芭蕉の解明されていない事柄

https://plaza.rakuten.co.jp/masterless/diary/202004260000/ 【芭蕉の解明されていない事柄】より

 桃印編

芭蕉の甥に桃印という人がいました。誰の子供なのか判然としないですが芭蕉の姉の子供 というのが有力で、その姉が婚家から離縁されたか、夫と死別したかして松尾家に出戻ったときに同道してきたのが桃印であるとする説がある。

桃印5、6歳の頃で、芭蕉は22、3歳。何故か若い芭蕉が彼を養育することになったようです。

これは、兄の半左衛門家が貧しく、桃印を扶養する経済力が無かったためかもしれない。

その後、芭蕉が江戸に出て、生活のめどがつくのを待って 延宝4年(1676)ごろに江戸に連れて行った。

ただし、延宝8年頃の深川隠棲以後桃印が何処に住み、何を生業にしていたかは全く不明で謎である。

芭蕉の桃印に対する愛情は並々ではなく、33歳という若さでの桃印の死に落胆した芭蕉は自らの生への執着をも喪失した風がある。許六宛書簡にその時の心情が吐露されている。また、桃印重態のため借金をせざるを得なくなった芭蕉は膳所の門人曲水に宛ててた書簡で1両2分工面してくれるよう依頼している 。

元禄五年(1692)第三次芭蕉庵の生活は充実していたが、桃印の肺結核が進行し兄への手紙に心配させても仕方がないので久居の母親には逐一報告はしない。

とあり、桃印の母親は久居に居たことになり芭蕉が責任をおっていたことになります。

明けて六年、桃印の病状はいっこうに改善せず、芭蕉は自庵に引き取り、自ら看病しました。しかし同年三月桃印は亡くなりました。

この看病で結核菌がうつり翌年芭蕉が亡くなったのは結核菌が原因の潰瘍性大腸炎だという説が現在定説になっています。

桃印が江戸に下ってから一度も伊賀に帰った記録がないことは最も理解出来ないことです、久居にいる姉の子ならば藤堂藩法の五年帰国法に触れるのですが藤堂新七郎家が便宜を図り見逃していたのではないでしょうか、とすると新七郎家に関わる子だった可能性があります、芭蕉のただならぬ献身的な看病ぶり桃印死亡後の落胆ぶりは単なる甥に対してのものなのかも理解しがたいことです。

寿貞の子という説は久居の母親に知らせるなという手紙と矛盾します。

桃印が芭蕉の愛人の寿貞と駆け落ちしたという説がありますがこれは後の人が面白おかしくした話で若くして死亡し記録が余りないので出来た話だと思います。

その寿貞の話は次回。

芭蕉の解明されていない事柄4  埋木編

伊賀市 芭蕉翁記念館所蔵の「埋木」

芭蕉が江戸に出て3年間には記録がありません。しかし2年後に北村季吟から宗匠(俳句の師匠)の認可書とも言うべき「埋木」を授与されています。

此書雖ニ家伝之深秘一、宗房生、依ニ俳諧執心不レ浅一、免ニ書写一而、且加ニ奥書一者也。必不レ可有ニ外見一而己延宝二年弥生中七  季吟(花押)

読み下し文

此の書は家伝の深秘といえども、宗房生(そうぼうせい)、俳諧執心浅からかざるによって、書写を免じて、且つ奥書を加うるものなり。必ず、外見有るべからざるもののみ 延宝二年弥生中七 季吟花押

現代語訳

この書は、家伝の秘密文書であるが、宗房(後の芭蕉)生は俳諧に実に熱心であるから、書写を許し、かつ私の名を奥書に署名した。門外不出と心得ること。 延 宝2年(1674)2月17日 季吟花押

この宗匠立机の授与「埋木」は江戸に出て二年後のことで、この「埋木」の授与の場所やひいてはその信憑性を疑う人もいます。

藤堂藩の法でいったん伊賀を出国したものは四年帰国が許されず、そして四年毎に故郷へ帰り郡奉行所へ出頭することを命じる。と上野市史芭蕉編にあります

「宗国史」に貞享四年(1687)

