芭蕉の愁い

https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20200217-460584.php 【【鶴岡~酒田】<暑き日を海にいれたり最上川> 鮮烈に残した夏の記憶】 より

出羽三山の巡礼を無事果たした松尾芭蕉と河合曽良。ただ、山岳修行による肉体的疲労は、かなりのものだったようだ。特に芭蕉の消耗はひどく、体調不良は1週間近く続いた。

二人は、1689(元禄2)年6月10日(陽暦7月26日)まで羽黒山の南谷に滞在し、同日昼すぎ、庄内藩の城下町鶴岡(山形県鶴岡市。以下地名は山形県)へ出発した。羽黒山から鶴岡までは20キロほど。夕方には同地で藩士、長山五郎右衛門(重行)宅に到着した。すると芭蕉たちは早速、粥(かゆ)を所望し、食べ終わると「眠休」(仮眠か)したと、曽良の「日記」にある。

 体調不良が続く

長山氏は、鶴岡俳壇を代表する俳人で、芭蕉の来訪を楽しみにしていただろう。芭蕉たちが仮眠から覚めると早速、羽黒山麓から同行した近藤呂丸(ろまる)を含む4人で歌仙を巻き始めた。

だが、同夜は一人1句ずつ詠み終了。翌11日、続行となるが、芭蕉が持病(胃腸病、痔(ぢ))で不快を訴え中断。終了は12日に持ち越された。三山巡礼の疲れが一気に出たようだ。

 この歌仙で芭蕉が詠んだ発句(一番最初の句)が〈めづらしや山を出羽(いでは)の初(はつ)茄子(なすび)〉(「俳諧書留」)。7日間、羽黒に参籠(さんろう)して山を出て来た目に、この初茄子の色はまことに新鮮で珍しく映る―の意(今栄蔵校注「芭蕉句集」)。出羽と、出端(いでは)(出ぎわ)が掛けられている。

 詠まれたナスは、鶴岡名産「民田(みんでん)なす」といわれる。小ぶりでまん丸な品種で、漬物が粥と一緒に出されたのか。ただ、胃弱の芭蕉が食べたのかは不明だ。

 さて、長山邸に3泊した芭蕉たちは13日、川船で酒田(酒田市)へ旅立った。「日記」に「船ノ上七里也(約30キロ移動)」とある。

 酒田は、最上川の河口にできた港町である。目の前は日本海。船での移動は納得だが、資料では、鶴岡の内川から赤川に入り酒田に至った―とあり、地図を見ると違和感を感じた。赤川は酒田のずっと南手前で海へ注いでいるのだ。すると「赤川の流れが今と昔とでは全く違うからです」と、酒田市立資料館の相原久生調査員(53)が解説してくれた。赤川は大正時代から河川改修が行われ、日本海へ注ぐようになったが、芭蕉の頃は最上川に合流していたという。

 つまり「芭蕉の船は、赤川から最上川に入ると、その広い河口を北へ横切って酒田の港、日和山の南の船着き場で上陸した」と相原さん。そう聞くと、酒田への船旅のイメージが、一気にでかくなった。

 庄内平野は広い。最上川の河口も、海に向かってがばっと喉を開けている。記者は、海が一望できる日和山公園で芭蕉の句碑などを見物した後、芭蕉上陸の地という船場町から港のあたりを散策した。すると、庄内町から来たという70代の夫婦が小アジ釣りに熱中していた。これが港町の開放感かと思った。

 この開放感を芭蕉も船上で満喫できたのかは分からない。なにせ体調不良は続いていた。酒田上陸後、すぐ向かったのも俳人で町医者の淵庵不玉(伊東玄順。淵庵は医号、不玉は俳号)の家。季節は真夏、暑さもこたえたに違いない。

 句が復活を証明

 ただ、酒田で体調は着実に回復した。芭蕉たちは酒田入り3日目の6月15日、約40キロ北の象潟へと旅立っている。その前日14日には、寄宿した淵庵や、酒田の浦役人、寺島彦助(俳号・安種亭令道)らと歌仙を巻いており、港町の開放感と、旦那衆との交流が、俳聖の気力、体力をよみがえらせた気がする。

