http://kamnavi.jp/jm/tatibana.htm 【橘について】より
橘の再生 母性原理
多胚種で、受精による胚、受精によらない胚があり、これを蒔くと多くは受精に依らない胚が芽を出す。母植物そのものを再現する。古代の母系社会の象徴的植物。あらゆる文化の発展は女性から始まる。
橘の実の代々のつならり
橘の果実を収穫せずに置くと、次のシーズンの開花時にも、果実は落ちず、腐らずになっている。 昨年の黄色く色づいた果実と今年の青い果実が同じになっているとのことで、これは代代続く実としての「橙」が縁起物となったのに似ている。田道間守が持ち帰ったのは橙との説もある。
浪速の橘 記紀万葉
(1)雄略天皇一三年三月条に「天皇、歯田根命をして、資財を露に餌香市辺の橘の本の土に置かしむ。遂に餌香の長野邑を以て、物部目大連に賜ふ」
(2)顛宗天皇即位前紀に「旨酒餌香の市に直以て買はぬ」
(3)崇峻天皇即位前紀は蘇我氏が物部守屋を攻めた時の記事中に「餌香川原に、斬されたる人有り。計ふるに将に数首なり」と記す。
(4)天武天皇元年(六七二)七月条の壬申の乱の戦を記すなかに「 財等、高安城より降りて衛我河を渡りて、韓国と河の西に戦ふ」とある。
衛我河とは石川の下流(大和川への合流付近)のようで、餌香市は、餌香川左岸の国府にあったとする説が有力です。
国府とは、藤井寺市惣社にあたり、ここには志紀県主神社が鎮座。
かの雄略天皇が生駒山日下越えの道から「志畿の大県主」の大邸宅の屋根上の飾り木を見て焼き払えと命令したと伝えられている所。日下とは直線距離で10km以上。
巨大な伝応神天皇陵を延喜式では恵我藻伏崗陵と言います。そのほかにこの古市古墳群は恵我XX陵と呼ばれる物が多いようで、古市というのも古来よりの”市”と言うことで、餌香市だったのでしょう。
志紀県主神社鎮座地の東を藤井寺市船橋と言います。石川(衛我河)が流れ、対岸の竜田道につながっています。
万葉集巻一 一二五 作者は新婚の病人
橘の 蔭踏む路の 八衢(やちまた)に 物をそ思ふ 妹に逢はずて
やはり橘の木や実には病魔退散の効能があったのかも知れません。
藤井寺と柏原とは、船で対岸を行き来していたのでしょう。それを船橋と称したのかも。『続日本後紀』には恵賀川借橋とあります。次の万葉歌の河内大橋も、ここでしょう。
万葉集巻九 一七四二
見河内大橋獨去娘子歌一首
しな照る 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍も ち 摺れる衣着て ただ独り い渡らす子は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の 独りか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく
訳:河内大橋を一人で渡っている赤い着物の娘さん、独り者かいな と聞きたいね どこに住んでんの。
野中寺の心礎 橘の実と葉か?