古法の如くの後、五年目毎帰国法が記されているが、古法の如くとあるので従来からの原則をあらためて記したものと思われる。

上野市史芭蕉編の年表に正保五年(1648)12月「伊賀国からの出奉公について定」とありこれが古法だと思われます。

芭蕉は寛文12年(1672)出国して五年目(江戸時代は0年という概念がないので四年毎)の延宝四年(1676)に一時帰国している。

そうすると二年後に帰国していたのは考えられず「埋木」を受け取った場所は伊賀ではなく京都か江戸ということになるが伊賀市の芭蕉翁記念館の学芸員の方は郵送した例もあるとの返答でした。

そしてこの「埋木」が藤堂新七郎家に残っていたことも信憑性を疑う一つになっていて郷土史家の方は新七郎家が北村季吟(季吟の書であることは証明されています)に頼み書いてもらったのではないかという説を唱えています。


芭蕉の解明されていない事柄3 貝おほひ編

伊賀市 菅原神社の「貝おほひ」以前見せて頂きました。

松尾芭蕉が伊賀上野の天満宮に処女作「貝おほひ」を奉納し江戸に旅立った。

芭蕉の生前中自著して自著として刊行した唯一の出版物で現在一冊だけが現存するといわれる「貝おほひ」の刊本は、延宝初年に江戸の中野半兵衛から出版されたもので、天理大学附属天理図書館が所蔵しているといわれています。その天理大学から複製本を昭和二十一年に奉納されたそうです。

版木が発見されたので五十冊複製された中の一冊のようです。

「小六ついたる竹の杖、ふしぶし多き小歌にすがり、あるははやり言葉の一くせあるを種として、捨られし句どもをあつめ、右と左にわかちてつれぶしにうたはしめ、」というのが書き出しです。

この 「貝おほひ」を 上野天満宮(上野菅原神社)に奉納し、またこれをパスポートとして持参することで江戸俳壇に乗り込んだのである。なお、刊本は、江戸の書肆「中野半兵衛」から出版され江戸における芭蕉の存在を印象付ける大きな機序となった。

というのが定説ですのでこの複製本の版木も江戸の 「中野半兵衛」のものなのでしょうか。

三重大学文学部教授 山田雄司さんに古文書講座の折にこの写真をお見せして版元の印を読んで頂いたところ「わたやのほん」ということでした。

天理大学綿屋文庫という古典専門の俳諧に特化した部門がありそこの出版のようです。

ということはやはり昭和になって復刻された一冊のようです。

江戸に出てからの三年間は記録がありません。その間に北村季吟から俳諧指南書「埋木」を授与されていますがこの授与に信憑性を疑う人がいます、これは次回。


芭蕉の解明されていない事柄2

良忠(蝉吟)が寛文六年(1666年25歳で(芭蕉23歳時)亡くなり芭蕉も職を失ったとしてその後の江戸に旅立つまでの6年間がはっきりしません、

芭蕉生家

上野市史芭蕉編には芭蕉は良忠の遺髪を高野山報恩院におさめた。報恩院は焼失したが、その位置に高室院が再建され、今も高室院は上野関係の人々の寺院として知られているから、実際に高野山に登ったのであろう。

その後京都に遊学したとの説、あるいは禅門に入り修業したとも言われているが、実際はそのまま上野にとどまり、上野俳諧で力をつけていたものと思われる。

季吟邸や宗匠たちのところに出入りしていたものと思われる。とあります。

芭蕉が新七郎家に通った200m程の道

他の説には京都五山の禅寺ひとつにでも入って、 勤労奉仕、托鉢、座禅、学問、漢詩文などの修業生活を送っていたのでは、という説もありますがこれは「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛離祖室の扉(とばそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ」(幻住庵記)との記述から推測されたものだと思われます。

京都などに行き北村季吟に会ったり寺院に入ったことがあったかもしれませんがそれは一時のことだったと思われます。

藤堂新七郎家下屋敷裏門(勝手門)芭蕉は台所用人でしたのでこの門から出入りしたものと思われます。

大垣市の「芭蕉の歴史」には13歳で小姓として新七郎家に入り良忠が亡くなって台所用人として雇われたとしています。

江戸に立つまでの6年間にも数回、句が入選し掲載されていますし、三句で一組の句も入選していて助勝、正朝、宗房と長忠、定就、宗房で二組が掲載されていて他の人は新七郎家の若手の武家衆であったとしていますのでその間は上野で宗匠への道を切り開いていたのでしょう。

