氏族 近江 毛野氏 車持氏 ②

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【氏族近江 毛野氏 車持氏】 より

景行天皇53年8月条で、天皇自ら日本武尊を追慕し東国へ巡幸。翌9月に帰国後、景行天皇55年2月、彦狹嶋王が東国へ赴任の途上の春日穴咋邑で死去、上野国で葬られる。…とあります。つまり彦狹嶋王は日本武尊と同様に、目的地に辿り着けずに途中で死んだ記録を残すのです。通説によると、この穴咋邑(あなぐいむら)は、奈良県奈良市にある穴栗神社(あなぐりじんじゃ)に比定しておられるようです。

この社は、式内社 穴吹神社に比定されている古社で、「穴吹」というのは延喜式の誤写で、本来は「穴咋」が正しいとし、当地は、『日本書紀』景行天皇紀に「春日穴咋邑」とある地。彦狭嶋王の墓所があるとされ、当社はその霊を祀った神社と思われる。(玄松子の記憶より)

境内案内にも、この神社の鎮座する地は、古く「日本書紀」景行天皇(第十二代)の条に、「春日穴咋邑」と出ているところです。神社の名を穴吹・穴次と書くものもありますが、春日大社の記録によると、平安時代に、この地から穴栗・井栗の神が春日大社に勧請(分霊)されたと書かれています。境内にある元禄四(一六九一)年建立の社号標石にも「穴栗四社大明神』とあり、穴栗は古くからの呼び名です。現在、穴栗神社は、横井東町の氏子がお祀りしています。云々と書かれています。

通説では景行天皇は、景行天皇58年、近江国行幸時に志賀高穴穂宮に滞在するまでは纒向日代宮に居たはず。

このことは55年条を記する前文となる「五十四年秋九月辛卯朔己酉、自伊勢還、於倭居纏向宮」「五十四年の秋九月の辛卯の朔己酉の日に、伊勢から倭の纏向宮に還っておられた。」でもわかる。

珍県、御諸別王

「万葉集」巻11に「血沼の海の浜辺の小松根深めて我恋ひ渡る人の児故に」とあるこの血沼海は,広く和泉国沿海,現在の大阪市南部から岸和田市にかけての海を示したともいい(万葉の旅),住吉浦から当地までを血沼廻と呼んだ「万葉集」巻6には「血沼廻より雨ぞ降り来る四極の白水郎網手綱乾せり濡れあへむかも」とあるなお,「日本書紀」神武天皇即位前紀条には,軍が「茅渟山城水門」に至った時,五瀬命が矢瘡を負い,それが原因で薨ったと見える県名としての初見は「日本書紀」崇神天皇7年条で,倭迹速神浅茅原目妙姫・穂積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君の3人が,大田田根子命をもって大物主大神を祀り,市磯長尾市をもって倭大国魂神を祀れば,天下太平になると一貴人が言ったという,同じ夢を同時に見たそれを聞いた崇神天皇は,大田田根子を捜し求めたところ「茅渟県陶邑」でみつけたという垂仁天皇35年9月には,五十瓊敷命を河内国に遣わして,「高石池・茅渟池」を作り,同39年10月条には同人に命じて「茅渟菟砥川上宮」で剣1,000口を作らせている下って,允恭天皇8年2月は,天皇は「河内茅渟」に宮室を造り衣通郎姫を住まわせている以降,しばしば日根に遊猟し,同9年2月・8月・10月・同10年正月・同11年3月などに「茅渟宮」に幸したことが見えているまた,雄略天皇14年条には「茅渟県主」が見え,天皇が根使主の子孫の半分を与え,負嚢者としている安閑天皇元年条には別本に「茅渟山屯倉」が見え,桜井屯倉(河内国桜井郷)とともに香香有媛に与えられている下って,崇峻天皇即位前紀条によると,物部守屋の資人捕鳥部万は,難波の家を守っていたが,守屋が滅びたと聞いて,「茅渟県有真香邑」に逃げている(日本書紀)大化の改新に際して国郡制が定められ,当県は河内国和泉郡となるが,宮名としては残り,「続日本紀」霊亀2年3月27日条に「珍努宮」と見えるこの時珍努宮の営造があり,河内国の和泉・日根の2郡を割いて珍努宮に供したという以降,天平16年7月2日条・10月11日条などに「珍努離宮」が見えている(同前)この珍努宮は現在の和泉佐野市上之郷中村にあったなお,平安期には「日本霊異記」中巻第13の「愛欲を生じ吉祥天女の像に恋ひ,感応して奇しき表を示す縁」という話に,「和泉の国泉の郡血渟の山寺」と見え,そのほかにも同書に当地名は散見し,「今昔物語集」に同様の話が記されているが,「日本霊異記」中巻第2の「烏の邪婬を見て,世を厭ひ,善を修する縁」という話には「和泉の国泉の郡の大領血沼県主倭麻呂」が登場する血沼(珍)氏は,古くより当地方に居住していた豪族であり,天平9年の和泉監正税帳に「少領外従七位下珍県主倭麻呂」「主帳无位珍県主深麻呂」などの名が見える(正倉院文書/寧遺上)「新撰姓氏録」和泉国皇別には「珍県主 佐代公同祖,豊城入彦命三世孫御諸別命之後也」とあるまた「大和物語」147段には「和泉の国の人になむありける姓はちぬとなむいひける」とあり,血渟県主の後裔と思われる     

