秣負ふ人を枝折の夏野哉 芭蕉 / 「奥の細道」黒羽の少女「かさね」について

http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2014/05/post-1018.html【今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅5 黒羽 秣負ふ人を枝折の夏野哉 芭蕉 / 「奥の細道」黒羽の少女「かさね」について】 より

元禄二年四月 三日はグレゴリオ暦では 一六八九年五月二十一日である。「曾良随行日記」によればこの前日四月二日は裏見の滝を見た後、上鉢石町五左衛門方を出立、現在の栃木県日光市の(旧今市市)瀬尾(せのお)及び同市川室(かわむろ)から同市大渡(おおわたり)を経由して、現在の栃木県塩谷郡塩谷村内船入(ふにゅう。鬼怒川の渡し場。船生)へ着き、そこから同村内の玉入(たまにゅう)へ、雷雨の中を午後一時半着、宿が劣悪だったために無理を頼んで名主の家に泊している。この三日は朝から快晴、午前七時半に玉入を出立、鷹内・矢板・沢村(現在は孰れも栃木県矢板市内)から大田原市内を抜け、栃木県北東部の黒羽(旧黒羽町(くろばねまち)。現在、大田原市黒羽)へと辿り着いた。「曾良随行日記」によれば、とりあえずこの句は四月三日の句と推定出来る。

陸奥(みちのく)にくだらむとして、下野國(しもつけのくに)まで旅立(だち)けるに、那須(なす)の黑羽(くろばね)と云(いふ)所に翠桃何某(すいたうなにがし)の住(すみ)けるを尋(たづね)て、深き野を分(わけ)入る程、道もまがふばかり草ふかければ

秣(まぐさ)負(お)ふ人を枝折(しをり)の夏野哉  那須にて

馬草(まぐさ)苅(かる)人を枝折の夏野哉

[やぶちゃん注:第一句目は「陸奥鵆(むつちどり)」(桃隣編・元禄一〇(一六九七)年跋)で、句は「曾良書留」にもこの句形で載り、そこでは前書に、那須余瀨(よぜ)、翠桃を尋ねて とする(「那須余瀨」は旧黒羽町の西方の地名)。

第二句は「蕉翁句集」(『蕉翁文集第一冊「風一」』・土芳編・宝永五(一七〇八)~六年頃)の句形。後者が実景のように読め、これが初期形であるが如何にも絵葉書のように平面的で、効果的なパースペクティヴを見せる前者が遙かによい。しかし芭蕉は「奥の細道」ではこの自作を切り捨てて、以下に示す掬すべき掌編をものしたのであった。

「翠桃」江戸で旧知であった蕉門鹿子畑豊明(かのこばたけとよあきら)の俳号。彼の実兄は黒羽大関藩館代(留守居役)浄法寺(じょうぼうじ)図書(ずしょ)高勝で、彼も俳句をものして桃雪と号し、兄弟ともに芭蕉を手厚く接待し、芭蕉はここ黒羽で「奥の細道」の旅で最も長い、十三泊(十六出立)という異例の逗留をしている。本句はその挨拶句である。なお、当時二十八、兄は年子で二十九の若さであった。

「枝折」道標べ。目印。

「陸奥鵆」所収のものは、この第一句を発句とするその折りに巻かれた七吟歌仙で(但しこれは後にかなりの推敲が施されたものらしく、そこからも第二句が初案であったと私は見る)、脇句は、 靑き覆盆子(いちご)をこぼす椎の葉 翠桃 と主の翠桃が付けている。「覆盆子」は木苺。

 以下、「奥の細道」の今日の当該旅程箇所を示す。

   *

那すの黑はねと云處に知人あれは これより野越にかゝりて直道をゆかむとす 遙に一村を見かけて行に雨降り日暮るゝ 農夫の家に一夜をかりて明れは又 野中を行そこに野飼の

馬あり草刈おのこになけきよれは 野夫といへ共さすかに情しらぬには あらすいかゝすへきやされ共此野は東西縱横にわかれてうゐうゐ敷旅人の道ふみたかへむあやしう侍れは この馬のとゝまる處にて馬を返し給へとかし侍ぬちいさきものふたり馬の跡したひてはしるひとりは小娘にて名をかさねと云聞なれぬ名のやさしかりけれは        曽良

 かさねとは八重撫子の名成へし 頓て人里に至れはあたひを鞍つほに結付て馬を返しぬ

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文。なお、「うゐうゐ」の後半は原本では踊り字「〱」)