伊賀の郷土史家の人は新七郎家下屋敷の前に9軒程の家臣屋敷がありましたがその一軒に新七郎家の庇護のもと芭蕉が住み蝉吟の句集を編纂していたという説を唱えています。

古地図では9軒の新七郎家臣屋敷が左側に並んでいたが、今はこの土塀の一軒だけが文化財として残っている。

藤堂新七郎家(様々園)の庭 右手に枝垂れ桜がありました。

そして現在の伊賀市菅原神社に句集「貝おほひ」を奉納し江戸に旅立ちました。


芭蕉の解明されていない事柄

芭蕉生家の離れ釣月軒

芭蕉には解明されていない事柄が余りに多い、それは芭蕉が生きていた時代にはあまり重要に思われていなかったせいでしょうか、記録が詳しくなく、まず生年月日がわかりません死亡した年が数え年51歳とあるので換算して正保元年(1644)としているだけで月日の記録がありません。

多くの弟子達がいて多くの記録を残しているのにた生年月日を記したものがないことを少し奇異なことに思うのは今の時代の考え方なのでしょうか。

母親の出自もミステリアスです、元は桃地氏(百地とも)で伊予の城を任されていた藤堂高吉が名張に移るとき(寛永13年、1636年)共に移ったとの記録はありますが家柄の記録がなく、芭蕉が新七郎家という侍大将の屋敷に仕えられたり後に妹が名張藤堂家下臣に嫁いだり兄が仕えたりしたのは母親がどちらかの家の隠し子ではないかとの説があります。

そして芭蕉が藤堂新七郎家に仕えた年も豊かでない家の次男が19歳まで働いていなかったのか、仕えられたのは俳句をたしなんでいたからか、それとも仕えた後に俳句を学んだのかもはっきりしません。

「芭蕉は仕える前年の1661年頃から北村季吟に俳諧を学ぶことがあったか」と「上野市史芭蕉編」に記載されています。

芭蕉は新七郎家に仕える以前から窪田政好、保川一笑と俳句を通じて親交がありその縁で新七郎家に仕えた。と伊賀市の(芭蕉翁顕彰会)のサイトにあり伊賀市の「芭蕉と伊賀上野」でも同じ文章が掲載されています。

保川一笑は伊賀上野で紙屋を営む富裕な町人で本名は保川弥右衛門というが生年月日等年代は不詳。

貞門の同士として窪田政好らと藤堂新七郎良忠(蝉吟)の下屋敷に出入りし、 京都の北村季吟に師事し本格的に俳諧の道をたしなむ蝉吟の相手をしたり、当初は貞門の先輩として芭蕉(宗房)に俳諧の手ほどきもしたと思われる(伊賀上野町家みらいセンター)

どうやら伊賀の人達は俳句が縁で新七郎家に仕えた説のようです。

寛文二年(1662)千宜理記.(ちぎりき)に「春や来し 年や行きけん 小晦日」の句が掲載されていて、19歳 時のこの句が現在は一番古い句とされています。

この寛文二年が発行の年だとすると「こつもごり」は寛文元年の暮れということになり出仕前の作となり以前から俳句をたしなみその縁で新七郎家に仕えたということになります。

大垣市のサイトには

芭蕉は13歳のとき、父を亡くしたため、藤堂新七郎家に奉公に出ました。藤堂家では、跡継ぎであった藤堂主計良忠(とうどうかずえよしただ)に小姓として仕えます。

良忠は俳諧が好きで、蝉吟(せんぎん)という俳号を持っていました。

蝉吟の師匠が北村季吟でしたから、芭蕉は、蝉吟の句の添削をしてもらうため、主人の代理で京都の季吟の元へ通うこともあったようです。

季吟から句の指導を受け、それを蝉吟に伝える役目を持っていたのです。

このとき、芭蕉は俳諧の妙味を知ったのでしょう。

京都の北村季吟中心のサイトも同じような文脈です。

しかし、芭蕉が23歳のとき、蝉吟が死亡しました。

蝉吟が亡くなった後の芭蕉も定かてでないことがありますがそれは次回。

(略)

くれは水辺公園句碑巡りウォーク順路2

「凩に匂ひやつけし 帰り花」(こがらしに においやつけし かえりばな)

