田道間守

http://www.eisai.co.jp/museum/curator/mgm/030808g.html 【不老不死の霊薬】より

西暦61年、垂仁(すいにん)天皇は不老不死の薬「時じくの香(かぐ)の木の実(非時香果:時を定めずいつも黄金に輝く香しき木の実)」を入手するため、田道間守(たじまもり:多遅摩毛理とも書く)を常世の国(外国)につかわした。間守は船出して常世の国に向かい、その実のなる木を手に入れて10年ぶりに帰国した。ところが、天皇はすでに崩御された後であり、間守はその木の一部を皇后に献上すると共に、残りは天皇の御陵のほとりに植え、嘆き悲しんで亡くなったという。間守の墓は天皇陵近くの小島にある。

 閑話休題。垂仁天皇は153歳(『日本書紀』では140歳)で崩御されたと記されている。また、この天皇は、7人の女性と結婚し16人のお子さんを成した。2番目の女性との間に生まれた大帯日子淤斯呂和気の命(おおたらしひこおしろわけのみこと)は天下を治めた(景行天皇)が、『古事記』には、「御身のたけ一丈二寸御脛の長さ四尺一寸ましき」との記載がある。現在の尺貫法と同じとすれば、何と背丈は3メーターを越え、脛(すね)の長さは120センチ以上ということになるが。白髪三千丈の中国に負けぬ神話・伝説の世界に嵌りそう。

 ところで、肝心な「時じくの香の木の実」に関しては、『古事記』に「是今橘也」という記述があることから、後世の人はタチバナとしているが、清水藤太郎先生・田中長三郎先生は、タチバナは当時すでに日本に野生しており、しかも、その野生区域は奄美大島以南にはなかったと主張されている。間守が持ち帰ったのは、もっと有用な薬用植物ではないかと想像されるが、実際には特定されておらず謎のままである。

 古来より、特に時の権力者たちは、「不老不死の霊薬」を追い求めてきたが、未だに出現していないし、将来、発明または発見されるかどうかを予測することも難しい。しかし、果たしてそんな霊薬があってよいのかという素朴な疑問にぶつかる。少なくとも自然の摂理には反することである。

 人の平均寿命は確実に延長しており、特に日本人の伸長が著しい。食生活や生活環境の向上が寄与していることは事実であるが、医薬品が果たした貢献度も決して小さくない。かつては不治の病といわれた肺結核も化学療法剤の出現で殆ど完治するようになった。今後、悪性腫瘍や認知症などに対しても、より有用性の高い医薬品が続々と開発されることは間違いない。そのことと「不老不死の霊薬」とは別次元の問題である。人も何十年も使えば部品が傷んでくる。多少部品の傷みがあろうと、「有病息災、心身ともに健やかに(?)老いて天寿を全うする」ことで納得すべきであろう。


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【田道間守の解説】 より

田道間守たじまもりの忠心

日本書紀の垂仁天皇条によると、垂仁天皇九十年の春二月庚子(こうし)朔日(一日)に天皇を命を受けて常世の国に非時香菓(ときじくのかくのみ)と呼ばれる珍しい食べ物をとりに出発しています。

所が、その旅はとても大変であり何年もかかってしまいました。そうしているうちに垂仁天皇は御年百四十歳で垂仁天皇九十九年に崩御してしまいます。

その次の年の春三月に田道間守は常世の国から非時香菓を八竿八縵(やほこやかげ)持って帰ってきました。

前年に垂仁天皇が崩御した事を聞いた田道間守は嘆いて大変悲しみ、常世の国から持ち帰った非時香菓を半分(四竿四縵)づつに分けて大后に献上し、更には自ら垂仁天皇の御陵に赴き残りの非時香菓の半分を捧げ叫び嘆き自ら命を絶ちました。

常世の国はどこか?

