橘について ①

 http://kamnavi.jp/jm/tatibana.htm  【橘について】より

万葉集 巻六 一〇〇九

 橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木

巻十八 四〇六三

 常世物この橘のいや照りにわご大王は今も見るごと

1.常世の神の依り代、橘

橘は立花で、これは柱などと同じく神の依り代。

太古よりこの国に自生している常緑樹であり、美しい実と香しいにおい、さらに神の遣いである蝶の幼虫が育つ樹木であり、神の坐す處と世俗とを結ぶものとして尊ばれてきた。

『日本書紀』の皇極天皇三年(644年)東国の富士川周辺に住んでいた大生部多と云う者が橘の木に育つ蚕に似た虫を常世の神として信仰を広め、これを秦河勝が懲らしめたと云う。

秦河勝を揶揄しての歌  太秦は神とも神と聞えくる常世の神を打ちきたますも

尤も、この話には絹織物業の寡占化を目論んでいる秦氏が競合相手をつぶしたお話だったとか、解釈はにぎやか。

源平藤橘と云う四姓がこの国には多かったそうで、橘は県犬養三千代が功あって橘姓を貰ったとのこと。和銅元年(708)元明天皇の即位の大嘗祭の後の宴会の席上で

橘は果実の長上、人の好む所なり、霜雪を凌ぎて繁茂し、寒暑を経てしぼまず、珠玉と共に光を競ひ、金銀に交じって美し。と云うことで、発足したとか。

その後、聖武天皇が三千代の子の橘諸兄に与えた歌「橘は 実さへ 花さへ その葉さへ 枝に霜ふれど いや常葉の樹」と常世が意識されていたようです。

2.海・橘・常世

常世は海の彼方にあると云う幻想は古来からのものと思います。

垂仁天皇の時代のこと、天皇は田道間守に命じて、時じくの香の木の実(『日本書紀』では非時香菓)を持ち帰るように常世国に遣わしました。『日本書紀』では「遠往絶域。萬里蹈浪。遥度弱水。是常世國」と表現しており、いかにも海を越えて遠方におもむいたようです。

『日本書紀』では他にも「少彦名命は大国主命との国作りの後、熊野の御崎から栗茎にのって、はじかれて「常世郷」に至った。」とあり、やはり常世を海上他界としたお話。

『古事記』黄泉の国から逃げ帰った伊邪那伎大神は『「吾は御身の禊せむ」とのりたまひて、竺紫の日向の橘のの小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。』とあり、これも海。

『海神宮訪問神話の研究』宮島正人著に筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原として、福岡県古賀市青柳の地を比定。立花山があり、その北の尾東山麓に五所八幡宮が鎮座、墨江三前神も祭神になっています。

立花-橘、尾東-小戸、青柳-阿波岐と対応しており、青柳川から海に出るのに遠くない所。この説は卓見。

神武天皇の兄の三毛入野命は熊野で、浪の秀を踏んで常世郷に往ったとある。ことほど左様に、海、浪と常世、橘とは密接。

筑紫の日向の比定地

筑紫の日向の高千穂の久士布流多気などの言葉からも筑紫を表す逆さ枕詞が日向で、単に筑紫を表すとの理解でいいのかも。

さて猿田彦かおぼれたのは伊勢の海。

垂仁天皇の時代、天照大神は「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり。」と、当地に鎮座する託宣を出し、伊勢に落ち着いたのが伊勢神宮の創建譚。重浪はシキナミと訓みます。天照大神が常駐することによって、常世となり、神宮は常宮となった。

伊勢神宮とその禊ぎ場である二見浦との間の伊勢市黒瀬町に橘神社(祭神不詳)が鎮座、ここは浜郷神社(伊勢市通町)の摂社ですが、海上遥かから重浪にのって寄り来る常世の神の依り代の橘が神木であったものと思われます。現在も柑橘類の木が生えているとのこと。

天神である天照大神は伊勢の国と橘でつながっている。またの橘の小門の阿波岐原では住吉大神も現れている。この神もまた橘を依り代としている。新羅は常世国と見なされていたのであるのは田道間守の祖の天日矛命の国であり、秦氏の祖の国である。神功皇后に新羅の国に行くように託宣する神に、橘で生成したこの二大神が出てくるのである。

