https://edaddeoro.jp/okunohosomichi.html 【逆めぐり「奥の細道」】より
30 ふたみへ別るる大垣の
田中昭三『芭蕉塚蒐』によると、1991年の時点で、日本国内に芭蕉の碑が2,442あったという。北は北海道の7基から、南は鹿児島まで、九州全域では計216基と芭蕉塚は広がっている。芭蕉の紀行の北限は中尊寺のある岩手県・平泉、西限は神戸市・須磨海岸である。芭蕉が足をのばしていないところにも芭蕉の碑が建てられているわけだ。空海足跡の伝説や、円空彫刻の広がりには及ばないが、芭蕉もまた日本の旅のスターなのである。
西行、宗祇と芭蕉の3人が古典世界の吟遊詩人トリオである。芭蕉は西行と宗祇の2先輩を追って旅に出た。現代の旅人、われわれの旅のほとんどがそうであるように、芭蕉の旅もまた追体験のそれであった。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山 (西行)
世にふるもさらに時雨のやどりかな (宗祇)
世にふるもさらに宗祇のやどりかな (芭蕉)
その芭蕉の最大の旅が1689年の「奥の細道」の行程で、5月16日(旧暦3月27日)に深川を発ち、約5ヵ月後の10月初旬に旅の終わりの大垣にたどり着いた。
与謝蕪村筆「奥の細道画巻」から大垣の段 (逸翁美術館本)
芭蕉は大垣を4回訪れている。友人の谷木因が住んでいたからであった。木因は北村季吟のもとで芭蕉ともども俳諧を学んだ同門の友人。岐阜大垣の廻船問屋の主で、当時の大店の旦那あるいは隠居の教養科目としての俳諧の岐阜における中心人物だった。
大垣は水運の町で、揖斐川につながる運河・水門川が桑名や三河と大垣を結ぶ人とモノの輸送ルートだった。水門川沿いに芭蕉の「奥の細道」の旅の終点を記念して「奥の細道むすびの地記念館」が建てられている。
水門川
芭蕉は大垣で弟子の路通、曽良や大垣の俳諧愛好者ら12人で歌仙「はやう咲」を巻いている。大いなる感銘を受けるほどの作品ではない。その後、芭蕉は水門川の船町港から舟で揖斐川へと出て、長島・桑名経由で伊勢に向かった。船町港跡には灯台が残っている。
秋の暮行先々は苫屋哉 木因
萩にねようか荻にねようか はせを
霧晴ぬ暫ク岸に立給へ 如行
蛤のふたみへ別行秋そ 愚句(芭蕉)
船町にある芭蕉送別句塚には上記のような句が刻まれている。同じ船町の蛤塚には
蛤のふたみに別行秋そ 芭蕉
と刻まれている。『奥の細道』執筆のさい「ふたみへ」を「ふたみに」と修正したらしい。
さて、奥の細道の数年後に深川の芭蕉が大垣の木因に宛てた手紙によると、芭蕉は木因から紙を送ってもらった礼を述べている。時期的に見て、芭蕉はこの紙を使って、『奥の細道』を書いたのではないか、という説もある。芭蕉は、木因にはことのほか世話になった。しかし、『奥の細道』大垣の段では、路通、曽良など6人の名をあげている一方で、木因の名はいっさい出していない。後年の芭蕉・木因不仲説など、芭蕉の研究家の説はさまざまである。風雅の世界にもまた、興味津々の人間模様が織り込まれている。
左から木因、芭蕉の人形
桜東風一歩踏み出す背にうけて峠越えればきょう春時雨
(閑散人 2006.3.31)
29 わびにさびたる種の浜(色の浜)
敦賀に着いた芭蕉は敦賀湾を船で渡り、敦賀(立石)半島の色の浜を訪ねた。そのあと再び敦賀に戻り、ここで芭蕉を出迎えた弟子・路通を従えて大垣に向うことになる。
路通は芭蕉の奥の細道の旅のお供の候補者にあげられたこともあったが、芭蕉の高弟たちが、あいつはいい加減なところがあり信用できないと反対し、結局、路通に代わって曽良が起用されることになったという。路通は20代から乞食をしながら諸国を放浪。その途中、琵琶湖畔で芭蕉にめぐり会った。弟子になり江戸・芭蕉庵近辺に住み着いた。しかし、性格にいい加減なところがあってのちに芭門から放逐された。
孔門十哲、釈迦十大弟子にならって、芭蕉の門人のうち,代表的な10人を蕉門十哲と呼び習わしている。その顔ぶれには諸説ある。曽良が十哲入りしているヴァージョンもあるそうだ。だが、路通はいずれの説でも十哲の選にもれている。その程度の評価を受けている俳人だ。