橘寺の心礎。
羽曳野市野々上にお染め久松の野中寺があります。聖徳太子の創建と伝えられ、太子縁の河内三太子の一つで「中の太子」と呼ばれています。寺伝によりますと、物部守屋との合戦時、聖徳太子が休憩をしたところにこの寺を建立したとあります。現在は大和川で守屋の本拠の八尾とは遮られていますが、当時は地続きでした。
寺院は旧竹内街道に面しており、かって建っていた塔の塔の心礎が当時の状態で配置されています。
この塔の心礎は大きな円の孔に半円形の支柱孔が三つ(花びら形)と舎利孔あいている珍しいもので、礎石そのものは亀の形に刻まれています。ようは亀に乗っている。
明日香で、酒船石の下で亀石が発見されていますが、道教の影響や神仙世界への憧憬が感じられます。
同じように明日香の橘寺にも同じ花びら形の石礎が残っています。橘寺は聖徳太子誕生の地とも言われています。
これらの心礎の形は橘の花か実と葉のイメージかも知れませんね。
大阪市平野区鎮座の旭神社摂社若宮八幡宮の由緒
天平勝宝六年(754)八月、風雨月を越えて止まず、八幡宮の神託に、櫛司と橘を水上より流し、其の止まりたる所に神を祀りなば、水難を止め農民を安穏ならしめんとありしかば、大和・河内の国境より其の二品を流させ給ひしに、智識寺の山上より西北に分れて流れ、櫛司の止まりし所に神社を祭りて玉櫛明神(津原神社)と称し、川名を玉櫛川と呼べり。又、橘は渋川郡に流れて此の賀美郷の川中なる小島に止まりければ、其の地を橘の小島と呼び、東大寺の八幡宮を勧請して若宮と仰ぎしもの即ち当社にして、橘を神木と定められ、当時太上天皇も御幸ありしとの伝説あり。爾来雨を祈りて霊験ありければ、雨乞の宮と唱へて崇敬せられ、神前の橘も常磐の色を変えず子葉孫枝繁茂して芳香を放ちしとならん。
櫛と橘、共に神の依り代。この組み合わせは何だろう。
住吉大社の三神は橘の云々で生成。対馬の豆酸(ツツ)にも橘がある。
神社と橘
大和の広瀬大社の創建譚に橘が出てきます。
崇神天皇九年(前八九年)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えた事が天皇に伝わり、この地に社殿を建てまつられる。
『丹後国風土記』逸文の天女の物語が思い出されます。真名井に天女八人が舞い降り、水浴びをしており、帰れなくなった天女がおり、当社の祭神の若宇加能売命はこの天女のことと思います。橘が生えるのは真名井をを再現したものといえましょう。
橘-中島
忽那島八幡宮(愛媛県温泉郡中島町大浦)の由緒
遠く上代の昔、吾が祖族、萬里波を踏みて海を渡り、この忽那の島に至り住て、相慕ひ、その母の神稲田姫命を祀り、常世の郷と定め給ひき。
(中略)
夫れ、天に神あり、地に霊あり、神霊鎮まりて祖霊相寄るの聖地、千古斧入らしめぬ森茂り、子孫永く相享けて、願はしき常世の郷はときじくの橘の花の香ぐはしき島と栄えて、大和の中の美はしき中島と讃へまつる。
この中島とは、瀬戸内海の中の島の意味でしょうか、または積極的に”中心”と言う意味なのか、良くわかりません。
中島-田道間守
内藤湖南の『卑彌呼考』
橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ歸朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣二大夫難升米等一詣レ郡求下詣二天子一朝獻上。倭女王ハ倭奴王ノ誤ニシテ、難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」とあり、倭女王を倭奴王とするは、殆ど取るに足らざるも、田道間守を難升米とするは從ふべし。
難升米とは中島のこと。田道間守を祭神とする式内社で兵庫県豊岡市三宅に中嶋神社が鎮座、しかしここの由緒書きによれば、「田道間守命の墳墓が垂仁天皇御陵域内 の池中に在りて島をなせるに因りて中島神社と称す。」とあり、眉唾。
橘と偽書
『東日流外三郡誌』の「荒吐族戦乱録」
垂仁帝の壬子年、田道間守使者となりて、荒吐一族との和を謀れども、当世国に荒吐宇止利彦 是を聞き曰さず。景行帝辛未年、田道間守責務成らざるを悔いて、先帝の陵前に自刃せりと曰う。
尾崎神社社伝からの写しと言う
『秀真伝』橘のこと多(サワ)に記載あり。