青草話 橘と高千穂 

天神の依り代 タチバナ 筑紫日向小戸橘之檍原 すくっと立った薫り高き実のなる常緑樹

天孫の依り代  タカチホ 筑紫日向高千穗クシ觸之峯 高く積み上げられた稲穂。

3.山・橘・常世

穴師兵主神社内のタチバナ神社(塙神社に見える・・。)

山辺の道沿いにみかんの里があります。穴師。ここに鎮座する兵主神社の境内に橘神社(槁神社)があり、御神紋も橘。この橘神社は田道間守を祭神とするとの説があります。神代の話しではありませんが、田道間守も常世の国から帰ってきた神であり、その依り代としての橘があると云うこと。

天照大神は崇神天皇六年、磯城(シキ)の大殿を出、笠縫邑を起点として巡幸し、ついに重浪(シキナミ)のよせる伊勢国に鎮座。山のシキから海のシキへの巡幸。この物語も神代と人代の混在。但し大三元さん指摘の言語学では重のキは甲類、磯城の城は乙類。 従って、単なるゴロあわせ。

磯城の大殿は三輪山の麓、志貴御県坐神社の場所に碑が建っており、遠からずの場所。天神が垂直に降臨するのが山の橘であったと云うことが言えそう。

シキ、常世からの神霊を受ける場所。三輪山は天上の常世からの神霊、伊勢は海上の常世からの神霊、常世=不変と見れば、頑丈な石城も同じで、シキは常世の窓口と言えます。

倭建命の有名な国思歌が『古事記』にあります。

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし 命の 全けむ人は たたみこも 平群の山の くま白梼が葉を うずに刺せ その子

「たたみこも」とは重なり合ってと云う意味で、重浪に通じ、これは信貴山として今に残ります。同じように、三輪山の青垣のほうも、「たたなづく」とは重なっているの意で、巻向-三輪の二重の神奈備の地が磯城のようで、どうやらこれが大切なもの。繰り返しとは山でも波でも不死不老の象徴だった。

塩筒爺は山幸彦を海の常世に、また磐余彦には山の常世の大和を勧めたと言えます。

境内の『歴史街道』による説明碑

4.橘・常世・道教

 飛鳥に橘寺がある。田道間守が持ち帰った橘を植えたとの伝説があり、現に背の高い橘の木があります。実をひとつ頂きましたが、やはりすっぱい味。なおここの橘の実は春になると落ちてしまうとのことです。

聖徳太子の誕生の地とも云われ、常世との繋がりの深い處。また欽明天皇の別宮である”橘の宮”の跡をこの寺としたと云います。

 橘寺発行の『橘寺と聖徳太子の昔ばなし』から

垂仁天皇から不老長寿の元になるものを探すように命じられた田道間守はあちらこちらの国を訪ねて探し歩きました。どこにも見つかりませんでした。

 所が、不思議な光景に出会いました。それは老人が若い娘に叱りつけられて泣いているのです。田道間守が話を聞いてみると、若い娘が母親で、老人はその息子であるというのです。母親は一つの実を示し「この子だけが酸っぱくて嫌だとこれを食べないのです。だからこんなに年を取ってしまったのですよ。」と云いました。

 それを聞いた田道間守は、おどりあがって喜び、その不老長寿の実のなる木を数本譲り受けて帰国しました。以下は記紀と似たような内容。

橘寺の橘の木。背後の建物は本堂。

 聖徳太子の頃に皇族の名前に橘が多くなったように感じます。父親の用明天皇は橘豊日天皇と呼ばれ、太子の妃に橘大郎女。師木島の大宮に坐した欽明天皇から推古天皇への時代は「橘の京に都す」とされる時代で、天皇制の確立の時代だったのかも知れません。福永光司さんは「天皇」と云う称号も、常世を神仙境とする道教の「天皇大帝」から取ったものと云われています。今は亡き第一人者の言や重し。

