芭蕉の門人たち

http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/basyoyoshinaka/newpage1monnjinn.html 【芭蕉の門人たち】より

季吟   北村氏   

芭蕉の師

北村季吟の墓は東京都台東区池之端2-2-22の正慶寺の本堂裏の墓地にある。墓石正面には再昌院法印季吟先生とあり、左側面には家紋の下に行書で

 花も見つ郭公をもまち出でつ この世後の世おもふ事なき と辞世が刻まれている。

芭蕉は若い時、藤堂藩伊賀付き侍大将の藤堂新七郎良精家(五千石取り)に台所方用人として召し抱えられた時、良精の三男主計良忠(俳号蝉吟)が、北村季吟に師事して談林風の俳諧を嗜んでいた。蝉吟の推挙によって、芭蕉は季吟の門弟となったとみられる。

季吟は医師の父宗円の嫡子として、京都粟田口で生れた。父祖宗龍は近江国野洲郡祗王村北村(滋賀県野洲郡野洲町北)の出身で、宗龍・宗円ともに曲直瀬家(まなせけ)に学んだ医師であったが、宗龍は里村紹巴(じょうは)の門弟で連歌に優れ、毛利元就の七男元康に仕えた。季吟は幼い時から学問を好み、医書よりも国学書に興味を持ち、寛永十六年に安原貞室の門に入り、やがて十九歳の時に松永貞徳直門となって、和歌・国学・俳諧を学んだ。季吟は正保四年(1647)に「山井」を刊行し、貞門の新鋭と目されたが承応二年(1653)に貞徳が没すると俳諧を廃し飛鳥井雅章・清水谷実業について和歌・歌学を修め歌学者として立ち「大和物語抄」を初め「土佐日記抄」「伊勢物語拾穂抄」「八代集抄」「湖月抄」「源氏物語湖月抄」「徒然草文段抄」「枕草子春曙抄」「万葉集拾穂抄」など多くの古典の解釈注釈書を著した。季吟の門から松尾芭蕉・山口素堂らすぐれた俳人を輩出した。天和三年(1683)季吟は京都の新玉津島神社の祠官となったが、烏丸光弘の推薦により元禄二年(1689)嫡子湖春とともに幕府の歌学方となった。元禄十二年には法印同十四年には二百石を加俸され八百石を得、再昌院の号を賜り、晩年は江戸目白台の松平大炊の守邸内の別邸で過ごし、宝永二年(1705)八十二歳で没した。

     鳥籠の憂き目見つらん郭公       (曠野)

     女郎花たとはばあはの内侍哉

     出来秋や一年ぶりの笑ひ顔  (歌俳百人撰巻之三)

     氷るらん足もぬらさで渡川      (枯尾花下)

湖春        ~

1月15日 53歳 季吟の長子で国学者・俳人湖春の墓は、東京都新宿区若葉2-3の日宗寺にある。その他三代から七代までの墓が並んでいる。湖春は元禄二年、父とともに江戸に移り、幕府の歌学方に準ぜられ、のち法印(僧位の最上位)に進んだ。俳諧は初め父にのち芭蕉に学び、寛文七年父の命によって「続山井」を編集した。この俳諧撰集に若き日の芭蕉の作品二十八句を入集するようにしたのは、季吟であった。湖春は父に先立つこと八年元禄十年五十三歳で没した。

     あめつちのはなしとだゆる時雨哉   (曠野) 

     名月や見つめても居ぬ夜一よさ    (炭俵)

     亦たそやあヽ此の道の木葉搔  (枯尾花下)


其角 榎本氏(母方の姓)後宝井氏

2月30日 47歳 芭蕉の愛弟子で天賦の才をほしいままにした宝井其角の供養墓は、東京都世田谷区北烏山5-9-1の称生院本堂左横にある。本堂左横の樹林の中に、宝晋堂と名づけられた小さな阿弥陀堂があり其角の木造が安置されている。傍らに宝井の由来の井戸が形だけ残され右手には、

     夕立や法華かけこむ阿弥陀堂

の句碑がある。

医師竹下東順(もと江州堅田の人)の子として江戸堀江町に生れる。俳家奇人談巻の中によると、未だ源助たりし時は、神田於玉が池に住せりとある。貞享中照降町へ居を移す。破笠が記に嵐雪とともに同居せりとあるのが此の頃という。元禄の間芝神明町へ移居す。後茅場町へ草庵を結ぶ。近隣に徂徠翁の家あり。

      梅が香や隣は荻生惣右衛門

俳家奇人談巻の中によるとこの句何れの集にもみえねども、専ら人の誦する所也とある。

「延宝のはじめ」(「五元集」)つまり14,5歳頃芭蕉に入門。まだ芭蕉が30歳をわずかに過ぎた頃に師として仕えたことになる。芭蕉の最初の門弟である。

16歳で、草刈三越について医学を学んだのは、父の業を継ぐ志があったためであろう。

儒学の師は、六代将軍家宣の侍講となった服部寛斎である。鎌倉円覚寺の大巓和尚に詩 学・易学を学び書を佐々木玄龍、絵画を英一蝶に師事するなど、当時の最高水準ともいえる教育を見につけたのである。

父東順は俳諧を嗜んでいたので、其角九歳の時、父の詠を聞き「午ならばいかほどはねん丑の年はねもはねたり寛ン文ン元ン年ン」(みみな草)と詠んでその奇才ぶりを示したという。

元禄6年秋、芭蕉は俳文「東順の伝」をのこしている。「湖上に生れて東野に終りをとる。是必大隠朝市の人大悟徹底した真の隠者はかえって都会の民衆の中に住むというが彼こそまさにそういう人)なるべし。」と結び、

     「入月の跡は机の四隅哉」

の句を加えている。生来の資質と才気で頭角を現し、天和3年(1683年)には、漢詩文の句調の「みなしぐり」を編む。これにより其角は俳壇での存在を確立した。芭蕉はその跋文で、「虚栗」が杜甫・寒山・西行・楽天などの心を学ぶものであることを述べた。それは、作者の実感や印象が、そのような方法による屈折を経ずには、まだ表現できなかったからであろう。

貞享元年(1684)24歳。3月、其角はじめて上洛の旅に出た。6月、偶々住吉社前における西鶴の大矢数俳諧興行にめぐりあわせた。

俳諧宗匠立机は、貞享3年(1686年)か。

元禄元年(1688)7月、其角は2度目の上洛の旅に出る。冬、西鶴を大坂鎗屋町の庵に訪れた。「西鶴名残の友」には、「一日語るうちに互ひに俳諧の事どもいひ出さぬもしやれたる事ぞかし」と記している。そのまま京に滞在して越年し、去来・凡兆らと往来して、秋帰東。

元禄4年(1691)「猿蓑」刊25句入集。これに序文を記す。「おくのほそ道」の旅を終えて上方に滞在中だった芭蕉は11月江戸に帰った。4年ぶり其角は師に見えた。 

俳諧撰集[桃の実」(安永4年刊)によれば、後年(元禄5年)のことであるが、3月3日の桃の節句の時、其角と服部嵐雪を迎えた芭蕉は「草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪」と前書を付して、

      両の手に桃と桜や草の餅

と詠んで、二人の愛弟子を持った喜びを表明している。

元禄7年(1694)5月、芭蕉は最後の旅に出た。其角は秋の末のころ、その跡を追うようにして東海道を上り、図らずも大坂で最後の対面を果たす。20年随従した師恩を思い、帳然(がっかり)する。追善集「枯尾花」上梓後、翌年の春まで、中長者町の去来の家の客となっていたようである。

元禄10年其角37歳。夏、去来は一書を送って、其角が師の遺風に遠ざかるのを難じた。其角の作風を、芭蕉は自らの閑寂に対し「伊達風流にして作為のはたらき、面白物」と評した。かなり感情を抑えた言い方であろう。

常に蕉門の高足として影響力を発揮し、師没後は、都会風で新奇壮麗な表現を好み、蕉門以外の江戸俳壇の後進からも広く洒落風の祖と仰がれた。竹内玄玄一著の「俳家奇人談」によると「常に酒を飲んで、その醒めたるを見る事なし」「多能なり」と評されている。其角は酒の上の失敗もかなりあったようである。芭蕉が

