律令制確立期・下野国の総社

https://tabi-mag.jp/tg0176/  【大神神社】より

栃木県栃木市惣社町にある古社が大神神社(おおみわじんじゃ)。惣社町という町名が示すとおり、大神神社は、律令制確立期の奈良時代〜平安時代、下野国の総社だった神社です。都から下野国の国庁に赴任した国司は、この大神神社に祀られる下野国国内の神々を参拝するしきたりがありました。

和歌の歌枕にある「室の八嶋」が境内に

もともと、諸国に総社が創建される以前は、赴任した国司は、国内の主な神社を巡り、神々を巡拝していましたが、それを簡略化するために、国内に祀られた神々を総社に集めました。

大神神社の南側3kmほどのところには、下野国庁跡があります。

主祭神は、倭大物主櫛玉命 (やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)で、大神神社(現・奈良県桜井市)からの分霊。

平将門の乱の際、平将門は下野国庁を占拠していますが、その際に被害を受けていますが、下野国、武蔵国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、乱を鎮圧した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らの寄進により再建。

戦国時代に小田原城主・北条氏直軍の戦火で焼失。

江戸時代に再建されています。

和歌の歌枕にある「室の八嶋」(むろのやしま)が境内にあり、元禄2年3月29日(1689年5月18日)、松尾芭蕉と曾良は『奥の細道』途中に立ち寄っています。

池には8つの島が浮かび、それぞれに筑波、天満、鹿嶋、雷電、浅間、熊野、二荒山、香取の各社が祀られています。

「暮るる夜は 衛士のたく火を それと見よ 室の八島も 都ならねば」藤原定家『新勅撰和歌集』。

平安時代以来、東国の歌枕として有名な地だったのです。

その「室の八嶋」、平成5年に大改修されています。

現在の社殿は、大正13年に改修されたもの。

4月中旬には馬上から弓を射て五穀豊穣を願う流鏑馬(やぶさめ)が、11月中旬には「おくるめ様」と呼ばれる童女が神事に奉仕して安産子育、醸造を祈願する『御鉾祭』(おぼこまつり)が行なわれています。


https://honcierge.jp/articles/shelf_story/5519 【5分でわかる大宝律令!内容、制定した理由や人をわかりやすく解説!】 より

大宝律令とは?簡単に説明

701年に制定された大宝律令は、刑法といえる「律」6巻と行政法や民法といえる「令」11巻の全17巻から成り立っている法律です。律は唐の律令を参考にしており、令は日本の実情に合わせた内容になっています。

完成したのは文武(もんむ)天皇の時代ですが、発端は天武(てんむ)天皇でした。681年に天武天皇が律令制定を命ずる詔を発令し、701年に律と令がそろって初めての国家基本法が成立したのです。

大宝律令はなぜ作られた?理由を解説

681年に天武天皇から発令された詔によって、まず編纂されたのは、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)です。持統(じとう)天皇の時代である689年に施行されました。この令ではまだ律はなく、また唐の律令を手本にしすぎたため日本にあまり合っていませんでした。

したがって、その不備を補うため、そのまま律令の編纂は継続されます。そして天武天皇時代の701年に日本の実情に合った念願の大宝律令が完成するのです。

では、なぜ大宝律令が成立したのでしょうか。

それは、中央集権国家の成立が必要だったから。「乙巳の変」や「壬申の乱」といった内乱がたび重なり、国を立て直すためにはちょっとしたことでは揺るがないような、権力をひとつにまとめた「律令国家」に成長することが、当時の天皇にとって取り組むべき課題でした。

また百済という外交国が滅亡し、唐・新羅が攻めてくる可能性が高くなったため、対抗するための国力が必要となり、そのためにも唐を見習って天皇を中心とした国家の体制を急速につくる必要があったのです。

大宝律令という本格的な法律を作ることは、律令国家体制の国の基礎作りでした。

大宝律令は誰が制定したの?

