日光街道沿いに遺された「不」形のマーク

http://daihimajin.blog95.fc2.com/blog-entry-81.html  【日光街道沿いに遺された「不」形のマーク (1)】 より

東武伊勢崎線草加駅の東側を南北に2kmほど走る旧日光街道の北の端、街道が県道49号足立越谷線と合流するすぐ左手前に、街道に面して草加宿の総鎮守神明宮があります。その鳥居の脇に、側面に「不」形の記号が彫られた四角い石造物が置かれていて、傍らに次の説明文が書かれた石版が立っています。

神明宮鳥居沓石(礎石)の高低測量几号

石造物に刻まれた「不」の記号は明治九(一八七六)年、内務省地理寮が

イギリスの測量技師の指導のもと、同年八月から一年間かけて

東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。

記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。

この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、当時、記号を

表示する標石には主に既存の石造物を利用していました。

この水準点の標高は、四・五一七一メートルでした。

その後、明治一七年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局

に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。

しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます。

草加 神明宮

草加神明社

几号が記された鳥居の礎石

草加神明社几号礎石

この神明宮の鳥居礎石は、このとき設置された几号水準点のうち東京から栃木県までの設置場所64か所を記録した内務省地理局雜報第十四号(明治12年)掲載のリストに「草加驛六丁目神明社華表」と書かれている華表(=鳥居)の礎石で、10年ほど前、几号水準点の現状を調査していた研究者が神社の片隅に横倒しにされて放置されているのを発見、草加市長に歴史遺産として保存するよう訴えた結果、現在の姿に保存されたものです。

明治8~9年の東京塩釜間の水準測量で130か所の石造物に几号水準点がつけられました。

しかし設置当時は不朽物と思われた灯籠・鳥居・水盤・道標・欄干などの石造物や石垣の石も、130年の歳月の中で作り換えられたり取り壊されたりして、現在存在が確認されているのは半数ほどになっています。

これらの水準点几号、目立たないところに刻まれていることもあって、人の目に留まることもほとんどありませんが、明治維新後日本近代化の過程で生まれた貴重な歴史遺産です。

次回から3回に分けて、埼玉県内の旧日光街道沿いに現存している几号水準点9カ所のうち、今回ふれた草加神明宮を除く8カ所を訪ねて行きます。


http://daihimajin.blog95.fc2.com/blog-entry-82.html 【日光街道沿いに遺された「不」形のマーク (2)】より

明治8(1875)年から9年にかけて内務省地理寮が実施した東京塩釜間の水準測量で埼玉県内に設けられた水準点几号(きごう)は、内務省地理局雜報第十四号(明治12年)によると奥州街道(宇都宮までは日光街道と同一)沿いの次の12地点で、そのうち黒字の9カ所の現存が研究者や好事家の地道な探索によって確認されています。

瀬崎村浅間社石造手洗

草加驛六丁目神明社華表

西方村字行人塚大相模不動道標

大澤町字天神前管社華表

大枝村字屋敷前普門品供養塔

粕壁驛上宿神明道標

堤根村二百六番屋敷九品寺青面金剛供養塚

下高野村字小谷塚株巖島境内石燈籠

茨島村下高野村界標傍石橋石崖

幸手驛馬之助神明社石燈籠

小右衛門村香取八幡社華表

栗橋渡場舊關所址石崖

今回から3回にわたり、これらの水準点几号の現在の姿を上から順に(南から北へ)紹介して行きます。

1.瀬崎村浅間社石造手洗

瀬崎村浅間社は草加市瀬崎3丁目にある富士浅間神社で、東武伊勢崎線谷塚駅の東200m、県道49号足立越谷線(通称日光街道)谷塚駅前交差点の南東角にあります。

石造手洗(水盤)は本殿に向かって右手前にあり、水準点几号は水盤正面から見て右側面の左下に刻まれていますが、流れ落ちる水で水盤側面の風化が進み苔も生えていて、目を凝らさないとほとんど見えません。

本殿は天保13年(1842)に建てられて以来同じ位置にあると思いますが、水盤は明治40年代(1907~1912)と昭和7年(1932)の2回位置を変えられたそうです。

日光街道側から見た富士浅間神社

瀬崎富士浅間神社

富士浅間神社水盤(矢印の先に几号が刻まれている)