 この句も、芭蕉「復活」の証拠だろう。〈涼しさや海に入(いれ)たる最上川〉(「俳諧書留」)。酒田入り2日目の句会で詠んだ、芭蕉の発句である。この句は、さらに推敲(すいこう)を経て〈暑き日を海にいれたり最上川〉として「おくのほそ道」に掲載された。夕日を沈め、一日の暑さも海に押しやって、最上川が流れていく、の意(佐藤勝明氏訳)。「暑き日」は素直に読めば「暑い一日」だが、読む者はどうしても夏の日本海に沈む「熱く大きな日=太陽」を眼裏(まなうら)に浮かべてしまう。「海に太陽を沈める大河」、この雄大な表現は、大自然と対峙(たいじ)した出羽三山での体験が影響している気がしてならない。


https://www.kouraininjin.com/yomu-sapuri/health-care/periodontal-disease/2018/09/21

【芭蕉の句から感じる、歯の衰え】より

衰ひや 歯に喰ひ当てし 海苔の砂(おとろいや はにくいあてし のりのすな) 松尾芭蕉

江戸時代の俳人・松尾芭蕉が48歳の時に詠んだ句です。

当時の海苔は砂が交じっているものが多く、食べるとよく砂粒に当たっていたとされています。海苔を食べていた時にジャリッと砂粒を噛んでしまう。

若い頃ならば、口の中からペッと吐き出せばそれで終わりですが、年齢を重ねるとそうもいかない。

ジャリッと噛んだ砂粒はミシッと歯茎に食い込むような感じがして、時には痛みが走ることも。その瞬間に身体の衰えを感じ、ほんのり暗い気持ちになる。この句はそんな老いへの憂いを詠んだ句だそうです。

誰でも年齢を重ねると、日常の一瞬で老いを感じてがっかりすることがあると思います。

そんな日常の一瞬を切り取って簡潔に表現しているあたり、さすが芭蕉だと感服する思いです。この句で詠まれている歯の老化現象は、歯周病が原因ではないかといわれています。

歯周病は、歯肉が炎症を起こすことで歯を支える骨などを溶かしてしまう病気で、加齢とともに患者が増える傾向にあります。昨今では全身にも悪い影響をおよぼし、心筋梗塞や脳卒中、糖尿病、骨粗しょう症といった様々な病気を招く原因になることがわかってきたそうです。

全身の健康を保つためにも歯周病を防ぎ、歯の老化予防に努めたいと思うこのごろです。

ここ数日で、気候がすっかり秋めいてきました。寒暖差によって体調を崩さないよう、お出かけの際は羽織ものを忘れずに。お健やかにお過ごしください。久郷直子


https://www.labo-party.jp/hiroba/top.php?PAGE=yamazaki&MENU=DIARYDETAIL&DIARY_ID=28665 【「安寿と厨子王」と芭蕉の「おくのほそ道」】より

   荒海や 佐渡に横たふ 天の河

知らないもののない松尾芭蕉の名句である。ちょっと時期をはずしたかも知れないが、この句がじつは「安寿と厨子王」の物語に深いつながりがある…、と云ったら、びっくりしませんか。久しくここでのおはなし日誌は、ゆえあってお休みしておりましたが、今回はそのことをご紹介してみたいと思います。

俳聖・芭蕉は46歳の春、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。…」と風雲の思いに衝き動かされて(「片雲の風にさそはれて」)「おくのほそ道」の旅に発ちます。「風雲の思い」と書いてしまいましたが、当時は、ふっと思いついて、行きあたりばったりにできるような旅ではありませんで、さまざまな思惑と綿密な計画があったことはいうまでもありません。とりわけこの年、元禄2(1689)年は、芭蕉が生涯の師とあおぐ西行法師の歿後500年にあたります。師が歩いた陸奥(みちのく)の道を自分も自分の足でたどってみたいとする西行供養の巡礼行脚の旅であったことがうかがわれます。またそれは同時に、源氏一族の悲劇、頼朝に追われて陸奥に逃がれ、そこで果てていった義経主従を供養する旅でもありました。(このことについては、その一部、佐藤継信・忠信をめぐるエピソードをすでにご紹介しました)

さて、芭蕉とその弟子の曾良の旅は、日光を経、白河の関をすぎていよいよ陸奥に。仙台、松島、平泉などをめぐったあとは日本海側へ向かいます。出羽三山を過ぎ、能因法師や西行にゆかり深い象潟(きさがた)へ出て、「象潟や 雨に西施が ねぶの花」と詠んで、日本海側の愁いをたたえた、悩んでうつむいているかの風情、うらむような風光をとらえています。ここがこの旅の最北端であり、ここから旅は最終コースへ向かい、日本海に沿って南へ西へ…。

