金売吉次伝説を探る ②

http://www.st.rim.or.jp/~success/kaneuri_kitiji.html  【金売吉次伝説を探る】 より

5 奥州藤原氏と熊野との関係 

ところで奥州藤原氏と熊野神社との関係については、古くから様々と取りざたされていることは先刻周知の通りである。先に金売吉次の父の藤太が、熊野にお参りをして、吉次ら三人の息子を授かったことになっているが、今度は熊野古道の滝沢(滝沢王子社がある)というところに、こんな奥州藤原氏にまつわる不思議な伝説が残されている。

藤原秀衡が、熊野神社に祈願した結果、妻(藤原基成の娘)の腹に子が授かる。夫婦は熊野にお礼参りに出かける。ところが本宮へ行く途中の滝尻という所で、妻が俄に産気づいてしまった。そこで不思議にも熊野権現が現れて、「滝尻の裏山にある乳岩という岩屋があるからそこで赤子を産みなされ、赤子はそこに残して置けば大丈夫」とのお告げを貰い本宮への旅を続ける。赤子は山の狼に守られ、岩から滴り落ちる乳を飲み、両親が帰ってくるまですくすくと成長している。この赤子は、後に義経公を最後まで支えたと言われる泰衡の弟の泉三郎忠衡である。この熊野権現の霊験に感動した秀衡は、滝尻の地に七堂伽藍を建立し、経典や武具を奉納した。

現在この七堂伽藍は、後の兵乱により、焼失したと云うが、秀衡はこの寺を建てるために数々の黄金を壺に入れて寄進したと伝えられ、現在でも山のどこかに黄金の壺が埋まっているという口承もあるようだ。またこの近くの継桜王子社に近い道端には、秀衡が杖にしていた桜が芽吹いたと伝えられる秀衡桜(現在は明治に植えられたもので4代目と云う)が咲いている。

以上のような、藤原秀衡伝説が、熊野において、伝承されている背景には、距離的にも離れて相当離れていると思われている奥州と熊野が、想像以上の結びつきを持っていたことのひとつの証拠であろう。熊野の修験者たちが、山の尾根を越えて、出羽に向かい、出羽三山を興して陸奥における修験道の聖地となし、平泉の奥州藤原氏と親交を結び、彼らのパトロンであったと思われる。きっと多くの熊野の修験者の子孫たちが奥州に移住し土着したはずである。

義経の家臣である武蔵坊弁慶も、熊野新宮別当の湛増(たんぞう)の子と言われている。この湛増は始め平氏に組みしていたが、後に自分の熊野水軍を率いて義経のいる源氏軍に味方し、屋島・壇ノ浦の決戦では、勝利への決定的な役割を果たした人物である。もちろん今日弁慶がこの人物の息子であったという証拠は、今日何一つないが、熊野と源氏あるいは奥州との結びつきを象徴するキャラクターとして伝説化したと考えれば、それなりに辻褄(つじつま)は合ってくる。このように考えると、源平の合戦において、源氏方が勝利したことの影で、熊野の存在が単に「熊野詣で」(くまのもうで)という意味以上の何かがあるようにも感じられるのである。

6 吉次の京都の住居(?)首途八幡神社

さて金売吉次の京都の邸宅跡だったという場所が京都にもある。これが私が吉次の住まいとして信憑性の高いと思っている第三の場所である。現在、そこには(上京区知恵光院通居今出上ル桜井町)には「首途八幡神社」(かどではちまんじんじゃ)が祀られている。

織物で有名な西陣の近くにあり、現在は東西に長い275坪程の小さな区画ながら、元々宇佐八幡宮を勧請したものされている。尚、中世以降の度々の火災により、神社の大半は失われていたようで、現在の社殿は、昭和40年代に地元の氏子の人々の総意によって再興されたものである。

この社の「首途」(かどで)の名の謂われは、元服前牛若と呼ばれていた義経が、ここから吉次と共に奥州に首途(旅立った)したと伝えられていることから付けられた名と言われている。境内には、橘次井(きちじい) と呼ばれる井戸があり、この水を汲んで旅に出れば、御利益があると信じられてきた。義経は平家追討に行く時にも、この水で身を清めて、戦場に向かったとされている。

