淡路島と海人族 あ ま ぞ く ― 点と線

http://www.naranature.com/n.kaihou/n.kaihou-2017/17-10/nn201710-9.pdf 【淡路島と海人族あ ま ぞ く― 点と線】  より

9 月 12 日、歴文クラブは淡路島を訪れ、淡路市と南あわじ市の両教育委員会の担当者から、古代淡路島についての講義を拝聴した。

“古事記の冒頭を飾る「国生み神話」で最初に誕生する島が淡路島である。その背景には、

「海人」と呼ばれる海の民の存在があった。彼らは、新しい時代の幕開けを告げる金属文化をもたらし、後に塩づくりや卓越した航海術で畿内の王権や都の暮らしを支えた。”という主旨である。

淡路島の南部海岸一帯には、弥生前期から中期の銅剣・銅戈と銅鐸が密度高く出土し、ここは北九州と近畿の文化圏の交差点であったことを物語る。弥生時代後期になると、集落は北部の高地に移り、当時期最大規模の鉄器鍛冶集落(五斗長ごっさ垣内かいと遺跡いせき)が100年以上にわたって営まれ、その後、忽然として消滅する。卑弥呼が登場の直前の時代である。

5 世紀、大王の時代には日本書紀に淡路島の海人集団が登場する。応神天皇の妃を吉備に送った漕ぎ手の「御原の海人」、仁徳天皇紀に朝鮮半島に派遣された「淡路の海人」など優れた航海術を以て王権に仕える。また、「御食つ国」として宮廷に海産物や塩を供し、内膳職をつとめる海人族の首長「安曇連」の下で宮廷に出仕する。かくて淡路島の海人族が伝えた島生み伝承は、5 世紀の宮廷に浸透して、やがて古事記や日本書紀編纂の過程で、壮大な国生み神話として成立する。

海人族とは、縄文時代から弥生時代以降に朝鮮半島南部から北九州の海で活動した集団であ

る。甲元真之氏の説によると・・・

① 縄文末期、朝鮮半島の西南から済州島、五島列島、北九州をつなぎ、初期畑作と支石墓を伝えたえた集団。②弥生時代、対馬・壱岐を経て北九州に至るルートで水稲栽培と金属文化を伝えた集団。③弥生後期、沖の島から対馬の東を経て朝鮮半島の南部に至るルートを開拓した集団。に分かれる。安曇氏は②、宗像氏は③、より古く漁労文化の色彩の強い五島列島や薩摩半島の阿多隼人は①である。

安曇族の発祥は筑前国糟屋郡安曇郷。北九州志賀島一帯を本拠とし、弥生時代から対馬・壱岐を経由して朝鮮半島・中国との交流に携わったが、後に本拠地を離れて全国に移住する。九州から瀬戸内海を経由して近畿各地から三河(渥美郡)、伊豆半島(熱海)、山形県(飽海郡)に達し、安曇・渥美・熱海・泉・志賀などの地名を残す(異論も多い)。川を遡った一族は長野県安曇郡に達する。穂高神社は信濃の安曇氏が祖神を祀った古社で、志賀島から全国に散った後の一族の本拠地とされる(奥穂高岳山頂には穂高神社の嶺宮がある)。

宗像族は、宗像市に本拠を置き、弥生後期に沖ノ島から対馬東海岸を経由して朝鮮半島に至る海のルートを支配した。畿内勢力に結びついて、海洋豪族としての地位を確立し、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配した。

飛鳥時代、宗像大社は神郡に指定され、大領の宗形徳善の娘尼子娘は、天武天皇の妃となり高市皇子を生み、大和朝廷中枢と親密な関係にあった。

弥生時代の前・中期に淡路島で銅鐸を祀った淡路島の海人族は、海上輸送を担い、「御食つ国」の民として宮廷に仕えて祖先の島生み伝承を語ったのだろう。他方、弥生後期に鉄鍛冶工房村を営んで、忽然と姿を消した技術集団の行方は?気になる「点と線」である。