律令国家と蝦夷の戦い

https://blog.goo.ne.jp/siroi_1956/e/8560beb4be9b3fe6a59381632882bc6c  【律令国家と蝦夷の戦い 阿弖流為は反逆者だったのか?】 より

『8世紀から9世紀にかけて東北で多発した蝦夷の反乱。その族長・阿弖流為は朝廷に従わない反逆者として伝えられているが、その素顔は別のものだったとも謂われる。』

平安時代の8世紀後半から9世紀前半にかけて東北地方では蝦夷(えみし)の反乱が続発したと伝えられている。

蝦夷とは古代の東北地方の地域住民に対する呼称で、「えびす」とも読み、平安中期以降は「えぞ」と読むようになる。 古くは東国に住む人々のことを毛人(もうじん)と称し、蝦夷よりも古い「えみし」の表記の一つにもなっていたが、言語や文化・風俗を異にし朝廷に従わない人々を蝦夷と呼ぶようになった。また、朝廷に服従した蝦夷を夷俘(いふ)・俘囚(ふしゅう)と呼んだ。 その蝦夷の中でも、朝廷が派遣した征夷軍(官軍)に強硬に抵抗した反逆者として蝦夷の代名詞のように伝えられているのが、蝦夷の族長・阿弖流為だ。 阿弖流為は阿弖利為とも表記される、また阿弖流為の本来の名は大墓公阿弖流(利)為といわれる(「おおはかのきみ」「おおつかのきみ」と読む説もある。 阿弖流為の戦いとして有名なのが延暦8(789)年の戦いだが、そこに至るまでの蝦夷の反乱の歴史を見てみよう。 大きな反乱としては、養老4(720)年、陸奥国(青森県・岩手県・宮城県・福島県と秋田県の一部)の蝦夷が反乱し、按察使(陸奥・出羽の長官)・上毛野広人を殺害した乱がある。また、神亀元(724)年には陸奥の海道蝦夷(太平洋沿岸地域に住む蝦夷)が反乱し、大掾(国司)の佐伯児屋麻呂を殺害している。 宝亀7(776)年1月には、大伴駿河麻呂が陸奥の蝦夷征討の為2万の兵を率いて出兵する計画を光仁天皇に上申するが、3月、任地の陸奥で死去している。しかし、その後も蝦夷征討政策が続くと、同年5月、出羽で志波村の蝦夷が官軍を攻め、圧倒した。 更に、同11(780)年3月、陸奥国比(伊)治郡の大領(郡司)に任ぜられていた伊治砦麻呂(伊治は「これはる」とも「いじ」とも読む)が伊治城(宮城県栗原郡)を襲い按察使・紀広純と大領・道嶋大楯を殺害。更に、多賀城を襲い、略奪・放火した。 この砦麻呂の反乱が起きた後、東北の各地で反乱や騒擾が頻繁に発生するようになる。そして、延暦7(788)年7月、紀古佐美が桓武天皇から征東大使に任じられ、翌年、北上川中流の胆沢地方の蝦夷を制圧しようとしたのである。

