https://www.mamada-hachiman.jp/saijinorigin 【間々田八幡宮】 より
ご由緒 原文
間々田八幡宮の創建は古く、今から約千二百有余年前の天平年間に勧請されたものと伝えられている。
天慶二年(939年)平将門の乱が起るや、朝廷は藤原秀郷等に勅して之を討たした。秀郷は征討に臨み沿道の神社仏閣に戦勝を祈願し、乱平定の後、当八幡宮に神饌御料として供田した。これより後、里人、飯田(まんまだ)の里と呼称した。
文治五年(1189年)陸奥泰衡の乱に征討の軍を率いた源頼朝は、藤原秀郷、当八幡宮に将門調伏の祈誓ありしを聞き、戦勝を祈願して松樹を植えた。後に人これを「頼朝手植の松」と称し近年に及ぶが、惜しいかな明治三十八年(1905年)枯死した。徳川幕府、家康の遺骨を日光山に遷し、日光街道十八駅を置く行程三十六里(141Km)なり。日光・江戸の中間なるをもって間々田と改称した。
また、朝廷は日光東照宮に例幣使をさしつかわし、例年、幣帛を賜るが、その道中、当駅をへるに鎮座せる神社の由緒あるを聞き、当八幡宮を必ず参拝されるを例とされ、享和年間の社殿焼失まで続いたと言い伝えられている。
正徳二年(1712年)六月神祇官より神階正一位の宣旨を受ける。
享和年間に失火し、社殿ことごとく灰燼に帰した。よって御神霊を仮殿に安置し、嘉永四年(1851年)に至り現在の社殿を再建した。建立に関係した宮大工は、折しも東照宮大修理にあたって各地から招かれた宮大工であったと伝えられ、御本殿の彫刻には、その優秀な技術をしのぶことができる。
当八幡宮境内はこの近隣に類を見ないほど広大で、小山市に貸与してある公園の部分を含めると約二万坪の敷地を有している。数百年の樹齢を数える杉の古木が荘厳な雰囲気を醸し出し、緋鯉、真鯉の遊泳する神の池には、春の桜、秋の紅葉がその艶やかな姿を映し、氏子崇敬者や市民の憩いの場となっている。
また、松尾芭蕉は、奥の細道紀行で江戸を出発して二日目に間々田宿に宿泊しているが、その芭蕉に因んだ句碑「古池や蛙飛び込む水の音」が立てられている。この句碑は、病気平癒を祈願した氏子が、全快のお礼に嘉永年間に建立したものであるが、御神徳による霊威は古い昔から伝えられるところであり、近年でも足を病んで歩行できなかった茨城の婦人が、夢に見た当神社を写真に撮り、朝夕拝んだところ病たちまち癒えたとお礼参りに来られたり、都内に本社を置く会社の社長は、当神社に祈願し、社殿下の砂を拝領して会社を起こして見事に成功した例など枚挙にいとまがない。これ偏に遠く天平の昔より間々田八幡宮のご加護を信じ、崇拝し、神社護持に力を尽くした氏子崇敬者の赤心に有難きご神徳が益々発揚されている証であろう。
https://loungecafe2004.com/historical/fujiwara-hidesato 【藤原秀郷:平将門を討ち取り、大百足退治と百目鬼退治の伝説で知られる武人】 より
略歴
下野国の武人
生年:生没年不詳
平安時代中期の下野(しもつけ)(栃木県)の豪族。父は下野大掾村雄。母は下野掾鹿島の娘。藤原北家魚名の子孫。
相模国田原を領有したことから、俵藤太(たわらとうた)と呼ばれる。下野国佐野の地に唐沢山城を築いて本拠地としていたという。
延喜 16 (916) 年罪により一族 18人(17人ともいう)とともに配流されたこともあり、その後も乱行があって糺勘されるが、のちに下野掾、同国押領使(おうりょうし)となり、六位に叙せられた。
天慶(てんぎょう)の乱で活躍
桓武平氏の武将である平将門が勢力を強め、関東八ヶ国の国府を攻め落として朝廷に反乱を起こした。
藤原秀郷は平将門から助力を求められたが、その軽率な態度をみて応じなかった。
平氏の武士で秀郷の甥でもある常陸大掾・平貞盛(将門の従兄弟、貞盛の子孫には平清盛がいる)とともに攻めた。
将門の軍が諸国に分散している隙をついて本拠地の下総国幸島(さしま)に攻め入って天慶3(940)年2月に滅ぼしたとされる。
この時、朝廷の官軍はまだ関東に到着していなかった。
同年3月軍功により従四位下、次いで下野守(しもつけのかみ)に任じられた。武蔵守(むさしのかみ)にもなり、東国に勢力をひろげた。後には鎮守府将軍ともなった。
藤原秀郷は、源経基、平貞盛らとともに軍事貴族として中央に進出する道をひらいた。
将門の乱での活躍は「将門記」「今昔物語集」「平家物語」などに書かれ、鎌倉、室町時代には大百足退治の英雄伝説の主人公として、室町時代には「御伽草子」に取り上げられ、「太平記」「俵藤太物語」に描かれている。
子孫
子の千晴(ちはる)が安和(あんな)の変(969)に坐して中央政界からは後退する。
子孫は北関東・奥羽の各地に広まり、奥州藤原氏、亘理、武藤、小山、結城、下河辺、足利(源氏系とは別。藤姓足利氏と呼ばれる)などの諸氏は、いずれも秀郷を祖とする。また西行の祖先でもある。
