殺生石(せっしょうせき)の伝承

http://nasukougen.web.fc2.com/meisyo/sesyoseki/sesyoseki.html 【殺生石(せっしょうせき)の伝承】より

殺生石は、玉藻の前に化けた九尾の狐が、人々に災いをもたらす毒石となった物語です。

九尾の狐は日本全国有名な話ですが、あくまでも伝承又は伝説であり史実に基づいた話ではありません。

(天竺(インド)や唐(中国)そして日本において妖力を使い、美しい女性に化けて権力者をたぶらかして悪業をはたらき、国を滅ぼすという国際的な国賊狐です。)

(確証はありませんが、「玉藻の前」の原形となったとされる史実は皇后美福門院(藤原得子ふじわらの なりこ)を読んでみてください。)

伝承は大きく分けて2つになります。

生前が「九尾の狐」の物語であり、死後が「殺生石」の物語となります。

歴史的には室町時代に登場し、その後謡曲「殺生石」が書かれ、江戸時代には歌舞伎等などで上演され、日本国中に知られるようになりました。

狐一匹に8万の大軍を編成し、あんなに苦労して退治したのに、現在では「那須町観光大使」としてゆるキャラ「きゅーびー」くん♂か、ちゃん♀か私にはわかりませんが心を入れ替えて蘇生したようです。

(朝廷の命(いわゆる勅命)により、命がけで九尾の狐を退治した上野介広常、三浦介義純(衣笠城主 現神奈川県横須賀市)はあの世で成仏できるのでしょうか?)

地方創生をゆるキャラやB級グルメで救えると思っているわけではないと思いますが、どこかのコンサルに丸投げするとこんな訳の分からないものができてくるのでしょうね。

九尾のきゅうちゃんでは訴えかねられませんから、ま、ここいらでしょうがないすっかね。

紐付の補助金もいいのか悪いのか考えもんです。

AppleやGoogleのような会社がで日本に出来ないのがよくわかります。

平成26年3月18日に「おくのほそ道の風景地」 国指定名勝

昭和32年1月29日 「栃木県指定文化財」と二重の指定を受けている那須を代表する観光名所になっています

 その他にも「とちぎの景勝100選」に選ばれています

歌川国定による名画で、「玉藻の前」が正体を見破られまさに、那須へと逃げる瞬間

「玉藻の前」と「白面金毛九尾の狐」は浄瑠璃や歌舞伎の人気演目だったそうです。

この浮世絵は歌川国定による名画で、「玉藻の前」が陰陽師安倍泰成に正体を見破られ、まさに那須へと逃げる瞬間を描いたものとされます。

三国伝来の妖怪が「玉藻の前」に扮し、宮中に潜み亡国の悪業を企ていましたが、陰陽師・安倍泰成(安倍泰成は安倍晴明の子孫)に正体を看破され「我は野州那須野原に走り去らん」の怪語を残し空高く舞い上がるのを描いたものだと推測されます。

(上の歌舞伎絵「三国妖婦伝」「早稲田大学演劇博物館」に所蔵されており、左が陰陽師安倍泰成です。)

那須湯本にあるこの一帯は賽の河原と呼ばれ、荒涼として不気味な雰囲気がある場所である。(伝承を知らないと、ただの石ころだらけの臭い場所になります)

これが殺生石で輝石安山岩 Andesite(きせきあんざんがん)です。

「玉藻の前」と「白面金毛九尾の狐」の伝説

松尾芭蕉が玉藻前の話に興味をしめした通り、江戸時代に九尾の狐の伝承は謡曲などで日本国中に広まっていました。

松尾芭蕉は那須に来る前の黒羽滞在中、黒羽に住む門弟の鹿子桃雪(黒羽藩 城代家老 浄法寺図書高勝)を訪ねましたが、その折近くにある「玉藻稲荷神社」を訪れています。

ネッシーがいるかどうか?などより遥かに作り話ぽいですから本当に存在したと思っている人はいないと思いますが,,,,一応ね。

しかしネッシーはエライね、あれだけ沢山の「私は確かにミタ」という嘘つきがいても誰も怒らない。

誰も行かない僻地を世界で最も有名な観光地の一つにしてしまいました、那須も「九尾の狐」捕獲に10億円ぐらいの懸賞金をかけたら盛り上がるかもね。

「きゅーびー」がつかまっちまうか。

史実と伝承や伝説というのは別のものと解釈するのに最も身近な例でいいますと、テレビでお馴染みの「水戸黄門」が上げられると思います。

諸国を漫遊し、悪家老を懲らしめたり、お家騒動を解決した物語ですが、実際の徳川光圀は権中納言(唐名を黄門)という高い身分であったのは事実ですが、生涯に領国の常陸の国と江戸の往復以外は日光と房総、それにたった一度鎌倉の八幡宮に参拝しただけでありますから、史実とは随分かけ離れたイメージが創られた良い事例だと思います。

(徳川光圀が天下の副将軍と呼ばれた所以は、将軍に万が一があった場合次将軍が決定するまで政務を司る権限をもっていました。これは水戸藩だけの特権で水戸藩には参勤交代の義務がなく、常に江戸に詰めていた処から副将軍と呼ばれました。)

また横溝正史さんの1950年の名作「犬神家の一族」の舞台となったのは那須市という架空の町でした。

ネス湖ならぬ那須湖や金田一耕助が泊まった那須ホテル、那須警察署など皆架空のものです。(那須町には駐在所しかありませんから捜査本部を設置しようがありません)

兵庫県の神戸出身の横溝正史さんにとっては、戦後まもない時代の信州も那須もあまり区別がつかなかったのかもしれません。

そのような意味でいいますと、史実として信用性の高い実話として、「玉藻前」のモデルは、鳥羽天皇に寵愛された皇后美福門院(藤原得子ふじわらの なりこ)ではないかといわれています。

