黒羽城本丸跡

https://sites.google.com/a/onodenkan.net/lie-dao-cheng-zhi-ji-xing/li-mu-xian/hei-yu-cheng【黒羽城本丸跡】 より

【感想・感想】 城址公園となっているが、空堀と土塁がよく残ったいた。江戸時代、松尾芭蕉も数日間逗留しているが、城主とどんな話をしたのであろうか。俳句談義だったのだろうか。

【案内】 那珂川の東「市立黒羽体育館」(表記番地)の前より登った二の丸跡に駐車場(地図)がある。

その南一段高く本丸は黒羽城址公園になっており、「黒羽城跡本丸跡」の碑、「御本城御住居全図」が建てられている。また舞台付建物、展望台が建てられている。土塁が周囲に良く保存され、南に大空堀があり、橋で結ばれた曲輪があり四阿が建てられ、土塁が残っている。

空堀の南、三の丸跡に「芭蕉の館」(表記番地)が建てられている。

平成十三年(2001年)6月21日、大田原市の史跡に指定された。

【歴史】 黒羽城の起源は、天正四年(1576年)大関高増が余瀬の白旗城から本拠を移した事に拠る。

天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、主家の那須資晴は小田原へ参陣しなかった為に改易されたものの、大関氏の当主である高増は弟である大田原氏の当主大田原綱清の息子大田原晴清と共にいち早く参陣して所領を安堵された。

更に慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて大関資増は東軍に与したので、戦後に徳川家康から加増されて1万8千石の大名となった。

江戸時代を通じ、約290年間、関東では珍しく外様大名の大関氏の支配は続いた。

明治四年(1871年)廃藩置県により黒羽城は廃城となった。幕末、肥後守大関増裕は出仕して陸海軍奉行の重職となり、勝海舟と共に偉名を天下にとどろかせた。また、松尾芭蕉が奥の細道の旅行中で最長の14日間、黒羽城下に滞在した。


http://www.obayoshi30.sakura.ne.jp/Kurobanejo.html 【黒羽(くろばね)城 栃木県大田原市黒羽田町 】より

~ 築城者 大関高増 築城年 天正4年(1576)主な城主 大関氏 廃城年 明治4年(1871年) 遺構 土塁、空堀、水堀 ~

黒羽城は、那珂川とその支流松葉川との間の丘陵部に構築された複郭居館型の山城であり、黒羽藩主大関氏(外様大名・1万8千石)の本拠であった。その規模は、南北約1,500m・東西約250m、面積約37.5haで、栃木県北部では最大である。本城を本拠に定めたのは、戦国武将大関高増であり、高増は、戦国争乱の深まりの中で、天正4年(1576)、白旗城から黒羽城に移った。同時に、白旗城内にあった大雄寺や帰一寺・新善光寺も、黒羽城内に移された。慶長5年(1600)の関ケ原合戦に際し、黒羽城主大関資増(高増子息)は、他の那須衆と同様に、徳川氏に味方して、黒羽城において上杉景勝の動きに備えていた。その際、徳川方から軍事援助(加勢の入城と武器供与)があり、また、黒門・中門・北坂門などが新たに設けられ、堀・築地が構えられるなど、黒羽城にも修築の手が加えられるところとなった。その後、大関氏は、一度の改易・転封もなく、近世(江戸時代)を通じて、明治4年(1871)の廃藩置県までの約300年間、黒羽城を本拠とし続けたのである。これは、関東の外様大名としては大田原氏と共に極めて異例のことであった。但し、黒羽城は、宇都宮・壬生・烏山・大田原などの諸城とは異なり、江戸幕府からは陣屋という評価を受けていた。廃藩置県によって、黒羽城は廃城となったが、本丸跡(黒羽城址公園)とその周辺を中心に土塁・堀などの遺構は比較的よく残存しており、城下町黒羽のシンボルともいうべき史跡である。黒羽城跡の公有地部分(本丸跡・二の丸跡・水堀跡・三の丸跡の一部)を対象として、黒羽町指定史跡となっている。今後も永く保存されていくべき貴重な史跡である。(南側の桝形と道路を挟み反対側にある駐車場のところにあった「史跡 黒羽城跡 会所跡」との標示柱の横にあった案内板「黒羽城跡について」より)

四神相応の地とは??

https://www.hiroro.jp/content/kaso/land.htm  【気学における四神相応(しじんそうおう)の土地相】 より

四神相応(しじんそうおう)とは、天の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいとされる地形が存在する土地のことをいいます。

北に高い山・丘や建物(玄武の相)

東に川の流れ(青龍の相)

南に低地(朱雀の相)

西に道・道路(白虎の相)

この四つの相を持つ土地を「四神相応の土地」と言い最高の地相です。

平城京・長岡京・平安京は四神相応の理に則って建都されています。

自然界が人間に与える「活力源」としての「気の作用」「発動される気」の定義の中に、「四神相応」の定義が活かされ国家繁栄と治国安泰の願いが込められています。

京都と江戸の四神相応の対比     京都          江戸

北に(玄武の相)       貴船山・鞍馬山       日光東照宮

東に(青龍の相)        鴨川           隅田川

南に(朱雀の相)       東寺・西寺         芝の増上寺

西に(白虎の相)      山陽・山陰道        甲州・中仙道

794年に桓武天皇は長岡京から自分の考えで,艮方位(東北)に当たる場所に「平安京」を造りました。

しかし徳川家康は強制的に秀吉に艮方位(東北)に当たる武蔵の国へ、移転させられました。変化・改革という方位に移転したことが、家康の生き方や今後の対応としては大変条件の良い所への移転となりました。

またそれ以上に土地の繁栄・発展を司る「四神相応の土地の相」に叶った気学実践を、天海僧正を登用して実行したところ、江戸の発展や繁栄があり、そして明治期にも大きく発展した基があります。

江戸の町は京都の四神相応の地相を根底として造営されました。

明治2年に東京への遷都が実行されます。江戸は京都から東方位に当たり、必ずや日本の発展につながる日出ずる方位になります。

明治天皇(本命四録子年・月命九紫戌月生まれ)にとって明治2年(五黄巳年)は大吉方位に当たります。

奈良朝の時代においては、東方位に当たる方位に、日本国の発展と繁栄を祈願して、伊勢神宮を遷宮しております。伊勢神宮は気学(陰陽五行説)に従って建立されて、現在に至っております。

また明治以降においての大学を建立するにあたり、神社・仏閣の地域に大学を造り、地相学で吉相にあたる所に大学を造りました。優秀な人材育成を作る一翼に用います。その思考背景に陰陽道があります。

東京大学は上野寛永寺・慶応大学は芝増上寺・早稲田大学は穴八幡神社・京都大学は吉田神社等々が造られています。

地相学の四神相応の活力を生かす思考があるのです。

そして有名は話ですが、元総理大臣であった田中角栄氏の新潟の生誕地は、まさにこの四神相応の土地でした。

最近では、都会においてこのような四神相応の土地はなかなか探すのが難しくなってきましたが、この四神相応に近い土地を探すことが賢明です。

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