瀬崎富士浅間神社

2.草加驛六丁目神明社華表

前回紹介した草加市神明1丁目にある神明宮の鳥居礎石です。

華表(かひょう)は本来中国の宮殿や霊廟の前に立つ石柱のことですが、終戦頃まで日本では鳥居の意味にしばしば用いられており「トリイ」とも読んでいたようです。

3.大澤町字天神前管社華表

東武伊勢崎線北越谷駅の東200mほど、県道49号足立越谷線(通称日光街道)の西際にあるこの地の鎮守大沢香取神社(越谷市大沢3丁目)の参道の中ほどに、礎石に水準点几号が刻まれていて「天満宮」の扁額が掲げられた鳥居があります。

大沢香取神社 右は県道49号線(通称日光街道)

大沢香取神社

天満宮の扁額が掛けられている二の鳥居

大沢香取神社二之鳥居

水準点几号  社殿に向かって左の柱の礎石の社殿側に刻まれている

大沢香取神社几号

大沢香取神社の御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)で、菅原道真公を祀る天満宮(あるいは天神社)とは全く別の神社ですが、この香取神社には明治の末ごろ町内にあった天満宮が合祀されており、この天満宮の扁額が掛けられた鳥居には「大正二年一月一日  移轉寄附 吉岡伊三郎」と刻まれていることから、この鳥居はもと「大澤町字天神前管社」の華表で、合祀後ここに移転されたものと思われます。

また「管社」とは「菅原道真公を祀った天満宮あるいは天神社」のことのようです。

では、その「管社」はどこにあったのか。

文化文政期に書かれた「新編武蔵風土記稿 巻之二百三 埼玉郡之五 越ケ谷領 大澤町」の項に、今も北越谷駅南の線路際にあるお寺、照光院の記述があり、その堂宇の一つに「天神社 本地佛十一面観音を安ず、土人鉈作の尊像を云」と書かれていて、天満宮(天神社)は照光院の境内にあったようです。

明治10年代に作られた迅速測図にも、大澤町の日光街道沿いの家並みの中ほどやや西に照光院の卍、そのすぐ東側(赤い矢印の先)に天神祠、天神社が印されていてこれを裏付けています。

大澤町迅速測図

左:明治14年の迅速測図を元に作られた2万5千分の1図(日本地図センター)の大澤町付近

右:歴史的農業環境閲覧システムで見た同時期の迅速測図の同じ場所

中央を左上から右下に貫いている道路が日光往還

右図の三重線は現在の東武鉄道、四角形は北越谷駅、オレンジ色の線は県道49号線の位置

(地図をクリックすると大きく表示されます)


http://daihimajin.blog95.fc2.com/blog-entry-83.html 【日光街道沿いに遺された「不」形のマーク (3)】より

4.大枝村字屋敷前普門品供養塔

普門品(ふもんほん)とは妙法蓮華経第二十五品(ほん)観世音菩薩普門品(通称観音経)のことで、観音経を信奉する念仏講の人たちが地域の安泰を願って観音経を十万回、百万回と数多く唱え、その達成を記念して建てた石塔が普門品供養塔です。

安政四年(1857)に建てられたこの普門品供養塔、かつては真言宗のお寺歓喜院(かんぎいん、春日部市大枝)前の日光街道際にありましたが、道路拡張工事にともないお寺の境内に移され、道から20mほど離れた墓地の一角に置かれています。

写真上) 歓喜院 手前は国道4号線(日光街道)

写真下) 歓喜院境内に置かれている普門品供養塔(右から3番目 正面に「普門品供養」と刻まれている) ≪写真をクリックすると大きく表示されます≫ 

歓喜院

歓喜院宝篋印塔

ところが、普門品供養塔に記されている筈の水準点几号、普門品塔のどの部分にも見当たらず、その隣にある寛永四年(1627)の宝篋印塔の礎石の背面に半分地面に埋まってつけられています。

宝篋印塔の礎石背面にある水準点几号

歓喜院几号

記録が間違っているのか、石塔を移動したとき礎石が置き間違えられたのかわかりませんが、いずれにせよ記録を頼りにこの几号水準点を探し求め、宝篋印塔の礎石の裏側、わずか20cmほどの隙間にこれを見つけ出した人の努力と執念はすごいと思います。

5.粕壁驛上宿神明道標

かつては日光街道脇にあったと思われるこの神明社への道しるべ、今は東武線春日部駅東口の北100mほどの所にある神明社の小さな社の横、隣接するビルとの2mほどの隙間に、庚申塔、痘神、力石といった石造物と並べて立てられています。

写真上 粕壁神明社

写真下 神明道標(背の高い石碑 高さ約2.3m)

