http://reason1.jugem.jp/?eid=3008 【老子って?】より
生者は窮屈なこの世に在し死者は広大無辺のあの世に在する。
紀元前6世紀ごろの話。
インドのヨーガ行者で錬金術師のボーガナタルは師の命を受けて中国に渡ります。
自らの使命を遂行するため彼は中国人(死者)の肉体に自身の魂を乗り移して
活動を続行させます。
インド(タミル)人のボーガナタルの魂を持つ中国人は老子と称して
道教の長生術である煉丹術、外丹術を記すことになります。
ボーガナタルの魂が死者の肉体に入れたということは老子の魂が広大無辺の宇宙規模だったからなんじゃないかな。
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/itimuan/maru/old12/aya199.html 【「道の法則」】
意外なことに、直線道路を造る技術があっても長々と直線道路を造る国や集団というのは少数派のようで、わずかにカーブがかかっていたりする道の方が圧倒的に多いようです。
もちろん、高低差を含めた地形的な制約というのもあり、河川や山といった地表の障害、あるいは地下の状態などで彎曲することが余儀なくされることも珍しくはありません。
もっとも、”道”という言葉には、物理的な”通り道”という意味と、手順とか方法や見通しという意味、人として守るべきこと(道理)、専門の仕事や分野といった意味があるわけですが、”先が見えない”ことで共通しているようです。
なお、”巨人の星(梶原先生原作の野球漫画ですぞ)”で歌われる”試練の道”というのは、そういう名前の街道があるわけではなく、辛く苦しい人生を意味しているわけです。
そんなわけで、なにか一芸を極めようとするときに求道精神という言い方もされるわけですが、日本人は、柔道、剣道、・・・、華道、茶道となにかと自分がやっていることを”道”としたがるところが昔からあるわけです。
これは、道(タオ:Taoism)というか道教という宗教(?)の影響が大きいと言えば大きいかなと思われまして、孔子(こうし)の儒教(じゅきょう)よりは老子の道教の方が庶民というか一部の日本人には馴染みやすかったということかなと。
儒教と道教というのは互いにアンチテーゼになっている面がかなりあり、儒教が立場的には心霊現象を否定して理性を是とする、あえていえばキョウジュのような立場に立っているのは道教に呑み込まれないための基本姿勢かなと。
逆に、道教がまがりなりにも一つの体系というか宗教らしくなっているのは、儒教に対立するときの理論武装が必用だったことと荘子がいたからと言えなくもないかなと ・・・ ま、何事も気にしないのが”道”ではあるんですが(笑)。
道教において、老子は最高神とされ、そこから太上老君として神格化されているのですが、根本教典とされるのは「道蔵(5485巻あるらしい)」で、中でも”雲笈七籤(うんきゅうしちせん)”が比較的良く知られていますというか、名前が良く出てきます。
老子というのは通称で(その著作の名称でもあるのですが)、生没年は不詳とされていますが周(しゅう)の時代の人で、姓は李とされ、周の文書係の時に、孔子(BC551~479)に隠の道を教えたという伝説もあり、仙人とされていることも珍しくありません ・・・ 結論として謎の人です(笑)。
目指すところは神仙の世界なわけですから、権力者側からの法的規制や体制側に組み込まれた儒教の仁義道徳に関して、すべて真の道に背反する虚構の人為であるとし、真の道は無または一であるというあたりから話が始まります。
その意味で、0と1で世界を構築していくコンピュータの世界というのは、限りなく道教の世界観に近くなってくるのですが、本来は道教を含めた密教系の思想がコンピュータ誕生の歴史を調べていくと開発の根本思想にリンクしているとも言えます ・・・ いえ、まじで。
したがって、コンピュータがなんだかわからないけれど胡散臭いものだというオジサンやオジイサン達の多くが儒家の道徳が大好きだというのは、自らの世界を崩壊されかねないという本能に根ざしたモノかなと邪推しております(笑)。
道教の寺院を「道観」、専修者を「道士」と呼ぶのですが、歴史はハッキリしていないにもかかわらず、実践教団として五斗米道、太平道、全真教などなど中国の歴史が乱れたときに姿を現すことが珍しくありません。