*国家とは親和的な関係にあった阿弖流為  

延暦8年の蝦夷と官軍の戦いは、6000人の官軍に対して約4分の1の蝦夷軍が地の利を生かし、奇襲作戦によって大勝した合戦だ。その蝦夷軍を率いたのが阿弖流為だが、岩手大学教授の樋口知志氏によれば、それまで阿弖流為は国家とは親和的な関係にあったという。樋口氏によれば、「公」のカバネを付した姓を与えられた蝦夷たちは「律令国家によって最上位の蝦夷族長層い属する人々として認められることになった」(樋口知志著『阿弖流為』ミネルヴァ書房)とし、この姓が「大墓公一族が嘗ては律令国家との間にかなり良好な政治的関係を築いていた」(前掲書)ことを示す重要な手がかりの一つだとされる。 では、阿弖流為は何故戦ったのか。 その謎を解き明かす前に、反乱続発の契機になった宝亀11年の砦麻呂の反乱の原因について見て行こう。樋口氏は胆沢地方が5世紀代から南北間交易に於ける拠点地域であったとし、砦麻呂はその胆沢地方が律令国家によって占領されるのを阻止する為に反乱を起こしたのではないかと見る。つまり、蝦夷の反乱と伝えられて来たものの多くは、律令国家による支配領域の拡大に対する抗戦であり、反乱ではないのだ。しかし、天応元(781)年、桓武天皇が即位すると、蝦夷征討の軍事行動は更に厳しいものになった。樋口氏によれば、その頃、蝦夷大連合の総帥格の座に周囲から押し上げられたのが阿弖流為であり、苦悩の末に出した結論が「国家の攻勢に抗して奥羽各地の蝦夷たちと強く手を携え、自衛の為に力を尽くして戦うことであった」(前掲書)という。 こうして阿弖流為は延暦8年の戦いに大勝したが、桓武はこれで懲りることなく、延暦13(794)年、大伴弟麻呂を征夷大将軍(坂上田村麻呂が副将軍)に起用して、総勢10万の兵を出発させた。この征夷によって蝦夷の斬首457級、捕虜150人という成果を挙げ、官軍は胆沢地方をほぼ平定した。田村麻呂は戦功によって延暦16(797)年に征夷大将軍に任じられ、延暦21(802)年、阿弖流為は降伏し、田村麻呂に従って上京した。樋口氏によれば、阿弖流為は「かつて自分たちが享受していた平和の恢復を強く希求していた」とし、停戦の合意、降伏は「蝦夷社会側にとって最も良い条件下で戦争を終結させる為の戦略にほかならなかった」(前掲書)とされる。 上京後、田村麻呂は阿弖流為の助命を嘆願したが、公卿らが反対し斬首となった。樋口氏は阿弖流為を「憎しみと報復の連鎖の呪縛に心を奪われた反乱主義者などではなく、そうした感情を乗り越えた高い次元での平和・共生のありようを模索しつつ、自らの人生を精一杯生き抜いた東北北部社会の指導者であった」(前掲書)と述べている。


http://www.kit.hi-ho.ne.jp/nagae/38nensensou.html 【38年戦争】 より

38年戦争とは

38年戦争。宝亀5年(774)から38年にわたる律令国家と蝦夷(大和朝廷に服従しない陸奥の民)の戦いをいう。

北征

実は、これ以前にも、北征はあった。

背景

律令制支配の浸透によって養老4年(720)蝦夷や九州・隼人では反乱が頻発した。

神亀元年(724)多賀城は、按察使兼鎮守将軍大野東人によって築かれた。 大野東人は、天平12年(740)九州大宰府で起きた藤原広嗣の乱を治めた人である。坂東が征夷の兵站基地の役割を果たした。

天平21年(749)2月には、陸奥国小田郡(宮城県桶谷町にある延喜式内社黄金山神社付近)から 金の算出の報があった。 律令国家は、陸奥に、良質な馬、金をはじめ、獣皮、海産物、鷹・鷲の羽などを求めて進出した。

そして天平宝字3年(759)桃生城(宮城県石巻市)、雄勝城(秋田県雄勝郡)を築いた。 神護景雲元年(767)には伊治城(宮城県栗原市)を築いた。これらには、政庁が確認されており、官衙として築かれた。 天平宝字6年(762)多賀城(宮城県多賀城市)を改修した。多賀城は城と書かれているが、陸奥国府であった。 そこに鎮守府も置かれた。

