https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/past_shinngikai/shinngikai/kondankai/bungaku/8/8-p01.html 【歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会-日本文学に見る河川-第八回議事録】
より 抜粋
2.話題提供 ○芳賀委員長
それで、私自身が最初に「斎藤茂吉と最上川」ということでお話し申し上げることになるのですが、実はこの話は昨年、お手元のこれまでの研究会の資料3にどういう研究会をやってきたかの一覧表がありますが、その中に出ております平成14年9月、山形県、岩手県、それから宮城県も入っていたと思いますが、それで約2晩、3日ほどにわたりまして、最上川、それから北上川、そこをグルッと回ったことがありました。国土交通省の方々も、それから現地の河川事務所の方々も加わってくださいまして、いつも全部で20人から30人ぐらいで動きまして、そのときに最上川の河畔の、あれはどこでしたか、新庄から最上川を西に曲がっていったどこか船着き場でしたか、そこにレストラン兼セミナー室みたいなところがありまして、そこで一度お話し申し上げたことであります。ただし、そのときはこの委員会のメンバーは、私と、それからきょう御欠席の高橋さんしか参加していらっしゃらなかった。あとは全部お役人ばかりで、はなはだむなしい感じでお話をしたわけですね。(笑声)しかも、あのときは、私は7月から9月にかけて7週間ほど前立腺の手当てをずっと毎週京大病院に通って受けていたその直後でへとへとになっていたようなところで、そこで国土交通省のためにと思って必死になってお話し申し上げた次第でありました。
それで、あのときはそういう形でしかお話ができなかったので、もう一回やれというふうに国土交通省河川局の方から御用命が下りました。
斎藤茂吉はもう言うまでもなく、ここに書きましたように明治15年(1882年)に山形県の上山温泉のすぐ隣に金瓶村という村がありまして、そこで生まれました。金瓶村というのは、金瓶の「瓶」はバラの花を生ける花瓶の「瓶」ですね。「金」の「瓶」金瓶村。上山温泉の中心まで歩いていくと1里ぐらいあるのでしょうか。
その金瓶村という、今もそのまま集落の名前で残っておりますが、そこに生まれました。茂吉の生まれた家も、それから茂吉が幼いころからいつも遊びに行っては和尚さんに教えてもらっていた宝泉寺、宝の泉のお寺もそのまま残っておりまして、山形新幹線で上山の駅を越えますと、新幹線の右側の窓辺に、その茂吉の家がすぐあの辺に見えるのですね。いつも感激しながら通っております。20世紀最大の詩人、20世紀日本、つまり20世紀世界最大の詩人の1人があそこで生まれたのだと言っては、だから、私は新幹線はなるべく右側の席に座るようにして、窓から茂吉の生まれた家と、本当に農家です。それと茂吉が幼いころ遊びに行ってはいつも和尚さんにいろいろなことを教えてもらった、茂吉にとって一番生涯、後まで残る蔭応和尚というのでしたか、その和尚さんがいらしたお寺と、それがそっくり見えます。
その線路のすぐ下に流れているのが須川という川でして、これは蔵王山から流れ出てきて、やがて大分行った先で、あれはどの辺でしょうか、天童まで行かないのですが、谷地というあたりで最上川に入っていく支流が鉄道、新幹線とそれから茂吉の家との間を流れています。今も音を立てて、なかなかきれいな川で流れています。ただし、その須川というのはやがて最上川に入るのですが、最上川に入るまでは名前のとおり酸っぱい川なのですね。硫黄鉱山のあるあたりから流れていて、硫黄っ気を含んでいて、魚が棲んだことがないという川であります。
それとまた並行して別な淡水と言いますか、硫黄っ気のない川も流れているようでありまして、茂吉は少年のころからその川で遊んでいたようです。斎藤茂吉には「念珠集」という非常におもしろい抜群の随筆集がありまして、「念珠」というのは数珠のことですね。それはちょうど自分がミュンヘンに大正十何年か、3年ほどドイツに留学している間に自分の父親が、その最後を看取ってやることもなく死んでしまった。そのことを非常に痛恨に思っておりまして、日本に帰ってきてからしばらくたったころ、昭和の初めのころだったと思いますが、その父親を追悼する、冥福を祈る1粒、1粒の数珠のつもりでエッセーを綴っていったというとてもいいエッセーがありまして、その中にその須川の話も一番最初の方に出てきます。
