大関メッキの開発者~隠れた名君・大関増業

http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2012/03/post-a21d.html 【大関メッキの開発者~隠れた名君・大関増業】 より

弘化二年(1845年)3月19日、江戸時代後期、下野国黒羽藩の第11代藩主となり、藩政改革に尽力した大関増業が亡くなりました。

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大関増業(おおせきますなり)は、もともと伊予国(愛媛県)大洲(おおず)藩主・加藤泰衑(やすみち)の8男として生まれましたが、文化八年(1811年)に、下野国(しもつけ=栃木県)黒羽(くろばね)藩の第10代藩主・大関増陽(ますはる)の養嗣子として大関家に迎え入れられます。

Oosekimasunari500しかし、この養子縁組・・・

義父となる増陽が当時28歳で、息子となる増業が31歳という父子の年齢が逆転した変な養子縁組・・・

実は、この時の黒羽藩は、とんでもない財政難に陥って・・・いや、この時ではありません。

黒羽藩の財政難は、すでに第6代藩主・増恒(ますつね)の享保二年(1716年)頃から始まっていて、歴代藩主が必死のパッチで様々な策を講じるものの、いっこうに効果が無く、常に危機的状況の自転車操業・・・

にも関わらず、ここに来て10代藩主となった増陽が病弱でまともな政務を行えない・・・で、何とかならんか?と迎えたのが増業だったというワケです。

こうして藩主となった増業に求められた物は財政難解消に向けての藩政改革・・・それも、一刻も早く・・・

とるものもとりあえず、まずは、藩の収入について家臣に聞いてみると、「年貢米:2万俵、金銀:2000両だ」と言いますが、これが、「だいたいこんなもんかな?」というおおよその見当での算出・・・誰も、実際に調査した事が無い架空の数字だったのです。

あきれた増業が慌てて調査をすると、なんと実際の収入は、その半分以下だったとか・・・

「こんな根本的なとこから、やらなアカンのかい!」

なんだか、増業さんの叫びが聞こえて来そうですが・・・

かくして始まる増業の改革・・・

まずは、お馴染の倹約令を出してムダ使いをおさえたところで、高柳源左衛門などに代表される豪商から融資してもらい、産業開発に取り組みます。

漆(うるし)や楮(こうぞ)、お茶、蕎麦、煙草などの植林&栽培を促進したり、瀬戸から職人を招いて陶器の製造を開始したりするのですが、実は増業さん・・・本来の彼の好きな分野は政治経済ではなく化学だったんですね。

藩主になる前は、大好きな化学の研究に勤しんでいた彼は、その知識を思う存分活かし、それらの産業をただ、栽培したり促進したりするのではなく、自ら、その栽培方法を指導したり、陶器なら、その捻り方を考案したり窯の構造の指導をしたり・・・

織物に至っては、実際に綿羊を購入して飼育し、増業の考案した器械と織り方で、独自の毛織物を造り上げています。

しかし、こうした努力も、万人に受け入れられるとは限りません。

もともと、養子として入った増業には家内で味方してくれる家臣も少なく、しかも、こういった産業改革は即座に結果が出る物でもなく、その一方で資金作りのための豪商からの借金は見ている間に増えていくわけで・・・

結局、反発する保守派の家臣の声に押されて、増業は、わずか14年の在位期間を経て、先代=増陽の次男であった増儀(ますのり)に藩主の座を譲り、隠居する事になってしまいました。

以後、この黒羽藩は、藩内の保守派家臣たちが実権を握り、家臣たちの要望により藩主が交代する(主君押込)という事をくり返しますが、財政が好転する事はありませんでした。

一方、増業は、江戸は箕輪の藩別邸で、茶道など風流を楽しみながらも、例の研究者としての気質も忘れる事無く・・・いや、むしろ、自由な身となって、研究に没頭できるほか、その成果を記録に残す事ができるようになり、ここで様々な著書を書き残しています。

たとえば・・・

「点茶の味わいは水質にある」として江戸中の水を集めて分析し、水の比重が天候によって異なる事をつきとめた『喫茗新語(きつめいしんご)』

130種もの病気に対する治療法を明記した医学書『乗化亭奇方(じょうかていきほう)』

甲冑の製法を、それを造る道具の作り方からニューデザインまでを丁寧に記した『練革私記(ねりかわしき)』

さらに、紅染や紫染・茜染などの染色法と金や亜鉛の鍍金(メッキ)の仕方を書いた『紅紫茜染方並金鍍秘伝(べにむらさきあかねそめがたならびにめっきひでん)』

などなど・・・

また、自らの財政改革の方針&実践を記した『創垂可継(そうすいかけい)』や『支戈枢要(しかすうよう)』など・・・

まさに、他方面にわたる研究成果をあますところなく記した増業さんですが・・・

イタチの最後っ屁じゃないですが、ちょっとだけ、自分を隠居に追いやった家臣たちへの仕返し?とも思えるオモシロイ行動を・・・

実は、その数ある著書の中で『練革私記』と『紅紫茜染方並金鍍秘伝』の二つを、親交のあった信州(長野県)飯田藩の藩主・掘親寚(ほりちかしげ)に、「極秘だからね」と念を押して伝授しているのです。

黒羽藩ではなく、他藩の藩主にです。

やっぱり、本当に大切な事は、大事な人にだけ伝えたいですからね~

やがて弘化二年(1845年)3月19日、65歳でこの世を去った大関増業・・・

今では、伝授された彼だけでは無く、多くの人が目にする事になった数々の著書は、当時の医学や産業、政治を知る上で大変貴重な文献として高く評価され、増業自身も、大変な名君&研究者として評価されています。

増業さん、あなたの研究が多くの人に理解されて良かったですね・・・それこそ研究者の本望ですから。

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