句意「季節外れの狂い咲きの花が、草木を枯らす凩にも色艶をつけたのか、この庭園は寂しく冬枯れた中にもどこか全体に潤いが漂っている。 」

元禄4年(1691)冬の作。美濃・大垣で詠まれています。

「旅がらす 古巣は梅に なりにけり」(たびがらす ふるすはうめに なりにけり)

句意「自分は旅烏のように所定めぬ漂泊の身。久しぶりに故郷にもどってみると、懐かしいこの古巣は今も昔も変わらず梅が咲き

「冬の広場」の東屋の近くにあります。貞享2年(1685)春の伊賀上野での作

「比古呂耳く支 烏も雪の 朝可奈」(ひごろにくき からすもゆきの あしたかな)

(句意)鳴き声のやかましさに、日頃は憎く思っている烏も、雪の朝、真白い樹々の枝に黒く点々と止っているのを見ると、コントラストに風情を感じるから不思議なものだ。

元禄3年(1690)冬の作。大津、義仲寺(木曽寺)での作

句碑が真っ黒です。句碑のまわりに、雪が積もれば、句に詠まれた情景になるのかもしれません。

「春なれや 名もなき山の 朝がすみ」(はるなれや なもなきやまの やまがすみ)

句意

ああ、もう春なのかなあ。こんな名もない平凡な山々にもうっすらと霞がたなびいてる。

前回の句碑から東へ道路を越えたところにあります。

貞享2年(1685年)芭蕉42歳の作。季語「霞」で春。2月中旬、『野ざらし紀行』の旅で帰郷していた芭蕉が、伊賀上野から奈良に至る山々の情景を詠んだ途中吟

同じ句を刻んだ碑は、伊賀市三軒家の旧大和街道近くにもあります。

甲子吟行の句の前詞に「奈良へ出る道ほど」とあり、碑の左下には「芭蕉庵桃青」と刻んであり『野ざらし紀行』の本文そのままです

「木のもとに汁も奈ま須母桜か奈」(きのもとに しるもなますも さくらかな)

春の広場に入った所の句碑

句意は「桜の木の下で花見をしていると、そこに花びらが次々と句意は「桜の木の下で花見をしていると、そこに花びらが次々と降ってきて、おかげで汁椀といわずナマスといわず花びらで一杯になってしまう。なんと豊かな花の一日であろうか。」。

元禄3年(1690)春の作。伊賀上野の藤堂藩士:伊賀忍町の小川風麦邸での俳席で詠まれたものです。「汁もなますも」は当時の慣用句で「何もかも」という意味だそうです。

元禄3年3月2日作 この句は、土芳の『三冊子』に「軽み」を発見した句とする記述があります。

「ひばり鳴く 中の拍子や 雉子能声」(ひばりなく なかのひょうしや きじのこえ)

対岸に向かった所の句碑

句意は「ひばりのさえずる春の日、その鳴声に合いの手を入れるように雉子が拍子をつける。実に長閑な春のさかりである。」

元禄2年春と元禄3年説がある。2年なら江戸、3年なら伊賀辺りでの作ということになる。

のんびりとした春の田園を詠んでいるところから、伊賀の作説が有力か。

「杜若 に堂りやにたり 水の影」(かきつばた にたりやにたり みずのかげ )

句意は「杜若が水に映った影は本物そっくり。花も影もまことによく似ているものだ」

寛文6年(1666)夏、芭蕉翁23歳、若き時期の作。

芭蕉が仕えていた藤堂新七郎家の嫡男、良忠(蝉吟)が寛文6年(1666年)4月25日、25歳で死去しているのでその直後でしょうか。

何に似ているかといえば杜若はそもそもアヤメ(菖蒲)に似ているので、その花びらが水に映っている姿などは尚更だというのでしょう。

「はつ真瓜 たてにやわらん 輪にやせむ」(はつまくわ たてにやわらん わにやせむ)

元禄2年(1689)夏の作。「奥の細道」の道中、山形県酒田で詠まれたもの。芭蕉翁は、瓜が大好物だったそうです。句意は「初物の真瓜をたてに割ろうか輪切りにしようか。はやく食べたい。」で、弟子達に対し「句なき者は喰う事あたわず」と戯れて発句を促したものだそうです。その場では

