http://www.all-japan-arts.com/essay/1010sokuri51.html 【―ときじく― 】
中野 中 (美術評論家)より
ときじく、という言葉をふと思う。〈非時〉と宛字し、〈いつでもあるさま〉の意。夏から早秋にかけて変らぬ香りを放つ橘の花・実は、非時香菓(ときじくのかくのみ)と呼ばれる。
早く『古事記』や『日本書紀』に〈かくの木の実〉についての有名な伝承がある。それは、垂仁天皇の勅命により、田道間守は遠く常世の国に渡り、〈時じくのかくの木の実〉を得て持ち帰った。その〈かくの木の実〉が橘であるという説話である。『万葉集』に詳しい方なら、この伝承をふまえて大伴家持がかくの木の実を賛美した長歌をご存知であろう。
橘は、とくに花橘とも呼ばれるが、その花のみならず、実も葉も、常磐木として、実用的にも観賞的にも、四時それぞれに見るべきものがあるので、古くから諸邸宅の庭先などに好んで植えられたらしい。京都御所の紫宸殿の南階下の西側に今もある「右近の橘」などもそれであろう。
ところで〈ときじく〉はともかく、〈かくの木の実〉と詠んだ歌は何かなかろうかと万葉集や古今集などをパラパラとめくってみたけれど、さっぱり見つからない。奥の手で『大歳時記』(集英社)で調べてみると、平安時代に「とこ世よりかくのこのみを移し植ゑて山ほととぎす時にしぞ聞く」藤原仲実(「山家五番歌合」)、さらに近世に下って、「軒ちかく閨のとこよに匂へとてかくのみ植ゑし庭の橘」籬菊丸(『万代狂歌集』)の二首しか紹介されていなかった。
詩歌にうたわれるのはもっぱら「花橘」だったようで、「五月まつ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする」よみ人しらず(『古今集』)という名歌は良く知られるところで、花橘の懐旧的抒情の香とそのロマンが清艶にも芳醇にも深く強く印象づけられた記憶が私にも思い出される。恋多き多感な青春を彩った一首である。
清少納言の『枕草子』、「木の花は」の段にも橘は登場する。「四月のつごもり五月のついたちの頃ほひ、橘の葉の濃く青きに、花のいと白う咲きたるが、雨うちふりたるつとめてなどは、世になう心あるさまにをかし。(中略)時鳥のよすがとさへ思へばにや、なほさらにいふべうもあらず」と描写されている。橘の香にはなぜかふれず、もっぱら視覚にとらえた、早朝の雨のなかの橘の印象なのだが、濡れた葉の濃い青さと五弁の花の真っ白さとが鮮やかである。「時鳥のよすが」との表現は、王朝のロマンを濃密に感じさせる。
もう少しポピュラーなものを紹介するなら、
駿河路や花橘も茶の匂ひ 芭蕉
であろう。駿河から次郎長を連想し、次の歌が出てきた。
唄は ちゃっきり節 男は次郎長/花はたちばな夏は たちばな 茶のかおり/ちゃっきり ちゃっきり ち ゃっきりよ/きゃあるが鳴くんで 雨ずらよ (北原 白秋「ちゃっきり節」)
などとも歌われてはいるが、私も含めて「今の世の人は知らずよ花橘」(武定巨口)ではなかろうか
『古事記』や『日本書紀』に第11代垂仁天皇が田道間守(たじまもり)を常世国に遣わして、「非時香菓」(ときじくのかくのこのみ)を求めさせ、10年もの歳月をかけて持ち帰るが、その間に天皇は崩御したという話が出てくる。そしてその「非時香菓」は今の橘(タチバナ)のことであると説明してある。「非時香菓」は本当に橘のことだったのだろうか?
〔時じくの香の木の実〕
また天皇、三宅の連等が祖、名は多遅摩毛理を、常世の国に遣して、時じくの香の木の実を求めしめたまひき。かれ多遅摩毛理、遂にその国に到りて、その木の実を採りて、縵八縵(かげやかげ)矛八矛(ほこやほこ)を將(も)ち来つる間に、天皇既に崩りましき。ここに多遅摩毛理、縵四縵(かげよかげ)矛四矛(ほこよほこ)を分けて、大后に献り、縵四縵矛四矛を、天皇の御陵の戸に献り置きて、その木の実を擎(ささ)げて叫び哭(おら)びて白さく、「常世の国の時じくの香の木の実を持ちまゐ上りて侍ふ」とまをして遂に叫び哭びて死にき。その時じくの香の木の実は今の橘なり。(『古事記』)
日本に古くから自生してきた唯一の柑橘類とされるタチバナが最も多く群生している場所は、高知県土佐市甲原の松尾山(標高271m)だということを前回紹介した(“日本最大規模「土佐市のタチバナ群落」”)。約200本ものタチバナが群生しているのは他に類例がなく、日本最大規模とされる。
もしかして田道間守はかつての土佐国(高知県)からタチバナ(非時香菓)を持ち帰ったのではないかとの想像もしてみたが、あまりにも疑問点が多すぎる。問題点を列記してみよう。
①もともとタチバナは日本に自生しているにも関わらず、常世国(海外の国)から持ち帰ったとされている。
②『魏志倭人伝』にも「橘有り」と記述され、古くから日本に自生していることを裏付ける。
③柑橘類の結実は季節の影響を受け、季節によらないという意の「非時(ときじく)」という表現には適さない。
④「縵八縵矛八矛」という表現も橘ではなく、バナナの形状にピッタリ適合するとの指摘(西江碓児説)あり。
客観的に見ると矛盾点を多く内包しながらも、この話がお菓子のルーツとされたり、畿内の寺社に植えられた橘の木の由来につながっていたりする。もしかして『古事記』『日本書紀』の編者は「時じくの香の木の実は今の橘なり」としなければならない事情があったのだろうか。それとも本当に橘のことを指していたのだろうか。掘り下げて考えてみたいところだ。
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