      朝顔に我は飯食う男なり

という句を送って、其角の大酒を戒めたという。其角は磊落な性格だっただけに、交友関係は幅広く、俳人・浮世草子作家井原西鶴を初め、歌舞伎俳優2世市川団十郎、豪商紀伊国屋文左衛門、赤穂義士の大高源吾・富森助右衛・神崎与五郎らとも俳諧を通して親しかった。

俳諧に点数を付して享受する形式、点取り俳諧があるが、この形式を蕉門に積極的に推進した人物が其角である。芭蕉は「風雅三等之文」において「点取俳諧」を批判している。

切られたる夢は誠か蚤のあと  蚊柱に夢の浮橋かかるなり

鐘一つうれぬ日はなし江戸の春  名月や畳のうへに松のかげ

此の木戸や鎖のさされて冬の月 (猿蓑) あさつきに祓やすらん桃の酒 (木因宛書簡)

気晴ては虹立空かよもの春 (知足宛書簡) 声かれて猿の歯白し峰の月 (猿雖宛書簡) 

老が子は信濃にもありけふの月 (白雪宛書簡) 雪の日や船頭どのの顔の色  (曠野)

とばしるも顔に匂へる薺哉 (炭俵) 寝時分に又みむ月か初ざくら    (続猿蓑)

花盛り子であるかるる夫婦哉  笹の葉に枕付けてや星むかへ

日の春をさすがに鶴の歩みかな 梅が香や乞食の家も覗かるる(歌俳百人撰巻の一)

吹井より鶴を招かん時雨かな(枯尾花上)なきがらを笠に隠すや枯尾花(枯尾花上)

まぼろしも住ぬ嵐の木葉哉 (枯尾花上)

其角は技量・学識・素養において、まさしく蕉門随一の高弟であったが、宝永4年2月30日47歳で没した。絶詠は2月23日に詠んだ 鶯の暁寒しきりぎりすである。


去来 向井兼時 喜平次平次郎   

9月10日 53 肥前国長崎興善町の聖堂祭酒・儒医向井元升の次男として生れる。幼名は慶千代、通称は喜平次、後に平次郎(平二郎とも)。兄元端も儒医。弟魯町・牡年・妹千子、妻可南も俳諧を嗜む。万治元年(1659)11月八歳の時、父元升に伴われて母久米、兄元端・弟元成らとともに京に移住した。

寛文6年(1666)母の実家久米緒左衛門利品(弁顕)の許に養われるべく筑前福岡に旅立った。そこでは馬術・柔術・剣術・兵法を学んだ。25歳ごろ京に戻る。

延宝5年(1677)父を天和2年(1682)に母を失った。その後まもなく俳諧の道を歩み始めた。

貞享元年(1684年)其角を介し芭蕉に入門。

貞享5年(1688)3月、「笈の小文」の旅で吉野にあった芭蕉は、去来の「一昨日ハあの山越ッ花盛り」の句を称賛している。

元禄2年(1689)「奥のほそ道」の旅を終えた芭蕉は、伊勢から故郷伊賀上野へ帰り、奈良を経て、京へ出て12月24日落柿舎に到った芭蕉から不易流行の説を聞いたのもこの頃である。

元禄4年(1691)4月18日、落柿舎に移った芭蕉は5月5日まで滞在した。去来は芭蕉の監修のもと、凡兆と「猿蓑」を編集刊行する。師の嵯峨日記は佐賀の別墅落柿舎における同年の作。

元禄7年(1694)1月29日、芭蕉は去来宛書簡を認め、山本苛兮「曠野後集」出版に対する去来の不満を、俳風建立の理想確立の時期だからと深く戒めている。温厚篤実と言われる去来であるが、蕉風一門のため芯の強さを表明している。

元禄7年10月6日、芭蕉が病臥していることを知り、伏見から夜舟で大坂に直行。9日、病床の芭蕉は「大井川」の句を破棄するよう依頼。12日、芭蕉が没すると直ちに遺骸を川舟に乗せ、其角・支考等と大津の義仲寺に運んだ。

元禄8年(1693)9月12日、芭蕉の実兄半左衛門から借りていた素龍清書の奥のほそ道を写了し、その跋を草した。

温厚篤実な人柄は同門の人々から敬愛され、「西三十三カ国の俳諧奉行」に擬せられる。また、俳論書「旅寝論」、「去来抄」は師説を忠実に伝え、後世に多大な影響を与えた。

湖の水まさりけり五月雨 (曠野)  花守や白きかしらをつき合せ  (炭俵)

岩はなやここにもひとり月の客    応応といへど敲くや雪の門

一昨日はあの山越えつ花盛り   いそがしや沖の時雨の真帆片帆    (猿蓑)  

春や祝ふ丹波の鹿も歸とて  (炭俵)   のぼり帆の淡路はなれぬ汐干哉  (続猿蓑)

有明にふり向きがたき寒さかな(俳諧世説巻之二)  おうおうとへえど扣くや雪の門 (俳諧世説巻之二)

凩の空見なをすや鶴の聲  (枯尾花上) 病中のあまりすするや冬ごもり (枯尾花上)

忘れ得ぬ空も十夜の泪かな   (枯尾花上)


彦根

延宝4年(1676)21歳で出仕、55歳で致仕するまで三百石取りの武士。

許六の号は、六芸に通じていたことに由来する。(鑓・剣・馬・書・画・俳)特に狩野安信門と伝える画業に優れ、芭蕉から師と仰がれた。

18歳の頃俳諧の道に入り、北村季吟らに学んだ「俳諧問答」(「自讃之論」)

近江蕉門尚白の門をくぐり、元禄4年江戸下向の折には、其角・嵐雪の指導を受けた。が、都会派の其角の作風には馴染めず、独学で「曠野」や「猿蓑」に眼を晒したという。

元禄5年(1692)8月9日、参勤出府の折、芭蕉に入門、「かるみ」の伴侶として嘱望される。

翌六年5月6日に江戸を発ち、帰郷の途につくまでの9か月は、許六が生涯忘れることのない期間であった。新しい誹風を切り開こうとする芭蕉の意欲に学んだ許六のかるみ論が腸の厚き所から出るものでなければならないと説いているのは、注目すべきところである。

元禄5年10月3日、許六亭での興行歌仙は

 けふばかり人も年よれ初時雨  ばせを  野は仕付たる麦の新土   許六

の発句・脇句ではじまっている。発句の「年よれ」に対して脇の「新土」と、新鮮な気分で応じている。

また元禄5年冬、許六は深川の草庵に芭蕉を訪ねての三つ物は

寒菊の隣もありや生け大根    許六   冬さし籠る北窓の煤  翁

月もなき宵から馬を連れて来て     嵐蘭

と詠んだ。発句について、「俳諧問答」(「自得発明弁」)によると、「師ノ云ク「発句は華竟取合物とおもひ侍るべし。二ツ取合て、よくとりはやすを上手と云也」といへり。ありがたきおしへ也。これ程よきおしへあるに、とり会はする人稀也。云々」と記している。「寒菊」は、孤高な芭蕉を『生け大根』(貯蔵のため埋められた大根)を凡俗な自分になぞらえて、師への挨拶句とした。

芭蕉もこれを受けて、草庵のわびしさを「煤」として把え表現した。「三冊子」(赤)に「煤の一時、俳諧のよみかたにして達人の手がらといふはこれ也」と絶賛している。芭蕉庵にわびしく隠遁生活をしている主の心が表されている。「俳諧問答」(俳諧自讃之論)によると、元禄6年「3月尽の日より卯月3,4日まで芭蕉は予が宅に入りて逗留し給ふ。昼夜俳談を聞く」と記す。こうして許六はめきめき上達していった。元禄6年3月中旬、芭蕉は、許六に「俳諧新式極秘伝集」「俳諧新新式」「大秘伝白砂人集」の三伝書を与えている。許六元禄6年5月帰藩直前に芭蕉は「許六離別の詞」を贈る。帰国後彦根蕉門の指導者となり「韻塞」を編む。