對雲筆「芭蕉と蕉門十哲図」
その路通の句に、
鳥共も寝入てゐるか余吾の海
があり、芭蕉が「此句細みあり」とほめたと『去来抄』にある。「ほそみ」とは「わび」「さび」「しをり」など数ある蕉風俳諧のキーワードのひとつ。繊細な感受性の表れをそうよんだのであろうと想像される。路通の「鳥共も」の句は、
こころなき身にもあわれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮 (西行)
と同工異曲のようにも感じられる。このような情緒を芭蕉は「ほそみ」と名づけたのであろう。
さて、芭蕉は、
汐染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあらん 西行
を胸に色の浜に向かった。
その甲斐あって、芭蕉は色の浜で、王朝文化の「あはれ」、『新古今』の「寂しさ」を超える俳諧の「侘び」「寂び」を発見したのだそうである(尾形仂『おくのほそ道評釈』角川書店、2001年)。『奥の細道』は芭蕉が旅の中で求め続けた俳諧の美のパラダイムを種の浜でついに発見するという構成になっている。
俳諧の「さび」について、芭蕉は自らの筆できちんとした定義を書いていない。中世連歌の「ひえ」「やせ」「からび」や利休の「わびすき」といった、「閑・寂・枯・淡」の変相なのであろう。『去来抄』は、
花守や白きかしらをつき合せ 去来
を芭蕉が「さび色よくあらはれ、悦候」と評したと書きとどめている。
芭蕉のいう「わび」もまた定義が曖昧だが、世俗の価値観を否定することを通じて精神を拘束するしがらみを解き、物質的な貧しさを希求することで精神的な豊かを招来しよう、という美意識のようである。
このような、「わび」「さび」の原型を芭蕉は西行に求めている。出家、旅、雪月花を愛でる数寄心。後世の連歌師は西行にあこがれ、江戸時代の俳諧師芭蕉もまた人生観や美意識の師として西行を仰ぎ見た。
芭蕉は『奥の細道』種の浜の段を、次のように書いている。
十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟を走す。海 上七里あり。天屋何某と云もの、破籠・小竹筒などこまやかにしたゝめさ せ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。
浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。爰に茶を飲、酒を あたゝめて、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。
寂しさや須磨にかちたる浜の秋
波の間や小貝にまじる萩の塵
其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す
侘しき法花寺こと本隆寺の芭蕉碑
夕暮の日本海・敦賀湾の色の浜の海辺に立ち尽くす芭蕉と等栽、清貧の美の求道者ふたりの姿が眼に浮かぶ。「種の浜の段」はそういう仕掛けになっているのだが、実のところ……。
天屋何某というのは敦賀の廻船問屋の主、天屋五郎右衛門で俳号を玄流。土地の俳人であった。芭蕉に先行して敦賀に来た曽良がこの人に頼んで師匠の色の浜行きの船の手配を済ませていた。「天屋何某と云もの、破籠・小竹筒などこまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ」とあるから、船にたっぷりとご馳走を積み、お伴の者も多勢乗り込み、芭蕉と等栽ともども色の浜に向かったのである。蓑笠庵梨一『奥細道菅菰抄』によると、天屋何某自身も芭蕉と一緒に色の浜に渡っている。
「爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれの寂しさ、感に堪たり」という芭蕉の記述に反して、この日のご一行はピクニック風になかなかにぎやかだったのではないか、と思える。