編纂の中心人物は、刑部親王(おさかべのみこ)と藤原不比等(ふじわらのふひと)の2人です。平城京遷都以前に完成された法律ですが、757年に養老律令が施行されるまで約50年間も中央集権国家の基礎として使用されていました。

リーダーの刑部親王は、天武天皇の第9皇子。681年に川島皇子(かわしまのみこ)とともに『帝紀』の編纂もしています。

藤原不比等は、中臣鎌足の次男であり、藤原氏の祖として地位を高めた人物です。31歳ごろ判事に任命されるという遅咲きでしたが、持統天皇の信任を得た後はめきめきと出世していきました。当時約40歳だった不比等はサブリーダー的存在として、大宝律令の制定に取り掛かります。

また不比等の娘が文武天皇との間に、後の聖武(しょうむ)天皇となる男児を産んだことで、天皇家の母方の親戚としても権力を握っていきました。その後も養老律令を制定したり、平城京遷都を中心となっておこなったりと、律令体制の確立に努めた人物です。

この2人が編纂した大宝律令によって、日本は天皇を中心とする中央集権国家へと変化していきます。

大宝律令の内容は?「律」の刑罰と「令」の政治機構、税金の種類を具体的に紹介!

今回は「律」に定められた主要な刑罰と、「令」に定められた統治機構、税金の種類について説明していきます。

「律」

笞(ち):刑の重さによって10回から50回までの5段階に分けた、細い竹の鞭でお尻や背を打つ刑罰のこと。

杖(じょう):刑の重さによって60回~100回まで5段階に分けた、太い竹の鞭や棒でお尻や背を打つ刑罰のこと。

徒(ず):1年、1年半、3年までと計5段階に分けた懲役のこと。

流(る):近流、中流、遠流の3段階に罪の重さ別に分けた、島流しのこと。奈良から今の福井県・広島付近を「近」、長野県・愛媛県付近を「中」、静岡県・千葉県・高知県・佐渡島・隠岐島付近を「遠」というように区別されていた。

死(し):絞首刑の「絞」と首切りの「斬」という2種類に分けられた死刑のこと。なかでも「斬」の方が重い刑罰にあてられ、殺人と強盗のみに限定されていた。

このほか、いくら有位者だとしても許されない重い刑罰が「八逆」として定められていました。

「令」

中央政府の組織:行政面では二官八省の官僚の体制がつくられ、その下にも細かな部署を設置し、地方政治と合わせて樹形図的な構造を築きました。

二官

太政官(八省の総括役と国政を司る最高官庁)

神祇官(太政官とともに最高官庁であり、神祇や祭事を担当)

八省

中務省(勅書の作成や官人の名帳、諸国の戸籍担当)

式部省(婚姻・喪葬・氏姓・文官の人事などを担当)

大蔵省(朝廷の財政・物価の安定の担当)

民部省(戸籍・租税の管理・国家の会計事務の担当)

宮内省(天皇や皇族を中心とした事務担当)

兵部省(武官の人事・軍事全般担当)

刑部省(裁判・刑罰執行の担当)

この8つの役所の下には、さらに職・寮・司などの小さい役所が置かれました。そして定められた形式以外のものは受理しない、正しい手続きを重視するなど、官僚体制をベースとした中央集権国家体制ができあがっていきます。

そのほか、ほかの省の仕事ぶりをチェックしたり、風俗を取り締まったりするための五衛府が設けられました。

地方行政の組織:国郡里制という単位を定め、それぞれを統治しました。

国司    郡司    里長

郡司と里長は地方豪族から選ばれていましたが、国司は中央政府から選ばれていました。そのため、地方が自由な政治を展開できることはなく、地方政治においても中央政府が強い力を握る構造は保たれていました。

また地方は、大和国・山背国・河内国・摂津国に分けた「機内」と東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の「七道」に分けました。

人民に対する税金の内訳

貴族以外の人民に対しても細かい規則が定められています。とくに税金は国家安定のための大事な収入源です。そのため、まず良民と賤民に分けて戸籍を登録し、身分を掌握することを徹底しました。

「租」:与えられた耕作面積に対して、一律に決められた稲を納める税のこと。収穫の約3%ほどでした。

「庸」:政府の命による労役の代わりに納めるものとして布や綿、塩など。

「調」:染め料や紙など地方ごとの特産物を納める税のこと。

そのほか、「義倉」、「贄」、「雑徭」なども国民に課した税金として定められていました。


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