白河の関

http://senbonzakura.skr.jp/05hosomichi/07fukushima/002shirakawa/shirakawanoseki.htm 【白川の関 (福島県白河市)】より

1689年新暦6月8日、白河の関を訪ねる。気持ちだけが先立って落ち着かない旅の日数を重ねているうちに『白河の関』に来て、旅を続けようと言う気持ちも固まった。

何とかして、都の人々にこの素晴らしい景観を知らせたいと機会を探した昔の人々の話も当然である。数ある関所の中でもこの白河の関所は、奥州3関の1つであり(歌枕としても有名なこの地を)風流人が訪れて、様々な感動を伝えている。

能因法師が詠んだ『秋風』を耳にし、源頼政が詠んだ『紅葉』の姿を面影に浮かべながら目の前の青葉の梢は、やはりしみじみと感じられるものである。

今は、卯の花(ウツギ)が真っ白に咲き、そこに野バラが加わってまるで雪の中にいるようだ。古人、竹田大夫国行がこの関所を越えるとき冠を被り直し衣装を改めたなど、藤原清輔の筆でも書き置かれたと言うことだ。

 卯の花をかざしに関の晴着かな  …曾良

(旅のこととて晴れ着は無いが、せめてこのあたり一面に咲く卯の花を晴れ着の代わりに飾りとしてこの関を越えることとしよう)

『夏は来ぬ』でも歌われている卯の花=ウツギ 白河の関跡碑

白河の関はどこか? 諸説が有ったが白河藩主・松平定信がこの地と特定し『古関跡碑』を建立した。その後の発掘などにより土塁跡などが見つかり関の跡としての遺構が見つかった。

※手前の幌掛けの楓は、八幡太郎源義家が、藤原氏討伐の前九年の役のときに立ち寄り神社前の楓に幌を掛けて休んだと言われている。

ただし、この楓は植え替えられたもの。 その後ろに有る石の柵で囲まれているのが古関跡の碑。

 神社の前にある『古歌碑』芭蕉が引用した歌は次の3つ。

都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白河の関 …能因法師(後拾遺集)

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関 …源頼政(千載和歌集)

見て過ぐる人しなければ卯の花の咲ける垣根や白河の関 …藤原季通(千載和歌集)

また、古人冠を正し、衣装を改し事など の項は次の通り。

藤原清輔の著書「袋草紙」の一節『竹田大夫国行というもの、陸奥に下向の時「白河の関過ぐる日は殊に装束をひきつくろい向かう」と言う。

人、問う「何んらの故か?」答えて曰く「古へ因能法師の『秋風ぞ吹く白河の関』と詠まれた所をば、普段着にては過ぎなん」と。殊勝なる事か。』

又、別カテゴリーで取り上げますが、芭蕉が追慕した源義経が鎌倉に向かう途中で寄った場所でも有り、ゆかりの物が残っています。

中腹辺りにある『奥の細道白川の関』の碑。

芭蕉が白河の関を訪ねたのは、関所が廃されてもう4-500年が経っていた。後年松平定信によって古関跡と言われる現在の白河の関跡を訪ねはしたものの、別の見方で白河の関では無いかと言われている『関山』にも寄っています。関山は標高619mの山で山頂に満願寺が有ります。 時間と体力の関係で上まで登っていませんが、白河の関から右手の道路に入り途中「関山」の標識から田んぼの中の細い通りに入り、関山小学校の手前を左折すると関山登山口に出るので(写真右上)、そこから細い山道を恐る恐る車で入ると程なく駐車場に出ます。

芭蕉が通った時も既に『白河の関』は奥羽(東北)地方の玄関口の代名詞になっていたようです。そして、それは中央からはかけ離れた辺境の地でもあり、イメージとしては外国並みだったかも知れません。