〇東西縱横     → ●縱横

〇ひとりは小娘にて → ●ひとりは小姫にて

■やぶちゃんの呟き

私は十六の時、古典の授業でこのシークエンスを習って以来、「奥の細道」中、同じ折りに読んだ「象潟」に次いで、忘れ難い印象的な章段である。

角川文庫版の頴原・尾形両氏の評釈(この文庫のカバー画はまさにこのシーンである)によれば、本章段は(太字は底本では傍点「ヽ」)、

   《引用開始》

「草刈る男に嘆きよれば」云云の叙述の背後には、陸奥(みちのく)を舞台とした謡曲『錦木(にしきぎ)』の「けふの細道分け暮らして、錦塚はいづくぞ、かの岡に草刈るをのこ心して、人の通ひ路明らかに教へよや」の文言が二重写し的に焼きつけられていよう。その「草刈るをのこ」と、古雅の名を持った「小姫」、それに『蒙求』にも収められて著聞する「管仲随ㇾ馬」[やぶちゃん注:底本には片仮名送り仮名があり、読み下せば「管仲馬に随ふ」。](『韓非子』説林)の話を思わせる「野飼ひの馬」という、この世ならぬ道具立てによって織りなされた夢幻劇は、渺々(びょうびょう)たる那須野の旅の幻想的な風趣を伝えて余薀(ようん)がない。

   《引用終了》

とあり、新潮古典集成の「芭蕉文集」の富山奏氏の注には、「馬のとどまるところにて馬を返したまへ」の部分に「蒙求」のそれと並べて、「奥の細道」でやはりこの後の素材となる謡曲「遊行柳」の「老いたる馬にはあらねども、道しるべ申すなり」などを趣向とした旨の記載がある。安東次男氏は「古典を読む」版ではこの「撫子」は「大和撫子(河原撫子)」(ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属カワラナデシコ Dianthus superbus var. longicalycinus)であるが花は単弁で、八重咲のそれはセキチク(ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis)の改良種(天然種ではない)であって(分類と学名は私が附したもの)、この曾良の句は『野の撫子に八重はないはずでだが、はて、「かさね」とはよほど慈んで育てているのか、と読んでよい。丹精すればいずれは八重に咲く、という余情もある。セキチクの改良種の実際を知っていないとこういう句は出てこない。大和撫子を女童の愛称に執成(とりな)した例は、『源氏物語』にも出てくる』とし、「帚木」「常夏」の帖の証左を掲げてさえある(なお、個人的にはこの安東の語釈は興味本位の解釈として知的には面白いのであろうが、私はやや生理的不快感を感じることを申し添えておく)。

 しかし乍ら、私にとってこうした典拠詮索は、この章段にいらない。

 芭蕉の「奥の細道」には虚構が多いとされる。それを私も嘗て教師時代に鬼の首を取ったように述べては、荻原井泉水はこれを、現実的事実と文学的真実は違うと言っている、などと分かったようなことを偉そうに語っていた。しかし、私は芭蕉はやはりリアリズムの人であったと今は思うのである。無論、その実体験での感懐をより効果的に示すために、事実や時制に改変は加えられていることは確かな事実であっても(厳密な意味での虚偽記載事実の認定)、一つの創作物である「奥の細道」の中の、印象的なシークエンスには必ず、芭蕉が実際に見聴きし体験した事実という裏打ちがあり、そこでの感懐の核心に於いては何らの虚偽はない、というのが私の今の「奥の細道」への思いなのである(それを「文学的真実」などと呼ぶ必要は実はない。客観的事実とは観察者・測定者によって全く異なるという「事実」は既に原子物理学者らによって認められている科学的「事実」だからである)。

 であるからして私は典拠なんどより何より、この芭蕉と少女「かさね」の出逢いが確かな事実であり、馬を追いながらついてくる彼女、そして「かさね」よりもっと小さな少年である弟の情景が、ありありと見えること、感じることこそが、本文を鑑賞する上で最も、否、唯一、大切なことなのだと信じて疑わないのである。

 これは研究者の間では比較的知られたことであるが、この「かさね」との邂逅は確かな事実であることが、芭蕉のこの「奥の細道」が終わった翌年の以下の文章によって証明されるのである。それは芭蕉が知人から、生まれた女児の名付け親を頼まれた際に(この事実そのものが我々の芭蕉のイメージからはやや意外である)、「重(かさね)」という名を授けたことを述べた文章である(引用は山本胥氏の「奥の細道事典」に載るものを参考に原本の脱字・衍字を補正し、正字化して示した)。

みちのく行脚の時、いづれの里にかあらむ、賤(しづ)がこむすめの六つばかりとおぼしきが、いとさゝやかに、えもいはずをかしかりけるを、名をいかにいふとゝへば、かさねとこたふ。いと興有る名なり。都の方にてはまれにもきゝ侍ざりしに、いかに傳て何をかさねといふにやあらん。我子あらば、此名を得させんと、道連れなる人にたはぶれ侍しを思ひ出でゝ、此たび思はざる緣(ゑにし)に引かれて名付親となり

     賀ㇾ重(かさねをがす)

   いく春をかさねがさねの花ごろも

     皺(しは)よるまでの老(おい)もみるべく

 山本胥氏はこの後に、この『「かさね」を、私は旅の恋と感じたが、フランスの詩人ボンヌフォアは、『奥の細道論』の中で、「詩の世界の妖精(ようせい)と考えている」と述べている。言葉こそ違うが、当を得た解釈である』と述べておられるが、私は今回、このボンヌフォアの評言に深く感動した。

 「かさね」はまさしく、私が求め続けている、私の中の永遠の少女であることを気づかせてくれたからである――]

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