ときどき須川と、それからもう一つそれと並行しているきれいな水の川の間の境目の土手が切れて、須川の水が向こう側の川に流れ込むことがある。そうすると、向こう側の川にいっぱいいる魚が一遍に浮いて死ぬ。それを村人たちはウワッと行って拾うという話ですね。それを「須川落ち」と言ったそうです。ときどきわざとそれをやるのがいたそうですね。あのころは建設省も黙って黙認していたそうです。お巡りさんもね。ときどきはそうやって村人が一斉に魚を拾い上げる。子供たちも、大人たちも、「須川落ちだ」と言って走っていってその魚を拾う。
ちょうどそういうふうにやって向こう側の川が増水したときに、自分の小学校の同級生がそこの瀬の向こう側にちょっと深い淵があって、そこで何かして遊んでいるなと思ったら、いつの間にか彼の手だけが水の表に、白い手が浮いているのが見えた。それを反対側の川っ淵で遊んでいた茂吉が見つけて大声で助けを呼び、大人たちがなかなか来なくて、途中で少し年かさの14~15歳の少年が飛び込むのだけれども、救うことはできなくて、水の中から顔を出してきて、顔をふいているとか、そういう情景で、やがてようやく大人が来て、上山に近い方の家のそこに婿に来た男というのが、淵の底に沈んでしまっていた八十吉というその少年を救い上げてくれた。ところが、その少年はもうすでにだめだった。その少年を救おうとして村人たちは、大勢大人たちがやってきては、お尻の穴からきせるを突っ込んで、それで空気を盛んに吹き込んだとか、そういう状況も目の当たりにしたようです。7歳か8歳ぐらいの少年茂吉にとっては非常に印象的な川の事故の、自分の親友がそこで死んだわけで、その光景だったようです。
茂吉にとってはそういう少年時代から自分の金瓶村のすぐそばを流れているさまざまな川、それはみんな最上川の支流ですが、それについては非常に深い印象を、印象だけではないですね、体験を持っていたわけです。
やがて茂吉は言うまでもなく、14~15歳、尋常高等小学校の高等科を上山小学校で終えますと、そこの地域の出身で、東京の浅草の方で精神科病院を開いていた斎藤紀一のところに養子となって行くことになり、父親に連れられて奥羽山脈の笹谷峠というのを歩いて越えて仙台まで出て、そこから汽車に乗って東京に出た。東京に出てきて開成中学校に入るのですね。開成中学校で5年生まで、だから残り何年かをやって、尋常高等科に、今で言えば中学2年に入りますから、残り3年ぐらいを開成でやって、それから旧制一高に入って、それでその一高にいるころに初めて正岡子規の歌集を読んで、それで歌に目覚めて、もともと歌心はあったのでしょうが、自分の中にある歌の才に目覚めて、それから歌をつくり始めた。そしてついに生涯、大歌人としての60数年、70年ですか、を送ったということになります。
ですから、その歌の中には、彼は東京に出てきて、東京帝国大学の医学部精神医学科に入り、そこの助手になり、それからインターンとして巣鴨のあたりの脳病院に勤めたり何かして、その間に、大正2年、自分の実の母親がこの金瓶村で死んだので、それを東京から急遽夜行列車で山形に帰って、その最後を看取ったときのうたがあの有名な「死にたまふ母」という59首でしたか、母親の死んだ年の数の歌をつくった。それが大正2年「赤光」という歌集に入って、ちょうどそのころ自分の先生だった伊藤左千夫が死んだので、その伊藤左千夫を追悼する歌も入って、その「死にたまふ母」と伊藤左千夫を悼む歌と、それが「赤光」の冒頭に載って、暦を逆にたどる形で古い方の歌に行く、そういう形で大正2年に「赤井光」が出ている。これが要するに20世紀の最大の詩集でありました。
芥川龍之介も佐藤春夫もみんな仰天したわけですね。1,200年ほどの伝統を持つ和歌という、短歌という伝統をこんなに新しい現代の最先端の精神を盛り込んで、緊張して、光輝くような歌になることができるということを知りまして、あの当時の人で「赤光」に心を打たれなかった知識人、文人はまずいなかったと言っていいほどであります。
北原白秋もちょうど同じ年に「桐の花」という第一歌集を出しています。ちょうど北原白秋の方の非常にハイカラな都会的センスを実にうまくやわらかい言葉で歌い込んだ「桐の花」と、それからちょっとゴツゴツとした言葉で東北の風土を歌い、自分の死んで行った、本当の農家の家付き娘として生まれて、育って、そこに婿を取って、茂吉などを生んで、そしてほとんど一歩も山形県内から外へ出ることなしに死んでしまった農婦の、生涯全くの百姓女であった自分の母を悼んだ詩、それを載せた「赤光」という歌集が同時に出たわけで、あれは近代日本詩史、History of Japanese poetryの中では一番のピークの年だったろうと思います。
その前に高浜虚子もいたわけですね。それから、その後には萩原朔太郎も出てくるけれども、結局全体を、俳句も自由詩も短歌も通して見たときに、この斎藤茂吉の「赤光」から始まって、晩年の「白き山」に至るまでのうたの業績というのは、結局のところ最も包容している世界が広くて深くて、そのまま西暦7世紀ですか、その柿本人麻呂につながり、そして20世紀の世界の詩歌の中の最先端に立つという、そういう歌であったろうと思います。20世紀、日本のみならず世界の最前衛の詩人でありました。その最前衛の詩人の根っこは万葉の柿本人麻呂にそのままつながっているという、非常におもしろいケースでありました。
