは、自然のことわりなり。(「荘子」の哲学の敷衍かー管理者)変化に移らざれば、風あらたまらず。これに押し移らずいふは、一旦の流行に口ぐせ時を得たるばかりにて、その誠(風雅の誠)をせめざるふゑなり。せめず心をこらさざる者、誠(風雅の誠)の変化を知るということなし。ただ人にあやかりて行くのみなり(耳が痛いー管理者)。せむる者は、その地に足据ゑがたく、一歩自然に進むことわりなり。
また、この不易流行の俳諧観には、栗山理一「芭蕉の芸術観」によれば、この荘子のみならず宋学(イコールではないが主に朱子学)の宇宙観との符号が見られるという。・・・宋学では、宇宙の絶対者として「太極」を想定し、その太極(造化)が万物を生成する創造力を「気」(天地流行)とし、気の流行活動するはたらきをささえる不変の原理を「理」(天地固有)という。そしてその本体を「誠」(風雅の誠)とする。気は分かれて「陰陽」となり、さらに分化して「五行」となる。万物・人倫はその理気・陰陽・五行の働きによって生成し、個々の小宇宙としてはすべて太極の理をそなえていることになる。宇宙のこのような構造として捉える宋学の世界観を俳諧芸術論として適用しようとしたのが芭蕉である。(括弧内管理者註) また、芭蕉が「とかく人情の俳諧なれば」というとき、伊藤仁斎の創始した古義堂学派の影響もみられるという。ほかにも、空海の思想の衍用もみられるという。(管理者所見:大まかに概観すれば、芭蕉は宇宙観・自然観は荘子や宋学から、人倫については宋学(ここでは朱子学)から脱して、古義堂学派の思想に近かったのではないか。朱子学の人倫の部分の「名分論」のその後の時代の行方や、荻生徂徠の古文辞学や本居宣長の国学などへの流れを考えると、この辺は興味が尽きない。吉川幸次郎著「仁斎・徂徠・宣長」に詳しい。)
九月、伊勢参宮を終え帰郷。十一月末、奈良、京都、大津に遊び、膳所で越年。
元禄三年(1690)庚午 四十七才
歳旦吟 薦を着て誰人います花の春
正月、膳所から上野に帰郷。
三月二日、小川麦風邸で花見の宴。その折の即吟発句 「木の本に汁も膾も桜かな」 は、「軽み」を発揮したと自認。(服部土芳「三冊子」によれば、師(芭蕉)のいはく「花見の句のかかり(風情)を少し心得て、「軽み」をしたり」となり。)さっそく連句での「軽み」の発揮を試みて、同席の門人を相手に苦吟するが、不成功に終わる。
三月中旬(下旬とも)、膳所に赴き、近江蕉門の浜田珍碩(後の洒堂)・菅沼曲水と「花見」の三吟歌仙興業。「軽み」の発揮されたのを喜び、浜田珍碩編「ひさご」(俳諧七部集の第四集)の巻頭に飾る。その後、惜春の情を味わうべく人々を誘って、義仲寺から志賀・辛崎に舟を浮かべた。
向井去来著の俳論集「去来抄・先師評」に、この時得た句の評の問答
行く春を近江の人とをしみける 芭蕉
先師曰く、尚白が難に、近江を丹波にも、行く春は行く年にもなるべしといへり。去来曰く、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春を惜しむに便りあるべし。殊に今日の上に侍ると申す。先師曰く、しかり、古人も此の国に春を愛すること、をさをさ都にをとらざるものを。去来曰く、此の一言心に徹す。行く年、近江にゑたまはば、いかでか此の感ましまさん。行く春、丹波にゑまさば、もとよりこの情うかぶまじ。(ちょっと言い過ぎか-管理者)風光の人を感動せしむること、真なるかなと申す。先師曰く、汝や去来、ともに風雅をかたるべきものなりと(かなり手前味噌かー管理者)ことさらによろこびたまひけり。
「軽み」について
三冊子に: 芭蕉は、このような「軽み」の芸境の根本的修行法として、「高く心を悟りて、俗に帰るべし。(高悟帰俗・市中の隠か)」と教示した。三冊子の著者・土芳はこれを、常に「風雅の誠」をせめ悟りて、いまなすところ俳諧に帰るべし。の意であるとし、また補足して、誠(風雅の誠)をつとむるといふは、風雅に古人の心を探り、近くは師(芭蕉)の心よく知るべし、とした。