現代でも高校野球などで良く『今年も白河の関は越えなかった!』などと東北地方に優勝旗が渡らない意味で使われていました。

愛読している当地宮城県の地方紙に『河北新報』と言うのが有ります。この新聞の『河北』も明治の代に入っても『白河以北一山三文』と卑下されたことに対する反骨精神で名付けられたものでも有ります。


http://www.asahi-net.or.jp/~ee4y-nsn/oku/siraa01.htm 【白河の関】 より

元禄二年四月二十日(1689年6月7日)、芭蕉と曽良は現在の栃木、福島県境を越え、いよいよ陸奥(みちのく)へと足を踏み入れました。陸奥の玄関口が白河の関。関址公園内の資料から抜粋させていただくと、白河の関は7世紀頃、大化の改新による新政府によって陸奥国と下野国の境に設置されたものと思われる。旅行者を検問し、農民が諸国に流入することを防止する施設であった。(中略)古代律令国家の衰退と共に関としての機能はうすれ、その後は歌枕の関として多くの歌や句に詠まれ、文学の中に生き続けている。

 能因法師(988~1058?)の有名な歌。

都をば 霞と共に 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関 

右写真は旧・奥州街道、現在の国道294号線沿いにある境の明神。関東(栃木県)側と奥州(福島県)側各々に社が建ちます。ここが俗に白河関の跡だと思われていました。

300年前の芭蕉さんも、ここが白河の関だと思って来てみたところが・・、実はそうではないらしい・・。里の知識のある人にでも聞いたのでしょうか。真の関址と思われる所が二里(8km)ほど東にあるとのことを・・。

曽良と二人、2時間ばかり歩いて、やっと旗宿(はたじゅく)という宿場へたどり着きました。ここで一泊した二人は、翌日、宿の主人に場所を尋ね、かつて白河の関があった場所だと思われる神社を訪れます。なんの変哲も無い社(やしろ)が二社並ぶだけで、拍子抜けだったことでしょう。

実は「白河の関」のあった場所について、当時は諸説がありました。この旗宿の地を「白河の関」のあった地だと断定したのは、寛政の改革で有名な白河藩3代藩主松平定信で、『奥の細道』の旅の100年余りも後のこと。芭蕉と曽良とにとって白河の関を訪ねるのは今回の旅の最大の目的のひとつ。しかし、関がどこにあったのかという肝心な事が当時の二人には分からない。「白河の関を通過したのだ」と無理やり納得して、北への旅を続けるのでありました(と、勝手に想像)。

現在ですと白河の関までは、JR白河駅からバスで30分ほど(バス便僅少)。鬱蒼とした森のなかに土塁空濠などの遺構があり、古を偲ばせます。学術調査も進み、一方で関址に隣接して立派な公園も整備され土産屋なども立ち並び、休日には観光客や家族連れなどで(そこそこ)賑わいます。現代でこそ観光・行楽地ですが、芭蕉が旅した頃は、地元の人や一部の研究家に知られているだけの地と化した、寂しい場所であったに違いありません(これまた勝手に想像)。

心もとなき日数重ねるままに、白河の関にかかりて、旅心定まりぬ。

<現代語訳>心が落ち着かない日数が積もってゆくうちに、白河の関に差し掛かってようやく旅の心も落ち着いた。

長旅にでると、それまでの日常の暮らしと旅の暮らしとのギャップでしばらく、ちぐはぐな思いをすることがあります。芭蕉はここ白河の関まで来てようやく旅の生活に慣れてきたとのことでしょう。

この一文の言うところ、学生時代にずいぶんと無茶な旅を繰り返した私にも良く分かります。続けて、曽良の句(↓)をどうぞ。

<曽良の句>

卯の花(ウツギ)と言えば初夏を告げる花。これが咲くと鬱陶しい梅雨の季節も間近です。

 卯の花を かざしに関の 晴れ着かな

(うのはなを かざしにせきの はれぎかな)

<句意>

(この関を越えるとき、古人は冠をかぶり直し正装に改めたそうであるが、いま私には冠や着替えの用意はない。せめて道端に白く咲いている)卯の花をかざしにして(それを)関越えの晴れ着にしよう。

三省堂・新明解シリーズ「奥の細道」(桑原博史監修)より

先にも記したよう、芭蕉の『奥の細道』の目的の第一はこの“白河の関”を越えることでした。しかし本文中、ここでは芭蕉の句はありません。

司馬遼太郎(あまり好きじゃないけれど)『街道をゆく/第33巻(奥州白河・会津のみち、赤坂散歩)』(朝日新聞社刊)に、芭蕉の歩いた道をたどり、白河の関近辺を巡った模様が著されてます。私も参考にさせていただきました。

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