佐野市の唐沢山神社に祭られている。
由緒 – 唐澤山神社
伝説
百足退治伝説
近江の国の瀬田の唐橋に大きな蛇が現れた。
旅人たちは橋に横たわる大蛇を恐れ、何日ものあいだ誰も橋を通ろうとしなかった。
そこを通りかかったのが藤原秀郷であった。秀郷は蛇を恐れず、旅人達を置いて平然と大蛇を踏み越えて橋を渡っていった。
その夜、秀郷が泊っていた宿の部屋に、美しい娘が訪ねてきた。
娘は自分こそが昼間の大蛇で、正体は琵琶湖に住む龍神一族の娘だと名乗った。
娘が訪ねて来たのには訳があった。
近江国(滋賀県)の三上山に住む大百足が琵琶湖を荒らすので、一族が苦しんでいるという。
藤原秀郷はそれを聞いて、三上山へと百足退治に出向いた。
三上山にたどり着くと、目にしたのが山を七巻きもするほどの大百足だった。
秀郷は弓で大百足を射るが、跳ね返されてしまう。秀郷は、百足が人の唾に弱いという噂を思い出し、矢に唾を吐きかけ、南無八幡大菩薩と念じて射た。
すると、矢は百足の眉間を射抜き、大百足は倒れた。
龍神は喜んで秀郷に百足退治の褒美を授けた。
米の尽きない俵、切っても減らない反物、三井寺(園城寺)に伝わる鐘である。
また矢が嫌って避けていくとされる鎧の「避来矢(ひらいし)」を授かり、戦場で矢を受けることがなくなったとされる。
しかし後年、合戦からの帰りに鎧を河原で脱ぎ捨てたため、鎧が河原の石に化けて判らなくなり、龍神に謝罪して元に戻してもらったという。
これにより「避来矢(ひらいし)」を「平石」とも書く。
後年、秀郷が平将門を討ち取れたのも、龍神の加護があってのことだったという。
この有名な百足退治伝説は、日光の戦場ヶ原の伝説に因んでいるともされる。
伝説は近江国の話であるが、秀郷の地元の伝説が何らかの形で影響したのかもしれない。
古代、下野国の二荒神と上野国の赤城神が、それぞれ大蛇(男体山)と大ムカデ(赤城山)に化けて戦った戦場が戦場ヶ原とされる。
百目鬼伝説
秀郷が下野国宇都宮大曾あたりを通りかかった時のこと。
老人が現れ、ここから北西に行った兎田に百の目を持つ鬼が出るといった。
秀郷が兎田に向かうと、両腕に百の目、全身から刃のような毛を生やした、身の丈10尺(約3m)もの大鬼・百目鬼が現れた。
そこで、秀郷が鬼の急所に矢を射ると、百目鬼は明神山(臼が峰)へ逃げた。
翌朝、明神山に行くと、百目鬼は致命傷を負いながら、炎と毒煙を吐いてのたうち回っている。
秀郷が困り果てていると智徳上人が通りかかった。
上人が経文を唱えると百目鬼は鬼から人の姿になり、秀郷は亡骸を丁重に埋葬した。
以来その周辺は「百目鬼」の地名で呼ばれ、現在も明神山の西には「百目鬼通り」がある。
別の話として、百目鬼は逃げ延びて長岡百穴に400年間身を潜め、悪事を働いたが智徳上人の説得で改心したともいう。
全国の佐藤姓の御先祖
藤原秀郷の子孫は、後に「佐藤」氏を名乗った。
「佐」野の「藤」原氏だからとか、「左」衛門尉の「藤」原氏の略だとか諸説ある。
子孫には西行(佐藤義清)、源義経に仕えた佐藤継信・佐藤忠信の兄弟などがいる。
全国に200万人いるとされる「佐藤」姓のご先祖様の一人とされる。
https://offrin.net/products/totigi_hidesato/ 【武士のはじまり武装貴族の開祖下野国の藤原秀郷】より
平安時代では都より最遠であった「板東=関東」。まだ未開の地であった板東北部に赴任した貴族達は、開拓と戦いにて統治をすすめ、自らの命を守る為に武装し集団化されていきます。中でも下野の「藤原秀郷」は、板東各地を侵攻し、朝廷への謀反とみなされた猛将「平将門」の討伐に成功します。その功績から地方豪族としては破格の従四位下を叙爵され、下野と武蔵の両国司、その後は武門の最高名誉職とされる鎮守府将軍となり、軍事的支配権を確立した武士の始まりと言われています。秀郷の後も子孫七人が鎮守府将軍となり、武芸に優れた秀郷流藤原家としての名声は更に確立されて行くのです。また開祖である秀郷の英雄伝説はお伽噺となり、室町時代に都の入口近江瀬田の唐橋にて大百足を退治した「俵藤太物語」。そして地元宇都宮でも塙田(百目鬼)付近で悪さをかさねていた百の目を持つ鬼を退治した民話が伝えられて来ましたが、今ではその存在を伝える人も少なくなっています。栃木に生まれ、武士の始まりである「藤原秀郷」の魅力や、その後の下野国を形成した藤姓足利氏、小山氏、佐野氏などの氏族を知ることで地元の歴史を学び、ひいてはシビックプライド醸成に繋がる事を目的とし、活動しています。
俵藤太物語絵巻 上巻〈部分、ムカデ退治〉(栃木県立博物館蔵)
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