だから、私はいつも言うのですが、20世紀、世界を代表する詩人を5人選べと言ったら、その中にこの茂吉は入る。入れていなければそれは間違いである。T.S.エリオットもいたろう、それからリルケも入るかもしれません。しかし、ポール・ヴァレリーなどは落ちてしまう。それから、あとオクタビオ・パスとか、あるいは中国に何かいたかもしれませんが、そんなものでしょうね。残念ながら、佐藤春夫も三好達治も萩原朔太郎もその5人の中には入らない。高浜虚子はすれすれであろう。坪内さんがいるから、そういうふうに言っておきます。(笑声)
そういう歌人で、その茂吉のそういう大歌人となる茂吉の生涯を貫いて流れていたのがこの最上川及び、その最上川に入るようなさまざまな支流であった。
茂吉の歌集は何集出たのか数えたことはありませんが、20か、3年に1冊ぐらいずつ歌集が出てきまして、ヨーロッパに留学している間の歌集もなかなかいいものがありますし、それから帰国してからもいいものがあります。ヨーロッパに行く前に長崎に行っていたころの歌もおもしろいものがあります。
しかし、最上川のことが一番よく詠み込まれるようになったのは、昭和20年のあれは2月ごろですか、斎藤茂吉がついに東京の家を出て、自分の生まれ故郷である上山近郊の金瓶村の実家に疎開してからであります。そして昭和22年の正月にまた東京に戻るまで、2年近く山形近辺、あの村山盆地で過ごしました。その間の最初の歌集が「小園」という昭和20年の歌をおさめたもの、敗戦を挟んで前後の歌がこの「小園」という歌集の中におさめられておりまして、それからそのすぐ後に続くのが「白き山」、昭和21年からのうたが「白き山」におさめられております。このあたりに一番茂吉にとっての本当の最上川が姿をあらわしていると言えると思います。
途中で斎藤茂吉は、あれは昭和21年の正月になってからですか、敗戦の翌年の正月に自分の生まれ故郷の金瓶村の妹がいた実家に疎開していたわけですが、妹が後を継いでいたわけですが、そこに何となく居づらくなってきて、その金瓶の家を出て、大石田に移ります。大石田には自分のうたのお弟子であった板垣家子夫さんという人がいて、その人が実によく世話をしてくれた。大石田のちょっとお金持ちの、かなり立派なお屋敷の中に別宅があって、その別宅を丸々貸してくれました。今、それが聴禽書屋と言ってそのまま大石田に残されております。広い2階建ての建物ですね。その大石田の疎開先は本当に最上川にすぐでありまして、茂吉は病気のとき以外は毎日のように最上川に散策に行っていました。そして最上川を眺めて歌をつくることによって、敗戦の結果受けた自分の深刻な痛手を、少しずつ癒していったわけです。
だから、川と文学、日本文学に見る河川と言った場合に、河川が最も深刻にある1人の詩人の、作家の心の中に入り込んで、その詩人の精神の構造をなし、それを支えたケースというのは、結局この斎藤茂吉の場合ではないかと思っております。茂吉はこの最上川がなければ救われることはありませんでした。そのまま、日本敗戦とともに滅びていたかもしれない。それほど深く最上川が彼の生活に寄り添って、彼の敗戦によって受けた衝撃を慰めていってくれたわけですね。
昭和20年8月15日、ちょうどまだ茂吉が金瓶村にいたときに敗戦の報を聞いたわけです。その日の日記にも、実に強烈な衝撃を受けたことが書き込まれています。いつかはこの仇を討たなければいけないという、それはそうでしょう。あのころまともな日本男児はみんなそう思ったわけで、そう思わないので、「万歳」などと言ったのは、徳田球一ぐらいでしたからね。ああいうときに、「こいつめ、アメリカめ、いつかは敵を討ってやる」と思うのが、まともに良識のある、しっかりした男だったわけです。茂吉もまたしかりでした。
しかし、そうやって聖戦を真っ向から信じていた、そういうところはよくこういう歌人にある一種、何でしょうね、大変な精神医学をおさめているからその当時の最先端の科学をやっていたわけですが、しかし一方では国内政治とか何かについてはとんまなところがありまして、そのちぐはぐがまた茂吉にとっておもしろいのですが、それで戦争を疑うというようなことはほとんどなかったようですね。だからこそ、敗戦が彼に与えた衝撃は大きかったわけです。
ここには余りそういう歌は挙げていないかもしれませんが、もう口をきく気もしなくなっている。そうすると、敗戦直後の20年の秋の初め、9月のころに山のブドウが黒くなってきて、それに雨が降っている。幾つもあるのですが、
「このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね」
