蕉翁の蛙も亀も鳴いてをり

坊城俊樹・句集『壱』朔出版

読初の夜は彗星を栞とし  坊城俊樹

狼の夢の中にも星流れ  同

蕉翁の蛙も亀も鳴いてをり  同

喧嘩して違ふ夕焼見て帰る  同


亀が泣くのでしょうか??? 季語が亀鳴くの句が紹介されていました。


http://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20000221,20050225,20110519,20120403&tit=%8BT%96%C2%82%AD&tit2=%8BG%8C%EA%82%AA%8BT%96%C2%82%AD%82%CC【季語が亀鳴くの句】より

 大丈夫づくめの話亀が鳴く

                           永井龍男

季語は「亀鳴く」。春になると、亀の雄が雌を慕って鳴くのだそうな。もちろん、鳴きゃあしない。でも、亀を見ると鳴いてもよさそうな顔つきはしている。浦島太郎に口をきいた亀は海亀(それも赤海亀の「雌」だろうという説あり・昨夜のNHKラジオ情報)だが、俳句の亀は川や湖沼に生息する小さな亀だ。どんな歳時記にも「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなり」という藤原為家の歌が原点だと書いてある。さて「大丈夫」という話ほどに、「大丈夫」でない話はない。ましてや「大丈夫づくめ」とくれば、誰だって何度も眉に唾する気持ちになる。そんなインチキ臭い話につき合っているうちに、作者はだんだんアホらしくなってきて、むしろ逆に愉快すらを覚えたというところか。鳴かない亀の鳴き声までが聞こえてくるようだと、気分が落ち着いた。ところで、この話を持ちかけている(たぶん)男は、相当なお人よしなのである。口車に乗せようとしても、その端から相手に嘘を悟られていることに気がつかないのだから……。うだつのあがりそうもない営業マンに多いタイプだ。しかし、彼の嘘つきの背景には、妻子を抱えての生活があるのかもしれないし、他に必死の事情があるのかもしれない。そう思うと、作者は笑っているが、なんだかとても辛くなる句だ。『雲に鳥』(1977)所収。(清水哲男)


 亀鳴いて全治二秒となりにけり

                           岩藤崇弘

季語は「亀鳴く」で春。平井照敏の解説。「春の夜など、何ともしれぬ声がきこえるのを、古歌『河越しのみちの長路の夕闇に何ぞと聞けば亀の鳴くなる』(為兼卿)などから、亀の声としたもので、架空だが、春の情意をつくしている」。さて、掲句。さあ、わからない。わからなくて当然だ。現実的なことが、何も出てこないからだ。でも、なんとなく可笑しい。後を引く。何故なのか。おそらくそれは理解しようとして、具象的な「亀」を唯一の手がかりとせざるを得ないからだろう。だからこの句では、鳴くはずもない亀が本当に鳴いたのだと思わせられてしまう。「ええっ」と感じた途端に、「全治二秒」と畳み掛けられて、何が全治するのかなどと考える暇もなく、「なりにけり」と納得させられるのである。ミソは「全治二秒」の「二秒」だろう。一秒でも三秒でも極度に短い時間を表すことはできるし、一見「二秒」の必然性はないように見える。が、違うのだ。「二秒」でなければならないのだ。というのも、一秒や三秒では、ほんの少し字余りになる。字余りになれば、読者が一瞬そこで立ち止まってしまう。立ち止まられると、畳み掛けが功を奏さない。四秒でも駄目、次は五秒とするしかないけれど、これでは即刻全治ではなくなってしまう。間延びしてしまう。「二秒」だから、読者に有無を言わせない。なかなかのテクニシャンぶりだ。きっと良い句なのだろう。「俳句」(2005年3月号)所載。(清水哲男)


 遠雷や生命保険の人が来る

                           渡辺隆夫

塚本邦雄に「はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を賈りにくる」(「日本人霊歌」)という短歌があるが、たぶんそれを踏まえて作られているのだろう。確かに尋常に考えれば自分の命に値段をつけているわけで、保険というのはコワイしろものだ。塚本の短歌は光っているのは保険屋の汗であるが、掲句の場合は光るものは遠雷である。遠雷は遠來にひっかけてある。普通に考えれば何でもない文脈だが、読み手が塚本の短歌を思い浮かべるだろうことを想定して作られた句だと思う。作者は川柳人。もとの材料にちょいと毒や仕掛けがさりげなく盛られている。季語や故事来歴を逆手にとって詠む。「月山が死後の世界だなんて変」「亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む」なんて図を想像するとおかしくなってしまう。大真面目な俳人がおちょくられている。『魚命魚辞』(2011)所収。(三宅やよい)


 嘴は亀にもありて鳴きにけり

                           丸山分水

オアフ島で海亀と一緒に泳いだことがある。忠実に書くと、息継ぎをしにきた亀と偶然隣合わせ、その後ふた掻きほど並泳した。種族が異なっても「驚く」や「怒る」の感情は分るものだ。顔を見合わせた瞬間にはお互い面食らったものの、彼(もしくは彼女)は、ごく自然に通りすがりの生きものとして、わたしを追い抜いていった。息がかかるほどの距離でまじまじと見つめ合った貴重な瞬間ではあるが、実をいえば目の前で開閉した鼻の穴の印象が強く、おそらく向こうもあんぐり開けた人間の口しか見ていないと思われる。しかしその鼻の先はたしかに硬質でゆるやかな鈎状をしていた。「亀鳴く」の季語には一種の俳諧的な趣きとして置かれているが、同列の蚯蚓や蓑虫の鳴き声の侘しさとは違い、のどかでおおらかである。その声は深々と響くバリトンを想像したが、嘴の存在を思うと、意外に可憐な歌声を持っているのかもしれない。『守門』(2011)所収。(土肥あき子)