http://homeken.sakura.ne.jp/okuno/?p=1128 【「悪党芭蕉」を読んで (1)】
「悪党芭蕉」嵐山光三郎著、新潮社出版。
悪党芭蕉というのはチト誤解を招きかねない題名だなーと思いながら、読んでいた。著者の芭蕉への視線は柔らかい。ただ、芭蕉はいわゆる市井の常識人ではなく、危なっかしい人間関係を持ち、危なっかしいところへ出入りしたりもした。それでいて当時の「生類憐みの令」に配慮を見せ、権力におもねるしたたかなところもあった。
芭蕉が下級武士の出身で、しかも跡取りではなく、下手をすれば「厄介叔父」になりかねない立場にあり、生きる立ち位置を自分で何とか確立せねばならない立場だったことが効いているように思う。厄介叔父にはならずに、伊賀から江戸に出て、そこで宗匠の位置まで行くには、他の人とは違った面を強調する必要もあったであろう、生きる才覚に溢れた人だったのであろうと思われる。
芥川龍之介や正岡子規は芭蕉批判をしている、しかしそれは芭蕉そのものに向けられたというより、芭蕉を崇め、神格化することへの批判であり、神格化して、崇めることによって、自分の位置の高揚を図る連中、トラの威を借りるような連中へ向けた批判だった。
芭蕉は勝れた俳諧のリーダーだったが、俳諧と云う世界が大河のように流れていくよう、導けるようなリーダーではなかったようだ。蕉門と呼ばれた芭蕉とその弟子たちの塊も、芭蕉没後は四分五裂してしまい、俳諧は蕪村が現れるまでたいしたものではなかったらしい。その間に、芭蕉を権威づけして、その権威にすがろうという輩が多くいた。芭蕉が光っていた分、権威づけは容易だったのであろう。芭蕉の旅の足跡をたどった人たちが、あちこちに碑を作り、芭蕉堂を建て、芭蕉の木造を安置する。実にくだらないことであって、自分に実力があれば、自分がトラになりたきゃなればいいのである。その力がないと思へば、精進し、それでもかなわなきゃ諦めればいいだけの事である。
未だに続く、芭蕉信仰。俳聖なんて呼ばれたり、老人アイドルと化した芭蕉を俗人と同じレベルに置いて、見直そうというのが、著者が「悪党芭蕉」と言うタイトルを選んだ所以のようだ。読む前に悪党という言葉に興味を持ったのだが、中身はその言葉ほど、悪党という感じを持たなかった。私の悪党という言葉に対するイメージが強すぎるのかも知れない。
著作の第一節が面白い、「はじめに スキャンダル」 と云うタイトルで、上記に記したこと、弟子との関係などが書かれている。流刑の目にあった、弟子にして恋人の杜国を流刑地から連れ出し、恋の道行きを記した、禁断の書「笈の小文」を刊行したり(これが、官憲の知るところとなれば、杜国は死罪、芭蕉もおとがめはまぬかれない)、かなり、危なっかしい弟子が多いことも記されている。これに始まって、21節目の おわりに まで、「古池や・・・」とはなにか から始まって19の節があり、不良俳人・其角とか、大阪での酒堂と之道との争いの仲裁を乞われて、体調不良を押して出かけ、仲裁に失敗し、ついに死去するまで、時間を追っているわけではないが、句会の様子など、芭蕉を見上げるのではなく、横から眺めるのには良い著書だなーと思って読んだ。ところどころを拾いながら、感想など入れて、記してみようと思う。(2015.3.9)
http://homeken.sakura.ne.jp/okuno/?p=1184 【「悪党芭蕉」を読んで (2)】 より
この書の2節目には有名な句「古池や蛙飛こむ水の音」が取り上げられている。1686年春、深川の芭蕉草庵で芭蕉の門下の人たちが出来栄えを競う20番勝負の興行を行った際。芭蕉のこの句が初句として載せられたものだそうで、この節の大部分を割いてこの句の解説やら背景として門人の句などを取り上げている。俳諧の事は浅学菲才の私がそれらの解説について言及するに能わずだが、この節の最後に、著者の面白い解説があった。