道教は、今なお民間で根強く信仰されている関帝(かんてい:三国蜀の武将関羽を信仰。孔子の文廟に対し武廟)、娘娘(にゃんにゃん)、庚申(こうしん)といった信仰や、日本の陰陽道にも多大な影響を与えています。
萌え系の人の為に書いておくと、中国民間信仰の女神の総称ともいえる”娘娘”という呼称は、広義の女性も意味しますが、天母(泰山)娘娘、聖母(天后)娘娘をトップに、実働部隊に当たる送子娘娘、子孫娘娘、財福娘娘、眼光娘娘などが該当します。
したがって、例えば”人の道”とかいった用法で、道に規則とか制限とかいった意味合いを持たせるのは儒家の理屈であり、本来の道家の思想とは乖離したものということになるわけです ・・・ 理論上は(笑)。
流れに規則があるとするのが儒家ならば、流れに規則はあるようでないというのが道家ということで、一時的に固着することはあっても万物は千変万化し流転していくのが世の本質であると説くのが老荘思想と言えなくもないかなと ・・・ こう定義すること自体が野暮なんですが。
そんなこんなで、”道”という漢字を使う言葉は多いのですが、その中でも”道化師(a clown; a buffoon; a fool)”という言葉は字面と意味するところの関連が良くわからないことの筆頭かなと。
もっとも、道化は道外とか道戯とも書くので、道教思想を踏まえた上で、道から外れたことをするとか、道で戯れる、道で化かすと解釈すると、なんとなく意味が分かるかなと。
奇妙なことに、道化師に愚者(a fool)という意味を持たせる言語が多く、単に人を笑わせる芸人とでもいった意味だけではない事が珍しくありません。
これは、”愚者=人として道を外れたことをやっている者”とでもいった意味があるためですが、”人として道を外れたことをやっている者=錬金術師”という解釈も一部ではあります。
世間一般の常識で、鉛や石炭の類を金に変えることができると考えている人が錬金術師や愚者と呼ばれるのはまだ幸運な方で、詐欺師とか精神を病んでいると言われても仕方がないところがあります ・・・ 人類の歴史は詐欺とペテンに満ちていますから。
ただし、世間一般の常識とされるものも結構いいかげんなモノや現実から乖離していることが多いことは、ここまでの怪しい話の中でさえ幾つかネタにしています。
この世にしてもあの世にしても突き詰めていくと、混沌(カオス)としてわけがわからなくなってくることが多いのですが、突き詰めて考えないで、ただそうなるというのが”道”かなと。
http://tao-academy.jp/laozi/ 【老子・荘子に学ぶ】 より
温暖化現象、原子力発電への危機感、遺伝子組み換え食品への不安・・・。
人類の未来への不安に、答えをくれるのが、紀元前に中国で完成された「道TAO」の思想であり、「老子道徳経」の哲学なのです。
老子は、自然の一部として、自然のありのままにいなさい 天地自然の流れのままに生きなさい、もっと言えば 天地自然のありのままの存在でいなさい。ということを提唱しています。
人生を最高に生きる老子の言葉
老子には、5000文字で最も幸せな生き方が説かれています。
「自分」などというものを すべて忘れて 天地自然のままに生きられたら それが最も人間にとって幸せな生き方なのだ と説いているのです。
たった5000文字でどうやって説くかということは 説明をしてしまったら 5000文字どころか 何十万字をつかっても難しい。
そんな内容を たった5000文字であらわした老子。
深い哲学を ただ数十文字であらわしているので、その理解の仕方については,それこそ沢山の解釈が生まれたのです。
ですが、私達が生かされているこの地球も、そしてそこに住む私達人間、そしてあらゆる生物、すべての存在が、この宇宙に貫徹している原理原則であるタオ(TAO=道)に添って動いていることを知れば、タオを学ぶことがどれほど大切であり、またそのタオの法則を知ることによって、人生が楽しく豊かに生きられる理由が分かっていただけることでしょう。
そこで、タオの根本思想である『老子道徳経』を学んでみましょう。
http://www.tt.rim.or.jp/~ogiue/essay/math.html 【「無用の用」と「不易流行」】より