資料
戦前の小学唱歌
1.香りも高い橘を 積んだお船が今帰る
君の仰せをかしこみて 万里の海をまっしぐら
今帰る 田道間守 田道間守
2.おはさぬ君のみささぎに 泣いて帰らぬ真心よ
遠い国から積んで来た 花橘の香と共に
名は香る 田道間守 田道間守
古事記の多遅多摩毛理
『古事記』時(トキ)じくの香(カク)の木(コ)の実(ミ)
また天皇(スメラミコト)三宅連(ミヤケノムラジ)等(ラ)の祖(オヤ)、名は多 遅多摩毛理(タヂマモリ)を以(モ)ちて常世国(トコヨノクニ)に遣はして、とき じくのかくの木(コ)の実(ミ)を求めしめたまひき。かれ、多遅摩毛理(タヂマモ リ)、遂(ツヒ)にその国に到(イタ)りて、その木(コ)の実(ミ)を採り、縵 (カゲ)八縵(ヤカゲ)・矛(ホコ)八矛(ヤホコ)を以(モ)ちて将(モ)ち来た りし間に、天皇すでに崩(カムアガ)りましき
ここに多遅摩毛理(タヂマモリ)・縵(カゲ)四縵(ヨカゲ)・矛(ホコ)四矛(ヨ ホコ)を分けて大后に献(タテマツ)り、縵(カゲ)四縵・矛四矛を天皇の御陵(ミ ハカ)の戸に献り置きて、その木の実を擎(ササ)げて叫(サケ)び哭(オラ)びて 白(マヲ)さく、「常世国(トコヨノクニ)のときじくのかくの木(コ)の実を持ち て参(マヰ)上(ノボ)りて侍(サモラ)ふ」とまをして、遂に叫び哭(オラ)びて 死にき。そのときじくのかくの木の実は、これ今の橘(タチバナ)なり。
この天皇の御年(ミトシ)、壱佰伍拾参歳(モモチアマリイソヂアマリミトセ)。御 陵(ミハカ)は菅原の御立野(ミタチノ)の中にあり。
縵八縵・矛八矛 縵とは橘を冠状にしたもの 矛とは直線的にぶらさげたもの。(角川文庫)
橘は田間花(たぢまはな)の説がある。
日本書紀の田道間守
巻六垂仁天皇 九十年春二月庚子朔。天皇命田道間守。遣常世國。令求非時香菓。〈香菓。此云箇倶能未。〉今謂橘是也。
九十九年秋七月戊午朔。天皇崩於纒向宮。時年百四十歳。
冬十二月癸卯朔壬子。葬於菅原伏見陵。
明年(景行天皇元年辛未七一)春三月辛未朔壬午。《十二》田道間守至自常世國。則賚物也非時香菓八竿八縵焉。田道間守於是泣悲歎之曰。受命天朝。遠往絶域。萬里蹈浪。遥度弱水。是常世國。則神仙秘區。俗非所臻。是以往來之間。自經十年。豈期獨凌峻瀾。更向本土乎。然頼聖帝之神靈。僅得還來。今天皇既崩。不得復命。臣雖生之。亦何益矣。乃向天皇之陵。叫哭而自死之。群臣聞皆流涙也。田道間守。是三宅連之始祖也。
遥度弱水 玄中記に「天下之弱者。有崑崙之弱水、鴻毛不能戴」。史記に「弱水在大秦西」。ほかに「西域絶遠之水」とある。岩波文庫。日本書紀編纂局の貴族が常世国をどこだと考えていたかのこと。 橘はこの国が原産とされる。
日本書紀の常世
『日本書紀』神代上にスクナヒコナミコトはオホナムチミコトとの国作りの後、熊野の御崎から「常世郷」あるいは淡島(鳥取県か)で栗茎にのって、はじかれて「常世郷」に至ったとあるのも、いずれも海上他界としての「常世」である。また『日本書紀』の神武東征伝承にミケイリノノミコト(神武の兄とする)は、熊野で浪の秀(ほ)をふみ「常世郷」に向かったとある。同じく『日本書紀』垂仁天皇二十五年条にはアマテラスの鎮座する伊勢の地を「常世の浪の重浪帰する国なり」と記している。さらにすでにみた同天皇崩後年条における田道間(たぢま)守(もり)が出むいた常世国は「遠くより絶域に往(まか)る。萬里浪を踏みて遙に弱水を渡る」ところにあったと伝える。この表現からも海のはるかかなたの地に常世国があったというイメージをいだかせる。
万葉集の田道間守
巻十八 橘の歌一首、また短歌 四一一一
かけまくも あやに畏し 皇祖神(すめろき)の 神の大御代に
田道間守(たぢまもり) 常世に渡り 八矛(やほこ)持ち 参ゐ出来(こ)しとふ
時じくの 香久(かく)の木(こ)の実を 畏くも 残し賜へれ
国も狭(せ)に 生ひ立ち栄え 春されば 孫枝(ひこえ)萌いつつ
霍公鳥 鳴く五月には 初花を 枝に手折りて
をとめらに 苞(つと)にも遣りみ 白妙の 袖にも扱入(こき)れ
香ぐはしみ 置きて枯らしみ 熟(あ)ゆる実は 玉に貫きつつ
手に巻きて 見れども飽かず 秋づけば しぐれの雨降り
あしひきの 山の木末(こぬれ)は 紅に にほひ散れども