 智と徳の聖徳太子と並ぶ皇太子として武と勇の日本武尊がいます。日本武尊の妃に有名な弟橘姫がおり、海神を鎮めるべく入水する役割を担っています。橘姫の真骨頂発揮。

 山上伊豆母著『古代祭祀伝承の研究』に「古典神話の王権伝承においては、天神の系譜をつぐ日嗣尊(太子)の后妃は、海神の女(水の神女)が相応しいという信仰があった」との記述があります。

 確かに『古事記』によれば、山幸彦、不合尊は海神の娘。更に、二代綏靖、三代安寧、四代懿徳と師木県主の祖の系統の女を妃としています。他にも海人系の尾張、物部や丹後から妃を迎えています。常世願望があったと云うことでしょう。

 余談ですが、これは瓊瓊杵尊は石長姫を帰してしまった償い。即ち石長姫を娶っていれば「天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如く、常盤に堅盤に動かず坐さむ。」だったのです。木花咲耶姫のみでははかないのでした。

 『古事記のものがたり』の宮崎みどりさんから聞いた話ですが「富士山の九合目以上は岩のみで木々はない。ここに石長姫が鎮座、七合目以下は木々と樹海、まさに木花咲耶姫の世界。以下略。」

 道教思想と古来の日本の信仰とを結ぶ絆が橘の木で、道教の霊薬、常世の象徴、海神の女とは常世から差し向けられる天神の娘で、依り代を橘とすると云うことでした。

5.橘・常世・その他

  浦島伝説 

 『丹後国風土記逸文』に「与謝の郡の日置の里の筒川村に、浦島の子と云う者がいました。云々。

この物語は、 オンラインマガジン 浦島伝説 丹後国風土記逸文に、全文が掲載されています。ご覧下さい。

浦島伝説

 京都府与謝郡伊根町の浦嶋神社(宇良神社)では3月17日に削り掛神事が行われます。梅原猛氏の『京都遊行』(京都新聞)によれば、通称福棒祭で、近くの山のコブシとチシャの木が使われ、コブシの木の皮を取った白い枝でカンナで削掛を作り、これを俵形にしてシャチの木にくくりつけるようです。この木のことを「立花」と云うそうです。何故、立花と云うかと云うと、元々橘が使われていたとのこと。昔は丹後半島でも橘が育ったのでしょう。

 ここでは何れにしろ、浦島、常世、橘とセットになっていることを発見。

 浦嶋子の居た筒川とは、山幸彦を常世へ案内し、磐余彦(後の神武天皇)に大和を教えた塩筒之翁や住吉大神の筒之男神の筒を思わせます。常世へ通じるパイプ?。

 また紀の国は高野山の東の山中に筒香と云う地名があり、『播磨国風土記』(逸文)に、「神功皇后が三韓出兵のとき丹生都比売命の神託で勝利したため、同神を「紀伊国管川藤代之峰」に鎮座した。と書かれている“管川”のこととされ、別の名として『住吉大社神代記』に「丹生川上に天手力男意気続々流住吉大神を祀った。」丹生川上のことと思われます。このことは、産物である丹沙は、水銀で不老不死の仙薬と思われ、またこの地域は熊野への通り道、やはり常世への憧憬が偲ばれるのです。

 徐福伝説と道教

 徐福は道教の方士。方士とは祭祀と医薬に通じたプロ。日本各地に徐福の漂着伝承がありますが、明確な物的証拠はありません。

佐賀の金立山へ徐福が行くとされていますが、この時に上陸地を盃を浮かべて占ったと言います。浮杯はより後世のもので、どうも江戸時代頃に作られた伝承のようです。新宮の徐福の墓なども江戸時代に設けられたようです。町民文化が栄え、余裕のあるインテリが登場して来たのでしょうね。

 しかし、道教の影響としては、卑弥呼の鬼道や現在の神社祭祀に通じるもろもろのものに現れています。砂や土で円錐形の盛りあげをつくり、御幣を立てるのは、封禅の内の天を祀る封。大地を清掃し祭壇を造り大地を祀るのを禅と云うとか。

 縄文時代からの自然信仰に道教が加味されて日本の神祭りのスタイルが出来てきたのでしょうが、徐福が影響を与えたとは限らないということ。

 『日本書紀』斉明天皇二年九月 「田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。また、嶺の上の両つの槻の樹の辺に、観(たかどの)を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮(あまつみや)と曰ふ。」