小野毛人(おのの えみし)とは - コトバンク

https://kotobank.jp/word/小野毛人-1063873

毛野の父。墓誌が慶長18(1613)年現在の京都市左京区上高野付近で発見されている。同地は『和名抄』にみえる山城国愛宕郡小野郷に当たり,小野氏の根拠地であった。     

持統天皇の幼名「鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)」は、「鵜野皇女」「娑羅々皇女」(「天智紀」七年二月条)の複合で、それは皇女を養育した河内国「更荒(さらら)郡」の「鵜野(うの)邑」に居住する渡来人(「欽明紀」二十三年七月条)の名を負うたものであった。

 この事実は、天武天皇崩御後の皇位継承に関して、持統天皇が藤原不比等と盟約を結ぶ素地ともなったと思われる。それは不比等も幼時、朝鮮半島からの渡来氏族「田辺史(ふひと)」に養育されていたことと、深い関係があるであろう。

 藤原不比等の幼名「史」は、その養育者であった山科の「田辺史大隅」に基づくものであるが、この「田辺史」も河内国の飛鳥(安宿)を本郷とする百済系の渡来氏族「田辺史」の同族であった。これは既に述べた持統天皇の幼名「鵜野讃良皇女」が河内国の郡・郷名に基づくものであり、光明皇后の幼名「安宿(あすかべ)媛」も河内国の郡名に基づくものであったのと、全く同じ命名で、三人ともその養育者が河内国在住の百済系氏族であったことを物語るものである(孝徳天皇の白雉五年二月に派遣された遣唐使の中にも「田辺史鳥」の名が見え、『懐風藻』にも「大学博士田辺史百枝一首」がある)。

 不比等が山科の「田辺史大隅」に養育されていたのは壬申の乱(六七二)以前で、「天武紀」元年七月五日の条に見える壬申の乱の時の「近江の別将田辺小隅」が「田辺史大隅」と同一人物か兄弟だとすると、その時不比等は十五歳である(不比等の薨年養老四年八月、六十三歳から逆算して)。近江朝廷はこの乱によって減んだのであるから、壬申の乱の後、田辺史大隅はおそらく河内国の「田辺史」(皇極天皇の御代「田辺史」の氏姓を賜わる)が住む河内の飛鳥(安宿)に戻ったであろうと思われ、不比等もそれに従ったものと思われる。

 不比等が父鎌足の本貫の地である大和の飛鳥に戻ったのは、その長子武智麻呂が、天武天皇即位九(六八一)年四月十五日に、「大原之第」で誕生している(『家伝下』、武智麻呂伝)ことから逆算すると、その二~一年前の天武七~八年(六七九~六八〇)である。時に不比等の年齢は、二十二歳~二十三歳であった。

 天武七年といえぼ、天武天皇と鵜野皇后が草壁皇子、大津皇子たちを伴なって吉野の宮に行幸し、皇位継承に関する天皇の措置に従うことを誓わせた年であり、その二年後(六八一)に草壁皇子が皇太子に立てられた。そして、その五年後の朱鳥元(六八六)年九月に、天武天皇は崩御、十月には大津皇子が謀叛の罪によって処刑されるという大事件が起こった。

 そしてその翌年から持統天皇の称制時代に入るが、その二年後の持統三(六八九)年の二月、不比等は判事に任命されて、宮廷の中にその姿を現すことになる。第二章「持統天皇と藤原不比等の盟約」で述べたことは、この持統三年の出来事であった。

 吉野宮における盟約を経て、皇太子に定められた草壁皇子が二十八歳の若さで他界したのは、不比等が判事に任命された二ヶ月後のことであるが、持統天皇と不比等の盟約に基づく皇位継承の背景には、百済系渡来氏族につながる人間関係があったのであり、その実現を舞台裏で工作したのが橘三千代であった。これは日本の歴史には珍しい、女性の政治的能力が発揮された時代であり、それを育成したのが祖国を失った百済系の渡来人であるが、藤原不比等も、同じく百済系の渡来氏族田辺史に養育された人物だったのである。