上記、芭蕉の種の浜訪問の詳細は、今で言えば、テレビ局の取材に似ている。「わび」「さび」にみちたシーンを創造するために、にぎやかなクルーが浜をにぎわしたのである。美の核心は「どう見えるか」ということよりも、「どう見るか」ということにある。したがって、芭蕉が孤独のうちに色の浜の夕方を眺めようが、にぎやかなおつきの人々に取り囲まれてそれを眺めようが、そこから抽出してできあがった「わび」「さび」の値打ちに何の変わりがあるわけではない――まぁ、それもたしかに理屈、ではあるのだが…。
色の浜
夕暮は波の寄せ引く種の浜酒をあたためわび色に染む
(閑散人 2006.4.5 )
28 月は敦賀の
「名月はつるがのみなとにとたび立」と、芭蕉は福井から敦賀に向かった。敦賀は「この蟹や いづくの蟹 百伝ふ 角鹿(つぬが=敦賀)の蟹 横去らふ いづくに至る」(古事記・応神天皇)以来の歌枕である。その敦賀の地で旧暦八月十五夜の名月をながめようというのが、『奥の細道』をしめるにあたっての芭蕉の趣向だった。
日本の古い詩歌は月を好んで歌う。宗祇は79歳のおりの「独吟何人百韻」で、100句のうち10句で月を詠んだ。書割りならぬ一割の月である。その月を愛でるのは中国からきた伝統だ。
峨眉山月半輪の秋
影は平羌江水に入って流る
(李白「峨眉山月歌」)
露は今夜より白く
月はこれ故郷に明るからん
(杜甫「月夜憶舎弟」)
人には悲歓離合あり
月には陰晴円欠あり
(蘇軾「水調歌頭」)
この生この夜長くは好からず
明月明年いずれの処で看ん
(蘇軾「中秋月」)
『奥の細道』によると、芭蕉は月の明るい旧暦8月14日の夜、敦賀の気比神社に参拝して、
月清し遊行の持てる砂の上
名月や北国日和定めなき
と詠んだ。
気比神社の芭蕉像
伝えられるところでは、芭蕉はこの夜、この2句以外に13句、あわせて15句をいっきに詠んだとされている。いわゆる「芭蕉翁月一夜十五句」である。『奥の細道』の「大垣」の段に名前が出て来る、大垣における芭蕉の弟子、宮崎荊口が残した『荊口句帳』に、そのうちの14句がメモされていた。
名月の見所問はん旅寝せん
あさむつを月見の旅の明け離れ
月見せよ玉江の芦を刈らぬ先
明日の月雨占なはん比那が嶽
月に名を包みかねてや痘瘡の神
義仲の寝覚めの山か月悲し
中山や越路も月はまた命
国々の八景さらに気比の月
月清し遊行の持てる砂の上
名月や北国日和定めなき
月いづく鐘は沈める海の底
月のみか雨に相撲もなかりけり
古き名の角鹿や恋し秋の月
衣着て小貝拾はん種の月
しかし、これらの句は、たとえば、筆者の好みの古典月3句、
名月や畳の上に松の影 其角
月天心貧しき町を通りけり 蕪村
月早し梢は雨をもちながら 芭蕉
と比べると、水準に達していない。「古き名の角鹿や恋し秋の月」などは推敲の手が入っていないせいか、いかにも初心者くさい。
いにしえの恋焦がれたる歌枕角鹿の国の月は待宵
(閑散人 2006.4.9)
27 福井の庵の借り枕
芭蕉は福井で旧知の等栽のもとをふらふらっと尋ねた。そのまま等栽のあばら家で2晩やっかいになった。それから等栽と2人で敦賀に向かう。
『奥の細道』では、等栽の庵を訪ねたあてたとき、ご本人は留守。無愛想な等栽の妻に「等栽は用があって出かけた。用があるならそこを訪ねよ」といわれ、出かけた先の家で等栽に会っている。続いて『奥の細道』は、
その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立
と書いている。その家とはどこの家か? その家が①等栽の家をさすのか、②等栽が訪れていた先の家なのか不明である。まずい文章の一例だ。こんな文章を書いてはいけない。
これまでのところ、芭蕉は等栽の家に泊まったことになっている。しかし、芭蕉が等栽の家に2晩泊まったというのは、芭蕉の作り話だという見方もある。主の出かけた先の家に行けという妻の言は不自然で、実際には芭蕉は等栽が世話した宿に泊まったのだが、それではあまりに曲がないので、等栽の家に泊まったように書いた(齋藤耕子「おくのほそ道解釈の不思議―芭蕉が福井で泊まった家は」『若越俳史』75)。
福井市内に左内公園という小さな、余り立派ではない公園がある。左内公園という名は、そこに橋本左内の堂々たる像が建てられていることに由来する。