 旧暦の七月六日、新潟を舟で出て荒川を渡り、今町に到着します。現在の直江津・上越市ですね。このあたりまでは、怖いような濃い青さをたたえ日本海の海原が吼え立てています。その海を隔てて、佐渡島が見えていた……はず。「荒海や…」の句は、この地に着いた翌日に催された俳席でつくられたもの。ところが、芭蕉にずうっと随行していた曾良があらわしている「曾良旅日記」によると、その日は一日じゅうはげしい雨が降りつづいたとあり、天の河など見える状態にはなかったことが知れます。おまけに、たいへんな暑さと湿気のため、かなり重い病気に陥り、不快に悩まされていたようです。持病の疝気と痔核が出たようですね。そんなときに書いたのがこの句。

 今わたしの手元にあるテキスト、久富哲雄博士の『おくのほそ道』(講談社)によると、

「眼前の荒海は、佐渡と本土とを隔てて、佐渡の流人たちは故郷の妻子を恋いこがれても逢うすべもない。今宵、牽牛・織女の二星が相会うという天の河を仰ぎながら、彼らはさぞ望郷の念にかられていることだろう、と述べて、親しい人びとと離れて佐渡をながめる越後路までやってきたわが身の旅愁を詠じたもの」

と解説しています。佐渡の流人たちの望郷の思いと結びつけたそういう鑑賞の仕方もあるでしょうが、わたしにはいまひとつしっくり来ない。どうしても、これが実景を詠んだものではないことがひっかかる。

 疲れはピークにあり、体調不良のこのとき、芭蕉のこころにはっきりとイメージを結んでいたのは、佐渡の流人のことではなかったろう。そうではなく、この地で広く語られていた「安寿と厨子王」の秘話であったろうと想像するほうが自然だ。

 このおはなしについては、改めて説明するまでもないことながら、念のため「説経節」からその概略をたどっておくと、奥州54郡の太守をつとめていた岩城判官正氏は、帝の勘気にふれて筑紫の国に流されます。その子どもの安寿姫と厨子王丸は、悲運の父を慕って、母と乳母(姥竹)とともに奥州から京へ向かいます。しかし、途中の直江津で人買いの山岡太夫にだまされ、母と子は別々の舟に乗せられます。だまされたとわかり、姥竹は悲しみのあまり荒れ狂う海に身を投げます。母は佐渡島へつれていかれ、両の目を泣きつぶしてしまい、鳥追いをしながら悲嘆の日々に耐えている。一方、安寿と厨子王は山椒大夫のもとに売りとばされ、奴隷のよう、畜生のようにこき使われる日々。厨子王はのちには仏の導きを得て立身出世を果たし、丹後の国守に任ぜられますが、それに先だち、安寿は、弟を山椒太夫の桎梏の地獄から逃がれさすため沼に身を投げて死に、追っ手の足を一時止めさせます。

 安寿姫のその貴い心根と勇気、健気さ、清い自己犠牲の精神をしのんで、直江津のまわりでは多くの伝説が生まれました。人買いの地というマイナスイメージを払拭したいとの土地の人びとの思いもあったでしょうか。なかでも、安寿姫は入水していのち果てたのち、銀色の竜に化身して空高く舞いのぼり、星になったと語られる話がよく知られています。

 ほんとうは雨にたたられて銀河などは見えなかったけれど、芭蕉は安寿姫の化身たる竜の銀色のうろこで飾られた星空をこころいっぱいに描いてあの名句をつくったのだ、といっても、あながち間違いではないように思うのですが、どうでしょうか。

 荒波を隔ててはるかな佐渡島へ渡る天の河の雄大な夜の川の流れと、安寿のどこまでも澄みわたるこころの風景と…。また、銀河の描く円弧なす壮大な流れは、佐渡にいる盲目の母のもとへ厨子王をいざなうために安寿が架けた橋である、というロマンあふれる説話もあり、芭蕉はこうした土地の人が語る安寿と厨子王の物語に思いを寄せてこの句をつくった。…わたしはそう信じているのですが。

 上越市には今も銀河をまつる習俗が残ってさかんにおこなわれており、荒川(関川)の川べりに短冊をつけた笹を数百本立てて七夕を祝ったり、それにつづき、七日後におこなわれる盂蘭盆会は、身についた穢れを洗い落とす禊(みそぎ)の行事として、ふたつの古くからの習わしをむすんで人びとは町をあげて大事に受け継いでいる。

コズミックホリステック医療・教育企画