春日部神明社

春日部神明社庚申塔

道標の正面にはくずし字で「散流當悲己乃神」(さるたひこのかみ)、右面に「弘化三年丙三月庚申立」、左面に「神明道長廿四丈三尺廣八尺」と大きく書かれていて、左面「廣八尺」の下に「不」形の水準点几号が鮮明に刻まれています。(下の写真)

春日部神明社几号

石造物の列の中にもう一つ「神明道長四拾間三尺幅八尺」「天保三年壬辰八月」と書かれた高さ1mほどの道標があります。

春日部神明社道標

二つの道標に書かれている神明道の長さはどちらも240尺(約74m)、ところが現在の神明社は日光街道から150mほど南にあり、道標が街道沿いにあったとすると距離が合わないのですが、昭和11年の粕壁町略図には鳥居の印が現在の位置より北に描かれており、30年ほど前の区画整理事業で境内地が50mほど南に移動しているそうですので、いま社の横にある二つの道標は昔街道沿いにあったとみて間違いないようです。

6.堤根村二百六番屋敷九品寺青面金剛供養塚

日光街道を拡幅してつけられた国道4号線、ところどころで街道を迂回していて、そこに旧道が遺されています。

この元堤根村(現在杉戸町堤根)九品寺(くほんじ)の前を南北に走る700mほどの通りも国道4号から分岐している旧道で、青面金剛の庚申供養塔は街道の西側にある九品寺の金網フェンスの内側、街道から数メートル離れたところに南に向けられて立っています。

九品寺と青面金剛塔(矢印) 右の道は旧日光街道

杉戸久品寺

塔の正面に大きく「青面金剛」、背面には庚申塔が建てられた「天明四甲辰歳十一月吉日」とこれを彫った「松伏領新川村 石工星野常久」の文字、向かって右面に「右江戸」、左面に「左日光」の文字が刻まれています。

「右江戸」と書かれた面を江戸の方向(南)に向けると正面は西向きになるので、かつては街道の向かい側に立てられていたものと考えられます。

写真上 正面

写真中 右側面 台座に不形の几号

写真下 左側面

杉戸久品寺庚申塔正面

杉戸久品寺庚申塔右面

杉戸久品寺庚申塔左面

台座に刻まれている几号マークは、庚申塔を建てた堤根村講中の人たちの名前の一部に重ねて彫られています。

仮に現在の国土地理院が同じ事業を行ったとしても、石碑の像や文字を損ねるような彫り方はしないと思います。

明治の始め、庶民の過去の風習を否定し近代化を推し進めたお役人たちの強引さの一端が伺えます。

杉戸久品寺庚申塔台座の几号

青面金剛塔の傍にある杉戸町教育委員会が書いた説明板にはこの塔の道しるべと庚申塔としての説明があるだけで、几号水準点についての記述は全くありません。

説明板が作られた当時教育委員会にその知識が全くなかったのは仕方ないとしても、今でも放置されたままなのは残念です。


http://daihimajin.blog95.fc2.com/blog-entry-84.html 【日光街道沿いに遺された「不」形のマーク (4)】より

7.下高野村字小谷塚株巖島境内石燈籠

この厳島神社は、東武日光線杉戸高野台駅の南1kmほどのところ、杉戸と幸手の間に広がる田園地帯を真っ直ぐ南北にに走る国道4号線(日光街道)のすぐ西側にあり、朱塗りの小さな社殿の右手前にある石灯篭の礎石の参道と反対側の面にこの几号水準点が刻まれています。

杉戸厳島神社

礎石の左に刻まれた几号

杉戸厳島神社灯篭几号

この厳島神社の現在の地名は「杉戸町大字下高野字小谷堀西」で、神社の隣にある公民館の名は「小谷堀(こやぼり)集会所」です。

また、新編武蔵風土記稿葛飾郡之十六 幸手領の記述の中に、下高野村の小名(字)として「小谷堀」の名が書かれています。

これらのことから、地理局雑報記載の「下高野村字小谷塚株巖島境内・・」の「塚」は「堀」の書き間違いであることは明らかです。

では、その後にある「株」とは何か?

