https://4travel.jp/travelogue/10898948 【西教寺、翠桃のお墓と修験光明寺跡(芭蕉の道を歩く 7)】より
(西教寺本堂)
玉藻稲荷神社より引き返し、突き当った道路を左折し、交差する道を右へ右へと行き、最初の信号を右折すると右側に西教寺がある。那須の篠原の道は分かに分かれていて、非常に判りづらい。何度も、交差点で引き返し、引き返ししながら、西教寺に到着した。
奥の細道で、(那須野は目印の無い道で、道なれたこの馬に乗っていき、馬が止った所で返してくださいと、野良の農夫が馬を貸してくれた。)と芭蕉が書いている様に、回りが水田の道路は、地図がなければ動きが取れない。地図はあっても、折れ曲がる道が判りづらく、人に尋ねようにも人がいなくて、進むのに苦労する。
この西教寺には、曾良の句碑がある。・かさねとは 八重撫子の 名成るべし 曾良
である。奥の細道にある、馬を借りたあとを小さな子が追いかけてくる。名前を聞くと「かさね」という。そこで曾良が詠んだ句である。
(翠桃の墓)
西教寺の手前を左に入り、水田の中を道なりに進むと、左手に十数基並んだ墓地があり、翠桃の墓がある。翠桃については、奥の細道で、(那須の黒羽という所に知人(しりびと)あれば、是より野越にかかりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。
―中略―
黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信る(おとづる)。)と書いている。
館代とは城代のことで、黒羽の城代 浄法寺桃雪の家と、弟の翠桃の家を交互に泊まり、奥の細道で最大の十四日間逗留している。その翠桃のお墓である。
墓碑が並んでいる写真の一番左の墓碑が翠桃のもので、碑面の「不説軒一忠・・・」までの法名は読むことができる。
また兄の桃雪の住まいについては、「旧浄法寺邸」として、芭蕉公園の入り口に復元されている。
旧住居の玄関に、ご近所の女性が数人休んでいらっしゃった。顔を出して挨拶すると、「美人が揃っているので驚かれたでしょう。」と声をかけられた。昔鳴らした美女たちが、玄関先にずらりと並んで休憩中であった。ボクもそれ相応な年齢であるから、驚きもせず、
「芭蕉はどの部屋に泊まられたのか、どちらの美人の方がご存知ですか?」とお訪ねすると、中でも少し若作りの人が、「一番奥の部屋です。」指差して答えた。
「有難うございます」と答えて三間続きの座敷を、外側から見に行く。城代のお邸にしては少し狭いと思われたが、今でも田舎、と思える城代の家としては、充分であったに違いない。
話が脱線してしまった。
翠桃のお墓で、地面が食い込むのではないかと心配しながら、車をUターンさせ、修験光明寺跡へ向う。
案内に沿って、左折すると三叉路に出どれを行けば良いか車を止めて思案していると、運良く車が通りかかったので、地図を見せながらお訪ねする。
「一番右側の道を行くと案内があります」男性は親切に教えてくれた。人っ子一人見ない田舎では、会話をできる人がいて、お役に立てることが余程嬉しいらしく、満面の笑みをたたえて教えてくださった。
「修験光明寺跡」は案内看板が、山すその道路わきの草地に建っているだけで、修験光明寺行者堂跡らしきものは見えない。
それもその筈、光明寺行者堂跡は左の山の中へ入らなければならない。左手の木が追いかぶさる山に入ると階段が見える。これからどんな深い山に登るのかと、恐る恐る昇ると、階段は意外に少なく、すぐ頂上らしき所についてしまった。
左手を見ると、句碑が建っている。
・夏山に 足駄をおがむ かどでかな はせを 芭蕉の句碑である。
(修験光明寺行者堂跡の句碑)
修験光明寺行者堂跡と伝えられているが、今はこの句碑しかない。この句碑は、阿部能成(あべよししげ)氏の揮毫であるという。
阿部能成氏は、ボクが結婚するころまで、学習院大学の学長で、もと文部大臣であったので良く覚えている。今の平成天皇が学ばれたころの学長の筆になるという。
修験光明寺跡をでて、大雄寺へ向う。
(大雄寺)
大雄寺 寺・神社.
修験光明寺跡をでて凡そ四キロ、那珂橋西の信号を右折して、那珂川を渡る。落ち鮎の簗漁(やなりょう)が盛んな所で、生きの良い鮎の塩焼きが食べられるのだが、時間も迫っているし、場所も知らない。橋を渡って最初の信号を左折すると、黒羽観光交流センターへ出るはずである。信号を左折すると黒羽観光交流センターはすぐ見つかった。
大田原市役所の黒羽庁舎の中にあるからで、庁舎は大きな駐車場を備えた立派な建物である。黒羽観光交流センターを右に見て、最初の交差点を右折すると、道路は上り坂になり道なりに行くと左手に石柱が見える。大雄寺で、手前左側に駐車場もある。その先三〜四十メートル左に芭蕉公園入り口があるはず。
先ずは大雄寺に入る。
参道入り口の両側に石柱があり、右側に黒羽山、左側に大雄寺の文字が見える。少し行くと長い階段が見え、数段上に右手に「不許葷酒入山門」の石柱が建っている。
(「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」と読み、葷酒はねぎ・にらなど臭気のある野菜と酒のことで、臭気と酒気のある者は山門内に入る事を許可しない、という意味。永平寺など禅宗のお寺の門前に建てられている事が多い。)(不許葷酒入山門の石碑)
石の階段を上がっていくと、左右に仁王の石造が置かれている。
右側が阿形の仁王で左が吽形の石造で、その間の階段を登ると、山門がある。
山門を抜けると、左手に観音菩薩立像があり、「黒羽藩主大関氏累代の墓」の案内が左を指している。
さらに先にある階段を登ると「大雄寺参禅道場」の墨痕鮮やかな看板が見える。ここは禅道場への渡り廊下になっている。渡り廊下を跨ぎ通ると、横に長い見事な総茅葺の本堂、参禅道場、庫裏が見える。
先客はあるものの、鳥のさえずる声が聞こえるだけで、水を打ったように静かである。静かに手を合わせ、頭をたれて本堂から下がる。
大雄寺を出て、少し進むと右側に駐車場があり、芭蕉公園駐車場と書かれている。左側には、大きな「芭蕉公園」の看板がある。山道を入ると、すぐ左に階段があり、その上の方に旧浄法寺桃邸跡がある。
芭蕉は「おくのほそ道」に次のように書いている。「黒羽の館代浄法寺何がしの方の音信(おとづ)る。思ひがけぬ主の悦び、日夜語りつづけて、其の弟桃翠など云うが、・・・」とある。
芭蕉は黒羽藩大関氏の城代である浄法寺桃雪の家を訪ねた。
大層歓迎されてよほど居心地が良かったのであろう、其の弟桃翠の家にも泊まったりしながら、14日間も滞在している。
ここに芭蕉句碑、・山も庭も 動き入るるや 夏座敷 芭蕉 がある。
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