『老子』に「無用の用」という概念があります。一見役に立たないと思われるものが実は大きな役割を果たしているという意味です。『荘子』にも同じ趣旨の話があり、次のような問答が載っています。
恵子「あなたの話は役に立たない」
荘子「無用ということを知って、はじめて有用について語ることができる。大地は広大だが、人間が使っているのは足で踏んでいる部分だけである。だからといって、足が踏んでいる土地だけを残して周囲を黄泉まで掘り下げたとしたら、人はそれでもその土地を有用だと言うだろうか」
恵子「それでは役に立たない」
荘子「一見役に立たないように見えるものが実は役に立っているということが、はっきりしたであろう」
激動の時代を生きていく上で是非覚えておきたい言葉がもうひとつあります。「不易流行」:松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の間に体得した概念です。「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」即ち「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない」、しかも「その本は一つなり」即ち「両者の根本は一つ」であるというものです。「不易」は変わらないこと、即ちどんなに世の中が変化し状況が変わっても絶対に変わらないもの、変えてはいけないものということで、「不変の真理」を意味します。逆に、「流行」は変わるもの、社会や状況の変化に従ってどんどん変わっていくもの、あるいは変えていかなければならないもののことです。「不易流行」は俳諧に対して説かれた概念ですが、学問や文化や人間形成にもそのまま当てはめることができます。
人類は誕生以来「知」を獲得し続けてきました。「万物は流転する」(ヘラクレイトス)、「諸行無常」(仏教)、「逝く者はかくの如きか、昼夜を舎かず」(論語)、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(鴨長明)など先哲の名言が示すように、森羅万象は時々刻々変化即ち「流行」しますから「知」は絶えず更新されていきますが、先人達はその中から「不易」即ち「不変の真理」を抽出してきました。その「不易」を基礎として、刻々と「流行」する森羅万象を捉えることにより新たな「知」が獲得され、更にその中から「不易」が抽出されていきます。「不易」は「流行」の中にあり「流行」が「不易」を生み出す、この「不易流行」システムによって学問や文化が発展してきました。一人ひとりの人間も「不易」と「流行」の狭間で成長していきます。
昨今は、「不易」より「流行」が重視される風潮が顕著です。社会、特に企業からは「即戦力になる人材」や「直ぐに役に立つ知識」が期待されるようになりました。しかし、「即戦力になる人材」は往々にして基礎がしっかりしていないために寿命が短いことが多く、「直ぐに役に立つ知識」は今日、明日は役に立っても明後日には陳腐化します。
激動する現代、目先の価値観にとらわれ、短絡的に実用的なものを求めがちですが、このような時期だからこそ「無用の用」や「不易流行」の意味をじっくりと考えてみたいものです。
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6734317/ 【老子のお話】
http://www.career.otofuku.com/?p=1876 【友田不二男(3):芭蕉と漱石】
時間と人間:
私は、芭蕉が開拓し創造した俳諧一世のいわゆる“蕉風俳諧”─ は、実質的には“江戸時代のカウンセリングである”と思っておりますし、機にふれ折につけてそのように申してきてもおります。ために一部の心理学関係者などから異端視されたり、“言うことが極端だ“と怒られたりもしてきておりますけれど、たとえなんと言われようと、私は現にそう思ってしまっているし、そう思わざるを得ない体験を重ねているのですから、これはどうしようもありません。