十団子も小粒になりぬ秋の風  (続猿蓑)  桟やあぶなげもなし蝉の声

やまぶきも巴も出る田うへかな     (炭俵)元禄六年夏、江戸から彦根に帰る道すがらの吟である。木曽路にかかった時、恰度田植時で、女達が出揃うているのを見て、あの中には山吹も巴も交じっているであろう、と興じたのである。

清水の上から出たり春の月  菜の花の中に城あり郡山   こっぱなき朝の大工の寒さ哉

うの花に芦毛の馬の夜明哉       (炭俵)

師の没後、「篇突」「宇陀法師」などで、血脈説・取り合せなどの俳論を展開し蕉風俳諧の格式を立て、また芭蕉の遺志を継いで俳文集「本朝文選」を刊行した。

     一たびの医師ものとはん歸花    (枯尾花上)


鯉屋杉風  杉山氏

6月13日 86 芭蕉の門弟であると同時に、芭蕉の有力な庇護者であった杉山杉風の墓は、東京都世田谷区宮坂2-24-5の築地本願寺派成勝寺本堂裏の墓地にある。上段には「杉風墓」と記されその下には、    痩せがほに団扇をかざし絶しいき

と辞世が刻まれ、さらに線描きの杉風肖像が彫られている。揮毫は俳人臼田亜浪である。大正十二年震災に罹りて墓碑の破損せる為遺骨を此に改葬すると共に昭和五年十一月之を再建すと碑陰に刻まれている。傍らに立つ墓誌銘には芭蕉桃青居士元禄七年十月十二日とあり芭蕉の供養墓ともなっている。

父賢永は摂津国今津の人。江戸日本橋小田原町の幕府御用達の魚問屋を営み、俳諧を嗜み、号は仙風。杉風はその長男父の家業を継ぎ幕府へ魚を納める公用御納屋(魚問屋)を営み、通称を鯉屋市兵衛(二代目)藤左衛門といった。芭蕉が初め東下したのは寛文12年(1672)のこと。まず世話になったのは杉風の家。正確には杉風の父賢永俳号仙風)の家であった。深川の芭蕉庵も、杉風の所有する生州の傍にあったその別荘を提供したもの。二十二年間にわたる長い年月終生芭蕉の援助に努めた蕉門最古参の人である。俳諧は初め談林に親しみ、作品の所見は惣本寺高政(伴天連社高政とも)の延宝3年の撰んだ「俳諧絵合」である。明らかに芭蕉門下として、その活動を示したのは、延宝8年刊の「桃青門弟独吟20歌仙」からのことである。同じ年に自らの句を合せた「常盤屋之句合」に、芭蕉の判を得てこれを公にした。

青わさび蟹がつま木の斧の音    橙を密柑と金柑の笑って曰く

がある。「橙を」の句は、芭蕉が当時荘子の寓意を好んだ句風から学んだもの。貞享・元禄と芭蕉の風調が漸く一変するや彼もまたそれに伴なって移った。

     影ふた夜たらぬ程見る月夜哉

と平易な句調を示している。元禄期に入って蕉風「かるみ」の季節が訪れる。

元禄5年正月、芭蕉は   「鶯や餅に糞する縁の先」 の句を詠んで、これを2月7日付で送った杉風への手紙の中で「日頃工夫之処にて御座候ふ」と報じている。この「かるみ」の風を、江戸の重鎮其角・嵐雪は容易に受け入れようとしなかったため、芭蕉の期待は、杉風に注がれていったのである。

元禄7年5月初旬、西上の旅に立つ芭蕉送別の俳席が、杉風・桃隣らが集まって、深川の子珊の別亭で開かれた。席上、芭蕉は「今思ふ体は浅き砂川を見るごとく、句の形・付心ともに軽きなり。其の所に至りて意味あり」(「別座舗」子珊序)。「別座補」は杉風ら深川一派による「かるみ」の風実践の結晶であった。

芭蕉の没後甲斐の高山麋塒に彼が送った手紙の中には、

・・・・・今までの句体打ち捨て、軽くやすらかに、不断の言葉ばかりにて致すべし。云々

などとある。この手紙を子細に吟味する事によって、軽みの真義はほぼ明らかになる。

芭蕉が戯れに「去来は西三十三カ国の俳諧奉行なり。杉風はひがし三十三カ国の俳諧奉行なり」と言ったという。杉風篤実な人柄に寄せる信頼感の表われである。

東京都文京区西片1-15-6に興禅寺があり入り口東側に高さ2,2メートル幅90センチの大きな句碑が立っている。碑面には

     昏がたの空に遊ぶや郭公  杉風舎衰翁

と刻まれている。衰翁とあるのは杉風の別号で初め蓑翁といっていたが大病を患った後、耳が聾し髪が抜けてはなはだ痩せ衰えてしまった。その姿を見た芭蕉は戯れに「蓑」の字の冠をとって「衰」としたらよいのではないかといったことから、杉風も晩年自ら「衰翁」を別号にしたと伝えられている。

元禄七年(1694)十月十日大坂の仮寓で発病した芭蕉は門弟各務支考に代筆させて三通の遺言状を残した。その中の一通に、杉風宛のものがあり、 

杉風へ申し候。久々厚志、死後迄忘れがたく存じ候。不慮なる所にて相はて、御いとまごいいたさざる段、互いにぞ念是非なきことに存知候。いよいよ俳諧お勤め候て、老後のお楽しみになさるべく候。と認めている。

初雪やふところ子にも見する母   雪の松折れ口見れば尚寒し      (炭俵)

がつくりとぬけそむる歯や秋の風  (猿蓑)  橘や定家机のありどころ (炭俵)

年のくれ破れ袴の幾くだり  梅咲り松は時雨に茶を立る比 (木因宛書簡)

襟巻に首引入て冬の月(尚白宛書簡)(益光宛書簡)何となく芝吹く風もあはれなり   (俳諧世説巻の五)   蚊のすねも達者に見ゆる夏の内 (俳諧世説巻の五)

延宝八年の(1680年)「桃青l門弟独吟二十歌仙」で巻頭を飾って以来、元禄7年(1694年)の「別坐鋪」まで、師の変風によく追随した。句風は、平明率直。

 山々を信濃の者に語らせて    (枯尾花下)

僧 支考 各務氏 鎭藏司鎭藏主

2月 67 美濃国山県郡(現岐阜市)北野似、父村瀬某の次男として生まれ、各務氏を名乗るのは、次姉の嫁ぎ先に入籍してからである。

11歳の時、寺庭の紅葉を見て、「色は葉に出でて散りぬる紅葉かな」と詠んだとも。

支考は蕉門十哲の中でも異色な人物である。作家として一流であったわけではなく、むしろ、蕉風宣伝支持者として注目された。仏門を去って伊勢山田に隠れ、医学に志した。しかし還俗して支考と号し、俳諧に志す。

芭蕉に師事したのは、近江国で元禄3年(1690年)3月3日26歳の時。芭蕉46歳。芭蕉晩年に入門。

元禄4年10月、芭蕉の東帰に際して桃隣とともに随行している。

元禄5年、奥羽を行脚し「葛の松原」を上梓。

元禄7年芭蕉が京都・湖南に滞在していた間は廔廔訪ねて教えを受ける。芭蕉が伊賀から大坂に赴く折は、随行して、芭蕉は臨終の2日前元禄7年10月10日)支考を枕元に呼び寄せ、遺書の口述筆記をさせている。

「遺状その二」で芭蕉は支考此の度前後の動き、親切実を尽され候ふ。・・・・庵の仏は即ち出家の事に候へば遣はし候。

と記した。「続猿蓑」は、芭蕉が支考を相手に選んだものである。

翌8年春、江戸に赴き、帰途は彦根の許六を訪い木曽塚に師の無縫塔を拝し、伊賀を経て帰庵。「笈日記」成る。

元禄10年(1697)から宝永7年(1610)までの間に、北越に4度、その間に芭蕉の七・十三・十七回忌を執行し「帰花」「和泉日記」「続五論」などの撰集を出し、陽に芭蕉を説き、陰に自説を売ることに努めた、といわれる。かくして美濃・伊勢を中心に北越方面にわたり勢力を扶植するに至る。手俗調の美濃派を確立した。自らの終焉記を作り佯死するなど、悪評を被ることもあったが蕉風を全国に伝播させた功績は大きい。彼の俳論として主要なものに、「葛の松原」「続五論」「俳諧十論」などがある。「葛の松原」のみ、芭蕉生前に成った。「続五論」では、本情と風雅の二つを知りて、初めて俳諧を知れる人といふべし。と述べている。また俳諧はなくてもありぬべし、ただ世情に和せず、人情に達せざる人は、是を無風雅第一の人といふべし。という芭蕉の言葉を引用している。また「二十五箇条