去来書簡(不玉宛去来論書)に:「翁(芭蕉)曰く、当時の俳諧は梨子地の器に高蒔絵したるが如し。美しくし善つくすといへども漸く之に飽く。我門人の句は桐の器をかき合わせにぬりたらんがごとく、ざんぐりと荒らびて作すべし。」また、同じ書簡中に「鴻雁の羮(あつもの)をすてて芳草を食え」とある。
参考・釈迢空の「軽み」論:「近江の芭蕉」の中で著者の山村金三郎氏が恩師の釈迢空・折口信夫の言葉として次のように書かれている。
では、芭蕉の庶幾した「軽み」とはいったいどのような文学理論であろうか。私が昭和二十二年ごろ、直接歌会の席で「軽み」について質問したところ、先師、釈迢空は、「文学と人生が軽く接触している状態」と説明されたことがあった。人生を低俗なものとのみ断定し、芸術のみが真実であるとすると、「星菫派」「芸術至上主義」の立場になって現実の人生からは遊離した世界に遊ぶことのになってしまう。だといって、かっての「自然主義」を標榜すると、ともすれば、現実社会の泥沼に足をとられてしまう。その結果作品はつまらぬ凡々たるものになってしまうのであろう。「文学」の世界と「人生」とが軽く接触している状態、それを「軽み」という述語で表現したのが芭蕉である。
参考・西行の「軽み」について:白洲正子氏は「西行の軽みについて」、「風土」1989年1月号(「夕顔」新潮文庫、所収)にかかれている。概要を要約して紹介する。(異釈があるといけないので、さらに興味ある方は直接、原文をお読み下さい。)
西行は晩年に伊勢の大神宮に奉納するために「御裳裾川歌合」と「宮川歌合」という2冊の自歌合を作った。前者の判詞を長年の友人の藤原俊成に後者をその子の定家に依頼した。しかし定家は大先輩の歌を批評することに不安と遠慮を感じたのか、なかなかできなかった。待ちに待った定家の判詞が届いたのは最晩年の河内の広川寺にいて、病も篤くなっていた頃であったという。西行は喜んで直ちに返事をしたためたが、その中に興味深い箇所がある。
宮川歌合の九番に、下記の様な歌が並んでいる。(本来は左右に並ぶ)
左:世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせん
右:花さえに世をうき草になりにけり散るを惜しめばさそふ山水
それに対する定家の判詞は次のようなものであった。「右歌、心ことばにあらはれて、すがたもいとをかしく見え侍れば、山みずの花の色、心もさそはれ侍れど、左歌、世の中をおもへばなべてといへるより、をはりの句のすゑまで、句ごとにおもひいれて、作者の心ふかくなやませるところに侍れば、いかにも勝ち侍らむ。」・・・・・大そう前置きが長くなったが、ここからが大事なところである。(下罫線部分ママ)定家の判詞にはなお先があって、右歌の「散るを惜しめば」を、「春を惜しめば」に変えたらどうかと提案した。それについて西行は、その方が、「長高くなり、心もこもり、面白くも覚え候」とその提案を褒めちぎったあとで、「又今ひときは更に、唯今思事候」と書く。こういうところにかつて勇敢な武士であった西行の強さを私は想うのだが、その理由は、やはり右の歌は、「散るを惜しめば」でなくてはならない。一つには歌の姿の、「花さへに」からつづけてきた後の、「躰の軽きをもむきのすぢに候」と言い切るのだ。
若い頃の西行は、自分の心をもてあまして、晦渋な歌を詠んだことも事実であるが、年をとるにしたがって明るく軽くわかりやすくなっていくようだ。時には俗語を使うことも恐れてはいない。定家が・・・耽溺し・・・和歌を一つの学問・・・教養・・・宮廷歌人として・・・、根本的に西行とは、資質が違うのである。・・・・・。芭蕉は西行を尊敬していたから、彼のいう「軽み」という言葉も西行の歌を読んで自得したものに違いない。・・・・・・・「軽み」とは、何十年の経験と、死の直前まで全身全霊を集中して、はじめて得られる重いものなのである。