仏教が入ってきて定着した奈良時代後半には浦島伝説の形で常世の国や、海神之宮(龍宮)が理想化されていました。

所が、『浦島物語』でも見る事が出来る様に浦島の赴いたと言う場所が蓬莱山であったり、常世の国であったり、海底の宮殿であったりとまとまりません。

すなわち、日本の古代民族が意識していた夜見(黄泉)の国、海の世界などはいずれも、蓬莱であり、常世であり、海底でありました。本居宣長の『古事記伝』巻12に次のような記載があります。

「ただ何方にもあれ、この皇国を遥かに隔り離れて、たやすく往還(ゆきかへり)がたきところ」とある様に当時では簡単に行ったり来たり出来ない所を「常世」と言っていた模様です。

常世の国に関しての神話を紐解いてみますと、少名毘古那神の存在を忘れてはならないでしょう。

少名毘古那神はとても不思議な神様でした。いろいろな神様に正体を訪ねてもハッキリした事が判明せず、ようやく山田の案山子(かかし)によって正体が分かった本当に不思議な神様です。

その点からも、常世の国には少名毘古那神の様な不思議な神々の居られる世界であると認識されていたみたいです。

しかし、田道間守の赴いた常世の国は決して空想の国では無く実在の国でした。

『中外経緯伝』によると、もろこしの国にて入手した「橘」を夏を挟んで日本に持ち帰る事は不可能であり、対策として種を先ず新羅国にて植生して育たせて、次にその実を得て帰国したとあります。

その為に、十四年の年月がかかってしまいました。結果として垂仁天皇の崩御に間に合わなかったのです。この見解から、田道間守が渡った常世の国とはシナを指すといえます。

大伴家持と橘

万葉集 巻十八に次のような長歌があります。

可気麻久母 安夜尓加之古思 皇神祖乃 可見能大御世尓

田道間守 常世尓和多利 夜保許毛知 麻為泥許之登吉

時及能 香久乃菓子乎 可之古久母 能許之多麻敝礼

国毛勢尓 於非多知左加延 波流左礼婆 孫枝毛伊都追

保登等芸須 奈久五月尓波 波都波奈乎 延太尓多乎理弖

乎登女良尓 都刀尓母夜里美 之路多倍能 蘇泥尓毛古伎礼

香具播之美 於枳弖可良之美 安由流実波 多麻尓奴伎都追

手尓麻吉弖 見礼騰毛安加受 秋豆気婆 之具礼乃雨零

阿之比奇能 夜麻能許奴礼波 久礼奈為尓 仁保比知礼止毛

多知波奈乃 成流其実者 比太照尓 伊夜見我保之久

美由伎布流 冬尓伊多礼婆 霜於気騰母 其葉毛可礼受

常磐奈須 伊夜佐加波延尓 之可礼許曽 神乃御代欲理

与呂之奈倍 此橘乎 等伎自久能 可久能木実等

名附家良之母

(かけまくも あやにかしこし すめろきの かみのおほみよに

たぢまもり とこよにわたり やほこもち まゐでこしとき

ときじくの かくのこのみを かしこくも のこしたまへれ

くにもせに おひたちさかえ はるされば ひこえもいつつ

ほととぎす なくさつきには はつはなを えだにたをりて

をとめらに つとにもやりみ しろたへの そでにもこきれ

かぐはしみ おきてからしみ おゆるみは たまにぬきつつ

てにまきて みれどもあかず あきづけば しぐれのあめふり

あしひきの やまのこぬれは くれなゐに にほひちれども

たちばなの なれるそのみは ひたてりに いやみがほしく

みゆきふる ふゆにいたれば しもおけども ときわなす

いやさかばえに しかれこそ かみのみよより よろしなへ

このたちばなを ときじくの かくのこのみと なづけけらしも)

大伴家持が天平感宝元年閏五月二十三日に作った歌です。日本に「橘」が入ってきた由来や一年を通して橘が見せる風景の数々を示して、そして橘が「時じくのかくの木の実」と呼ばれる所以を歌っています。