では、俳諧は「俗談平話をたださむが為なり」と述べている。これは芭蕉俳諧の真髄にふれたものであろう。許六は、こうした支考を評して、・・・・・発句さして手柄ある句見えず、俳諧はたしかに血脈を得たり。文章を書かせても聞事なり、しかれども趣意が通らず、片はしいやみを書けり。と述べる。論の人であって、作の人ではないといっている。蕉門随一の論客として、「本朝文鑑」など俳文集編纂にも意欲を示した。

馬の耳すぼめて寒し梨の花    船頭の耳の遠さよ桃の花

歌書きよりも軍書にかなし吉野山   腹立てる人にぬめくるなまこ哉

涼しさや縁より足をぶらさげる    (続猿蓑)

むめが香の筋に立よるはつ日哉  (炭俵) 起さるる聲も嬉しき湯婆哉   (枯尾花上)

しかられて次の間へ出る寒さ哉 (枯尾花上)  温石さめて皆氷る聲  (枯尾花上)

 鹿のねも入りて悲しき野山哉   (枯尾花上)


洒堂 浜田氏

(元文2)   近江国膳所の医師。はじめ尚白門。洒堂は晩年の芭蕉が一番可愛がりその才を認めた俳人である。元禄2年(1689年)、芭蕉に入門。幻住庵に入った芭蕉に親しく接しめきめきと腕を上げて翌年、自亭に招いた芭蕉から「洒落堂記」を与えられ「ひさご」の編者として急速に頭角を現す。元禄5年、江戸芭蕉庵の食客となり、諸家と風交を重ね「俳諧深川」を編む。元禄6年、大阪に移居し、俳諧師として門戸を構えたが、同地の之道と門葉獲得の確執を生じ、仲裁を図った師の臨終・葬儀にも姿を見せなかった。晩年は俳諧への興味を失う。

いろいろの名もむつかしや春の草 (ひさご) 鳩ふくや澁柿原の蕎麥畑    (猿蓑)

いそがしき春を雀のかきはかま   (炭俵)花散て竹見る軒のやすさかな   (続猿蓑)


僧丈草 内藤林右衛門 本常 懶窩

2月24日 43 尾張国犬山藩士(父の姉松寿院が、犬山城主の愛妾だった縁により父源左衛門は犬山城主成瀬正虎に仕えた。)の長子に生まれた。3歳の時、生母と死別。14歳の時、藩主の弟で尾張藩寺尾家の養嗣子となった寺尾直竜(母は松寿院で丈草と従兄弟)に出仕。この年直竜が犬山に蟄居を命ぜられ、内藤家が世話をすることになったためである。この時従って来た中に医師中村春庵(のちの史邦)がいた。丈草は少年時代漢学を穂積武平に学び、20歳ごろ先聖寺の玉堂和尚に参禅したといわれる。丈草は僧名でもある。

貞享5年(1688年)、8月27歳で病気を理由に致仕して遁世。史邦の紹介で去来と親交を結ぶ。

元禄2年(1689年)12月、史邦に従い落姉舎で芭蕉に会い入門。たちまち蕉門に名を知られるようになった。去来は「丈草誄」で「先師の言葉に、此の僧の道にすすみ学ばば、人の上に立たん事月をこゆべからずとのたまへり。云々」と言っている。

丈草の句が初めて蕉門の撰集に見えるのは元禄4年刊の「猿蓑」で、12句入集している。

幾人か時雨かけぬく勢田の橋  (猿蓑) 水底を見て来た顔の小鴨かな  (猿蓑)

等である。「猿蓑」の跋を書く。まさに「人の上に立たん事月をこゆべからず」である。

元禄6年、近江の無名庵に入る。

元禄7年(1694)芭蕉が上洛した折、師の直指を受けることになったが、やがて師の終焉の枕辺に侍らねばならなかった。病臥に夜伽する門人たちが、それぞれに句を作った中に、ひとり丈草の うづくまる薬鑵の下の寒さかなの一句が「丈草出来たり」と賞された。去来は 「病中のあまりすするや冬ごもり」と詠みながら「実にかかる折にはかかる誠こそ動かめ、興を探り作を求むるいとまあらじとは、その時にこそ思ひ知り侍りけん」(丈草誄)と、丈草の句にいたく感動している。

元禄7年10月12日芭蕉が没した後、丈草は師のために没後3年の心喪に服した。そして、義仲寺の南、長等山の麓の竜が岡のほとりに仏幻庵を営んで、師の冥福を祈りながら清貧の生涯を終えることになる。仏幻庵は、幻住庵に因んだ命名である。随筆「ねころび草」を執筆。

元禄14年の初春から3年閉関の誓いを立て、故翁追福のために千部の法華経を読誦し、一字一石の経塚建立を発願した。

手の下の山を立ちきれ初霞 の一句は、彼が禁足の決意を示した作である。中七「山を立ちきれ」には、強いその決意が表われている。

許六は「俳諧問答」の中で、丈草の俳諧を「一筋に身をなげうちたる所見えず。たとへ興に乗じて来たり、興つきて帰ると言へるがごとし」と評している興至って詠じ、情を去って、いわば成り行きまかせの態度が彼の信条だと言っているようである。

去来は「丈草誄」で「性、苦しみ学ぶ事を好まず」といっているのにも通じよう。

野坡は翁死後には東西の門人丈草を慕ひ申候事、この人さのみ世に差出る程の事も之無き候へども、翁の俳を得られ候にや、うらやみ申事に候」というように、蕉門の俳人中、その風格の芭蕉に最も近い人であった。が、師芭蕉うのように行脚を好んだ人ではなかった。

白粥の茶碗くまなし初日影   幾人かしぐれかけぬく勢田の橋   (猿蓑)

蚊帳を出て又障子あり夏の月  うづくまるやくわんの下のさむさ哉 (枯尾花上)

着てたてば夜の襖もなかりけり   大はらや蝶の出てまふ朧月  (炭俵)

角いれし人をかしらや花の友 (続猿蓑) 

なき名きく春や三年の生きわかれ(俳家奇人談巻の中)

行灯の外よりしらむ海山に(枯尾花上)  暁の墓もゆるぐや千鳥数奇   (枯尾花上)

峠こす鴨のさなりや諸きほひ  (枯尾花上)


大つ尚白 江佐大吉    本翁

(享保7) 72 京極家の扶持を受けた近江国大津の医師。はじめ原不卜門。貞享2年(1685年)、「野ざらし紀行」の旅の途次、大津に立ち寄った芭蕉に、千那らと入門。貞享4年「孤松」を編み、近江蕉門の中心としての地位を確立するが、「猿蓑」期の新風に追随できず、また、元禄4年(1691年)、「亡梅」編集をめぐり師と確執を生じて疎遠となる。許六評に「器の鈍きして重き」とあるが、貞門風の旧染を脱しきれなかった。

此日の肌着身に付く卯月かな  (嵯峨日記)  待たれつる五月も近し聟粽  (嵯峨日記)

菜畠や二葉の中の虫の聲  (猿蓑)  一夜きて三井寺うたへ初しぐれ     (曠野)

鶯や雑煮過ての里つづき   (続猿蓑) しけ絹に紙子取あふ御影哉  (枯尾花上)


僧千那 三上氏 法号明式上人 官山子

(享保8) 72 近江国堅田の本福寺十一世住職。法橋権律師。はじめ高政門。貞享2年(1685年)「野ざらし紀行」の旅の芭蕉に、大津で入門。近江蕉門の古老として活躍したが、元禄3年(1690年)ごろから乙州らの新進の台頭に押され、また「忘梅」の序をめぐり師と確執を生じ、蕉門から離反した。宝永5年(1708年)親鸞の遺跡を巡拝し、「白馬紀行」などを刊行。

時雨きや並びかねたる魦ぶね  (猿蓑) それぞれの朧のなりや梅柳    (続猿蓑)

月雪に長き休みや笈の脚  (枯尾花上)


惟然 広瀬源之丞    素牛鳥落人 ?

