海洋国家日本のあけぼのー三つの東拓ルートー

http://sukisukihiko.blog.fc2.com/blog-category-8.html  【海洋国家日本のあけぼの

ー三つの東拓ルートー】より

洋の東西を問わず大陸、半島、諸島との海洋往来で交易をし、さらに交易先や海洋ルートの開拓、建国、統治に導いたのは海洋民族であると云うのは紛れもない事実である。海を支配することで国が始まる。

 神話では、現在の皇祖神とされる「瓊瓊杵命」の妃は綿積神の娘「木花開耶姫」であり、その子の「彦火火手見命」の妃は綿積神の娘「豊玉姫」(対馬の豊玉出身の海人)であり、その子の「鵜葦草葺不合命」は「豊玉姫」の妹「玉依姫」と結ばれ、生まれた子が「神武天皇」である。初代天皇の母も祖母も曽祖母も祖先代々海神綿積大神の娘である。

天忍穂耳命ーー瓊瓊杵命

         |ーーーーーー彦火火手見命

海神阿知族ーー木花開耶姫     |ーーーーーー鵜葦草葺不合命

海神安曇族ーーーーーーーーーー|豊玉姫      |ーーーーーーー神武天皇

               |ーーーーーーー 玉依姫

 神話では海を支配することで国が始まる真実を伝えている。国の始まりから日本は海洋国家なのである。

 前一万年~五世紀頃、対馬の豊玉の津を拠点として朝鮮半島の韓国(からくに)と九州北端の筑紫の間で海洋を往来し交易をする民族がいた。前三世紀(縄文晩期)~三世紀頃(弥生後期)頃に一部は朝鮮半島の韓に入植し倭(任那の日本府)を設置、韓は馬韓や辰韓に発展し、さらに五世紀(古墳時代)頃、倭は加羅国を、馬韓は百済国を、辰韓は新羅国を建国した。またその一枝は筑紫国を建国した。

 九州北部に入植した海洋民族は九州一円を開拓し、さらに日本の東方を開拓することから日本の国が始まった。日本の東方開拓ルートは三つのルートから成る。

①加羅国から筑紫国間の交易ルートで、博多を拠点として日本列島の北側沿岸を東進する「日本海ルート」である。

②瀬戸内海を東進し、大三島に中間点を置いて、さらに島々や沿岸を拠点化し東進する「瀬戸内海ルート」である。

③九州から四国さらに紀伊半島を横断する「中央構造線断層帯」を海と陸を跨いで東進する「中央構造線断層帯ルート」である。

なぜ海洋民族は東方の開拓を目指したのか?

マルコポーロが東方を目指した如く、日の出る方向に向えば何かがある。未知の世界が腕を伸ばせばそこにある。洋の東西を問わず“開拓者魂”が向わせた!

 海洋民族の祖先達は何代にも亘って資源開拓地を求め、安心して活動が出来る拠点地を求め東方へ東方へと進んだ。「未知の明かり」を目指して東方にたどりついた海洋民族達が“実り”を手にするまで幾多の辛苦をも乗り越えて掴んだであろう事は想像に難い。「因幡の白兎伝説」や「浦島伝説」や「鶴の恩返し伝説」など海人にまつわる多くの伝説があるが、難破や漂着した海人や渡来人が現地人に助けられて、恩返しをしたと云う事が語られており、海人達が苦難を経て喜びを勝ち得た事が神話でも伝えられている。

  生活の基本財や権力を表象する宝物などを獲得するために新天地を開拓し、資源開拓、確保する拠点をつくり、根を下ろし、根を張りながら富と権力を築いていく。古代の海や大地は手付かずの未知の希望に満ちた未開地であるが、誰も手をつけていない真新な世界に一人立った時の感動はどんなにすばらしいものか?その感動を感じ取れる者だけが競って東拓をした。

 ①の「日本海ルート」を拓いたのは対馬を拠点とし、外洋船を操り、綿積神を祖神とする海人「安曇族」と「大国主命」を祖神とし、土づくりや土建や農耕を得意とする「鴨族」が行動を共にした。筑紫を経て出雲に入植し、そこを拠点に子孫は日本海沿岸の各地を開拓、拠点化した。

 ②の「瀬戸内海ルート」を拓いたのは九州北部や九州沿岸に拠点をもち、内海や沿岸、河川、河沼を航海する海人「阿知族」の「天忍穂耳命」の子孫達で海人「安曇族」と一体化し、九州北部を出発し大三島を航海の拠点とし、「鴨族」を帯同し筑紫から摂津三島に至る瀬戸内海水系を開拓、支配した。「天忍穂耳命」の子孫は大三島から摂津三島に至る水系を開拓、摂津三島に降臨し淀川水系を支配した。

 ③の「中央構造線断層帯ルート」(丹の道ルート)を拓いたのは海人「阿多隼人族」と行動を共にした「鴨族」の事代主(家督相続主)と異母兄弟の「味耜高彦根命」で九州南部曽於船津から東回りで大分経由、瀬戸内海に至り、大三島の拠点を経て四国伊予に入り吉野川を下り、紀伊水道に出て淡路島を経て紀の国に渡り、紀ノ川を遡上し葛城に至る「中央構造線断層帯」に沿う「丹の道」を開拓し、葛城の地に降臨した。時は縄文晩期で狩猟、採取、焼畑耕作の生活をしていた。