類まれな美貌の持ち主と伝えられており、長承三年(1134年)頃、鳥羽上皇に召され、大いに寵愛されたようです。

摂関家(関白)などの名門出身でもない彼女が、権勢をふるって自分の子(近衛天皇)や猶子を帝位につけるよう画策して、崇徳上皇や藤原忠実・頼長親子と対立して、保元の乱を引き起こし、更には平清盛の武家政権樹立のきっかけを作った史実が下敷きになっているともいわれています。

日本の歴史上でも特筆すべきオドロオドロした人間関係は、昼メロなど爽やかな恋愛ドラマに見えてしまう程強烈です。

文明社会の現代でも、背景にある複雑で陰湿な人間模様は、知れば知るほど恐ろしい話ですから江戸時代では相当なインパクトがあったと思います。

この時代女性の詳細などほとんど残されませんから、藤原得子は特別な存在だったと思います。

ゲームやホラー映画などを見過ぎた我々には今や地味とも思われる妖怪としての九尾の狐ですが、歴史を紐解き人間模様としての玉藻の前=藤原得子として考えればいまだ恐怖の存在です。

保元の乱は朝廷の権力争いが武家によって解決された乱ですが、保元の乱を引き起こした玉藻の前のモデルとされる藤原得子だけでなく崇徳上皇の怨霊も現在でも有名です。

殺生石は中国の神話にでてくる九尾の狐を元としていますが、一つの物語ではありません。

長い間に山を転がり落ちる石のように、回りにある説話を巻き込みどんどん成長しました。

殺生石の有名なエピソードの多くは、いろんな時代に付け加わっていったのだと私は思います。

「天網恢恢疎にして漏らさず」という教訓なのかもしれません。

松尾芭蕉の足跡

松尾芭蕉が訪れた事でも有名な場所です。松尾芭蕉がこの地を訪れ那須で2泊しています.。

元禄2年(1689年)の新暦6月5日と6月6日。

明けて6月7日、那須温泉神社を参拝した後殺生石に立ち寄っております。

那須湯本に来たのは玉藻前(たまものまえ)の殺生石を訪れるのが目的だったようですね。

悪業を重ねてきた九尾の狐の、最期の胸に去来したものが何であったのか知りたかったのかもしれません。

314年前、松尾芭蕉が来た時はすでに梅雨入りしていたと思います。

随分長雨に祟られて、黒羽には「おくのほそ道」道中最長の14日間滞在しています。

本来は6月4日に那須に来る予定でしたが、雨の為一日順延したようです、数日に渡り天気が悪く那須連山は見ることができなかったようです。

殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。

緑の草も赤く枯れ、芭蕉も殺伐とした光景の中に無常を感じているような気がします。

玉藻の前の得体の知れない恐怖も感じたのかもしれません。

芭蕉の句碑

石の香や夏草赤く露あつく

「おくのほそ道」より

残念ながら、句の方は推敲(すいこう)の段階でボツになってしまったようですが、本句は曾良日記に記されたものです。

この後午前8時頃那須湯本を出発して、那須町の池田から漆塚を通り、芦野の遊行柳を訪れております。

昔程ではありませんが、今でも有毒ガスがでています。(硫化水素ガス)

殺生石付近の地温は80〜90度と大変高く、発生する硫化水素ガスは空気より比重が重いため、殺生石のような谷間の窪地には溜りやすい性質を持っています。

硫化水素ガスは、複数のトイレ洗浄剤を混ぜあわせると発生したり事故の多いガスです。

特徴的な卵の腐ったような臭いがしますが、嗅覚を麻痺させてしまう作用もありますので、気付かずに手遅れになったりする危険な有毒ガスです。

芭蕉が詠んだように、本来緑の草が赤く変色しただけなく、硬貨なども、このように変色してしまいます。

江戸元禄時代に硫化水素ガスなどという概念は無かったでしょうから、明治の俳人麻布が「飛ぶものは雲ばかりなり石の上」と表現したように、玉藻の前の恐ろしい、得体の知れない霊力によって石から毒気が出て、生きとし生けるものはすべて殺されると信じられていたのでしょう。

古くは芭蕉の句とされていた時期もありましたが、現在は越中の麻布の作と分かっています。

以前は富山の売薬宝丹の発売元、守田宝丹が書き、明治20年頃建てられた大きな石碑がありましたが現在はありません。

BeNasu 那須高原の歩き方、那須殺生石

那須殺生石(せっしょうせき) 玉藻の前稲荷

一人でこの道を歩いていると、玉藻前(たまものまえ)にどこか茫漠とした知らない世界に引きずり込まれそうな気がしてくる。

室町時代は観阿弥・世阿弥などによって能が大成した時代です。

「初心忘れるべからず」という言葉はいろんな場面で使用され日本の諺(ことわざ)だと思っている人は多いですが、この言葉は世阿弥元清が編み出したもので生涯座右の銘にしていた言葉です。

那須殺生石(せっしょうせき) 広漠とした光景

物語性を高める為、京都から見れば日本の辺境というべき那須は謡曲の格好の題材だったのかもしれません。

殺生石の光景と、能「殺生石」の有名なエピソード、玄翁和尚のくだりです。

玄翁(源翁心昭は南北朝時代の僧。福島県耶麻郡加納村(現福島県喜多方市)の示現寺の僧でした。)

玄翁という曹洞宗の徳の高い僧が旅の途中、下野の那須野で玉藻の前の霊が宿る、災いをもたらす殺生石を槌で打ち砕くという下りです。

金槌を玄翁と呼ぶ由来はこのエピソードから採られたものだそうです。


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