(正徳元)    美濃国関の酒造家の家に生れたが、庭前の梅花が鳥の羽風に散るのを見て、妻子を捨て遁世したという。元禄元年(1688年)、岐阜を訪れた芭蕉に入門。元禄3・4年頃、湘南滞在中の芭蕉に随従し、蕉門の人々と交流する。芭蕉没後は、諸国を放浪行脚し、晩年は帰郷して弁慶庵に隠棲した。元禄10年(1697年)頃より、大胆に俗語を取り入れた独自な口語調の作風を得意とした。

酒部屋に琴の音せよ窓の花  (続猿蓑) 澤水に米ほヽばらん杜若 (俳諧世説巻之二)

盗まれて手柄ぞ花にどこなりと(俳諧世説巻之四) 引張てふとんぞ寒き笑ひ聲    (枯尾花上)  足がろに竹の林やみそさざい   (枯尾花上)


園女 そのじょ

伊勢の国山田の神官秦師貞(はたもろさだ)の娘。同地の医師で談林系俳人の斯波(度会)一有の妻。園女はこの夫の影響を受けて俳諧を志したという。貞享5年(1688年)2月、伊勢参宮の芭蕉に入門。元禄5年(1692年)8月、夫と大坂へ移住、西鶴・来山らと交わり、雑俳点者としても活躍した。元禄7年、死の十余日前の芭蕉を自邸に招いた。園女宅の俳席では、夫一有を初め9名で九吟歌仙を巻き、芭蕉が園女に贈った巻頭句と園女の句は

白菊の目に立てて見る塵もなし  芭蕉   紅葉に水をながすあさ月    園女

である。これが芭蕉最後の連句興行となった。

元禄16年(1703)7月夫が病没したためその2年後の、宝永2年(1705年)其角を頼り江戸に出、眼科医をしながら、俳諧を続け「菊のちり」を編む。やがて園女は病がちとなり享保3年(1718年)、剃髪後は智鏡と号す。

磊落で男勝りの性格とされるが、女性らしい佳句も多い。蕉門随一の専門女流俳人であるが、七部集にはこの一句より外入集して居らぬ。

春の野に心ある人の素皃哉   (曠野)  色に香にいたづらものや花の兄 花千改 園女

晩年は俳諧より和歌を嗜み辞世は  秋の月春の曙見し空は 夢かうつつか南無阿弥陀仏

である。


曾良 岩波 庄右衛門 正字 河合

宝永7年   信濃国上諏訪の人。伊勢長島藩を致仕し、江戸で吉川惟足に神道・和歌を学ぶ。天和3年(1683年)、芭蕉に邂逅し、以後深川の芭蕉庵近くに住んで親交を結ぶ。鹿島詣、奥羽行脚に随行、特に旅日記の几帳面な記録は、「奥の細道」における、芭蕉の動静と創作を考究するうえで貴重である。晩年、幕府の諸国巡見使の随員となったが、壱岐国で客死した。

雨に寝て竹起きかへる月見かな (鹿島詣) 膝折るやかしこまり鳴く鹿の声 (鹿島詣)

股引や一花摺りの萩ごろも  (鹿島詣) 月見んと潮引きのぼる舟とめて (鹿島詣)

剃り捨てて黒髪山に衣更  (おくのほそ道)

同行曽らを語る興味ある一項を構成するための芭蕉の代作

かさねとは八重撫子の名なるべし(おくのほそ道)

「かさね」という名の愛らしい童女と出会った体験的事実を、謡曲や古歌の俤を借りつつ文芸的に構成し、紀行中の興味深い一項として定着させるため、同行曽らに仮託した芭蕉の代作。

卯の花をかざしに関の晴着かな(おくのほそ道) 松島や鶴に身を借れほととぎす(おくのほそ道) 卯の花に兼房見ゆる白髪かな (おくのほそ道) 蚕飼する人は古代の姿かな (おくのほそ道) 湯殿山銭踏む道の泪かな (おくのほそ道)

象潟や料理何食ふ神祭(おくのほそ道) 波越えぬ契ありてや睢鳩の巣(おくのほそ道)

行き行きて倒れ伏すとも萩の原(おくのほそ道 熊野路や分けつつ入れば夏の海 (嵯峨日記)

なつかしや奈良の隣の一時雨   (猿蓑) 病僧の庭はく梅のさかり哉    (続猿蓑)


桃隣 天野氏 藤太夫  太白堂

12月9日 81歳 伊賀国上野の人。芭蕉の血縁者(従兄弟とも甥とも)。武士であったが、早くに出奔し大坂に住むという。元禄元年(1688年)芭蕉に入門か。元禄2年9月6日大垣から伊勢参宮して帰郷。元禄4年上方から江戸に下る師に隋行し、そのまま江戸神田に定住。俳諧点者として身を立てたが、芭蕉はしばしば激励と戒めの言葉を寄せている。河合曽良のように薪水の労をも助けた。芭蕉三回忌には「奥の細道」の足跡を辿り「陸奥鵆」、17回忌には追善集「粟津原」を編む。桃隣を初代太白堂と称し、以後、門弟は歴代太白堂を名乗った。

名月や雪見ん為の庭の松 (白雪宛書簡)  昼舟に乗るやふしみの桃の花  (炭俵)

白桃やしづくも落ず水の色  (続猿蓑) 俤やなにはを霜のふみおさめ  (枯尾花下)


素堂 山口信章 子晋公商 来雪

享保元年 74 芭蕉とは互いに「我が友」と呼び合う生涯の友人。山口素堂の墓は東京都文京区白山2-30-5の厳浄院本堂前にある。素堂翁の墓と刻まれている。この墓は四十九回忌の時、甥で門弟の山口黒露が建立したものである。傍らには昭和五十八年に建てられた句碑があり 目には青葉山ほととぎすはつ松魚 の有名な句が刻まれている。芭蕉と素堂との最初の出会いは、延宝三年(1675)五月、内藤風虎(陸奥国磐城平藩主・左京大夫義泰)の招きで、大坂から江戸に下った談林風の総帥西山宗因(梅翁)を迎えて、江戸本所の大徳院で興行された百韻(百句形式の俳諧)の俳席であった。この時、芭蕉は桃青、素堂は信章と号し、芭蕉三十二歳、素堂三十四歳であった。翌延宝四年二月には二人で天満宮奉納二百韻を興行し、それぞれの発句と脇に

此の梅に牛も初音と鳴きつべし  桃青  ましてや蛙人間の作    信章

梅の風俳諧国にさかむなり   信章  こちとうづれも此時の春    桃青

西瓜ひとつ野分をしらぬ旦かな (歌俳百人撰巻二)などがある。

素堂と芭蕉は、「江戸両吟集」を編み、江戸談林の推進者となる。この後、芭蕉と素堂とは、常に俳席をともにして、のちに芭蕉が談林風に見切りをつけて蕉風を拓き始めた時も、素堂はその共鳴者であり、支持者であった。

甲斐の国北巨摩郡教来石山口の郷士であった。生家は富裕な酒造業であった。年少時に父に従って甲府へ移住し二十歳頃に家業をを弟に譲り、江戸で儒を学ぶため林春齋の塾に入る。一時、上京して和歌を清水谷家、俳諧を北村季吟、書を持明院家、茶道を今日庵宗旦に学んで今日庵三世を継ぎ、諸道に通じて学者・歌人・俳人・書家・茶人であった。その上素堂は高潔な人格者で、芭蕉は素堂先生と呼び、蕉門の人々からも尊敬された。素堂は一時仕官していたが、延宝7年の春三十七歳の時に、官を辞し上野不忍池畔に隠棲。以後、次第に俳壇に重きをなすようになるが俳壇的な野心は持たず生涯自らの楽しみのために詠んだ。貞享年間に居を葛飾の阿武に移したので芭蕉庵とも近くなり、二人の往来は頻繁になった。芭蕉が