「味耜高彦根命」の子孫の「阿知鴨族」(海人「阿知族」系「鴨族」)は葛城の地を開拓して「葛城鴨氏」の祖として渡来先住民となる。

 瀬戸内水系を開拓支配した「天忍穂耳命」の子で「瓊瓊杵命」と異母兄弟である「天火明命」は「大分丹生族」を帯同して「中央構造線断層帯」(「丹の道」)を開拓支配した。続いて子の「天火遠理命」(天尾張命・山幸彦)も「丹の道」を開拓、紀ノ川を遡上し葛城の高尾張に降臨し、子孫は「倭朝廷」と結びつき、加護を受け後々「朝廷」の海部として海洋日本の大きな役割を担うことになる。

 瀬戸内水系、淀川水系を支配した「瓊瓊杵命」の子の「天火照命」(海幸彦)は大三島を拠点に瀬戸内水系を支配、子の「天日方奇日方命」(鰐彦)は「神武東征」の八咫烏の役割を担い、その功績により「倭朝廷」から「加茂氏」の称号を賜り、紀の国の太田鴨地の一部(吉備湾、日方湾の地)と紀ノ川の水利権と紀の国沿岸の制海権を賜る。

 「天火照命」と兄弟で大三島から摂津三島に至る瀬戸内水系と淀川水系を支配した「天火須勢理命」は「大隅隼人」の祖で、子の「椎根津彦命」は「神武東征」の水先案内をし、「倭朝廷」から「倭氏」の称号を賜り、淀川水系と河内湖(茅渟海)、大和川水系の水利権を賜り、支配した。          

(2)海人族の交易が培う古代文化

 日本列島の起源まで遡れば原人がいたのはまちがいないが、一般論として西方には南方諸島から海を渡り九州南部に渡来、入植した「熊襲」と云われる南方系の民族が定住化し、東方にはカムチャッカ半島などから海を渡り北海道、東北方面に渡来、入植し「蝦夷」と云われる北方系民族が定住化し、「縄文文化」を形成した。前一万年から前四世紀を縄文時代と云うが、神話では渡来系縄文人は高天原(天上界)から葦原中国(地上界)に降臨したとされているが、原住民系縄文人は星から地上にやって来たとされている。

 渡来系縄文人は外洋航海術を身に付け、長い距離を丸木舟で往来していた。交易品は南海諸島や中国大陸、朝鮮半島、日本列島など広域に及ぶ産物で、交易は朝鮮半島、対馬、九州北部の間で盛んに行われていた。

 縄文時代丸木舟B

 縄文時代に外洋往来したと思われる長さ8m、直径1m以上の丸木舟が舞鶴市浦入遺跡で出土している。

前四世紀から三世紀までを「弥生文化」の時代と云い、中国や朝鮮半島などとの交易が盛んになり、多くの民族が九州北部に渡来、入植し、さらに東方に移住し、物や技術の交易が盛んに行われた。特にこの時代の特色は、前五世紀水稲耕作が九州北部に伝えられ、数百年程度で急速に日本の東北まで駆け抜けた。また土師技術や鋳鍛冶技術が九州北部に持ち込まれ、「日本海ルート」や「瀬戸内ルート」で日本列島(大八島)の東方へ伝わった。

 渡来弥生人達は、より高度な航海技術を持ち、大型化した構造船で外洋や内海を往来した。又河川や湖沼は平底の川舟で往来した。長い距離を航海するには、途中で船のメンテナンスをしたり、新造したり、食料や水の補給、櫂子の交代などをする拠点港をつくり、さらに物資の集散や交易をする市場の機能をもつ椿市、海柘榴市、津波市などに発展する津(港市)がつくられた。

縄文時代の交易品は南方諸島からは貝輪などの「アクセサリー」や釣針、スプーン、銛など「骨角器」、日本列島の諸地域からは包丁、斧、鏃、鑿、錐、鎚、など「黒曜石製石器」、砥石、鑢など「サヌカイト製石器」、勾玉、菅玉など「ひすい製玉」、また塩、穀物、縄文 土器などの「生活財」等が主に交易された。

弥生時代の交易の特色は縄文時代と異なり単に物だけの交易ではなく技術を伴った物の交易であった。防腐剤や識別塗料の役割をもつ「丹土」や金、銀の精錬、鍍金を行うための「水銀」や銅鐸、銅鏡を製造するための銅剣、銅矛、銅戈などの「原料青銅」や鉄剣、馬具、農具などを製造するための鉄斧、鉄鋋、鉄ドリルなどの「原料鉄」や砥石、石槌などをつくる「原石」やメノウ、水晶、碧玉などの「玉造用原石」や製鉄用触媒、漆喰用の素材としての「石灰石」や窯、鋳型を造る素材としての「耐火土」や埴輪、須恵器をつくるための「赤土、白土」や製陶、精錬の窯焚きに必要な「薪炭」や冠飾り、馬具飾りなどに使う「金銀素材」など、その他「銅鐸」、「銅鏡」、「鉄剣」、「鎧」、「馬具」、「農具」、「須恵器」、「土師器」、「巨石」、「巨木」、「穀物」、「塩」、「麻縄」や麻、絹、綿などの「布素材」や鮑、鯛、鮎、岩魚、鮭、など「海鮮」や「干物」や桃、栗、栃、胡桃などの「果実」、「漆」、「椿油」、「梅酢」、「柘榴酢」、「葛」等々多岐に亘る。