北から渡ってきたかりがねに向かってそう訴えている。
「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」
そういう歌があります。非常によく、ちょっとうま過ぎるぐらいに自分のこの口惜しさと、それから自分に対する一種の自責の念ですね。それを歌に詠んでおります。
「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」
どれも有名な歌です。
その間に入っている、これはみんなまだ大石田に移らないで金瓶村にいた敗戦直後の秋の歌ですね。
「星空の中より降らむみちのくの時雨のあめは寂しきろかも」
寂しきものでもあろうかと。
「星空の中より降らむみちのくの時雨のあめは寂しきろかも」
「くやしまむ言も絶えたり爐のなかに炎のあそぶ冬のゆふぐれ」
「こがらしの山をおほひて吹く時ぞわれに聞こゆるこゑとほざかる」
「山々は白くなりつつまなかひに生けるが如く冬ふかみけり」
本当に敗戦直後のころの荒涼とした精神状態にいて、そこで彼がたった1つ頼りにできたのはこの山形の村山盆地の、彼が子供のころから見慣れた蔵王山の山々であり、それから少年のころから親しんだ最上川及びその最上川の支流だったわけです。
今のお手元の資料の1枚目の下段の方には茂吉の疎開以前の最上川の歌もありますが、それは飛ばしまして、昭和20年の、真ん中あたりの歌ですと、
「冬河となりてながるる最上川雪のふかきに見とも飽かぬに」
もうただ最上川を見詰めているわけです。
「よわき歯に噛みて味はふ鮎ふたつ山の川浪くぐりしものぞ」
こういうのを読んでいくと、茂吉はほとんど敗戦直後のころ一種、縄文、柿本以前まで戻ったという感じですね。一種、縄文詩人になった。日本人の精神構造の中の一番底を流れているのが縄文的なアニミスティックな自然感情だと言えますけれども、霊的なものに対する一種のシンパシー、そういうものに共鳴する力があると思いますが、それが茂吉の場合、敗戦直後の一種のダダによって、敗戦が一種のtabula rasaを、白紙還元をもたらした。そのときに彼の中に蘇ってくるのは、いわばこの縄文の歴史が特に濃く残っている地域に生まれて育った者としての縄文人的感覚の世界、それがあらわになって歌の中に出てきたように思います。
「よわき歯に噛みて味はふ鮎ふたつ山の川浪くぐりしものぞ」
鮎を食べながら、その鮎がくぐってきた川を、その鮎の中の臭いでも、歯ごたえからも感じ取っているわけです。多分、縄文人はこうやって鮎を食っていたろうと思いますけれどもね。
それから、あとはもうずっと続いていきます。あとは昭和21年になって、いよいよ最上川のすぐそばのさっき申しました大石田に疎開してからの歌ですね。「秋のかぜ吹くべくなりて」というのは、これは昭和21年の秋なのだと思います。
「秋のかぜ吹くべくなりて夜もすがら最上の川に月てりわたる」
もうただそれだけの歌です。秋風がいよいよ吹く時期になってきて、その夜、一晩中、最上の川に月てりわたる。この昭和20年、21年の最上川ですから、一切もう汚染のなかったような、そういう川だったろうと思います。それを眺めていると、自分の中のいろいろな慚愧の念、一種の自責の念、悔しさ、そういうものがだんだん、だんだん流されていく。大正、昭和のころの最先端の医学をやっていた抜群のインテリゲンチャが、今こうやって敗戦を契機として自分の精神の一種の白紙還元を経験して、そして最上川に対面している。
「きさらぎの日いづるときに紅色の靄こそうごけ最上川より」
これも昭和21年の「白き山」ですから、21年のときでしょうね。だから、もう大石田にいるわけです。大石田というのは、あの辺は非常に雪の深いところです。大石田から新庄にかけて、それから尾花沢とか、あの辺は山形県の中でも一番雪の深いところでしょう。そこでようやく少しどこかに春の気が差してくる、兆してくる。「紅色の靄」というのはそうなのでしょう。それが2月の朝日を浴びて、川にかかる靄が紅色ににじんでいく。その動いていく光と、それから川の響きと、それを読みとっております。
それから、これもすばらしい歌だと思うのですが、
「四方の山皚々として居りながら最上川に降る三月のあめ」