この疑問に答えるヒントが灯篭のすぐ西側に立てられている文政五年(1822)の庚申塔にありました。

「武州葛飾郡幸手領 下高野村内小谷堀株」の刻字です。

杉戸下高野庚申塔

この村の旧家に伝わる古文書の中に「下高野村之内小谷堀組 組頭・・・他14名」と書かれている文書があります。(*1)

庚申塔の「小谷堀株」は文書の「小谷堀組」と同じ意味で、造立者は「下高野村内小谷堀組の者」と刻んであるのですが、この刻字を見つけた測量隊のお役人はこの地が「小谷堀株」と思って書き写したのではないかと考えます。

(*1) 慶應義塾大学所蔵大島家文書

8.幸手驛馬之助神明社石燈籠

幸手宿(驛)はかっては「奥州街道の中で千住、宇都宮、陸奥白川、越ヶ谷に次ぐ規模の宿場」(Wikipedia)として栄えた街で、現在の幸手市の中心部、旧日光街道の幸手駅前交差点から北に900mほどの直線区間が昔の宿場町にあたります。

幸手宿の馬之助は正しくは右馬之助(うまのすけ)といいます。(*2)

昭和42年(1967)町の中心部が東・西・南・北・中の5つの町に編成替えされたとき右馬之助町は「中」に編入され、歴史ある名前は消滅しました。

神明社は現在の中2丁目、幸手駅前交差点のすぐ南、街道の東側に面する旧右馬之助地区の鎮守で、石灯篭は既に取り払われバラバラにされて境内の片隅に棄てられたままになっていますが、几号水準点が刻まれている礎石だけは神社の入り口、玉垣の左内側にきちんと置かれていて、その説明板が傍らに立つ神社の説明板の下に付けられています。

幸手神明神社 幸手神明神社几号説明板

この礎石も、かつては草加神明社の鳥居の礎石同様、神社の片隅に打ち棄てられてあったのですが、10年ほど前それを見つけた研究者の指摘をうけて市が現在の姿に整備保存しました。

幸手神明社几号

(*2) 右馬之助の地名について、新編風土記巻之三十五葛飾郡之十六 幸手領 にその由来が書かれています。

「舊家者右馬之助  名主問屋を勤む、先祖 新井伊勢守源貞は、小田原北条氏に従ひ、三千貫を領せり。後退去し其子右馬之助源次を伴ひ 足立郡鴻巣勝願寺に至り、法門に入りて道圓と改む、その頃古河義氏に従へる一色宮内大輔當所に居城せしが、ゆかりあるを以って道圓父子ともに一色家に従へり、一色没落の後も、右馬之助は當所に殘り、民間に下り田畑を開墾す、今 その所を右馬之助町と云・・・・」

9.小右衛門村香取八幡社華表

小右衛門(こえもん)村香取八幡社は「歩く地図でたどる日光街道30 幸手宿~栗橋宿」には「川通神社」と記載されている神社で、国道4号線栗橋東六丁目交差点から西に100mほどの旧日光街道沿いにあります。

新編武蔵風土記稿 葛飾郡島中川邊領小右衛門村の項に「香取社 村の鎮守なり、村民持」と記載されている神社なのですが、何故か、Googleマップその他のWebサイト地図には全く記載がなく、またどの神社サイトで検索しても栗橋東6丁目にある神社は出てこないので、現在の正確な名称はわかりません。

「寶暦十四年」(1764)の年号が刻まれた神社の鳥居には「香取宮 八幡宮」と書かれた神額が掛けられています。

栗橋香取几号

その鳥居の社殿に向かって左側の亀腹(柱と台石の間の礎石)の社殿面に水準点の几号が鮮明に刻まれています。

栗橋香取几号

この神社がある旧日光街道の東側一画は現在久喜市栗橋東6丁目で、小右衛門は旧街道の西側なのですが、神社境内の鳥居、水盤、庚申塔などの石造物には小右衛門村の名が刻まれており、かっては小右衛門村であったことに疑いなく、いつの頃か栗橋に組み込まれてしまったようです。

鳥居の右柱の脇には現在使われている一等水準点(No.2024)が置かれています。(写真の左下)

また神社向かい側の道路際には三等三角点があります。


http://daihimajin.blog95.fc2.com/blog-entry-86.html 【日光街道沿いに遺された「不」形のマーク (おまけ その1)】より

中田町香取八幡社華表

『日光街道沿いに遺された「不」形のマーク』と題して4回に分け埼玉県内に現存している9か所の几号水準点について書きましたが、今回はそのおまけ、地理局雑報に記載されている「中田町香取八幡社華表」の几号水準点です。

中田町(現在の古河市中田)に「香取八幡」の名がつく神社はありませんが、町の鶴峯八幡宮(つるがみねはちまんぐう)の境内にある説明板に、同社は八幡宮〈祭神:誉田別命(ほんだわけのみこと)〉と香取神宮〈祭神:経津主命(ふつぬしのみこと)〉の相殿(共に祀られている社)と書かれており「中田町香取八幡社」とはこの鶴峯八幡宮のこととわかります。