橋本左内は、幕末の越前・福井藩士だ。大阪・適で医学を勉強した。藤田東湖、西郷隆盛、横井小南らと交友があった。開国派で、井伊直弼の安政の大獄で処刑された。
その橋本左内10代の作といわれる『啓発録』に次のような言葉がある。
男子たるものが憂慮するところは、ただ国家が安泰であるか危機に直面
しているかという点のみ。
同じ江戸時代でも、疾風怒涛の徳川時代末期に入っていた。芭蕉が旅におぼれていた元禄とでは大違い。
その左内公園の片隅に史跡「芭蕉宿泊地洞栽(等栽)宅跡」がある。その説明文によると「洞栽という人は、貧しい暮らしをしており、芭蕉が訪れたときも枕がなく、幸い近くの寺院でお堂を建てていたので、ころあいの良い木片をもらってきて芭蕉のまくらとした」という。
芭蕉は知的に把握した「わび」を、杜甫らの詩のイメージにわせて追体験しようとした。そうした「わび」という生活上の理念の反映が、俳諧における「さび」である(復本一郎『芭蕉における「さび」の構造』)。
芭蕉野分して盥に雨をきく夜哉
『奥の細道』福井の段も、そのあたりの貧乏ごっこの美学をねらった演出なのだろうが、ピンとくるものが余りない。芭蕉自身もこの段には句を添えていない。
せめて蕪村の絵を見てなにかを感じていただきたい。
与謝蕪村筆「奥の細道画巻」から福井の場面 (王舎城美術宝物館本)
深川にあればたまには伽羅枕旅にしあれば丸太にて寝ん
(閑散人2006.4.15)
26 裂けども分かれぬ永平寺
永平寺を開いた道元はずいぶんと癇症な人だったらしい。あるとき、道元は弟子の一人の言行に怒り、その僧を破門した。破門しただけではなく、その僧が座禅していた床板を剥ぎとり、さらに、その床下の土を1メートルほど掘り出して寺の外に捨てた、という伝説が残っている。
永平寺はきびしい修行の寺である。起床時刻は午前3時半である。修行僧は永平寺のあの長い廊下を掃除するときは厳寒期でも素足になる。僧堂の1畳の空間に寝て、半畳の空間で結跏趺坐する。エアコンはない。寺の受付の若い僧に「寒いでしょうね」とたずねたら、「寒くない」とは答えなかった。体育系以上の限界状況下で生活している。にもかかわらず、名僧は長生きだ。粗衣・粗食、ストイックな生活が健康にいいのだ、という説がある。また、そのようなすさまじい生活をのりきれる体力のあるものだけが生き残って、やがて名僧と呼ばれるようになるのだ、という説もある。
道元という人は座禅一筋のお方で、堂内ではたとえ禅の本であれ読書を禁じた。とはいうものの、一方で不立文字を掲げつつ、他方で自身は『正法眼蔵』という、深遠かつ退屈な大著をものした。ときに、歌も読んだが、
いたづらに過す月日は多けれど道を求むる時ぞすくなき
などという、退屈なものだった。恋歌が得意だった以前の坊さんとだいぶ違う。
芭蕉もこの永平寺を訪れているが、その記述は、
五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、
かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや
と、素っ気なく筆をはしょっている。芭蕉はどうやら禅だの修業だのにはあまり関心がなかったようだ。心にかかるのはいつも人情の機微だった。金沢から同行してくれた北枝と丸岡(松岡)・天竜寺で分かれるとき、
物書て扇引きさく名残哉
と詠んでいる。
この句の原型は「もの書て扇子へぎ分る別哉」だった。
この2つの句の鑑賞については諸説あるが、そのうちのいくつかを紹介する。
尾形説では、「へぎ分る」は実につき過ぎてくどく、「引きさく」という激しい動作にともなう悲痛の情の強さに及ばない。「引きさく」と言った場合には、芭蕉の発句の書いてあるほうを北枝が、また北枝の脇が書いてある部分を芭蕉が持つのである。…・・・思い切って扇を引きさいて別れを告げながら、かつ、なごりを惜しむという屈折した気持ちのあやがでている(尾形仂『おくのほそ道評釈』)とする。