      川上とこの川しもや月を友

と詠んでいるように、小名木川を舟で往来し素堂宅とを相訪していよいよ親密となった。また天和二年(1682)十二月俗に八百屋お七の火事で芭蕉庵が消失した翌年、芭蕉庵再建の議が起こった時、その勧化文を書いたのも素堂であった。

葛飾派の祖である。素堂の漢学の素養は、天和・貞享期の芭蕉に多大な影響を与えた。元禄5年(1692年)、「芭蕉庵3ヶ月日記」などにも、両者の親交の様がうかがえる。

目には青葉山ほととぎす初がつほ  (曠野)言水の「江戸新道」にはこの句に「鎌倉にて」と前書きがある。

     うるしせぬ琴や作らぬ菊の友      (続猿蓑)

芭蕉が元禄七年十月十二日大坂で客死した時、素堂は二歳若い親友の死に対して追悼の句を作っている。

深草のをきな宗祇居士を讃していはずや、風月を友とし旅泊を家とすと、芭蕉翁のおもむきに似たり旅の旅ついに宗祇の時雨かな    (枯尾花下)


越人 越智重蔵     

(享保)    北越の人。名古屋へ出て紺屋を営む。貞享元年(1684年)、「冬の日」成立の頃、芭蕉に対面、入門したか。貞享5年「更科紀行」の旅の芭蕉に随行して江戸に下る。「あら野」に大量に入集し、「ひさご」では序文を請われるなどしたが、次第に師風の進展に従えず離反、消息を絶つ。正徳5年(1715年)俳壇に復帰、鵲尾琴を編み、また支考・露川と論争を交わしたが、往年の精彩はなかった。

霧晴れて桟橋は目もふさがれず(更科紀行) 更科や三夜さの月見雲もなし (更科紀行)

山吹のあぶなき岨のくづれ哉 (春の日) 下下の下の客といはれんはなの宿 (曠野)

初夢や濱名の橋の今のさま  (曠野)

初夢、現今は正月二日の夜の夢をいふが、昔は大晦日の晩から元旦にかけて見る夢のことであった。

     茶の花やほるる人なき靈聖女     (猿蓑)


乙州 川合又七(次郎助)   代々庵

設楽堂 生没年未詳   近江国大津の荷問屋・伝馬役左右衛門の妻智月の弟で、のち養嗣子となり家業を継ぐ。はじめ尚白門。元禄2年(1689年)、商用で加賀の国金沢にある時芭蕉と邂逅する。以後、上方滞在中の芭蕉を自宅に迎えたり、無名庵や幻住庵に訪れ、智月とともに、師の経済生活を支えた。また、加賀・江戸への家業の旅を通じて、蕉風伝播者の役割も果たす。宝永6年(1709年)には、師の遺稿をもとに「笈の小文」を上梓した。版木で印刷され流布するに至った。したがって構成は乙州がなしたものである。

馬かりて竹田の里や行しぐれ  (猿蓑) 龜の甲烹らるる時は鳴きもせず  (ひさご)

海山の鳥啼立る雪吹かな   (炭俵)   取葺の内のあつさや棒つかひ    (続猿蓑)

皆子也みのむし寒く鳴盡す (枯尾花上) つゐに行宗祇も寸白夜の霜  (枯尾花上)

日にまして見ます顔也霜の菊   (枯尾花上)


苛兮 山本周知 武右衛門太一 初号

(享保元) 68 名古屋俳壇は実力者ぞろいで苛兮が中心人物であった。尾張国名古屋で医を業としたと伝えられる。尾張藩の藩士だとの説もある。早くから貞門俳人として頭角を現し、のち宗因流俳諧にも親しむ。貞享元年(1684年)「野ざらし紀行」の旅の芭蕉を迎えて、「尾張五歌仙」を興行、芭蕉七部集の第1集「冬の日」以下第2集「春の日」第3集「阿羅野」を編み、尾張蕉門の主導的地位を確立する。のち、芭蕉の新風に従えず復古趣味の「曠野後集」以降、蕉風から離反、晩年は連歌師に転向した。

麦ぬかに餅屋のみせのわかれ哉(曽良宛書簡)  霜月や鸛の彳彳ならびゐて (冬の日) 

この句は冬の日歌仙霜月の巻の立句である。

春めくや人さまざまの伊勢まいり (春の日)この句は春の日巻頭歌仙伊勢参りの巻の立句である。 

    ちらちらや淡雪かかる酒強飯      (曠野)

木曽の月みてくる人のみやげにとて栃の實ひとつおくらる。年の暮迄うしなはず、かざりにやせんとて

    年の暮栃の實一つころころと     (曠野) 

元禄元年、芭蕉が越人と同行して木曽路を通った時に 「木曽のとち浮世の人のみやげ哉」

といふ句を残している。このとちの實は多分其時のみやげであろう。とちの実は栗と同じような色と艶を持ち、不規則な丸味を持っている。土産に貰ったまましまい込んであったとちの実が、失われもせず、手箱の中にでもころころと転がっていたのであろう。飾りに野戦とは、正月には算法の上に松竹梅を立て、昆布・海老・歯だ等をはじめとして、串柿・だいだい・木の実等を飾る習慣がある。これを蓬莱飾りともいう。

鹽魚の齒にはさかふや秋の暮  (猿蓑)  蔦の葉や残らず動く秋の風  (続猿蓑)

「続俳家奇人談巻中」に「然るに晩年師翁の勘気を蒙ふりしは、橋守といふ書を作れるよりおこれり、いと口をしき事ならずや。」とある。


杜国 坪井庄兵衛

元禄3年   尾張の国名古屋御園町の町代を務めた富裕な米商に生れる。貞享元年(1684年)、「冬の日」五歌仙の蓮衆に加わり、芭蕉に入門。翌年、空米売買の罪で領内追放となり、三河国保美村に隠棲した。芭蕉から人柄と才能を愛され、貞享4年の「笈の小文」の旅では芭蕉がその隠棲地を訪問、翌春には万菊丸と称して吉野・高野に同行する。「続俳家奇人談巻中」に「道郡山に入りて宇古の家にて三詠の歌仙あり、帰りて後、何事にや罪ありて死刑に行はるべきに極る。その以前、 蓬莱や御国のかざり檜山  と吟ぜしを、国主聞しめして御感の餘り、罪一等を減じて、同国伊良古崎にながさる。幾程もなく其処にて終る。」とある。

「嵯峨日記」には、30余歳で世を去った愛弟子への芭蕉の痛切な思いが記されている。

麦糠に餅屋の店の別れかな (河合曽良宛書簡) つつみかねて月とり落す霽かな(冬の日)

霜の朝せんだんの實のこぼれけり(曠野)似合わしきけしの一重や須磨の里(猿蓑) 亡人杜国

杜国は猿蓑撰の前年元禄三年五月に没した。


伊賀土芳 保英服部氏 半左衛門 初号

享保5年 73 伊賀の国上野の富商木津孫次良保向(やすむき)の五男で、藤堂藩士服部家の養嗣子となる。芭蕉とは幼少時から親交があったが、貞享2年(1685年)近江の国水口で再開して以来、一途に芭蕉に傾倒する。元禄元年(1688年)、家督を辞して蓑虫庵に隠棲。、俳諧に専念する。伊賀蕉門の重鎮として、独身のまま風流三昧の生涯を送った。芭蕉晩年の俳論を体系化した俳論書三冊子(さんぞうし)は、師説を忠実に伝える。

おもしろう松笠もえよ薄月夜 (蓑虫) 梅が香や砂利しき流す谷の奥 (猿蓑)(蓑虫庵集)

むめちるや糸の光の日の匂ひ  (炭俵)  鮎の子の心すさまじ瀧の音   (続猿蓑)

耳にある聲のはづれや夕時雨 (枯尾花上)