中田・鶴峯八幡神社

この神社は国道4号線(通称日光街道)利根川橋の北600m、4号線の西側を4号線とほぼ並行して走っている旧日光街道沿いにありますが、かつて中田宿が今は河川敷となっている利根川橋の下あたりにあった頃は、町の東にあった古墳の上、現在栗橋国際カントリークラブの13番ホール付近に中田宿の鎮守としておかれていていました。

明治10年代に作られた栗橋宿・中田町付近の迅速測図を見ると、中田町の南東側に鳥居の記号と八幡祠の文字があり(円内)、これが鶴峯八幡宮と思われます。

迅速測図 栗橋・中田(歴史的農業環境閲覧システムより)

しかし、明治43年利根川流域大洪水の後始まった利根川改修工事で中田宿が堤防の内側になることになり、町が数百メートル北の日光街道沿いに移転を始めたのにともない、鶴峯八幡宮も明治44年現在の地に移転しました。

現在の地図に上の迅速測図を重ねてみると、明治中ごろの中田宿の位置がよくわかります。

栗橋中田現旧重ね図

几号水準点は「奉造立 享保十七壬子歳」(1732)の刻字がある旧日光街道脇の一の鳥居の社殿に向かって右の柱の根元に刻まれていて、現在でも鮮明に遺されています。(上の地図上の不の印)

中田・鶴峯八幡社几号

この鳥居はかつて中田宿のどのあたりにあったのか?

当時の奥州街道沿いと考えてまず間違いなく、上の迅速測図で、宿場の通りから八幡祠に向かって南にのびる参道らしき道の付け根あたりかも知れません。


http://daihimajin.blog95.fc2.com/blog-entry-87.html 【日光街道沿いに遺された「不」形のマーク (おまけ その2)】より

西方村字行人塚大相模不動道標

大相模不動尊大聖寺、東武スカイツリーライン越谷駅の東約400mを南北に走る日光街道からさらに1.6kmほど東にある古刹で、古くは近郷ばかりでなく江戸の人たちからも信仰を集め、昭和の初めごろまでは門前町も出来ていて多くの参拝者でにぎわっていたと言います。

大相模不動尊大聖寺山門

大相模不動尊 

日光往還から大相模不動尊に通じる「不動道(みち)」の入り口にあったと思われるこの道標(みちしるべ)、いまだその行方がわからないのですが、大聖寺の東門前にある「是より 大さがみふどうそ〇  十二〇」「文久二年壬戌九月」と刻まれた石碑がその道標ではないかと推測されています。

大相模不動尊東門 道標1

大相模不動尊東門 道標2

この石碑の下の部分に「不」のマークが刻まれていれば、間違いなく行方不明の道標と断定できるのですが、残念なことに下の部分がコンクリートで固められていて見ることができません。

しかしそこに刻まれている文字から、本来立てられていた場所が推定できます。

「ふどうそ」の下の字は「ん」、「十二」の下の字は横棒が見えるので「丁」でしょう。

そうすると、日光街道沿いで不動尊までの距離が十二丁(1.4km)の場所にあったことになります。

下の地図は明治10年代に作られた迅速測図の西方村とその周辺部分です。(青字は説明用に記入したものです)

Webサイト「歴史的農業環境閲覧システム」より

図をクリックすると別画面で大きな図が開きます

大相模不動道 明治

図の左端を南北に走る道が日光往還、左上の家並みが越谷宿、右上の卍と不動の文字の一角が大相模不動尊大聖寺で、左下の日光往還から図の中央を通り右上の不動尊に通じる不動道が描かれています。

この迅速測図に描かれている主な道を黄色で最新の国土地理院の地図に重ねたものが次の図です。

大相模不動道 現在

左下、日光街道不動道入口(◎)からかつての門前町入り口(○)まで不動道の跡をたどるとその距離はほぼ1.4km(十二丁)で、大聖寺東門前の道標に書かれている距離と一致します。

この道標、平成16(2006)年に現在図左下の●の場所から現在地に移設されたとのことで、さらにその前は●のところにあったそうですが、もともとは不動道の入り口、地図の◎の位置にあり、几号水準点が刻まれている行方不明の道標とみて間違いなさそうです。

かつて不動道標があったあたりを日光街道の南西側からみた現在の写真です。このあたりの不動道はもう70年も前の耕地整理事業で完全に姿を消し、昔の面影は全く残されていません。

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