 これは吉野から来る神仙を待ち受けて不死の仙薬を得ようとしたと、『徐福伝説を探る』で福永光司氏が述べておられます。

 酒船石の下の亀石も道観の跡かも。

亀石

 6.雄略、河内、志紀、橘

 浦島伝説は『日本書紀』の雄略天皇の段に記載があるが、「語は別巻にあり」で、詳細は記されていない。別巻とは『丹後国風土記』だろうか。

『万葉集』一七四〇には、水の江の浦島の子を詠めるとして墨吉の岸の物語として歌われている。筒のつながりか。

 『古事記』では、雄略天皇と引田部の赤猪子との時を越えた物語が記載されている。即ち天皇は年を取らず、赤猪子だけが老女になってしまうのである。一言主神との遭遇も含めてこの天皇は常世的存在と云いたいのかも知れない。

 そう云うこともあって、雄略天皇十二年、「初めて楼閣を起りたまふ。」とある。これも道観か。

 『古事記』雄略天皇が河内に行った際、堅魚を上げている家を見つけた。志幾(シキ)の大県主の家であった。「天皇と同じである、不遜。」として其の家を燃やそうとした。大県主は畏みて白い犬に品物を付けて献上して、燃やされるのを免れたとのお話。

 『日本書紀』にはこの話しは出ていませんが、河内でやはり品物を献上させた話が出てきます。

 十三年、歯田根命が、ひそかに釆女山辺小島子を犯した。天皇はこれを知り、責めた。歯田根命は餌香市辺の橘の木のもとに資財をむき出しで置かしたと云うお話。

 河内、罪、品物で償う、と共通点がある。ここに河内の志幾と橘が出てきます。

 餌香市とはどこか、と云うことが気にかかります。エガ(恵我)の地名は、松原市、藤井寺市、羽曳野市一帯に広がっており、それだけで特定できるものではありません。

 志紀県主神社の鎮座する国府跡付近は、人々の集まりやすい場所のようで、市があったのかも知れません。この東を船橋と云い、大和川と石川の合流する所でもあり、人の行き来も活発、かつ境界でもあり、市の立地にふさわしい所。江戸時代の勧請とする大山咋神社が鎮座、参詣された方、境内に橘の木など生えていなかったでしょうか。

 万葉集の浦島の歌は巻九の一七四〇と一七四一ですが、この次の歌

巻九 一七四二 見河内大橋獨去娘子歌一首 があります。

 しな照る 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍も ち 摺れる衣着て ただ独り い渡らす子は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の 独りか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく 

河内大橋を一人で渡っている赤い着物の娘さん、独り者かいな と聞きたいね どこに住んでんの。

浦島の歌の次に河内大橋の歌、なんでだろう。

7.高千穂と橘 天照大神

 『古事記』天岩戸開きのお話

高御産巣日の神の子思金の神に思はしめて、常世の長鳴鳥を集(つど)へて鳴かしめて云々とあります。常世の長鳴鳥を高天原に連れてきて集めたと云うこと。一体誰が連れてきたのでしょうか。

『古事記』天孫降臨のお供のお話

常世の思金の神、手力男の神、天の石門別の神を副へ賜ひて云々

 そう言うことで、上記二文から、高御産巣日の神、思金の神はどうやら常世の神のようで、高天原に常駐していたのではないのかも知れません。それが、皇祖として高御産巣日の神と天照大神の二神が見なされるようになって、高天原も常世とされていったのかも。

さて、常世から降臨する天神の依り代は橘でした。

 筑紫日向小戸橘之檍原

 すくっと立った薫り高き実のなる常緑樹

小戸橘之檍原で誕生した天照大神は高天原におもむき、その後重波の帰す伊勢の五十鈴川の川上に鎮座、常宮に坐すことになりました。

高天原から降臨の天孫の依り代は高千穂です。

 筑紫日向高千穗クシ觸之峯

 高く積み上げられた稲穂

 邇邇芸命は高千穂の峯から事勝長勝長狭が国主である吾田の笠沙の御碕に行き、そこで秀起つる波穂の上で機経る少女(木花開耶姫)を見そめます。一書第三では、女神は神餞の田を狭名田と名付けています。