この地を起点として、吉次は、奥州から金やその他の貴重な物産を運び、逆に京都の物資を奥州に運んでいたのであろうか。この社と奥州藤原氏が関係があるという証拠については、今の所、吉次の京都の住居だったという事以外には見いだすことができない。ただこの場所からそう遠くない地点(上京区溝前町)に瑞応山大報恩寺(だいほうおんじ)という古刹があるが、この社殿は、何とあの秀衡が寄進したという記録が雍州府志(ようしゅうぶし)という地誌に登場する。また江戸時代の百科事典とも言うべき和漢三才図会(わかんさんさいずえ:寺島良安著1712年自序)にもこの寺の開祖「求法上人」(ぐほうじょうにん)について、「(名は)義空、出羽の人で、藤原秀衡の孫である」と記している。とすれば、この周辺には、奥州の覇者となった秀衡公が、潤沢な資金力を背景にして、京都の御所に近い一画を手に入れて、奥州大使館のような区画を構築していたのかもしれない。

7 平治物語の吉次のイメージを読み解く

平治物語という軍記物語がある。作者は不詳であるが、最近の研究では、藤原伊通(ふじわらこれみち)あるいはその周辺にいた人物という説も浮かんでいる。成立年代については、平家物語より、少し早く1220年代から1230年頃ではないかと言われている。我々は金売吉次について、義経記の影響下にあり、どうも金売吉次が、鞍馬山にいた牛若を誘惑して、奥州に連れていった先入観があるが、この平治物語を読んでみると、別の吉次像が浮かんでくる。

それによれば、遮那王こと牛若は、母の常磐御前も継父となった一條大蔵卿長成も更に鞍馬の寺の師匠達もこぞって、「出家しなさい」というのに、一切耳を貸さず「兄二人が、僧侶になったのだから、自分は出家などしたくない。第一悔しいではないか(父の汚名をすすがなくては)」などと言って一向に聞き入れない若き日の血気盛んな義経がいるのである。周囲はこうしてこのような義経の噂が、清盛に漏れてしまうのを恐れている状態であったのだ。

そこにある日、奥州の金商人の吉次という者が現れるのである。

義経は、この人物にこう切り出す。

「自分を陸奥へ連れて行ってくれ。力のある人物を知っているから褒美には、金(こがね)をたんまり貰ってやるぞ。どうだ」

するとこの金商人は、

「いや。そのお連れするのは、訳のないことですけれども、もしもこのことが平氏にでも知れたら、それこそ罰せられてしまいますからね」と、尻込みをするのだった。

「何を申すか。こんな自分が死んだ所で、誰が何を聞くと言うのだ。ただ神社の境内で死んだ死人と同じく、盗人(ぬすっと)が、懐(ふところ)に手を入れる位だろうよ」と義経が強い口調で言うので、吉次はその勢いに押され、ついに、

「…分かりました。但し、このことについては私一人ではできないので、協力者の助けによって実行致すことになりましょう」と言うことになったのである。

ここまで読んだだけで、吉次に対するイメージは一変する・・・。と同時に義経という人物の、イメージもがらりと変わる。少年義経の中にある、強靱な復讐への意志というものを見せ付けられる思いがするのだ。つまり義経記では、周囲の影響によって、どちらかと言えば、奥州に連れて行かれるイメージがあるのだが、平治物語の義経のイメージはまさに、自分というものが既に確立されており、その強固な自己というものが感じられるのである。反対に吉次は、どこか商人の匂いがプンプンとする計算高い印象がする。しかも大事なのは、どうも吉次が、直接的には、奥州の覇者である藤原秀衡を知らない様子なことだ。もしも彼が秀衡という人物を知っていたら、義経公が、「力のある人物(秀衡の事を指す)を知っているから、金を褒美に貰ってやる」等とは言わないはずだ。もしも平治物語における「吉次」が真実に近いものであるとしたら、吉次はこの大物である義経を通じて、奥州藤原氏の中枢に知遇を得て、急速に政商として成り上がった人物という可能性も捨てきれないことになる。

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