これは実際に冬に大石田あたりに行ってみますと、まさに全くこのとおりですね。最近は雪が減ってきたのでどうか知りませんが、四方の山、全く四方が全部山で、西の方が月山、羽山から湯殿山、そして朝日連邦、朝日岳につながる2,000m前後の山々がずっと続いて、それが本当に白く鈍い光を帯びている。それから北の方には鳥海山が見えている。大石田あたりまで行くと鳥海山が見えるようです。それから東の方は言うまでもなく奥羽山脈が非常に激しくうねって、まるでベートーベンの第五交響曲というような感じでうねっているわけで、それがやはり雪をいただいてずっと真っ白に連なっている。それで真ん中に広がる最上川の流域であるあの村山盆地の田畑、それから村落はすべて雪に真っ白に覆われている。その風景の真ん中に立って、「皚々」というのは「白々と」ですね。皚々としておりながら、この「皚々」というふうな漢字を使うのも非常に効果的で、いかにもまだ解けることを拒んでいるような雪の固さ、冷たさ、それが周りを囲んでいながら、この盆地の真ん中を行く最上川には3月の雨がもう降り始めている。「あめ」というのは平仮名で書かれているわけですね。いかにもやわらかい、3月になって春がようやくにじんできたころの感じを、あの盆地の感じと最上川の関係を一言で、一首の歌にすべて詠み取っているような歌です。その真ん中にこの歌人茂吉は立っている。
そのころ彼は気管支だか何だか、そういう病気になりました。かなり長く大石田のさっき言いました聴禽書屋に休んでおりました。
「わが病やうやく癒えて歩みこし最上の川の夕浪のおと」
非常にリズムがやわらかくなって、再び母なる最上川に会いに行ったときの優しい気持ち、それが出ておりますし、
「彼岸に何をもとむるよひ闇の最上川の上のひとつ蛍は」
これは今度は夏ですね。随分川幅は広いはずですが、その向こう側にひとつ蛍が見えたり消えたりしながら渡っていく。ちょうど和泉式部の、
「もの思へば沢の蛍も我身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」
というあの歌につながっていくものです。
「ながらへてあれば涙のいづるまで最上の川の春ををしまむ」
茂吉は非常に自分が老いたことを感じておりました。昭和20年というと、1945年というのはつまり63歳ですか、まだ大したことはない。まだまだだったわけですが、もう頭は白くなり、病気はするし、戦争の痛手はあったし、ただ、周りに本当によく気のつく、いい木訥なお弟子がいて、その人が支えてくれたので彼はようやく生きながらえたという感じでした。その間に自分で絵を描き始めたりもしております。ちょうど最上川の反対側に金山平三という洋画家が疎開してきておりまして、その金山平三がちょっと絵の手ほどきをしてくれたりもしました。なかなかおもしろいナスの絵とかカボチャの絵とか、石ころの絵とか、そんなものを茂吉はこのころ残しております。
「ひむがしゆうねりてぞ来る最上川見おろす山に眠りもよほす」
これも大石田の反対側、つまり大石田は最上川の東岸にありますが、その反対側に黒滝というようなところがあって、私はこのお寺はすぐのはずなのに行ったことはありませんが、向川寺、ここもよく散歩に行ったようです。そこでお寺の知り合いの和尚さんがいて、そこに行ってうつらうつらとしている。東側からも西側からも、上の方からも下手の方からも茂吉は最上川を1日中眺め、夜になれば夜になって、その最上川の流れを感じながら寝ていたわけです。
「東南のくもりをおくるまたたくま最上川の上に朝虹たてり」
これも同じ昭和21年の夏の歌です。「東南のくもりをおくるまたたくま最上川の上に朝虹たてり」、「くもりをおくる」というのは東南の方から送ってくるのか……、「東南の」だから、東南の方から曇り空が広がっていって、またどこかに行く、そのちょうど境目のところか何かに虹が最上川の上に大きくかかる。
そして、その後の歌がまたすばらしい歌で、ほとんどモーツアルトのレクイエムか何かを聞くような感じですね。
「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」
こういうのがあると、やはりT.S.エリオットも、ヴァレリーも、とても茂吉さんには及ばなかったなという気がしますね。
「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」
その前の歌の「朝虹たてり」、それがスーッといつの間にか切れていって、上空に虹のフラグメンツだけが残っている。その下に広がるのは最上川であって、こう流れていく。これは本当に天と地と、それから、その中にポツンとかすかに存在している詩人自身、それだけがこのうたの世界をつくり上げているように思われます。「いまだうつくしき虹の断片」、「Fragments of rainbows」、この「虹の断片」というタイトルをとって、「斎藤茂吉の生涯と作品(The Life and Poetry of Saito Mokichi)」という本を出したドナルド・キーンさんのお弟子さんもおりました。これも非常にいい歌で、まことに我々の頭の中に印象深く残る歌です。
「やみがたきものの如しとおもほゆる自浄作用は大河にも見ゆ」