「ところで、「蛙が水に飛び込む音」を聴いた人がいるだろうか。」に始まる22行の一文で、著者はこの句が詠まれた深川、芭蕉庵周辺、隅田川や小名木川沿いを歩いて、蛙を探したそうである。清澄庭園の池には蛙がいたが、春の一日庭園で過ごし蛙が飛び込む音を聞こうとしたが果たさなかったそうだ。「日本のカエル」図鑑とにらめっこして蛙の種類も同定してという念の入れようだが、観察していて、飛び込む音はしない、池の上から音をたてて飛び込まない。池の端から這うように水中に入っていく。
氏は更に、「蛙が池に飛び込むのは、蛇などの天敵や人間に襲われそうになった時だけ、ジャンプして水中に飛ぶのである。それも音をたてずにするりと水中に潜りこむ。」と書いている。
つまりは芭蕉は聴きもしなかったのに、観念として「飛び込む音」を創作した、写生ではなくフィクションであるというのである。「芭蕉は観念が先行する人で、旅をしても風景などさして見ていない。芭蕉の頭の中にある杜甫や西行などの詩の風景を現場に見立てるのである。」と書いている。
そこで思い出したのは以前に、「わからない:荒海や・・・・・」で、荒海や佐渡によこたふ天の河、の風景がよく分らないと書いたが、QQさんの心象句というコメントも含めて考えると、この句も芭蕉の観念の所産らしい。芭蕉は深い教養に根差した観念の人なのかなと思った次第。(2015.3.14)
http://maplesyrup.tea-nifty.com/365/2017/12/post-666f.html 【嵐山光三郎著 『悪党芭蕉』】より
昔から芭蕉は幕府の隠密だったので歩くのも早かったと言われてるし、今テレビ時代劇で『隠密 奥の細道』をやっている。
題名に、「えっ、芭蕉って悪党だったの」とどのような悪党かと読んでみた。
芭蕉の周辺には危険な人物が多かった。其角や画家の英一蝶などは花街で遊び、大名や旗本の屋敷に出入りし、当主を吉原に誘ったりしてそれが桂昌院(綱吉母)の縁筋まで及び、スキャンダルとなったりし、一蝶は三宅島遠流、其角も流罪すれすれだった。罪人すれすれのところで成立した俳諧は危険な文学である。という意味で芭蕉を「悪党」としてしまったとのこと。
冒頭、芥川龍之介と正岡子規の芭蕉批判が書かれる。
芥川は「芭蕉は大山師だ」といった。実はこれは芥川の自己を投影した逆説的賛辞ではあるのだけれど、芭蕉を俳聖としてあがめることによって生じる文芸の衰弱を批判したというのである。
子規は「芭蕉の句の過半を悪句駄句である」といった。子規の論は感情的で未完成の域を出ないとしつつも、その主張は芭蕉を神格化する宗匠への批判であった。芭蕉の句を鑑賞するよりも、芭蕉の廟や碑を建てることに熱中する宗匠を風刺したのであるが。東海道にも小夜の中山など芭蕉句碑が結構あった。
ほとんどの芭蕉評伝は、芭蕉を最高指導者として芭蕉を中心にとらえている結果、芭蕉に離反した俳人を脱落者として断罪する。
しかし芭蕉は自らいうように、風狂の人であって聖人君子ではない。悪党の貫禄があり、いささかでも癇にさわると、虫けらのように見捨て、重用した人ほど切り捨てたくなる性分だ。
才ある人を育てながらも気分一つで嫌ってしまう。才が鼻につくと、もう気にいらない。それを知り抜いていたのが其角だったそうだ。
芭蕉はスキャンダルを抱えた人でもあった。妾とその3人の連れ子、甥という5人の扶養者を抱えていた。
自ら進んでスキャンダルに突入していく破滅志向があった。芭蕉には衆道がいて百日間の蜜月の旅をしたとも。死後出版された『笈の小文』がそうだ。
著者は知れば知るほど芭蕉の凄みが見えて、どうぶつかってもかなう相手ではないと結ぶ。そういうことだったのですね。
今、植木鉢42鉢を家に中に入れ(これだけで腰が2日くらい痛かった)、もう庭は荒涼としています。キクが2種とチェリーセージと千両の実だけが外で頑張って咲いているだけです。
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