次の“芭蕉”の項に移らせて頂きますが、端的に申し上げまして芭蕉は、荘子とは切っても切れない密接かつ、強力な関係にあった人物であります。この関係はたぶん、江戸に下ってからできたものだろうと思います。実を申しますと、芭蕉の年令は、かなり不確かなものなのであります。“年令よりもズッと老けていた”という伝えもあって、─ とにかく芭蕉という人は、プライベートなことはおよそ判らない、ハッキリしないのであります。現代を基準にすれば、“きっとハッキリさせにくいようなことなり事情なりがあったのだろう”と思わないわけにはゆかないくらい、ハッキリしないのであります。そしてそのためにも、“芭蕉忍者説”が面白オカシク取り沙汰されたりもしているわけです。しかし、それはそれとして、ハッキリした証拠にもとづく限りでも、“芭蕉と荘子との関係はまことに緊密であった”ということは確言してよいでしょうし、さらに思い切って言えば、“芭蕉の芭蕉たる所以の本領・真面目は、荘子を読破・読了することによって具現されることになった”とさえ言っても、おそらく過言ではないでしょう。
ここで話が少々方向を転じますが、私が“芭蕉と漱石”に関心を寄せた契機はホカではなく、“老荘との関係”からでした。老荘を読みこなした先達として、その“読みこなした老荘”が、ご両人のその後の人生と実績とにどのようなかかわりがあったかに、強くかつ大きい関心を覚えたからでした。そして、私のその辺の関心は、“5~6年を予定すれば一応充足されるだろう”と思って、私はまず、芭蕉のほうから取りかかったのでしたが、芭蕉に取りかかった私はいくばくもなく、スッカリ慌ててしまったのでした。“迂闊”と言えばなんともなんとも迂闊なことで、それ以前の私は、“日本に俳諧というものがあっだことを全然知らなかったのでした。のみならず、書物を介して一通り俳諧のことを知るに及んで、“これは大変、曲りなりにもその神髄に触れて4人に語れるようになるのには、少なくとも10年はかかるな!”と思わざるを得なかったからであります。
この種の私の動きは、初めに申し上げました私の、“カウンセリングに挺身しようと思い定めた時の動き”と全く軌を一にするものです。“要領が悪い”と言えばまことに要領悪く、“不器用゛と言えば実に実に不器用な話なのですが、活字を介して判ったことが、私には、“判った!”とならないのです。いえいえ、そうじゃあなくて、“判った!”がまさに“判った!”となって、そこで、“自分に果たしてやれるかどうか?” “自分かやっても同じことになるかどうか?”を、どうしても実践的にたしかめずにおられなくなってしまうのです。“俳諧のこと”をー応知った私は、ここで自分の予定・計画を大幅に変更して、ともかくも体験的に納得ゆくところまで実践することにしたのでした。
次に“漱石”ですが、只今申し上げたような事情・成り行きから、スッカリ取り組むのがおくれてしまいました。のみならず今日は、一応項目を別にして“夏目漱石”関係の資料をまとめておいたのですが、いよいよ時間が乏しくなりましたので、話がゴタゴタすることでしょうが“芭蕉と漱石”を一括して愚見申し上げます。
まず最初に、この両人について最も強くかつハッキリと私に記銘されましたことは、すでに申し上げましたように芭蕉が“徹底的に荘子に傾倒したのとは反対に、漱石は徹底的に老子を批判し否認してかかった”ということです。前者についてはその一端をお届けして先刻ご覧頂いた通りですが、“老子の哲学”と題して執筆された漱石の論文─ と申しましても、これは学生時代に書かれた単位修得のためのレポートですけれど、─は量が膨大でコピーするのが大変であるばかりでなく、今の人々には簡単には読めそうにないと思われる充実した内容で、“ほんとうにこれが学生の単位論文か?”と思われるような代物─ と申しますのは、漱石は、大学に入学する前は言わば“漢文専攻”で、英語は大嫌い。“大学へ入るためには英語をやらなければいかん”と言われて、一応英語の勉強をすることにしなから、しかし実際は英語を勉強せず、二松学舎のほうに秘かに通い続けていたくらい。そのような漱石の論文ですから、いわゆる“素人”に安易に歯が立つものではありませんので、資料からは割愛いたしましたけれど、しかしこの論文も“漱石全集”には必ず収録されているハズですから、関心のある方は是非とも眼を通しておいて頂きたいと思います。重ねて申しますが、その論文は、ほんとうに徹底的に、一文字通り“完膚無きまで”に、老子を批判・否認したものなのであります。