ときどきこんなふうな不思議な歌をつくりますね。こういうところがぶっきらぼうで、ゴツゴツしていて、茂吉の茂吉らしい強さです。「自浄作用」というのは、やはり自分の中にもあるわけで、敗戦まで、戦争を真っ向から信じていた自分の中の不思議な情念、それがこうやって日がたつうちにいつの間にかだんだん、だんだん消えていくということなのでしょうね。それが最上川にもある。自分の中でもあの戦争の不幸はこうやって自分の中からだんだん過ぎ去っていくのだなと思っているのでしょうか。
それから、終わりから3首目あたり、茂吉が大石田に行ったときには上に挙げました松尾芭蕉の最上川の俳句、これをもちろん意識しておりまして、芭蕉の俳句に負けない最上川の歌をつくろうというので大石田に行ったのでありました。本当に芭蕉の「奥の細道」の中の最高のあたりは、ピークになるところはまさにこの出羽の国に入ってきてからでありまして、
「夏草や兵どもが夢の跡」
というあたりはまだまだ浪花節で、何となく歌舞伎仕立てみたいな、それが山を越えてこちらに来ますと、
「涼しさをわが宿にしてねまるなり」
というふうになってくる。ちょうど尾花沢に来ると、芭蕉は急に文化が変わったことを感じたようであります。非常に恐るべき古代の文化がこの地域には今生きているというので、その土地の言葉を使ったり、それから古い風俗をおもしろがって、曽良と一緒になって詠んだりしております。この出羽の国に残る縄文からの古代文化、古代的生活の名残、それを求めて芭蕉は奥の細道の旅をしたのではないかとさえ思われる。だから、最上川周辺に来たときの、最上川及び修験道の三山に登ったときの芭蕉の俳句が、恐らく「奥の細道」の中の最高の句になるのだろうと思います。
「五月雨を集めて早し最上川」
「涼しさやほの三日月の羽黒山」
「雲の峰いくつ崩れて月の山」
というあたりがすごい句ですね。
「暑き日を海に入れたり最上川」
これは、恐らく日本における河川を詠んだ短詩系文学の中の、一方の最高峰をなすのがこのあたりだろうと思いますね。
「五月雨を集めて早し最上川」
「雲の峰いくつ崩れて月の山」
これも「雲の峰」という高くそそり立つもの、陰陽で言えば陽の世界、それから季節は夏、時間は昼、それから男性、女性で言えば男性、それが幾つ崩れてあの月の山に転じたのだろうという、「月の山」というのはもちろん月山のことですが、月に照らされた月山で、高くそそり立つのではなく、平たく丸く伏せているもの、だから陰陽で言えば陰のもの、そして「雲の峰」が生であるとすれば、「月の山」は死の世界でもある。それから、「雲の峰」が夏の昼であるとすれば、「月の山」は秋の夜であって、そこの宇宙の転換がわずかこの五七五の中に「いくつ崩れて」という、「崩れて」という動詞を使って詠み込まれているわけで、驚くべき離れ業でした。やはり大天才でなければできないことをここで芭蕉はやっている。
「暑き日を海に入れたり最上川」
これも最上川のボリューム感ですね。水の量の圧倒的な強さ、大きさ、それが1日中、芭蕉たちの上をジリジリと照らし続けた7月の、あの夏の暑い真っ赤な太陽を日本海にジッと押し込んでいくというすさまじいコスミック・バトルですね。その句ですね。
「暑き日を海に入れたり最上川」
天と地と、それからそこに海が入っている、三つ巴の争いというところです。
そういうものを調べると、
「象潟や雨に西施がねぶの花」
などというのは非常に典型的な、古典的な俳句というふうになるようにも思います。
茂吉はこういう芭蕉の見事な最上川及び出羽三山の俳句、それに負けぬ歌をつくろうという気持ちもどこかにあったようでありました。そんな言葉を漏らしたりもしているようです。
「元禄のいにしへ芭蕉と曽良とふたり温海の道に疲れけらしも」
こんなふうに、ちょいちょいとあちこちに「奥の細道」のあの芭蕉と曽良の師弟二人の姿を詠んだ歌も入ってきます。
「最上川の支流は山にうちひびきゆふぐれむとする時にわが居つ」
これも非常にいい歌で、まるでニーチェがもし短歌をやれば、こんなふうになるのではないかと思うのだけれども、どうですかね、坪内さん。
「最上川の支流は山にうちひびきゆふぐれむとする時にわが居つ」
茂吉は一高時代から東大時代にかけて、ニーチェの最大の愛読者でした。恐らく、ニーチェ研究者に言わせますと、斎藤茂吉が一番よくニーチェに近づいた人だそうであります。和辻哲郎よりも、阿部次郎より、その他凡百のいわゆるニーチェ学者よりも。もともとニーチェ的な要素を持っていたのですね、茂吉は。それを自分の中に発見しながらニーチェを読んでいく。ニーチェを読むことによって、自分の中のニーチェ的な、ディオニューソス的なものを発見していくということがありまして、ほとんどニーチェはよく読んでいた。だから、ニーチェの妹が書きましたニーチェの伝記のようなものも自分で訳しかけたりもしておりますし、ニーチェの亡き跡をドイツに留学している間に訪ねたりもしております。ニーチェはバーゼルにいたわけだし、あの辺のアルプスの谷川もこんな感じかもしれません。
「最上川の支流は山にうちひびきゆふぐれむとする時にわが居つ」