 波穂の上で機経る少女とは、やはり常世からの神を待つ棚機姫でしょうが、この棚機とは布を織ると云うことでしょうか。稲作には、所謂棚田が水分上でも便利であり、初期には平地ではなく、ゆるやかな山地が稲作の地だったと思われ、棚機姫とは棚陸田姫(たなばた)で早乙女であり、神餞を育てていたとも考えられます。

 阿治志貴高日子根神の降臨と下照比売の歌の「天なるや 弟棚機の 」の棚機もやはり神の依り代なのかも知れません。

依り代一覧

 タチバナ

 タカチホ

 タナバタ

 共通する「何か」があるのでしょうね。何だろう。

 降臨した邇邇芸命は塩筒翁の別名とされる事勝長勝長狭が治めていた国に行ったようです。塩筒翁とは天照大神とは橘仲間の住吉大神。その所。そこには長狭の国とか狭名田が登場します。

 高天原で天照大神が水田種子(たなつもの)を植えたのが、天狭田及び長田で、邇邇芸命と稲作との関わりの深さが見えます。

 また、今日でも住吉大社の御田植祭は重要な祭典。

 さて、前述しましたが、岩長姫は醜いと云うことで、お引き取りを願ったのは邇邇芸命の短慮で、これで天孫の寿命は短くなったとされています。その反動で、海神、海人族の娘への憧憬があり、大王の妃となっていくのです。

 天孫降臨に先導した猿田彦神は、高千穂から伊勢の狭長田の五十鈴の川上に行きます。狭長田、吾田の長屋の笠沙碕に似た名前です。

 それはともかく、猿田彦神の凄いのは、倭姫が天照大神の鎮座地としてやっと探し求めた所にとっくに先導している事です。流石です。

 豊鋤入姫は、吉佐宮、磯城、名草浜宮、名方浜宮と一時的に戻る以外は常世とのつながりの海辺を試みています。判っていたのですね。

 一方、倭姫は陸地に迷い込み、もうすぐ伊勢と云う所で琵琶湖方面へと、遠回り。二人とも母は海人族のようですね。育った地が紀の国か、大和かの海へのなじみの差かも。

常世と降臨の図は下記に

 これを見ていますと、常世は海の向こうで、その海にこの国は囲まれていること、中世の日本地図が龍がこの国を抱くように描かれていたのがありましたが、そのように守られた良い国のはずだとつくづく思います。

8.植物としての橘

 大三元さんの、「橘・考」によると、タチバナのタチとは、タチと云う木のこととされている。

参照 橘・考

 『魏志倭人伝』に、「生姜、橘、山椒、茗荷が 自生しているが 倭人その滋味を知らず。」とあります。橘はこの国自生ですが、『日本書紀』の編纂者は『魏志倭人伝を』知っていたはずですが、卑弥呼=神功皇后と考えていたのなら、景行天皇の代に橘が渡来しても矛盾はなさそう。

植物としての橘の特長

(一)橘の再生と母性原理

 多胚種で、受精による胚、受精によらない胚があり、これを蒔くと多くは受精に依らない胚が芽を出すそうです。母植物そのものを再現するのです。最先端技術ですね。古代の母系社会の象徴的植物。

(二)橘の実の代々のつならり

 橘の果実を収穫せずに置くと、次のシーズンの開花時にも、果実は落ちず、腐らずになっているものもあるそうです。昨年の黄色く色づいた果実と今年の青い果実が同じになっているとのことで、これは代代続く実としての「橙」が縁起物となったのに似ています。福嶋さんご指摘。