橘の なれるその実は ひた照りに いや見が欲しく
み雪降る 冬に至れば 霜置けども その葉も枯れず
常磐なす いや栄(さかは)えに しかれこそ 神の御代より
よろしなべ この橘を 時じくの 香久の木の実と 名付けけらしも
反し歌一首 四一一二
橘は花にも実にも見つれどもいや時じくに猶し見が欲し
閏五月(のちのさつき)の二十三日(はつかまりみかのひ)、大伴宿禰家持がよめる。
一年中楽しめ、香りの良い橘、常世の国から持ってきた常磐の木だと感嘆している歌。
常陸国風土記
夫 常陸国者 堺是広大 地亦緬積 土壊沃墳 原野肥衍 墾発之処 山海之利 人人自得 家々足饒 設 有身労耕耗 力竭紡蠶者 立即可取富豊 自然応免貧窮 况復求塩魚味 左山右海 植桑種麻 後野前原 所謂水陸之府蔵 物産之膏腴 古人云常世之国 蓋疑此地
昔の人が「常世の国」と言ったのは、常陸の国のことか。と言うこと。
行方郡
郡家南門 有一大槻 其北枝 自垂触地 還聳空中 其地 昔有水之沢 今遇霖雨 廳庭湿潦 郡側居邑 橘樹生之
香島郡
前郡所置 多蒔橘 其実味之
万葉集巻二十 四三七一
橘の下吹く風の香しき筑波の山を恋ひずあらめかも
矢作幸雄著『古代筑波の謎』によれば、防人の詠める歌とされるが、橘郷造神社(行方郡玉造町羽生)の奉祀する占部の神人を作者として推定されている。この書で、筑波山西録の気温の逆転現象について述べている。平均気温が中腹が麓より2~3度高いと言う。中腹の地面近くで冷えた空気が重くなり、麓に下る。その後に上空の暖かい空気が降りてくると言うこと。柑橘類の飛び地となる。
神社と橘 あれこれ
廣瀬神社 奈良県北葛城郡河合町川合
崇神天皇九年(前八九年)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えた事が天皇に伝わり、この地に社殿を建てまつられる。
忽那島八幡宮 愛媛県温泉郡中島町大浦
遠く上代の昔、吾が祖族、萬里波を踏みて海を渡り、この忽那の島に至り住て、相慕ひ、その母の神稲田姫命を祀り、常世の郷と定め給ひき。茲に藤原の長者、八幡大神の神託を畏み、應徳四年春、その神々(誉田別尊、大帯姫命、市杵島姫、湍津姫、田心姫)を氏神と斉き奉りて、明光霊徳、七島に及び、忽那七島総鎮守として、祖孫相励みて水軍の至誠南朝に薫り、色変えぬ巨松連なりて、栄光に輝く。夫れ、天に神あり、地に霊あり、神霊鎮まりて祖霊相寄るの聖地、千古斧入らしめぬ森茂り、子孫永く相享けて、願はしき常世の郷はときじくの橘の花の香ぐはしき島と栄えて、大和の中の美はしき中島と讃へまつる。
若八幡神社 福岡県田川市夏吉
昔、岩窟が百あまりもあったそうですが、今もあるのは五十あまりです。京都郡黒田村にあるのを橘墳とよびならわしていますが、これは大変大きなものです。夏吉村の岩窟は実に神代からのもので。人力では出来ないものです。夏磯姫命の廟だった事、疑問がないわけでもありませんが、大行事の神として祭ってよいのです。
竃門神社 福岡県浮羽郡吉井町大字橘田
往古、天智天皇朝倉の木の丸殿より此の地を見そなわし、「橘の広庭」とのたまわせてより「橘田」の地名起れりと伝ゆる。
江田神社 宮崎県宮崎市阿波岐原町産母
本神社は太古の御創建にして、その創立の年代は詳らかならざるも、此の地一帯は古来所謂日向の橘の小戸の阿波岐原として、伊邪那岐の大神禊祓の霊跡と伝承せられて、縁起最も極めて深き社ならむ。
東霧島神社 宮崎県北諸県郡高崎町大字東霧島
御神宝十握の剣は別に「十拳剣」「十掬剣」といって、この剣は伊弉諾尊が佩刀したもの。性空上人が参篭し苦行中に神児が現われて神剣のありかを告げたがどうしても発見することができなかった。一羽の鳩が神社の庭の橘の木にとまり、そのあと数回木の上をまわり、同じようなことを三回くりかえしたので上人は神のお告げと橘の木の所を掘ってみると地中に石の梢に納まった剣が発見された。
大井神社 亀岡市大井町
8月19日の夏祭りで各町内から1.2mの大松を主体にした立花が奉納される。十月十六日の例祭には、古く貞観八年(866)に始まったという勇壮な競馬が当社の馬場で武者姿の氏子によって奉納される。大陸風。 大井川開拓は秦氏の手になる。
大陸の古典の橘
恋川亭さんご提供
屈原の『楚辞』から橘の詩を写しました。既出でしたっけ?