常識的・世俗的レベルで論評すれば、あるいは、“それは若さ故の勇み足だったのだ”と言えるかもしれません。あるいは、世のいわゆる“明治維新”で、この“日本という国”が存亡の危機に直面させられなから、とにもかくにも日清・日露の両大戦に勝利を収めて、国家主義的思想はいよいよ興隆する一方の時代でしたから、そのような国家的・社会的風潮に若い日の漱石も押し流されていた、と言うこともできるでしょう。しかし、理由はどうであれ、その漱石の作品はその後、回を重ね題目を改めるにつれて、次第々々に老荘へと傾いてゆくことは、すでに多くの人々によって読み取られているところでしょう。
ヴァレリーは言っております、─私の好きな、忘れることのできない言葉ですけれど、─ “われに反対するものは、われに賛成するものと等しくわれの味方である。沈黙こそ最大の敵である”と。現実の世界では、“反対する者”は直ちに敵視されるのが普通ですけれど、そもそも関心のないところには賛成も反対もないわけで、“反対する”ということはつまり“関心がある”ということですし、“より一層の前進・建設を強く望んでいる”ということです。この辺のことは、俗っぽい言い方をすれば、“来談当初抵抗するクライエント”との接触を通して痛切に体験されているところでもありますが、それは一応それとして、“芭蕉と漱石”は、一見、正反対の方向に向かってスタートしたかのような様相を呈しながら、実は同じ方向をめざして邁進していた、と言えるのであります。
これを端的に申しますと、両人とも、“時代を先取りした大変な先覚者であった”ということになります。早い話が、まずは“芭蕉のおくのほそ道”ですが、この紀行文の書き出しは、大ていの方々がご存知であろうように次のようになっております。
“月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり”
私の記憶に誤りかなければ、中学時代(旧制)に習った時にはたしか、“行き交う人もまた旅人なり“となっていたハズで、“定住者は一見旅人ではないようだけれど、実態的には旅人なのだ”というように説かれて、次の“水の上に舟を浮かべ云々゛とつなげられていたハズでした。それが、老荘との関係から改めて読み直すことになってみると、なんとなんと“行き交う年もまた旅人なり”となっていましたので大いに慌て、何冊かの本について確かめましたけれどこの点に触れた解説書に出会えず、国学院時代のいわゆる“教え子”で、─私はおよそ“教える”というようなことをしませんでしたので、“教え子”という言葉は使えないのですけれど、今は便宜的に使わせて項いて─ 今では高校の国語の先生になっている者など何人かに問い質してもみたのですか、全く要領を得ません。そうした中で“最も誠実”と思われる返事は、“ここのところは触れないで素通りすることにしている”というものでした。“そうなんだろうなァ!”と、今では私も思っております。そして私自身は、萬葉集を読んだ時に直覚した柿本人磨呂の句、─ 人磨呂が軽宮(かるのみや)に成り代わって詠んだ句、
日並皇子(ひなみしのみこ)の尊(みこと)の馬並(な)めて
御狩(みかり)立(た)たしし時は来向(きむこ)う
で納得しております。“時間”という概念は、─ “は”でなくてほんとうは”も”─ ですけれど、─ まことに厄介な概念で、私どもは“時計”を基準とし“暦”によって、全く機械的に“時間の正体”を決め込んでしまっておりますけれど、─ そしてまた、いわゆる“ニュートン物理学”によって時間や空間も、“人間とは無関係に(つまり客観的に)実在する”と信じ込んでしまっておりますので、これを否認して新しい時間観を了解し習得することは、不可能なくらいに困難になっておりますけれど、もしもここで、
(イ)現に生きている人間を離れて何もない。
(ロ)今日なお一切が、少なくとも基本的・根底的には、現に生きている人間との関係において、現に生きている人間の便宜のために設定されている。