「初真桑四つに断たん輪に切らん」

と詠んだそうで、この句碑は推敲後の句です。

「老の名乃 阿里登も知らで 四十雀」(おいのなの ありともしらで しじゅうから)

まず「夏の広場」へ、公園の東側にありますが、句碑はさらにその広場の東の端にあります。

元禄6年(1693)秋の作。句意は「かわいらしいシジュウカラ。その名称に「40歳」と初老を意味する文字がついている事も知らず、機敏に飛びまわり、楽しそうに囀っていることよ。」。芭蕉翁は「老い」を感じ始めていたのでしょうか。この句を詠んだ翌年に亡くなっています。元禄6年10月9日頃江戸での句

「一里は皆花守の子孫かや」(ひとざとは みなはなもりの しそんかや)

(真蹟懐紙/猿蓑)

(句意)「この村里の人は、みんな(平安時代、桜の季節になると、帝に献上される桜の木を守る役目を負っていた)花守の子孫なのであろうか。桜を大切にしていることだ。」

元禄3年(1690年)春 奥の細道の旅を終えた元禄二年歳末の芭蕉は近江(膳所義仲寺)で越年。翌三年正月三日に伊賀に帰り、しばらく在郷。三月下旬(陽暦五月初旬)に、ふたたび義仲寺に出る途中でこの句を得た(土芳筆『全伝』)

寛弘の時代(1004年から1012年)

上東門院彰子が、興福寺の八重桜を京の都に移植しようとしたところ、南都の僧徒らがこれに異を唱えた。普段無骨で有名な僧徒らにも美を愛でる心があったかとして感服した女院はこの計画を撤回して、伊賀の国余野の庄に花垣をつくりここにこの桜を植えて、以後開花の時には宿直をおいて警護させたという。以来ここを「花垣の庄」というというのである。花垣の庄は、伊賀上野から名張への途中


くれは水辺公園句碑ウォーク順路1

「名月に麓の霧や田乃くも里」(めいげつに ふもとのきりや たのくもり)(続猿蓑)

元禄7年(1694)秋の作。季語は「名月」、「霧」。伊賀上野の無名庵ができ、月見の宴を催したときの吟。

(句意)皎々たる明月の下、はるかな山の麓沿いに夜霧が白じろと濃くたなびき、手前の田の面のあたりではうっすらと霞んでいるように見える「目にかかる 雲やしばしの 渡り鳥」(めにかかる くもやしばしの わたりどり)「芭蕉句選拾遺」宝暦5年(1755年)

年次不詳、秋の作。季語は「渡り鳥」。

(句意)渡り鳥の大群が、しばらくの間、雲かと見えるばかりに太陽を暗く遮り、やがてはるかな空の彼方に消えて去ってゆく。

宝永元年(1704年)『渡鳥集』には「日にかゝる雲やしばしのわたりどり」とあります。

愛媛県松山市の椿神社の玉垣に句が刻まれている。

芭蕉死後に日から目に変わっているので推敲ではなく「渡鳥集」の後の「芭蕉句選拾遺」に「目にかかる」と誤記したという説が正しいように思います。

「山吹や笠にさ須べき枝の乃形」(やまぶきや かさにさすべき えだのなり)須 さんづくり おおがい元禄4年、44歳。江戸赤坂の庵にて。

(句意)

 山吹が咲いている。これを笠に插して花笠にするのによい枝ぶりである

  「影待や 菊の香のする 豆腐串」(かげまちや きくのかのする とうふぐし)

元禄6年(1693)秋の作。江戸、岱水亭にて

(句意)「菊薫る今宵の影待は、ご馳走の豆腐田楽にさした青竹の串にまで、庭前の菊の香がしみこんでいる感じでまことにさわやかな思いがする。」

伊賀上野は豆腐田楽が名物です。でも、この句は江戸で詠まれたものです。

影待ちは日待ちと同意で村の近隣の仲間が特定の日に集まり,夜を徹してこもり明かす行事

「君火を焚 よき物見せむ 雪丸げ」(きみひをたけ よきものみせん ゆきまろげ)