『 橘 頌 』(きつしょう)
后皇の嘉樹、橘来り服す。
命を受けて遷らず、南国に生ず。
深固にして徙し難く、更に志しを壹にす。
緑葉素栄、紛として其れ喜ぶ可し。
曾枝〔エン〕棘、圓果摶たり。 ※1
青黄雑糅して、文章爛たり。
精色内は白く、道に任ふるに類す。
紛〔ウン〕として宜脩にして、〔クワ〕にして醜からず。 ※2、※3
嗟、爾の幼志、以って異なる有り。
独立して遷らず、豈喜ぶ可からざらんや。
深固にして徙し難く、廓として其れ求むる無し。
世に蘇して独立し、横にして流れず。
心を閉じ自ら慎み、終に失過せず。
徳を秉りて私無く、天地に参はる。
願はくは歳の〔ナラ〕び謝するまで、與に長しく友たらん。 ※4
淑離にして淫ならず。梗くして其れ理有り。
年歳は少しと雖も、師長とす可し。
行は伯夷に比す。置いて以って像と爲さん。
漢字変換できなかったもの。
※1〔エン〕炎扁に、りっとう旁。エンキョク:するどいトゲ。
※2〔ウン〕蘊の草冠がないもの。フンウン:橘の果実の香気が盛んなこと。
※3〔クワ〕女扁に夸の旁。色よく美しいこと。
※4〔ナラビ〕併の人扁を取り旁だけの部分。並と同様な意味。
明治書院・新釈漢文大系『楚辞』星川清孝著より抜粋。ただし漢字は新しい字体にしています。
道教ではありませんが、屈原の『楚辞』から橘の詩を写しました。既出でしたっけ?
恋川亭さん ありがとうございます。皇后陛下の紋章が橘ですが、これに依るのかも。
以下、ご紹介の詞の翻訳しているものを発見。↓
http://www.h3.dion.ne.jp/~china/book7.html
橘頌
橘(密柑の類)の香ばしい花実を賛美して、その徳になぞらえて、自分の身を持していこうと歌ったものである。
皇天后土の生じためでたい樹、橘がこの地に来て風土に適し、
天の命を受けて他国に移らず、南国に生ずる。
根は深くて移し難く、その上その志は専一で動かない。
緑の葉に白い花、数多く入り乱れて誠に可愛らしい。
重なる枝、するどい棘、円い果実はころころとしている。
青と黄とが交じり合って、色取りが輝いている。
外皮はすぐれた色で、内部は白く、才は美わしく心は潔白で、正道を行うに堪える君子に似ている。
その実は香り高く宜しく、美しくて醜くない。
ああ、お前の幼時の志は、他のものと異なっていた。
何物にもたよらず、独立してうつらない。なんと好もしいではないか。
志が深く固くて移し難く、心はむなしくて何も求めない。
世俗の中で目醒めて、ひとりで立って、行いにかど目を失わない。
心を閉じて自ら用心して、終に過失を犯さない。
天性の得性をしっかりと取り守って私心なく、天地の徳に参加する。
どうか年歳がすべて過ぎ去るまで、お前と末長く友達になろう。
淑やかで俗を離れて、みだらな行いもなく、固いようでも条理があり、
年は若くても、師とも目上とも仰ぐことができる。
その行いは伯夷にも比べられる。お前を立てて手本にしよう。
翻訳引用以上
疑似歴史・古史古伝等
『東日流外三郡誌』の「荒吐族戦乱録」
垂仁帝の壬子年、田道間守使者となりて、荒吐一族との和を謀れども、当世国に荒吐宇止利彦 是を聞き曰さず。景行帝辛未年、田道間守責務成らざるを悔いて、先帝の陵前に自刃せりと曰う。
尾崎神社社伝からの写しと言う
『秀真伝』二紋
常世神 木の実東に
植ゑて産む ハゴクニの神
日高見国や 高天原に祭る
ミナカヌシ 橘 植ゑて