大荒田は丹羽県主であり(御年神?)。この後裔に上毛野がいますが、上の記事では夏花の後裔にも上毛野を名乗る人はいるようです。

具体的な世代数と人名はわからないが、巻向にはかなりの尾張系土器が流れ込んでいる。

この毛野氏の進出による所が大きいのかもしれない。いわゆる丹羽氏です。

大荒田別の墓と言われるものが、大県神社(尾張二の宮)の神領内にあるそうです。

青塚古墳。

由緒には四世紀中頃に建てられたとあります。大きさは愛知No.2です。埋葬者は丹羽氏の大荒田命とあります。古代この辺りは丹羽氏が治めています。だから青塚古墳は丹羽氏の古墳だろうと思われますhttp://yaplog.jp/shikisai37/archive/270

孝元天皇については「・・・第一(ひとはしらにあたりたもふ)をば大彦(おおひこの)命(みこと)と曰(もう)す。・・・」とあり、続いて大彦命は「是、阿倍(あへの)臣(おみ)・膳(かしはでの)臣(おみ)・阿閉(あへの)臣(おみ)・狭狭(ささ)城山(きのやまの)君(おみ)・筑紫國造(つくしのくにのみやつこ)・越國造(こしのくにのみやつこ)・伊賀(いがの)臣(おみ)、凡(すべ)て七(なな)族(やから)の始祖(はじめのおや)なり。・・・」とあります。“日本書紀上 岩波書店”

この七族はそれぞれ、阿倍氏は大和国十市郡を本貫の地とし、(現在地に比定 櫻井市阿倍)・膳氏は大和国十市郡(橿原市膳夫)・阿閉氏は伊賀国阿拝郡(三重県上野市)大和における大彦命後裔氏の拠点は、磐余地方とその周辺郡に集中していますが、これらの地と伊賀地方を結ぶ中間点の大和国宇陀郡(奈良県宇陀郡)にも大彦命の後裔氏が存しています。それぞれ佐々貴山氏は近江国蒲生郡篠笥郷・筑紫国造は筑紫国・越国造は大和国高市郡坂合村越・伊賀氏は伊賀国伊賀郷です。

考元天皇の皇子 大彦命(四道将軍の一人でありますが)に五人の子があり、そのなかで、特に次の二人が、「阿倍」氏と「阿閉」氏の租として考えられます。つまり「阿倍氏」は大彦命の子である武沼河別命(四道将軍の一人) の二代後の 阿倍阿加古宿禰が阿倍臣の祖となり、その子を大籠としています。

また、「阿閉氏」は大彦命の子の中で武渟川別命の弟になる大稲輿命の子である彦屋主田心命の子が大伊賀彦命です。その子稚子(わかこ)の子が 阿閉国見です。彦屋主田心命は伊賀臣、佐々貴山君租とならんで阿閉臣の祖であるとされています。

「阿閉」氏は、その本貫の地を大和に近い三重県の上野(伊賀国 阿拝(あへ)郡)におき、蘇我氏に関わる一氏族として、「日本書紀」、「新撰姓氏録」に朝臣に名をつらねる人物が輩出しており、また「元明天皇」となる「阿閉(あへの)皇女(みこ)」の乳母である人物も氏族の女性であった、ことを述べます。

つまり、「阿閉」氏は、長きに亘る大和朝廷の地方支配の一つである所謂「日本書紀」の「崇神天皇」の条にある、「四道将軍」の一人「大彦命」に、従い主に糧食の部門を担当、北陸道に進出しその沿道に子孫を残した。

また「阿閉」氏は、一族の出自は朝鮮と関係が深く、「日本書紀」の記述にもあるように任那との渉外に従事し使者となり、それに関連して供膳を職掌として職を与り天皇の側近で奉仕した。その出自からも外交に携わり、朝廷の政治の一局面を支えるため、神がかりの託宣にも関わり、更に新嘗服属儀礼に、そして祭祀・卜占にも従った。

「阿閉」氏の一族の女性は、当時皇女名(みこな)は乳母の氏名に因っているとされていますが、661年に誕生した、天智天皇と蘇我氏の娘、姪姫の間の皇女である「阿閉皇女」のちの「元明天皇」の乳母になる地位を得るに至っています。また「阿閉」氏は、壬申の乱(672年)直後の天武天皇の伊賀行幸でも分かる通り、紀臣阿閉(きの おみ あへ)麻呂(まろ)、膽(い)香(か)瓦(ごの)臣(おみ)安倍(あへ)など「阿閉」氏の一族と深い関係があると推定できる伊賀に関わりをもつ人々の活躍により壬申の乱に功績をたてた、と考えます。