四月十日此筋、千川宛書簡に、この正月の歳旦吟(薦を着て誰人います花の春)に関して、五百年来昔、西行の「撰集抄」に・・・・・。京の者どもは、「薦被りを引付の巻頭に何事にや」と申し候由、あさましく候。(風雅を解しない浅見である。)「例の通り京の作者つくしたる(全くいない)」と、沙汰人々(近江蕉門の人々)申すことに御座候。
四月六日~七月二十三日、国分山の幻住庵に滞在。在庵中に「幻住庵の記」の稿の推敲を重ね、出庵後に完成。
七月下旬~九月下旬、湖南の地に滞在、おおむね膳所、義仲寺、無名庵に居住か。その間八月十三日「ひさご」出版。
九月末、膳所から帰郷。約三ヶ月滞在。その間に、京・湖南に出向く。
年末、大津の川井乙州の新宅に滞在し、越年。
元禄四年(1691)辛未 四十八才
正月上旬、大津から帰郷。
四月十八日~五月四日、京都嵯峨野の落柿舎(向井去来の別宅)に滞在。「嵯峨野日記」を書く。五月五日~六月十九日、おおむね京都の野沢凡兆宅に滞在、「猿蓑」監修に参加か。
六月二十五日~九月二十八日、おおむね膳所、無名庵。一時京に出向く。七月三日に「猿蓑」(俳諧七部集の第五集)出版。
九月二十八日、膳所から江戸に立つ。
元禄五年(1692)壬申 四十九才
二月十八日、菅沼曲水宛書簡に、・・・・・一、風雅の道筋、おほかたに世上三等に相見え候。点取り(俳諧)に昼夜を尽くし、勝負を争い、道を見ずして走り廻る者あり。・・・・
五月、門人の尽力で旧庵近くに復興された芭蕉庵に借家から転居。
五月七日、向井去来宛書簡に・・・・・この方(江戸か)俳諧の体、・・・・かたまで、点取はやり候。もっとも点者どものためには、・・・・さてさて浅ましく成り下がり候。なかなか「新しみ」など「軽み」の詮議思いよらず、・・・・余所に目を眠り居り申し候。
元禄六年(1693)癸酉 五十才
三月下旬、甥の桃印が、芭蕉庵で病死。
七月の中旬~八月中旬、「閉関の説」を認めて約一ヶ月間、庵の門戸を閉ざして、人々との面会を断つ。
十月九日、大坂の洒堂あて書簡
贈洒堂
湖水の磯を這い出でたる田螺一疋、芦間の蟹の鋏を恐れよ。牛にも馬にも踏まるる事なかれ。
難波津や田螺の蓋も冬ごもり 市の庵
元禄七年(1694)甲戌 五十一才
二月二十五日、森川許六宛書簡に、美濃如行が三つ物は、「軽み」を底に置きたるなるべし。・・・・
四月、元禄二年以来推敲を続けてきた紀行「おくのほそ道」が完成。
五月十一日、帰郷すべく江戸を立つ。同二十八日、郷里に帰着。
五月上旬、帰郷直前に芭蕉が志深い物あれば申し聞かせよと言って杉風に言い残した言葉(元禄八年六月、杉風から甲州芭蕉門であった高山麋塒に伝達の書面)
一、翁近年申し候は、「俳諧(は)和歌の道なれば、とかく直なるやうに致しへ。・・・」
一、「段々句姿重く、理にはまり、むつかしき句の道理いりほがに罷りなりに候へば、皆只今の句体打ち捨て、軽くやすらかに、不断の言葉ばかりにて致すべし。ここをもつて直なり」と・・・
一、「古来来歴致すべからず。一向己の作なし」と・・・
一、「古人も賀の歌そのほか作法の歌に面白きことなし。山賤、田家、山家の景気(景色)ならでは哀れ深き歌なし。俳諧もそのごとし。賤のうはさ(庶民の話題)、田家、山家の景気専らに仕るべし。景気、俳諧に多し。諸事の物に情あり。気を付けて致すべし。不断(日常の)の所に昔より言い残したる情山々あり。」と・・・