句意「(よくおいでになった。)君は炉の火を焚いて温まっていなさい。その間、私は庭の雪で雪だるまを作ってお目にかけよう。芭蕉翁の茶目っ気を感じますね。

一番東の子供向け遊具がある広場にあります。

貞享3年(1686)冬の作。江戸深川にて、曽良に対しての句

「志保羅新起名や小松吹く萩芒」(しおらしき なやこまつふく はぎすすき)

なぜかほとんど漢字で書かれています 出典は『奥の細道』

「小松と云所にて」と前書きがある。現在の石川県小松市

元禄2年(1689年)7月24日、奥の細道の旅で芭蕉は金沢から小松に入り3泊している。

「時雨をや もどかしがりて 松の雪」(しぐれをや もどかしがりて まつのゆき)

寛文6年(1666)冬の作。寛文6年(1666年)4月25日、に良忠(蝉吟)25歳で死去した年の句

句意「松は、時雨がどれだけ降ろうが紅葉しない。それでも松が待っていたら、雪が松を真っ白に染め上げてくれたことよ。」。松と「待つ」がかかっています。

「両の手に桃と桜やくさ乃餅」(りょうのてに ももとさくらや くさのもち)上の句が真ん中に次に右、左と刻まれています。出典は『桃の実』(兀峰編)

元禄5年3月3日桃の節句。この日、芭蕉は門人其角と嵐雪を招いて歌仙を巻く。すでにこの時期、其角も嵐雪も、芭蕉が唱導する「軽み」の俳諧に従わず、師弟間には強い軋轢が存在していたのです。 

ということは桃と桜は其角と嵐雪、くさのもちは芭蕉でしょう。

「苣はまだ青葉ながらに茄子汁」(ちさはまだ あおばながらに なすびじる)

(句意)もはや初夏なのに目の前のお膳の汁には、春野菜であるちさ(チシャ菜)が、花もでない青葉のまま、そのうえ盛夏のものである茄子までがはいっていて、青々として香り高いちさと色鮮やかな紫の初茄子とをご馳走をしてくれた主人如舟に対する感謝の意をあらわしたものです。

元禄7年夏。最後の西上の旅の折、芭蕉一行は島田で船止めに遭ったが塚本如舟に歓待されて3日間逗留した。

なお、「駿河路や花橘も茶の匂ひ」・「五月雨の空吹き落せ大井川」・「たわみては雪待つ竹の気色かな」もここでの句。

広澤虎造の三十石船「秋葉路や 花橘も 茶の香り」 は芭蕉の駿河路や、の句を参考にしたものです。

「う免若菜丸子の宿乃登ろろ汁」(うめわかな まりこのしゅくの とろろじる)(猿蓑)

元禄4年正月、『猿蓑巻の五』

 (句意)新春を迎えて梅も花咲き、川辺には水菜が青々と茂っている。駿河の国鞠子の宿のとろろ汁もおいしい季節を迎えていることだろう。

乙州の旅立ちへの激励が込められた芭蕉餞別の吟。餞別吟として古来最高の句とされている。

土芳の『三冊子』には芭蕉の言葉として、「工みて云へる句にあらず。ふといひて、宣しとあとにてしりたる句なり。梅、若菜と興じて、鞠子の宿には、といひはなして当てたる一体なり」と記されている。

丸子は、静岡県中部、静岡市内のもと東海道の宿駅。当時とろろ汁が名物であった

藪椿門波葎乃若葉哉」(やぶつばき かどはむぐらの わかばかな)

(句意)

藪には赤い椿がたくさん咲いている。一方、門には葎が生い茂り、緑の若葉が鮮やかだ。赤と緑との取り合わせは見事に美しい。

葎むぐら。とは、つるくさの名。くきに細いとげがあり、秋、小さな花を開く。

貞亨5年(1688年)、芭蕉45歳の句。

芭蕉が伊勢神宮参拝の際、伊勢市船江町大江寺二畳軒(二乗軒)で詠んだ句。

「藪椿」は初案だったらしく、芭蕉句集などには「芋植ゑて門は葎の若葉かな」(いもうえて かどはむぐらの わかばかな)『笈の小文』には「いも植て」とある。

この句を作った句会は伊勢市大江寺で催された。周りには里芋畑が青々と茂っていて、寺の山門付近は葎がうっそうと繁っていたのであろう。

ところで、この時代、里芋と俳句は、里芋に俳味(灰味)があるというので相性がよいとの俗説があった。

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