そうですね。これはどう見てもゲーテかニーチェという感じですね、この歌は。
「いただきに黄金のごとき光もちて鳥海の山夕ぐれむとす」
これも大石田から北西の方に、遠くに鳥海山が見える。この鳥海山の山頂というのはなかなか見えないのですが、見えるとこんなまことに秀麗な頂きが庄内平野の向こうにそそり立っているわけで、それが秋になったりすると、ときどき下から上まで全部見はるかされ、下から見上げたりすることもできるようになります。私もたった1回だけ、あれは鶴岡から羽越本線ですか、あれでまさに象潟とか本庄とか、あそこを通って秋田に行って、それで角館に行こうとしたときに、ちょうどこういう鳥海山を車内から見たことがありました。本当に息をのむような、上の方は真っ赤に紅葉していて、下の方はまだ黄ばんでいる、そこまで全部姿が見えて、それが夕日を浴びている。ああ茂吉だなと思いましたね。
しかし、この歌はもちろん大石田から遠く鳥海山を眺めやっている歌です。
「いただきに黄金のごとき光もちて鳥海の山夕ぐれむとす」
この鳥海山の麓を最上川は大きくうねって、日本海に向かっていくわけです。こうやってみると、もうこの茂吉という詩人はこの最後に、昭和20年、21年、村山盆地に来て蔵王山を仰ぎ、それから最上川に浸り、そして遠くに鳥海山を仰ぎ、月山を眺め、それがすべて彼の生のよりどころであったということがわかるような気がします。
もうじき終えますけれども、次に2枚目の上の段に挙がっているのが、茂吉と言うと皆さんがだれでも覚えている、これは昭和21年ですね。21年の冬のころの、いよいよ雪が降ってくるころの歌ですね。
「かりがねも既にわたらずあまの原かぎりも知らに雪ふりみだる」
これは本当にあの村山盆地で、冬の初めの12月になっていよいよ本格的に雪が降り始めて、一日中雪が降り続けるような、そんな中に立ったときの感じでしょう。
「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」
この辺が「白き山」の中の絶唱として、特に有名な2首でありましょう。「最上川逆白波」というのも、これも茂吉のネオロジスムと言いますか、茂吉の造語だそうです。「逆さ白波」というような、そういうような言葉はあるのかもしれませんし、それから板垣家子夫さんがあるとき、茂吉が大石田にいたときに、最上川に案内したときに、「逆さ白波」とかいう言葉を使った。そうしたら、茂吉は「板垣君、そういういい言葉は大事にして人に言うものではない。」と言ったそうですね。それで自分はそっくりもらっているわけですね。(笑声)そういうところはとてもおもしろい。
それであのころの茂吉の写真は今、上山にある斎藤茂吉記念館に行くとありますけれども、頭に中折れ帽か麦わら帽か、カンカン帽か、あれをかぶって、ちゃんと背広を着ているのです。チョッキつきの三つ揃えで、もうヨレヨレの背広ですが、そこにちゃんとネクタイもして、足はわらじ履きなのですね。それでバケツをぶら下げている。ちょうどこの疎開していたころ、茂吉は小便が近くなっておりまして、どこでもおしっこをしたくなるので、人に迷惑がかからぬようにということでバケツをわざわざ、あのころバケツは貴重品でしたが、それを買って、それを使って、いつも持ち歩いたそうです。それで、小便用に使わないときは、ときどきそこにおにぎりなどを入れたりしたり、(笑声)あるいは人からもらった鮎を入れて持ってきたりしたのかもしれませんけれどもね。今もそのバケツは茂吉記念館にそのまま残されております。
「斎藤茂吉専用昭和20年何月これを買う」などというのは、昔の人はみんなバケツでも、梯子でも、たらいでも、炬燵でも、何でも買うと必ず何年何月これを買う、それで「宮村家用」とか、そんなふうに書き込んでいたものですが、茂吉もそういう昔の人でした。そういう恐ろしく古い、やぼったい田舎親父でありながら、最先端の医学をおさめ、柿本人麻呂をみずから深く研究もしたわけですが、それで人麻呂のあの口調、歌いぶり、それをすっかり身につけて、20世紀の世界における詩歌の世界の最先端に立ったというのはまことに興味深い。
そういう中に昭和21年、日本で、
「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」
というような、ほとんど何も「私」は入っていないのですね。ただ、「ふぶくゆふべとなりにけるかも」という感嘆、慨嘆の、そこに詩人の自我が、この「逆白波」と「ふぶく」の中に消されながら漂っているというところです。「なりにけるかも」というというのは、いかにも大げさな万葉風の言葉の使い方ですが、これがあるからこの歌の大きさとか、川下の方から冷たい吹雪を伴った風が吹き上げてきて、それが最上川の下流に向かう波を逆向きに吹き上げてしまうというのですね。ときどきそういう強烈な吹雪が最上川の下流の方から吹き上げてくる。それによって白波が逆さ向きになってしぶきを上げたりする、そんな夕べとなった。その中に飲み込まれていく自分であり、大石田であり、村山盆地であり、この日本である。