大泊瀬幼武天皇(雄略)の御世、

努賀君の男、百尊は娘の出産のため婿の家に向かい、夜を犯して帰った。応神天皇御陵辺において、馬に乗った人に会い、相共に語り合い、馬を交換して別れた。翌日、換えた馬を見ると土の馬であった。よって、陵辺君の姓を負う。百尊男徳尊、孫斯羅は皇極天皇の御世、河内山下田を賜れ、文書を解くをもって田辺史となる。孝謙天皇の天平勝宝二年、改めて上毛野公を賜う。弘仁元年、改めて朝臣姓を賜う。姓氏録

  (田辺史伯孫が応神天皇陵付近で馬を交換した=日本書紀)

  (天平勝宝二年、田辺史難波に上毛野君の姓を賜う=続日本紀)

 豊城入彦命(豊城命を以て東を治めしむ。上毛野君、下毛野君の始祖=日本書紀)

  下毛野朝臣―――崇神天皇皇子、豊城入彦命の後――――――――左京皇別下

  上毛野朝臣―――下毛野朝臣同祖―多奇波世君の後―――――――左京皇別下

  上毛野坂本朝臣―上毛野同祖、豊城入彦命十世孫佐太公の後――――左京皇別下

  上毛野朝臣―――崇神天皇皇子、豊城入彦命の後―――――――――右京皇別上

  田辺史―――――豊城入彦命四世孫、大荒田別命の後―――――――右京皇別上

  池田朝臣――――上毛野朝臣同祖―佐太君の後――――――――――左京皇別下

  住吉朝臣――――上毛野朝臣同祖―多奇波世君の後――――――――左京皇別下

  池原朝臣――――住吉同氏、多奇波世君の後―――――――――――左京皇別下

  車持公―――――上毛野朝臣同祖豊城入彦命八世孫射狭君の後―――左京皇別下

  車持公―――――同豊城入彦命の後―――――――――――――――摂津国皇別

  大網公―――――上毛野朝臣同祖――――――――――――――――左京皇別下

  桑原公―――――上毛野同氏――多奇波世君の後―――――――――左京皇別下

  川合――――――上毛野同氏、多奇波世君の後――――――――――左京皇別下

  垂水史―――――上毛野同氏、豊城入彦命男彦狭嶋命の後―――――左京皇別下

  垂水公―――――豊城入彦命四世孫、賀表乃真稚命の後――――――右京皇別上

  商長首―――――上毛野同氏、多奇波世君の後――――――――――左京皇別下

  吉彌侯部――――上毛野朝臣同祖豊城入彦命六世孫奈良君の後―――左京皇別下

  佐味朝臣――――上毛野朝臣同祖、豊城入彦命の後――――――――右京皇別上

  大野朝臣――――豊城入彦命四世孫、大荒田別命の後―――――――右京皇別上

  佐自努公――――豊城入彦命四世孫、大荒田別命の後―――――――右京皇別上

  下養公―――――上毛野朝臣同祖、豊城入彦命の後――――――――大和国皇別

  広来津公――――下養公同祖豊城入彦命四世孫大荒田別命の後―――大和国皇別

  尋来津公――――上毛野朝臣同祖、豊城入彦命の後――――――――河内国皇別

  韓矢田部造―――上毛野朝臣同祖、豊城入彦命の後――――――――摂津国皇別

  止美連―――――尋来津公同祖、豊城入彦命の後―――――――――河内国皇別

  登美首―――――佐代公同祖――――――――――――――――――和泉国皇別

  村舉首―――――豊城入彦命の後――――――――――――――――河内国皇別

  佐代公―――――上毛野朝臣同祖、豊城入彦命の後――――――――和泉国皇別 

  珍県主―――――佐代公同祖、豊城入彦命三世孫御諸別命の後―――和泉国皇別

  葛原部―――――佐代公同祖――――――――――――――――――和泉国皇別

  茨木造―――――豊城入彦命の後――――――――――――――――和泉国皇別

  丹比部―――――豊城入彦命の後――――――――――――――――和泉国皇別

  軽部――――――倭日向建日向八綱多命の後―――――――――――和泉国皇別

  我孫――――――豊城入彦命男八綱多命の後―不見――――――――未定雑姓摂津国

  我孫公―――――豊城入彦命男倭日向健日向八綱田命の後不見―――未定雑姓和泉国

  佐自努公――――豊城入彦命の後―不見―――――――――――――未定雑姓河内国

  伊気――――――同命四世孫、荒田別命の後―不見――――――――未定雑姓河内国

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