なお、田道間守が持ち帰ったのは橘ではなく橙との説もあるとか。

いずれにしろ、常世を象徴するにふさわしい植物との認識はあったのでしょう。

記紀などには道士の来日の記録はなさそうですね。

仮説。

(一)彼らが都市の地図に通じており、海外への出張は認められていなかった。

(二)史記に記された徐福のことが知られており、皇帝は出張を認めなかった。

(三)渡来人は道教の知識を持っており、彼らがこの国に伝達したので、強いて道士を招聘する必要はなかった。

道観らしいものを作ったのかもい知れませんが、道観と云う表現もありませんね。

一体、この国の固有信仰って切り出せるものでしょうか。

ペギラさんご紹介、葛洪著「神仙伝」

 「神仙伝橘中楽」

 中国の伝説「橘中楽(きっちゅうらく。又は、きっちゅうのらく)」(「幽怪録」より)。

 昔、巴きょう(はきょう。きょうは、工へん+おおざと)に広大な橘畑を所有している人がいました。ある年、橘の実を収穫したところ、三斗(一斗は約18リットル)入りの甕ほどもある、非常に大きな実がいくつかありました。その大きな実を割ってみると、どの実の中にも身長が一尺(約30.3cm)ほどで、眉毛も髭も真っ白な二人ずつの老人が向かい合って将棋をさして(又は、碁を打って)いました。そのうちの一人の老人が言いました。

 「橘中の楽は商山(しょうざん)の四皓(しこう)に比べても劣らぬ。ただ木の根やへたが弱かったので摘まれてしまったのだ。」

  そして、老人達は白竜に変身して空高く飛んで見えなくなりました。

  商山の四皓は、秦の時代に戦乱を避けて商山に隠遁した4人の隠士のことで、4人とも眉毛も髭も真っ白だったそうです。

 この故事から、「橘中楽」とは、将棋や囲碁の楽しみを表すようになりました。

 長寿の老人の楽しみのお話で、常世らしい物語。

 『古事談』と云う書籍に「南殿桜樹者、本是梅樹也、桓武天皇遷都之時、所被植也、而及承和年中枯失、仍仁明天皇被改植也、其後天徳四年内裏焼亡ニ焼失了、仍造内裏之時、所移植重明親王家桜木也」とあり、左近の桜は元は梅であったと記している。

 何故、梅から桜に変更したのか。吉野の桜が使われたそうだが、神仙境吉野を象徴する木であることが重要だったのだろう。海の橘、山の桜、となったのかも知れない。また共に国産種。

 三輪明神の若宮社の奈良時代の柱五本使用されている本殿(寺院のお堂)の前に、「飛鳥からの右近の橘、吉野からの左近の桜」との内容が記されて植えられています。

飛鳥の橘 多分、橘寺(門前に若木が数本植えられている。)

吉野の桜 神仙境吉野を象徴する木ですが、役小角が植えたのは伝説で、実際には、マルヤさんの「吉野の桜」によりますと、「吉野の桜が登場するのは10世紀初頭の「古今和歌集」が始め」と云うことで、神仙境吉野と桜との関係は想像するしかありません。

 で、縄文遺跡があるように古代から開発されていること、段々畑で稲作を行い、所々に桜木が植えられていたのでしょう。

 

 吉野に桜木神社 日本では18社、うち2社は木花開耶姫命が祭神。

神仙境の象徴の丹生、その色は桜?。

宝来山古墳に植えられている京都御所の木を接ぎ木した橘

 橘の機能  香りの木

 「時を翔る少女」と云う物語。ラベンダーの香りで時間を超える少女のお話です。かくの如く、匂いは人間の脳を刺激し、時には攪乱し、神懸かりにします。

 また、橘の香りは遥か昔、祖先が生まれ育った土地の香りでもあるように錯覚をもたらし、なつかしい思いをもたらします。常世への憧憬。

 魚が生まれた所に帰る、これは嗅覚の仕業、言ってみれば原初の状態に戻る-神祭りの原点-は匂いですし、日本人の故郷は橘の匂う所だったといえるかも。

 神道の禊ぎも原初に戻る為におこなわれます。従ってイザナギの命は橘の小門の阿波岐原で禊ぎ祓へを行ったのです。

 『古今集』夏歌 139

 五月まつ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする

 説明抜きで理解できる歌。母性にも繋がる。乾燥橘の実を濯ぎの時に洗濯機に入れて下さい。

 また、現在の真榊は無臭ですが、往古には樒、タブ(イヌグス)、黒モジ、そうして橘などの香木が祭事に使用されたとか。 

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