史邦 保潔 中村春庵大久保荒右衛門

 はじめ尾張国犬山藩主の子寺尾直竜の侍医となったが、のちに上洛して仙洞御所に出仕し、また京都所司代の与力を務めた。去来の手引きで芭蕉に入門し、「猿蓑」編集のころ、親しく指導を受ける。元禄5年(1692年)に致仕、翌年秋、江戸に移住する。芭蕉からは二見形文台や自画像を贈られ、師没後は、いち早く遺句・遺文を集めて追悼集「芭蕉庵小文庫」を刊行した。

泥龜や苗代水の畦づたひ (猿蓑)  うぐいすや野は塀越しの風呂あがり (続猿蓑)


北枝 立花氏 土井氏 研屋源四郎 鳥翠台

5月12日   加賀国小松の人で、金沢で兄(俳号牧童)と研刀業を営む。金沢の貞門系俳書に入集していたが、元禄2年(1689年)7月、「奥のほそ道」行脚の芭蕉を迎え入門、越前国松岡まで随行する。山中三吟歌仙「馬かりて」では、師の添削・評語を書き留める。

馬かりて燕追ひ行く別れかな  北枝   花のみだるる山の曲りめ   曽良

月よしと相撲に袴踏みぬぎて     芭蕉

松岡で別れに際して芭蕉から金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて、此処までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつづけて(見逃さず句を案じ続けて)、折節あはれなる作意(趣深い趣向)など聞ゆ、今既に別に望みて」 物書て扇引さく余波哉 の一句が贈られている。文面から北枝の、地味で誠実な人柄が偲ばれる。句には、師弟の濃い惜別の情がよまれている。その著山中問答は、蕉風の根本理念を説き、不易流行に触れ、さび・しをり・ほそみなどについて述べてある。

元禄3年歩駆使宛芭蕉書簡は、類火の難にあった北枝を慰め、北枝の句を感賞している。

     焼けにけりされども花はちりすまし

について「焼けにけりの御秀作、かかるときに望み大丈夫感心中略、名歌をを命にかへたる古人も候へば、かかる名句に御替え成ら被れ候へバさのミおしかるまじく存候」。北枝の括淡脱俗の心境が、芭蕉の精神にかようところがあったのであろう。

元禄2年の後、北枝は再び芭蕉に会う機会を得ずして終わってしまったが

元禄4年、北陸蕉門俳書の嚆矢「卯辰集」を編み、北越蕉門の重鎮として北方之逸士と称された。

後、再び火災に逢ったとき従吾が先に来て昔の気情いかがかと一句作るよううながすと、北枝が 諸ともに硯も筆もすみとなり其の言の葉をかく物ぞなきと答え、滑稽を忘れたいなかったという。

このとき家見舞いといふ集ができた。

焼けにけりされども櫻さかぬうち  支考   梅が香やまづ一番に焼見舞   牧童

鶯も笠着て登れ小屋の屋根 北枝

元禄9年の芭蕉3回忌には義仲寺に詣で  笠提げて塚をめぐるや村しぐれの一句を手向け、去来等と追善の俳諧を催した。

焼けにけりされども花はちりすまし (猿蓑) 子を抱いて湯の月のぞくましら哉    

淋しさや一尺消えて行く螢  なんの実ぞたまたま見出す雪の門

笠提げて塚をめぐるや村しぐれ  柿の袈裟ゆすり直すや花の中     (炭俵)

一田づつ行めぐりてや水の音 (続猿蓑) 夏酒や我れとのり行く火の車 (俳諧世説巻之三)

盗人の目にかけらるる目出たさよ(俳諧世説巻之三)

鶯も笠着て上れ小屋のやね   (俳諧世説巻之三)


凡兆 野沢氏 允昌 加生

春   加賀国金沢の人。京の医師。家族は妻とめ元禄4年尼となった羽紅尼と、他に娘ていがあった。羽紅尼は俳諧をよくし、「猿蓑」に発句12を収める。元禄元年(1688年)10月頃去来や尚白またはその頃京都に来ていた其角らと俳交があったようである。

翌元禄2年刊の「阿羅野」には、 かさなるや雪のある山只の山  加生  (曠野)

と入集している。

元禄3年(1690)には、芭蕉が京都やその周辺に日を送ることになってから、凡兆は芭蕉に入門し、親しく指導を受けることになる。同元禄3年8月8日付加生宛書簡で度々貴墨預りそうろへ共、持病あまり気むずかしく御報あたわず候とある。元禄3年ごろ、自宅にしばしば芭蕉を迎え、妻羽紅とともに親炙した。

元禄4年(1691)芭蕉は、落柿舎に4月から5月にかけて17日間滞在した。その間もっとも足繁く通ったのは凡兆であった。4月20日には、「今宵は羽紅夫婦とどめて、蚊屋一はりに上下五人挙げり伏たれば、云々」とある。元禄4年、去来と「猿蓑」を編む。凡兆は俳諧七部集の随一といわれる「猿蓑」には、最多の発句41句が入集。客観的で印象鮮明な叙景句は、集中最多の入集句を誇り、一躍蕉門の代表作家となる。

時雨るるや黒木つむ屋の窓あかり (猿蓑) 下京や雪つむ上の夜の雨 (猿蓑)

百舌鳥啼くや入日さし込む女松原 (猿蓑) 鶯や下駄の歯につく小田の土 (猿蓑)

市中(いちなか)は物のにほひや夏の月    (猿蓑)

いずれも印象鮮明である。具象的で、状況を生き生きと感覚的にとらえている。凡兆には、性格的に不羇狷介な一面があったのではあるまいか、「雪つむ上の夜の雨」の下七五に対し、芭蕉が「下京や」と上の句を据えた時、凡兆は「あ」と応えながらも「いまだ落ちつかず」と、不満そうな顔をしたという。また、芭蕉が斧正した

     「田のへりの豆つたひ行く蛍かな」

の自句を、去来や芭蕉が「猿蓑」への入集を勧めたにもかかわらず、「此の句見る処なし、のぞくべし」と言って、頑として入集を拒んでいる。去来が岩鼻やの自句で、芭蕉の評に対して、予が趣向は、猶2,3等もくだり侍りなんと言ったのとは、性格上随分異なる。のち、急速に芭蕉から離反し、事に連座して入獄。許六の「風俗文選」の「作者列伝」に「一び其の終わる処を知らざる事に罪せられ」と記している。その理由は示されていないが、一説には薬種の密輸入に関係したとも言われる。牢の中で  猪の首のつよさよ花の春(俳諧世説巻之三)  陽炎の身にもゆるさぬしらみ哉(俳諧世説巻之三)

「去来抄」によると、芭蕉は凡兆に「一句僅17字、一字もおろそかに置くべからず。はいかいもさすがに和歌の一体。一句しほりのあるやうに作すべし」(修行)と言ったという。感覚的な句を詠む才に恵まれていたが、表現の奥ににじみ出る情趣に乏しい点を、芭蕉が既に見抜いていたのである。また、「俳諧問答」で許六は、「むかし先師、、凡兆に告げて曰、「一世の内、秀逸の句三,五あらん人は作者也。10句に及ん人は名人也」といったのも、凡兆の句作に対する警告であったと思われる。

出獄後は大坂に移住、元禄14年「荒小田」に多数入集するが、往年の精彩を欠いた。


正秀 水田氏 伊勢屋 孫右衛門 竹青堂

1723年 66 近江国膳所藩の町年寄。はじめ尚白門。元禄3年(1690年)、近畿滞在中の芭蕉に入門、乙州・洒堂らと第二次湖南蕉門を形成し、「ひさご」の二歌仙に一座する。義仲寺の傍らに無名庵を建立したり、師の終焉に駆けつけるなど、芭蕉に尽くした。支考は「正秀が性はあらし」と評するが、力強い情趣に特色がある。師没後も「白馬」「百雀」を編む。

疇道や苗代時の角大師  (ひさご)鑓持の猶振りたつるしぐれ哉  (猿蓑)

刀さす供もつれたし今朝の春  (炭俵) なぐりても萌たつ世話や春の草  (続猿蓑)

おもひ寄夜伽もしたし冬ごもり (枯尾花上) 腰折て木葉をつかむ別れ哉 (枯尾花上)

初雪にやがて手引ん佐太の宮   (枯尾花上)