一、翁、「近年の俳諧(軽みの俳諧)、世人知らず。古きと見えし門人どもに(軽みの句の)見様申し聞かせ候。一遍見てはただかるく、埒もなく、不断の言葉にて、古きやうに見え申すべし。二遍見申しては、前句の付けやう合点いき申しまじく候。三遍見候はば、句の姿変りたるところ見え申すべし。四遍見申し候はば、言葉古きやうにて、句の新しきところ見え申すべし。五遍見候はば、句は軽くとも意味深きところ見え申すべし。・・・・これにておおかた合点致すべし」と・・・・
一、翁近年の俳諧合点仕り候者、江戸・上方の門人どのの中に人数三十人ばかりも御座あるべく候。そのほかは、前句付、また点取りばかり仕り候へば、その者どもには少しも(軽み法を翁は)伝へ申されず候。「総じて江戸中、上方とも十年先(前・昔)の寅の年(貞享三年)の俳諧の替り目のところにとどまり罷りあり候。その時よりは悪しく御座候」よし、翁申され候。・・・・・
閏五月十六日~同二十二日、おおむね膳所の菅沼曲水邸に滞在。
閏五月二十一日、河合曾良宛書簡に、名古屋古老の者どもは、少し俳諧も仕下げたるように・・・・・・。中老、若手さかりに勇み、俳諧もことのほか精出し候ゆゑ、よほど「軽み」を致し候。
同閏五月二十二日~六月十五日、おおむね嵯峨の落柿舎に滞在。この間六月八日、江戸の芭蕉庵にて縁深き女性・寿貞の訃報に接する。
六月十五日~七月五日、おおむね膳所・義仲寺、無名庵に居住。この間、六月二十八日に「炭俵」(俳諧七部集の第六集)出版。
六月二十四日、杉山杉風宛書簡に、・・・・・・・・・・・・・・・・。まず「軽み」と「興」ともつぱらに御励み、人々にも御申しなさるべく候。
七月十日、河合曾良宛書簡に、・・・・・・。京・大坂・膳所の作者、目はづかしき者ども見候あひだ、随分新意の「軽み」にすがり、劣りなきように勤められ候やう、御伝え下さるべく候。・・・・・・・・
七月中旬、京都を経由して、帰郷。九月上旬、各務支考を相手に「続猿蓑」(俳諧七部集の第七集)の編集をほぼ完成。(出版は、芭蕉没後の元禄十一年五月)
八月九日、向井去来宛書簡に、ここもと(故郷・伊賀のことか)、たびたび会御座候へども、いまだ「軽み」に移りかね、しぶしぶの俳諧、さんざんの句のみ出で候て、迷惑いたし候。
九月八日、郷里を出立。大坂に向かう。
九月九日、夜、大坂に到着。翌十日から二十日ごろまで、連日、夕方、発熱、悪寒、頭痛に悩み、二十一日以後、小康を得る。
九月二十三日、窪田意専、服部土芳宛書簡に・・・・・両吟感心。拙者逗留(伊賀に)の内は、この(軽みの)筋見えかね、・・・総体「軽み」あらわれ、大悦すくなからず候。・・・・・この道を行く人なしに秋の暮 はせを (最期には、「所思」と題して、「この道や行く人なしに秋の暮」とする。)
九月二十九日、夜、下痢を催し、以後、日を追って様態悪化する。
十月五日、病床を南御堂前の花屋仁右衛門の貸座敷に移し、危篤の旨を、湖南、伊勢、尾張など各地の門人に急報。
十月十日、死期を悟った芭蕉は、郷里の兄松尾半左右衛門に遺書を認め、別に三通の遺書を支考に口述筆記させる。
十月十二日、午後四時ごろ死去。遺言により、遺骸を膳所の義仲寺に収めるため、当夜、淀の川船にて伏見に運ぶ。十月十三日、義仲寺に遺骸到着。 (路通の「芭蕉翁行状記」によれば、「ここは東西のちまたさざ波きよき渚なれば生前の契り深かかりし所也」と言い残したとある。)
十月十四日、夜半零時、遺骸を義仲寺境内に埋葬。導師、直愚上人、門人焼香八十人。会葬者三百余人。
追記:内野三悳著「芭蕉絵物語」に芭蕉の先祖についての記述がありました。出典は不明です。「・・・祖先は平治の乱のとき、頼朝が生け捕りにされて、京都の四条川原で殺されようとしたのを助けた平家のさむらい、弥平兵衛尉宗清とつたえられています。・・・宗清は、平家がほろんでのち、伊賀の柘植の庄にかくれたといわれます。」だそうです。
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