産む御子の タカミムスビお
諸人讃ゆ キのトコタチや
『秀真伝』三十七紋
勅 「香久お求めに
タジマモリ トコヨに行けよ
わが思ふ クニトコタチの
御世の花」
タシマモリ 時じく香ぐつ
二十四篭 香ぐの木四竿
株四竿 持ち来たる間に
君罷る 土産半ばを
若宮え 中ばお君の
御稜に 捧げ申さく
「これ得むと 遥かに行きし
トコヨとは 神の隠れの
及びなき 振りお馴染むの
十年ぶり 豈思ひきや
凌ぎ得て 更帰るとは
天皇の 奇し霊によりて
帰る今 既に去ります
臣生きて 何かせん」とて
追ひまかる
『卑彌呼考』 内藤湖南
難升米
雜誌「文」第一卷第十二號、橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ歸朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣二大夫難升米等一詣レ郡求下詣二天子一朝獻上。倭女王ハ倭奴王ノ誤ニシテ、難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」とあり、倭女王を倭奴王とするは、殆ど取るに足らざるも、田道間守を難升米とするは從ふべし。紀によれば田道間守は垂仁天皇の崩じ給ひし翌年、常世國より至り、往來の間、十年を經たりとあり。倭人傳によれば難升米が景初三年(二年とあるは誤なり説下に見ゆ)に始めて使を奉じ魏に赴きしより、中間歸國の事明らかならず、其の確かに歸りしは正始八年以後魏の使張政等と偕にせし時に在り、而して其時卑彌呼以(スデ)に死せりとあり、其の往來に九年乃至十年を費せるは明かなり。一は垂仁天皇とし、一は倭姫命とするの差はあれども、使者の境遇は略ぼ相似たり。
なら橘プロジェクト のりうつぎさんとHPから頂いた情報の一部
橘は、記紀では不老不死の妙薬として出てくるのですが、最近、柑橘類に含まれるノビレチンという物質の薬効についての研究が進んでいます。東北大などの薬学部が手がけているのですが、脳細胞を活性化させて認知症の予防や治療に効能があるとい うことです、近いうちに認知症に効く漢方薬として世に出るのではと期待しています。
その、ノビレチンが橘とシークヮーサーには特に多く含まれていますので、橘に不老不死の薬効があるという言い伝えは、まんざら嘘ではないように思っています。
なお、明日香の橘寺にも橘に混ざって四季橘が植えられています。
橘(たちばな)の実の大きさは直径約4センチ前後でピンポン玉より小さなカワイイ姿をしています。元々、お正月の鏡餅の上にのせる「みかん』は『橘」であり霊果であったのです。
橘は、ヤマトタチバナとも呼ばれ、日本に古くから自生してきた唯一の柑橘類です。
「大和橘」は、日本列島における柑橘類の唯一の固有種である。太平洋岸の暖地に今でもごくわずか自生しており絶滅危惧種に指定されている。古代では食用よりも漢方として珍重され、特に芳香を放つ花や葉が親しまれ万葉集などに数多く詠われている。文様や家紋のデザインにも多く用いられ、近代では文化勲章のデザインに採用されています。樹高は2メートルから4メートル、枝は緑色で密に生え、若い幹には棘がある。葉は固く、楕円形で長さ3センチメートルから6センチメートルほどに成長し、濃い緑色で光沢があります。 以上
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