38年戦争

これに対し当然、蝦夷は反発した。

・ 宝亀5年(774)蝦夷が桃生城(官衙)を攻撃。西郭を撃破する。38年戦争の幕開けである。

・ 宝亀11年(780)多賀城(国府)の最高責任者・紀広純が此治郡の郡司・伊治あざまろに殺され、多賀城を焼き、城内の倉庫の物資を略奪した。

・ 同年3月、中納言藤原継縄を征東大使に任命。多賀城に派遣したが戦果なかった。

・ 天応元年(781)藤原小黒麻呂を陸奥按察使とし、穀10万石を多賀城に運んだが、戦果をあげないまま軍を解散させ、叱責された。

・ 天応元年(781)4月、桓武天皇即位。「刪定律令」「刪定令挌」を施行。

・ 延歴7年(788)3月、兵士5万を多賀城に結集させ、12月、紀古佐美を征東大将軍に任命。征東副将軍に猿島郡の安倍氏、入間郡の入間氏 などであった。延歴8年(789)3月、多賀城を出発。衣川を越えたところで、駐屯。5月、胆沢付近で蝦夷軍と激突し、 阿弖流為に背後を突かれて、退路を断たれて政府軍大敗北。25名の死者、川で溺死する者1036人などを出る。 その中に、磐城郡丈部善理、会津高田道成、会津壮麻呂の名がある。これらの人々はおそらくいまの福島県の郡司であったろう。 以降、政府軍は戦意を喪失。9月、古佐美は、帰京、叱責の上、処分される。

・ 延歴11年(792)平民の軍団を廃止し、郡司などの子弟から選ばれた健児を軍団とする。(延歴8年(789)の話と前後するが・・・。)

・ 延歴13年(794)1月、大伴弟麻呂を征夷大将軍、征夷副将軍坂上田村麻呂に任命した。 6月、第二回胆沢の戦いで「蝦夷軍457人を討ち取り、150人を捕虜にし、馬を85匹獲得し、75か所の村落を焼いた。」とある。

・ 延暦20年(801)2月24日、坂上田村麻呂は、桓武天皇から蝦夷討伐の命を受け、節刀の「黒漆太刀」を賜った。 節刀とは、天皇が出陣する 将軍に特別に授ける刀である。 そして兵4万を連れて出発。 田村麻呂は、途中鎌倉で、戦勝を祈願し巽神社を勧進した。

9月27日、田村麻呂は、第三回胆沢の合戦で勝利し、和賀、稗貫・斯波・遠へい村まで掃討した。 そして都に戻り10月28日、田村麻呂は節刀を天皇に返上した。その節刀「黒漆太刀」は現存している。

・ 翌延暦21年(802)1月9日、胆沢城をつくるために、田村麻呂は、出発した。 駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野などの浪人4千人を徴発して、胆沢城に配置せよという命があった。

・ 築城が始まって2か月半ほど経った4月15日、蝦夷の首長・大墓公阿弖流為と盤具公母礼が 500余人を連れて投降した。 度重なる官軍との戦いで、疲弊していた。7月、田村麻呂は、 京に降伏した2人を連れて帰る。8月13日、2人は河内国杜山で斬首される。 田村麻呂は2人の命を助けたかったといわれる。

・ 延歴22年(803)坂上田村麻呂、最大の城・志波城(岩手県盛岡市)を築く。

・ 延歴24年(805)桓武天皇は、家臣藤原緒嗣と菅野真道を呼び、天下の徳政を論じさせた。緒嗣は造都と征夷をやめる ことを進言し、真道は継続を主張した。桓武天皇は、緒嗣の意見を聞き入れ、莫大な費用を要する蝦夷戦争と 平安京の造営をやめた。いわゆる徳政相論である。

・ 大同元年(806)3月、桓武天皇没。

・ 弘仁2年(811)文室綿麻呂を征夷将軍に任命。征夷を行う。それほど大規模ではなかった。徳政相論で規模が縮小された。

天慶の乱

弘仁2年(811)38年戦争が終わるとしばらく大規模な征夷はなかったが、 元慶2年(878)3月、秋田城付近で俘囚が反乱を起こした(元慶の乱)。 蝦夷軍は秋田城を制圧後、秋田川以北の独立を宣言した。 鎮圧軍5000を派遣したが、不意打ちに会い大敗し、大量の甲冑・食料・馬を奪われた。

6月に小野春風を鎮守府将軍に任命した。坂上田村麻呂の子孫であった。 春風は、夷語に詳しく、一人蝦夷を説得して回り、8月に津軽と渡島の蝦夷が朝廷側につき、やがて9月には鎮圧されていった。 出羽介県秋田城司良岑近の過酷な取り立てが原因であった。

その後、蝦夷との闘いは見られない。

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