野坡(やば) 志太氏 

1月3日 79 越前国福井に斎藤庄三郎の一子として生れる。生家は「本朝文選」「作者列伝」によると「商家の生まれ」とある。福井は、寛文9年4月、野坡7歳のとき大火にみまわれた。小年庄一郎が、父に伴われて江戸に出たのはその直後のことであろう。延宝・天和の頃には、江戸日本橋両替町の越後屋三井両替店(一説に呉服店)に奉公し手代(俳諧問答)となる。はじめ其角に俳諧を学び、元禄6年(1693年)秋ごろから芭蕉の指導を受ける。

越後屋には、貞享3年深川芭蕉庵で催された「蛙合」の句会に参加している小泉孤屋のような同僚があり、後野坡と一緒に「炭俵」を編むことになる池田利牛は、三井家の支配人であった。

貞享4年冬「笈の小文」の旅に出発する芭蕉への送別吟として 朝霜や師の脛おもふゆきのくれ と詠んでいる。この頃から既に芭蕉との直接の接触もはじまっていたのであろう。(掘切実「芭蕉の門人」)

元禄6年(1673年)野坡は再び足繁く芭蕉庵を訪れ、芭蕉の指導を受けるようになった。俳号も「野馬」から「野坡」に改める。「かるみ」の俳風を理解し、同僚の孤屋・利牛とともに「すみだはら」を編集する

元禄7年(1674年)6月上梓された「炭俵」の序文に、素龍は「此集を撰める弧屋・野坡・利牛らは、常に芭蕉の軒に行かよひ、瓦の窓をひらき心の泉をくみしりて、十あまりななの文字の野風をはげみあへる輩也」と記している。「炭俵」は

むめががにのつと日の出る山路かな  芭蕉   処処に雉子の啼たつ    野坡

の発句と脇句ではじまる。「山路」にふさわしく雉子を出し、朝日のはなやかさに「啼たつ」と威勢よく応じた。

元禄7年5月11日、芭蕉は最後の旅に出発する。野坡は 寒きほど案じぬ夏の別哉 の句を餞別に寄せ、川崎まで見送っている。芭蕉の出発前、野坡が「来る春の歳旦はいかに仕侍らん」と尋ねたところ、芭蕉は「猶・今の風然るべし。五・六年も経なば、変して弥風体かるく移りゆかん」(「旅寝論」)と答えた。去来は(「軽き事野坡に及ばず」(「旅寝論」序)と評した。許六は野馬と畏怖物は、炭だわらのかる未詳は得たり問へ度も、生得越後屋の手代なれば、俳諧も人情程ありて、少かるみを得たる迄也。胸中せまくして、我得ざる方すきと見えず」(「俳諧自讃之論」)と評している。野坡が商人であることへの偏見も混入しているようにも取れるが、芭蕉の軽みは、俳諧の無碍自在な境地を示すものである」。野坡は通俗性の皮相のみ執し、その精神を深く理解するに至らなかった、といっているようである。「少かるみを得たる迄也」とはそうした意味であろうか。

寒きほど案じぬ夏の別れ哉 上おきの干葉刻むもうはの空 ちからなや膝をかかへて冬籠り

はつ雪にとなりを顔で教へけり  鉢巻を取れば若衆ぞ大根引

宝永元年(1704年)、大坂で樗木社を起こし、中国・九州方面に行脚を重ね、西国俳談に一大勢力を築いて蕉風を普及させた。

長松が親の名で来る御慶哉 (炭俵) この比の垣の結目やはつ時雨  (続猿蓑)

「俳家奇人談巻の中」に「老後先師の無名庵を高津野に移し、自ら高津野の翁と称せり。」とある。

ちからなや膝をかかえて冬籠 (枯れ尾花下)   やすやすと平泉より木曽の月   (枯れ尾花下)   丈幅せばき布の薄錦  太洛


嵐雪

10月13日 54 芭蕉から

     「草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪あり」

と厚い信頼を受けた服部嵐雪の墓は東京都豊島区南池袋2-41-4の本教寺にある。墓石正面に「雪中庵嵐雪之墓」と刻まれ裏面には

    一葉散る咄ひとはちる風の上

と辞世がある。この墓は文化3年の百回忌に際して門人の4世雪中庵大島完来らが再建したものである。この墓は芭蕉の「桃桜」の句にちなんで「桜塚」といわれた。傍らに妻烈女の墓もある。

嵐雪の生家服部氏は、淡路の国小榎並村の出身だったがのち一家は江戸に出て嵐雪は下級武士服部喜太夫高治の子として江戸湯島に生れる。延宝ごろ父に従い常陸の国麻生藩主新庄隱州公に仕える。天和以降は井上相模守に仕える。湯女を妻に迎えたが母子とも早世。後の妻は遊女で猫好きの烈女という。芭蕉入門は延宝3年(1675年)ころか。仕官の傍ら俳諧に親しんでいた。

延宝8年4月「桃青門弟独吟20歌仙」に、嵐亭治助の号で歌仙一巻が収められ、「田舎句合」に序を、天和3年(1683)の「虚栗」に協力し、其角とともに江戸蕉門の双璧として、他門からも重視された。

貞享3年(1686年)、30年に及ぶ武士奉公を辞し、俳諧師として立つことを決意。

貞享5年1月宗匠となる。

元禄3年(1690年)6月、「其の袋」を刊行し、雪門(其角門との対向意識による命名か)の勢力を世に誇る。のち、杉風との軋轢を生じ、嵐雪は師の教えに背き、点取俳諧(点数の多寡により勝負を競うことを目的とした遊戯的な俳諧)に手を染めて、師の怒りを買う。

元禄4年「嵯峨日記」(22日)に「嵐雪が文」として

狗背の塵に選らるる蕨哉   出替りや稚ごころに物哀    (猿蓑)

と芭蕉は書き記している。嵐雪から送られた句である。芭蕉から遠ざかりつつあった嵐雪の心さみしさがよまれているようにも伝わる。

元禄7年芭蕉の許六宛書簡には「上略、町ものの(其角・嵐雪)拵への俳諧(趣向を凝らした拵えものの俳諧)二も我党53人は見あき候へども、云々」とあり、師説のかるみの俳諧に精進を怠った嵐雪たちは、師から難を受けている。

だが元禄7年10月の訃報に接するや同門の天野桃隣と連れ立って西上して翁の墓に参り、

この下にかく眠るらん雪仏 と句を捧げた。

翌元禄8年1月、済雲和尚に参禅して法体となり、師の喪に服して追悼集「芭蕉一周忌」自序を編した。専ら禅を修め江戸俳壇の主流から退いた。法名雪中庵不白玄峰居士。妻烈女も禅に帰し、雪山浄白と称した。猿蓑に5句、炭俵には11句入集。

沙魚釣るや水村郭酒旗の風   竹の子や児の歯ぐきのうつくしき   (炭俵)

布団着て寝たる姿や東山   出替りや幼心にものあはれ    (猿蓑)

梅一輪一輪ほどの暖かさ  一嵐音吹かへよ門の松   (知足宛書簡)

黄菊白菊その外の名はなくも哉(俳諧世説巻之二)

秋風の心うごきぬ繩すだれ (歌俳百人撰巻の一)

木がらしの吹行うしろすがた哉  (冬の日) この句は貞享4年芭蕉帰省の際の送別吟。

庵の夜もみじかくなりぬすこしづつ (曠野)  濡縁や薺こぼるる土ながら   (続猿蓑)

泣中に寒菊ひとり耐へたり(枯尾花下)  此下にかくねむるらん雪佛  (枯尾花下)

十月をゆめかとばかりさくら花 (枯尾花下) 来春を今から工む大工寄せ  神叔

中山道は加賀で持けり  (枯尾花下) 

嵐雪は宝井其角・向井去来・内藤丈草とともに蕉門四哲の一人として恥ずかしくない見識・技倆・貫禄を併せ持つ俳諧師であった。

嵐雪の雪中庵派からは優れた俳人を多く輩出し、三世雪中庵大島寥太の時には江戸俳壇に巨大な勢力をはった。

     一葉ちる咄一葉ちる風の上    辭世

(略)


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