ということを容認するならば、新しい時間観も習得・理解することができるのではないでしょうか?ズバリ申し上げて、芭蕉の“行き交う年もまた旅人なり”は、その時点までに彼が、“時間というもの”に関して、─ ということは“空間というものに関しても”ということですけれど、─ 今日の素粒子物理学者が問題にし始めている問題をすでに意識的・自覚的に問題にし、かつ、その問題を行動的に立証し遂行していたことを明示する証拠である、と言ってよいでしょう。
このことは、“漱石”もまったく同じで、“夏目漱石”の項のところにほんの断片を掲げておきました彼の、“文芸の哲学的基礎”を読まれるならば、彼のその“先覚性”は容易かつ十分に納得ゆくのではないでしょうか?正直、私など、そのような“漱石の先見性”など皆目読み取れず、“猫”や“坊っちゃん”を読んで”面白い” “面白い”とゲラゲラ笑い、ちょっと厄介そうだとサーッと読み流して、─ ではない“見流しで、きてしまいましたが、改めて彼の作品や講演の記録など読み直し辿り直してみますと、“漱石という人”がハッキリと浮かび上がって、生き生きと活動し躍動するのを覚えます。そして今日、“非指示的”だとか“クライエント中心の”だとか言っていることは、実は、漱石が明治時代に既にハッキリと叙述してもいたことを知り、驚くやら申し訳なくなるやらなのであります。
少々余計なことかもしれませんが、皆様方の中にはあるいは“漱石のこと”などほとんどご存知ない方もおられるかとも想いますので、少こしく彼の一面・片鱗をこの機会に申し上げておきたいと思います。
多くの方々がすでにご存知であろうように、彼・漱石は、熊本の高等学校─ もちろん旧制の、いわゆる“五高”ですが、─ に在職中、文部省から派遣されてイギリスに留学しております。彼はある日、校長から呼ばれて、“文部省から問い合わせがあってしかじかかくかく……”と留学の件を伝えられますと、彼は言下に“自分は行きたいとは思わない。自分よりも適任の人物がいるだろうからそういう人にこの話を回して下さい。”と応じたそうで、これはたぶん、校長には意外だったのでしょう。“なんだ、君は、行きたくないのか?”と念を押すように言ったトタンに校長は、漱石からピシャリとやられております。“私は‘行きたいとは思わない’と申し上げたので、‘行きたくない’とは言っておりません”と。“漱石という人”が、どんなに“言葉というもの”を大事にしていたか、─ つまり、“言葉を大事にする”ということはすなわち“人間を大事にする”ということですけれど、─ それは、この、今日に伝えられているごくごく簡単な一事からも読み取れることでしょう。そうして、このことが読み取れる人ならば、この漱石の一言に類するタイプの発言が、官僚主義的・統制主義的な管理者にどのように響くかも、容易に察しられることでしょう。校長は、ここで、“行きたいの行きたくないのという、そういう勝手は許さん!!”ということで、“学校としては支障ない”旨を文部省に報告したわけです。
そこで漱石は、直接文部省を訪れて学務局長・上田萬年に会っております。上田萬年という人は、“いずれは文部大臣確実”などと取り沙汰されていた人物ですが、この人に漱石は、“自分は今、なんの不自由も不都合もなく英語を教えているので、英語の勉強にイギリスに行く必要を全然感じない。今の自分に関心があり、現に力と時間を傾けているのは“英文学’なので、特別必要としているわけでもない英語の勉強のためにイギリスまで行くのなら、その時間とエネルギーを日本にいて英文学の研究に注ぎたい”とハッキリ伝えております。と、そこで上田局長は、“文部省は‘英語の勉強をしてこい’と言ったからといって、‘英語の勉強以外のことは何もしてはならん’などとは言っておらんよ。人間、眠る時間も必要だし食事の時間も必要だ。‘英文学の研究をしたい’というのなら、そこは自分の工夫と努力でいくらでもその時間を生み出せるだろう”と。この言葉に接して漱石は、渡英を即決したわけですが、漱石にすればまさに“言質を取った”という思いだったのでしょう。彼は、渡英第1年目にはちゃんと、“英語の学習計画”を文部省に書き送っておりますが、2年目に入るとそれを送り届けておりません。“文部省から命じられた英語の勉強は、自分は、1年間で済ませてしまいました。2年目は、自分の努力と工夫で生み出した自分の時間だから、文部省に届ける必要はない”というわけだったのでしょう。このことも、漱石が帰国を命じられる一因となっていたようですけれど、それはともかくとして漱石が、“自分のしたいことをハッキリと自覚し遂行していた”という、首尾一貫した、今日のカウンセリング用語で言えば文字通り“自己一致”した人間であったこと、この辺からも十分に窺われることでしょう。