保田説では、「近代俳句観からみると、何といふ誇張かといふやうに考へられ易いが、常住これほどの意気の間に出没してゐたのが往年の俳諧である」。当時の俳諧はイキが良く、強気で、壮者の文学だった。元禄の文学青年は俳諧の周辺に集い、国学時代はその周辺にあり、明治前期は新聞記者の中にあり、大正時代は小説の周辺に集まり、昭和初期には左翼運動の雰囲気にあった(保田與重郎「扇ひきさく」『保田與重郎全集 第18巻』)とし、日本浪漫派の旗手の面目躍如である。ただし、保田は、
この秋は何で年よる雲に鳥
について、「大なる嘆きの中に、萬代の青春をして、その心魂を氷らせるやうな沈痛の雄心を味ふべし」と見立てている。だから、先の解説もそこそこに聞いておく必要がある。この手のレトリックをつかえば、
古池や蛙飛びこむ水の音
閑さや岩にしみ入る蝉の声
も、「閑寂の中にこそ乾坤の大音声を聞け」ということになろうか。
安東説では、字を書く以上、白扇だ、というところがみそだと言う。無(白扇)を捨てることはできぬが、さりとて書けば捨扇にならぬ、という絶対矛盾に禅機をもとめた句であるとする。つまり、「物書て扇引きさく」とは分かれずに済すくふうである(安東次男『おくのほそ道』)ということになる。こうなってくると、この項の筆者には「!?」である。
春寒し泊瀬の廊下の足のうら 炭太祇
月も見ず花も愛でずに板のうえ沢庵石に時は流れて
(閑散人 2006.4.18)
25 汐越の松こそめでたけれ
芭蕉の西行信仰にはちょっと度を越したところがあり、たとえば、廣田二郎は、芭蕉の『野ざらし紀行』の、
独よし野のおくにたどりけるに、まことに山ふかく、白雲峰に重り、
烟雨谷を埋ンで、山賤の家処々に小さく、西に木を伐音東にひびき、
院々の鐘の声は心の底にこたふ
というくだりは、
あかつきのあらしにたぐふかねのおとを心のそこにこたへてぞ聞く 西行
を下敷きにしているという。芭蕉は心中ひたぶるに西行を思いつつ吉野の山中をさまよい、鐘の音が聞こえてくると、西行の歌を通して、西行が聞いたように「心の底にこたえて」鐘の音を聞いた。その鐘の音のイメージによって、峰に重なる白雲、谷を埋める烟雨、山賤の家、など取り出し、吉野山の全体的把握をおこなった(廣田二郎『芭蕉 その詩における伝統と創造』)。
汐越の松をたずねた芭蕉は『奥の細道』に次のように書き残している。
越前の境、吉崎の入江を舟に棹さして、汐越の松を尋ぬ。
夜宵嵐に波をはこばせて
月をたれたる汐越の松 西行
此一首にて数景尽たり。もし一弁を加るものは、無用の指を立つるがごとし。
芭蕉自筆『奥の細道』汐越の段
ここの風景は「一晩中海は荒れて、その嵐で打ち寄せられた波の汐をかぶった汐越の浜辺の松から、汐のしずくが月の光りの中でしたたっている」という西行の歌に尽きている。これ以上を何をいおうと、それは蛇足にしかならない。芭蕉はそのように断定した。
汐越の松の旧跡は福井県あわら市浜坂の芦原ゴルフクラブ内にある。ゴルフクラブに電話で見学をお願いし、係りの人に案内していただいた。奥の細道をたどる旅人が年間数百人がこの汐越の松を訪ねてくるそうである。芭蕉の碑は、以前はがけ下の海岸線近くにあったが、浜辺が侵食されて交代したので、上に移されたという。松と海が美しい場所である。
ところが、芭蕉が奥の細道を旅して百年近く後に著された蓑笠庵梨一の『奥細道菅菰抄』が「夜宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」は西行の歌ではなくて、蓮如上人の歌である言われていると、芭蕉の勘違いを指摘した。現代の芭蕉研究者は、素人くさい、あまり上手でもない「夜宵」の歌になぜ芭蕉がコロリと騙されたのか、不思議がっている。
汐越までわざわざ足を運んだ芭蕉は、この歌が西行の歌であり、それもかなり上出来の歌だと死ぬまで信じて疑わなかった。野球では名選手必ずしも名監督ならず、という。芸術の世界でも制作の名手必ずしも作品の目利きであるとは限らない一例であろう。
世も末だカモメにボール運ばれてツキはおちたり汐越の松
(閑散人 2006.4.24)
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