「やまいより癒えたる吾はこころ楽し昼ふけにして紺の最上川」
ここに来ると、我々もほっとするという感じですね。
「やまいより癒えたる吾はこころ楽し昼ふけにして紺の最上川」
これもめずらしい、おもしろい言い方を自由自在に見つけていますね。六十幾つになって、かなり惚けたりもしたじいさんのはずなのに、こんな新鮮な言葉遣いができるというのは、詩人というのはうらやましいものです。
「ほがらほがらのぼりし月の下びにはさ霧のうごく夜の最上川」
「ほがらほがら」などというのは、西行からもうある言葉ですね。
「月読みののぼる光のきはまりて大きくもあるかふゆ最上川」
「山岸に走井ありと人ら飲む心はすがしいにしへおもひて」
この最上川周辺はよくこういう泉があるのですね。最上川の水が伏流水になって、それが村里に泉になって噴き出ている。私、一度そういう泉で水を飲んだことがありました。あれは楯岡という町の外れの在で、それは本当にすばらしい水で、私の祖父はその水を一升瓶に取ってきて、山形の自分の茶室に持っていって、これは何ヶ月置いても濁らない水だと言って自慢して、それで抹茶を点てて飲んだりしておりました。
楯岡の町で、祖父の昔の女友達だというおばあさんのところにこの水を持っていって、玉露を淹れてもらったことがありまして、あれが昭和二十何年ごろか、あんなうまいお茶はあれ以後、飲んだことがないような気がします。玉露をちょっと淹れると、またすぐにお茶の葉をあけてしまうのですね。そしてまたすぐ、まあ、玉露はこっちから持っていったのです。昭和20年代ではない、昭和30年代でしょうか。それで、山岸の走井から汲んできた水でお茶を点てる。なるほど、そうすると「心はすがしいにしへおもひて」というのはそういう気持ちですね。昔の人はこうやって水を飲んでいたわけで、それこそ縄文、弥生の昔から、それから自分の祖父、自分の親たちも、こういうことができなくなったのは残念ですね。これから国土交通省河川局は、川をやわらかく復元するだけではなくて、川の伏流水を泉にして出してくれるとありがたい。
越前大野、あそこはよくそういう水があって、町中をきれいな水が流れて、それをところどころにたたえて、屋根をかけて、そして神棚まで祭って、その町のその辺の女の人たちがそこに来て洗い物をするという、あの辺はよく水がわいていたのですが、最近、大分水位が下がり、水がわかなくなってしまったそうですね。九頭竜川の伏流水が出なくなってきている。あれも非常に残念なことでありまして、日本の文化が底の方からむしばまれて、だんだん実は消えつつあるということはわかるような気がします。
そういうふうに言っていると切りがありませんのでこの辺にいたしますが、下の段の終わりから3つ目。
「最上川ながれゆたけき春の日にかの翁ぐさも咲きいづらむか」
これは昭和22年の末になってでしたか、疎開からようやく東京に戻ってきて、東京へ疎開から戻ってからの、最後の歌集がこの「つきかげ」ですが、そこで東京にいて、思い起こしているわけです。
「最上川ながれゆたけき春の日にかの翁ぐさも咲きいづらむか」
翁ぐさというのはとてもいい花で、そこに、中から非常にかれんな濃い紅色のしべを出す。割に背の低い。茂吉の生まれた家にも咲いていたようですし、さっき言いました大正2年の「赤光」の中の「死にたまふ母」、死んでしまった母を追悼しつつたたえているのですが、その歌の中にも何遍か、この翁ぐさとか、それから苧環の花が出てきまして、茂吉が一番好きだった花のようです。苧環も非常に品のいい、茶花にも使うのですが、茂吉のお母さんはそれが非常に好きだったようですね。だから、苧環の花や翁ぐさを見ると、農婦として生まれ、農婦として死んでいった自分の実の母親、守谷いくさんを思い出す。それがまた最上川の思い出のイメージともつながっていくわけです。春の日になってきて、今、東京にいて、最上川の流れが、水が満々と豊かになって、そのほとりに翁ぐさも咲いている姿を思い浮かべているのだろうと思います。
そんなふうに読んでみますと、斎藤茂吉という近代日本を代表する大詩人にとって、この川は彼を培い、彼の想像力を養い、また敗戦という悲劇に際して彼を救ってくれて、彼を本当に、今「癒す」という言葉がはやりですが、まさに癒してくれた水の流れであった。そして、その癒しを感じながら、斎藤茂吉は近代日本最高の詩をここに書きつづったと言えると思います。川のおかげでありました。河川局、どうもありがとうございます。
というわけで、予定よりも少し時間が過ぎましたけれども、これで。
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