これが、もっとハッキリと徹底するのは帰国後で、“漱石発狂説”が何者かによって文部省に内報され、文部省から届く留学費を可能な限り書籍購入に当て、乞食のような見すぼらしい姿でロンドン市内を歩いたりする彼の振る舞いは“大日本帝国の名誉と威信にかかわる”ということで、彼は帰国を命じられるわけですが、帰国した彼は東京に留まっていて熊本に戻りません。私に言わせれば彼は、“漱石発狂説”を逆手に取って、“精神病者がそのまま任地に戻ってもなんの役にも立つまい。それよりも病気を治すほうが先決で、病気を治すためには東京に留まるのが一番よい”というわけで、知人を介して呉秀三という日本の精神医学界の草分けとも言うべき人に手紙し、“精神病だという診断書を書いて欲しい”と要請しております。そしてとうとう、熊本には戻らないで東京に留まり、やがて東大や東京市内の私立大学の教壇に立ちながら、そしてまた小説を書いたりもしながら、“文学論”の完成に力を傾けたわけであります。このような彼の行動は、見方によれば“己れの目的・野望を遂げるためには手段を選ばずだ”とも取られましょうが、─ そしてまた、ご子息の伸六氏や一部の精神科医が言明してもいるように、“漱石狂人説”も現に在りますけれど、私に言わせれば漱石は、まさに、荘子のいわゆる“成心ヲ師トス”を地で行ったのではないでしょうか?現代の“欧米主導医学”の概念で診断すれば、荘子の“其ノ成心ニ随イテ之ヲ師トス”は、言わば“神がかり”ないし“狐つき”同然と解されることでしょうが、言わば“極限的な状況”にある人間について、その人間が、荘子のいわゆる“成心”に随って振る舞っているのか、それとも“神がかりの神”に導かれているのか、あるいは“狐つきの狐”に化かされ踊らされているのかを識別するのは、おそらく不可能に近いくらいに困難なことではないでしょうか?
このような問題に取り組むと申しますか、このような問題を問題とすると申しますか、とにかくなんらかのご参考にはなろうかという気もしますので、“文芸の哲学的基礎”の一トコマを取り上げてみましょう。
“此世界には私と云ふものがありまして、貴所方(あなたかた)と云ふものがありまして、さうして広い空間の中に居りまして、此空間の中で御互(おたがい)に芝居をしまして、此芝居が時間の経過で推移して、此推移が因果の法則で纏められて居る、と云ふのでせう。(中略)所が能く能く考へて見ると、それか甚だ怪しい。余程怪しい。通俗には誰もさう考へて居る。私も通俗にさう考へてゐる。然し退いて不通俗に考へて見るとそれか頗る可笑しい。どうもさうでないらしい。何故かと言ふと(中略)此私の正体が甚だ怪しいものであります。云々”
と。現代においては最後の、“私” “僕” “自分”という、いわゆる“一人称”で呼んでいる人間の正体について、“甚だ怪しい”と意識し自覚している人、あるいはしたことのある人、は、明治の時代とは比べものにならないくらいに大勢いるだろうと思いますけれど、今で言うところの“芸術大学”というような、言わば“先覚的な優秀な学徒”が集っているところだから支障はなかったでしょうけれど、もしもこれが“世間一般”というようなところで言われたとしたら、“明治40年”という時代にあっては、それだけでもう異常者扱いする人々が出たのではないでしょうか?早い話が、“私というのは連続してゆく意識に与えた便宜上の呼称に過ぎない”と言われては、21世紀を目前にする現代に在ってもそのままでは肯けない人々が大勢いるのではないでしょうか?─ “ましてや明治40年という時代には……?”と問うと、問うだけで想い半ばに達するのではないでしょうか?(漱石自身の“断り書き”によると、この講演記録は、活字にされるのに先立って大巾に書き改められているようです。勝手に想像すれば漱石は、壇上に在っては参会者の様子や反応や雰囲気を敏感に感受しながら、アレコレ配慮しつつ語っていたのではないでしょうか?)
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